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八話
しおりを挟む鼻腔を擽る、血と硝煙の臭い。常盤はゆっくりとカウンターを出ると、地面に倒れ伏した二人の男に向かって、更に数度、引き金を引いた。消音器越しの発砲音が響いて、肉の塊が跳ねる。常盤は片手に握ったそれを弄ぶようにくるりと指先で回すと、カウンターに置いた。広がる血溜まりを平然と踏みしめて、常盤が由宇に歩み寄ってくる。由宇は、ただそれを、息も出来ずに見ていることしか出来なかった。
「由宇くん」
「ぁ……っ」
狂おしく、愛おしい、常盤の声が由宇を呼ぶ。彼は微笑みを浮かべたまま、由宇の腰にそっと腕を回すと、耳に吐息が触れるほど近くで、柔く囁き掛けた。
「わるいことを、したんだね」
どくり、と由宇の胸で心臓が跳ねる。今まで感じたこともないような速さで、脈が走り始める。眼前が真っ赤に染まって、その次の瞬間には、真っ暗に落ちるのが分かった。指先が凍えて、感覚が消えてゆく。頭の中に、常盤の声だけが、何度も繰り返し反響した。がくがくと戦慄く由宇の唇が、促されるままに、真実を認める。
「……はい」
「そっか」
常盤が椅子を引いて、由宇の隣に腰掛けた。己の犯してしまった罪。それが確かな輪郭を持って、由宇の意識に蘇る。あの時起こったこと。決して許されはしないこと。永劫に消えることのない、過ち。それをどう受け止めてよいのかも分からないまま、由宇はじっと、常盤の瞳を見上げる。全てを知ってしまった常盤は、しかしそれでも、変わらぬ笑顔を由宇に向け続けていた。不思議な感覚だった。由宇の愛したその微笑みは、由宇自身の思考から、あらゆる異常性を霧のように掻き消してしまう。受け止めきれない全てが、由宇の意識から零れ落ちて、常盤の姿しか見えなくなってしまう。
「それじゃあ、きみがこれから選べる道は、二つに一つだね」
「ふたつ……?」
「一つは、人として生きて、相応の罰を受けること。これからきみは、きみがしたことを、一生背負い続けていく」
人差し指をぴんと立てて、常盤は由宇に語り掛ける。その理屈は、由宇にもよく分かるものだった。人として生きてゆく限り、己の行動の因果からは、決して逃れられはしない。どれだけ拒絶しようと、事実を変えることは出来ないのだから。
「じゃあ、ふたつめは……?」
拙く問い掛ける由宇に、常盤はゆっくりと、笑みを深くした。
「人を、捨ててしまうことだよ、由宇くん」
折り曲げられていた中指が、真っ直ぐに立つ。落ちてきた彼の言葉は、由宇の胸の、小さく窪んだところに、ことりと音を立てて填まり込むようだった。まるでそれを、待っていたかのように。ひとを、と、無意識に反芻する由宇の声は、消え入りそうなほど、あえかに震えていた。
「罪も罰も、現実も、何もかも、全ては人として生きる為に必要なことだ。きみが人として幸せになりたければ、それを失ってはいけない。けれど、もしも──もしも、きみが、その全てを捨ててしまうのなら。それを、きみが選ぶというなら」
常盤の手がするりと伸びて、由宇の手を捕まえた。指の一本一本を、丁寧に絡め合わせて。真っ直ぐに視線を交差させて。低い声が、囁き掛ける。睡魔のように、優しく、甘苦しく。
「僕が、世界で一番倖せな地獄を、きみに見せてあげる」
呼吸が止まる。時間が止まる。世界が止まる。由宇は確かに、それを感じた。
長い間閉じ込めていた、閉じ込めようとしていた何かが、熱い奔流になって、全身を支配してゆく。痛みにも似たそれが、由宇の思考の全てを押し流していった。倒れた二人の男。鼻を突く血の臭い。悍ましい無数の記憶。肌を撫でる朝の空気。遠く聞こえる鳥の声。僅かに残った雨の気配。全てが、その全てが、あらゆるものが、色鮮やかに、変わっていく。今までずっと、薄い鈍色のヴェールを被っていたような世界が、今、この瞬間、生まれ変わっていく。言葉が出ない。声の出し方が分からない。由宇に許されるのは、眼前で微笑む狂おしいひとの眼差しを、見つめていることだけだ。
