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第一章 幸せのありか
6 side樹理
しおりを挟む電車の乗り継ぎを間違えて大回りした挙句、駅から目的地までの間に二回道に迷い、やっとたどり着いた場所は、びっくりするくらい綺麗なマンションだった。
ちり一つない広いエントランス。整然と並んだ銀色のポスト。
ごくり、と自分ののどが鳴る音が、静かなエントランスに響いた気がした。
目の前のドアはガラス張りで自動ドアのようだったけれど、あたりまえだが開かなかった。
握りしめた紙には、インターネットの中で生きているような知り合いに非合法な操作をしてもらって調べてもらった、氷川グループ東京本社副社長の住所。マンションの部屋番号まで記されている。
二七〇一。
小さく四角いボタンを押す指が震えているのが自分でもわかる。ゆっくりと時間をかけて、押す。二…七…〇…一…
しばらく待っていると、意外と若い、けれどものすごく不機嫌そうな声が、背の低い樹理の目の前にあるスピーカから漏れた。
誰だと問う声には、見たことがないが、と言う響きが含まれていた。見えているのならとカメラを探すと、ほとんど真上のような場所に防犯カメラが一つ、ついている。
相手が間違っていないか尋ねて、名乗る。
必死で、逢ってほしくて、自分の中にある敬語をフル活動させて、無礼でない言葉を探す。ここで相手を怒らせて、そのまま帰れと言われたら、学校から帰って、母から話を聞き、すぐにここを調べて、着替えるのも忘れて制服のまま樹理がここまで来た意味がない。
諦めようかと思いかけたとき、がちゃりと鍵が解除される音が響き、沈黙を破ってスピーカから声が届いた。
「あがって来い」
弾かれるように、樹理は開いた自動ドアをくぐった。
玄関のインターフォンを押すと、何の返事もなくがちゃりとロックが解除される音だけが樹理に届く。玄関で躊躇している樹理に、中からいいから入って来いとだけ、声が聞こえた。
靴をそろえて脱ぐ。
新築できれいだけれど、あまり掃除がされていないのか、人が通る部分が獣道のようについている。その道を通って行くと、広いキッチンとダイニング、カウンターで仕切られたやっぱり駄々広いリビング。そこに、およそ似合わない普通の缶ビールを持ってソファに座る、若い男がいた。
「あの、えっと」
氷川グループ本社の副社長。その肩書きだけで年配の男性をイメージしていた樹理が、目の前にバスローブ姿で足を組んで座っている哉に、一瞬たじろぐ。
あなたが副社長ですかと声に出して聞くことは、本人だった場合大変失礼だ。けれど目は、思っていることをそのまま映していて、哉には樹理が無言で『アンタが副社長?』と言っているように思える。
「俺に用があって来たんだろう。ならさっさと言ってしまえ」
彼女を待つ間に飲んでしまって、残り少なくなったビールの缶をもてあそんで、面白くなさそうに哉が言う。
その言葉に、樹理が最初はおずおずと徐々に加速をつけて、必死に父親とその工場のことをしゃべりつづける。
樹理は、社長をしている父親が、従業員が帰った後に現場で働いていることを知っていた。厳しい納期に合わせるために何日も家に帰ってこないこともざらだった。昼間は金融機関や取引先である氷川本社との対応に追われ、夜はそれでは身が持たないだろうといっても、聞かずに仕事をしていることを知っていた。
父親の工場は、氷川から原材料を仕入れて、それを加工し、再び氷川へ納品しているオンリーワンの協力工場なので、氷川からの仕事がなくなるということは、イコールで工場の閉鎖だ。このご時世、簡単に他から仕事が回ってくるとは思えない。
自分たちの生活がどうにかなってしまうことも、おそらく樹理の代までかかるだろう設備投資や運転資金の借金のことも、別にどうでもよかった。
お金など働いて返せばいい。
とにかく切り捨ての決定だけは取り下げてほしかった。父が会社を大切に思っていることは子供の樹理にだって分かったし、従業員だってパートやアルバイトを含めれば大勢いる。
不幸になるのは、樹理たちの家族だけではないのだ。
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