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第二章 恋におちたら
5 side樹理
しおりを挟む「近くに空きがなかったから、ちょっと歩く」
「ハイ」
言葉が終わらないうちにすたすたと歩き出した哉を樹理が小走りで追う。追いながら、ショーウインドウを覗く。ゼロをたくさん並べたタグをつけた服や靴、バッグがきれいにディスプレイされ、きらきらとまぶしい。
本当に少しだけ歩いて、哉が目的の店の前で振り返る。きょろきょろと余所見をしていた樹理は、二店舗ほど後ろだ。
慌てて走ってきた樹理が、哉よりも少し手前で失速した。原因はガラスの向こうでマネキンが来ていたドレスだ。ワンピースと呼ぶには着ていく場所を選ぶであろうその服は、ドレスと呼ぶにふさわしい。
三秒ほど時間をロスして、哉のことを思い出し、やっぱり慌てて走る。
「すいませんっ」
哉は応えずにドアを押す。自動ドアではなく、ドアの枠に花や天使が彫金された観音開きのドアだった。
哉の影になるように続いて入った樹理が、店内を見上げてぽかんと立ち尽くした。
広い店内は通りに面した一角が三階部分までの高さすべてガラス張りになっている。二階へは、中央に優雅な曲線を描いた階段で上れるようになっていて、その上は白い壁だ。
一階では、洋服がこれでもかと、ひらひらとゆれている。どれもこれも十代から二十代前半の女の子の、それもクラシックな余所行きの装いのための洋服だ。
「えー……と……」
「いらっしゃいませ」
樹理の問いかけは、店に負けないくらい優雅な装いと身のこなしの女性に遮られた。
哉と会話を交わした女性が向き直り、にこやかに、けれどもしっかりと樹理の頭からつま先までさっと視線を動かす。
「お嬢様、お好みはどのようなものが?」
聞かれても、そもそもここに何をしに来たのか知らない樹理にはどう応えたらよいのかわからない。救いを求めて哉を見る。
「この夏の新作から合いそうなものを」
「かしこまりました」
訳がわからないまま店の二階に案内され、しみひとつない白いテーブルクロスがかかったテーブルに着くと、母が『とっておき』にしているのと同じ柄の(けれどももっと高価そうな)ティーカップが音もなく目の前に置かれる。
流れるような手つきで紅茶が注がれた。テーブルの中央に砂糖とミルクピッチャーが置かれていたが、白磁のカップの中でたたずむ琥珀の液体は、そんなものを入れるのはもったいないくらい上等な香りがする。
「……氷川さん、ここ……?」
小さな声で恐る恐る尋ねる。どう考えても成人男性がひいきにしている店ではない。というより、哉がこんな店を知っているということ自体が信じがたい。
尋ねられた哉は、出された紅茶を一口飲んで少しだけ口角を上げた。
「出る前にいろいろ電話をしていただろう」
「ハイ」
「理右湖さんの紹介だ」
「はあ」
いったい何の為にこんな店に来たのかと言う意味で問うたのとは、全く違う方向からの応えに樹理があいまいに相槌を打つ。
しかし、いろんな意味で実用的なものしか必要としない雰囲気の神崎家からはこの店は想像しにくい。確かに診療所をしていて、医者である以上それなりの収入があってしかるべきなのだろうが、そんなに贅沢な印象はない。複雑な表情の樹理に、しばらく黙って紅茶を飲んでいた哉がさらりと言った。
「あの人は昔本物のお嬢様だったから」
飲みかけた紅茶をこぼしそうになった。
「とは言っても、この店は彼女が足しげく通っていたころとは場所も変わっているらしい。だからちょっと手間取った」
手間取ったって何がだろう。
脳に神崎家の件に関しては思考停止を言い渡して、とにかく紅茶に集中する。幸いにもとてもおいしい。銘柄には詳しくないが、きっと上質の茶葉を丁寧に淹れている。哉の答えが思いも寄らない方向へミサイルのように突き抜けてしまって、始発点に立ち戻れなくなり、樹理は自分が何を質問したかったのかも思い出せないまま、黙って液体を嚥下することでそのまま突っ伏してしまいたい衝動をこらえた。
ゆっくりと紅茶を飲み、何とか心が落ち着いたところに図ったように先ほどの女性が現れた。
女性の後ろを見て、なんとか落ち着きを取り戻したつもりだったのに、なんだかぐらりと視界が傾く。女性の後ろには色とりどりの服がかかった移動ラックがついてきている。量が半端ではない。
「お嬢様に似合いそうなものを適当に選ばせていただきました。どうぞ、お好みのものがあればご試着ください」
にっこりと、だが有無を言わせぬような圧力に、樹理が立ち上がってふらふらとラックに歩み寄る。そして心の中でつぶやいた。
どれもかわいくて一枚なんて選べないです。と。
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