「ねえ、由宇くん。きみは、どうする?」
常盤の声が、柔らかに問い掛ける。呼吸の仕方も忘れた唇が、薄く開いた。己の視界に、たった一人の姿だけを映して、由宇は小さく笑う。笑ってしまう。次に声が出た時、由宇が紡ぎ出す言葉は、もう、決まっていた。
夜が明ける前の空は、紫色をしている。
暗闇から徐々に色を変えてゆく空を見上げながら、由宇は寂れた埠頭のベンチに、ぼんやりと腰掛けていた。風が吹く。冷たい潮風に身体を震わせて、由宇は上着の前を引き寄せた。冬を迎える少し前。朝を待つ時間が、一番鋭く冷え込む。微かに痺れる指先を擦り合わせていれば、不意に由宇の頬へ、温かな何かが触れた。
「冷えるね」
「あ、ありがとうございます」
常盤から手渡されたのは、温かな缶のミルクティーだった。薄闇の広がる埠頭の一角は、まばらに立つ街灯と、自販機の明かりばかりが、周囲をおぼろげに照らしている。厚手の黒いジャケットを羽織った常盤が、ゆっくりと由宇の隣に腰掛けた。その口元に小さな赤い火が灯っているのが見えて、由宇は二、三度瞬目する。
「……常盤さんって、煙草吸うんですね」
常盤がそうして煙草を口にしているのを見るのは、初めてだった。思い返せば、常盤の店に最初に足を踏み入れた時も、微かに煙草のような香りがしていたことを思い出す。物珍しい気持ちでじっと見つめる由宇の視線の先で、常盤が紫煙を静かに吐き出した。
「ああ、少しね。由宇くんが嫌ならやめるよ」
「あ、いえ、嫌じゃないです、全然」
まだ長い煙草は先程火を着けたばかりだろうに、すぐに消そうとする常盤を止めながら、由宇は彼の横顔を眺める。意外と言えば意外だが、こうして見ると、妙にしっくりと馴染むような気もした。
二人であの店を後にしてから一日。そのたった一日で、由宇は常盤の知らなかった一面を、随分と沢山目にしていた。例えば、存外カジュアルな私服が似合うこと。ワインより日本酒が好きなこと。英語がすらすらと喋れること。きらびやかな高級ホテルでの振る舞いに慣れていること。あの小さな喫茶店の中に、両手では足りない数の銃火器を隠し持っていたこと。明かりの下で見ると、身体に無数の傷跡があること。その他にも、それはもう、色々と。
「寒いけれど、少しだけ我慢してね。もうすぐ茜さんも来る筈だから」
「はい。ぼくは、大丈夫です」
「来なかったら多分死んでるから、その時は早めに逃げようね」
「は、はい……?」
いつものようににこにこと笑って常盤が語る言葉に、由宇は返事の仕方も分からず曖昧に頷く。人気のない、この静かな埠頭。夜明け頃、ここで茜と落ち合う筈だった。ミルクティーの缶で指先を温めながら、由宇は前日の、常盤と茜の会話を思い出す。
未だ鉄錆の臭いがする喫茶店のカウンターの中で、コーヒーを淹れる為の湯を沸かしながら、常盤はスマートフォンを操作して、誰かに電話を掛けていた。数回のコール音の後、ハンズフリーでカウンターの上に置いたスマートフォンから聞こえたのは、不機嫌を全く隠そうともしない、茜の声だ。
「……何よ、こんな朝っぱらから」
「あ、おはようございます、茜さん。ちょっとお願いがあるんですが、二体ほど生ゴミを処理しておいて欲しいのと、何処でもいいので国外に抜けるルート確保してください。二人分。出来れば明日までに」
「は?」
「ちょうど仕事も一段落したところですし、問題ないですよね」
「アリアリに決まってんでしょうが! どういうことよ! 何がどうなってそんな状況になってんのよあんた!」
「うーん、話すと長くなるので、それは後々ということで。とりあえず手配お願いします」
「お願いします、じゃないわよ! 何、明日までって! しかも二体って、あんた何殺ったのよ」
「そうですね、警官を二名ほど」
「はああああああぁぁ?」
スピーカー越しの声が、由宇の耳をびりびりと痺れさせるほど大きく響いた。由宇には殆ど会話の内容は理解出来なかったが、茜が大層ご立腹らしいことだけは、顔が見えなくとも分かる。電話越しですら怯えてしまう由宇とは対照的に、常盤は全く動じる様子もなく微笑んだままだった。
「馬鹿じゃねえの、馬鹿じゃねえの! 何っでそんな一番面倒な奴……! やだ! 無理! 他当たんなさいよ!」
「そこをなんとか」
「無理ったら無理!」
「そうですか……それじゃあ仕方ありませんね。由宇くんの命が賭かっているんですが」
常盤がひどく申し訳なさそうな顔をして、由宇の方を見る。瞬間、電話口の茜の様子が変わった。
「──由宇くん? 由宇くんって何? え、もしかしてあの子? あの子よね、私があんたにクソ不味い泥水飲まされた時の……」
「ええ、はい。その由宇くんですよ」
「は? 何よそれ、どういう事よ。あの子なんか訳アリだったってこと?」
「まあ、そういうことですね。それで、茜さんを頼りにさせていただこうかと思ったんですが、あまり無理を言う訳にもいきませんし、他を──」
「あんったねえ! そういう事はもっと早く言いなさいよ! 待ってなさい今ロイヤルスイートぶん奪ってきてやるから! あ、もしかして由宇くんそこにいる?」
「いますよ」
常盤がそう答えるやいなや、茜の声が一オクターブほど上がった。
「由宇くーん、由宇くん聞こえてる? 私よ、茜お姉さんよー。大丈夫だからね由宇くん、よく分からないけど、茜お姉さんがぜーんぶなんとかしてあげるから。あ、そうだ、よかったら今度一緒にご飯食べに行きましょ。ねー、由宇くーん」
「だって。よかったねえ、由宇くん」
「は、はあ……」
朗らかに笑いながら、常盤が沸いた湯でコーヒーを淹れる。捲し立てるような茜の声と、ざっくばらんとした常盤の言葉。二人の会話に圧倒されながら、由宇はただ、呆然と頷くことしか出来なかった。
そんなやり取りを経て、由宇は今、常盤と共に、寂れた埠頭の一角で、夜明けを静かに待っている。潮の香りと、波の音。それを感じるのも、由宇にとっては随分と久方振りのことだった。今はまだ、闇しか見えない海の向こう、どこか遠くで、船の明かりがちらついている。つい数日前までは、由宇は毎日ただ学校と家を往復しているだけの生活だったのに、こんなところで海を眺めるなんて、あの時は想像すらもしていなかった。
「……常盤さん、これから、何処へ行くんですか」
「とりあえずは、船で大陸の方に。その後は、まだ未定かな。仕事が入ったら、そっちの方にしよう。由宇くんは、何か希望ある? 何処に行きたいとか、何をしたいとか」
「ぼくは……」
凪いだ水面を見つめて、由宇は茫洋と思考を巡らせる。常盤と一緒に、ここを離れてしたいこと。行きたい場所。拙い知識で色々と想像してみるけれども、いまひとつ、はっきりとした映像は浮かばなかった。何しろ、由宇は生まれてこの方、国外に出たことすらないのだ。
「ごめんなさい。よく、分からないです」
「そう。じゃあ、これから一緒に考えようか」
「いっしょに……」
「うん、一緒に」
常盤の手が、由宇の頭をさらさらと撫でる。その心地よさに眼を細めながら、由宇は遠慮がちに、常盤の肩に身体を預けた。常盤がふっと笑う気配がして、強く肩を引き寄せられる。とくりと胸の下で心臓が跳ねて、単純な感情が薄桃色の幸福に染まった。この人がいれば、何でもいい、と思う。世界中の何処に行っても、何をしても。彼が傍にいてくれるなら、由宇が望むことは、他に何もない。きっと、これからずっと、この息の根が止まってしまうまで、それは変わらないだろう。常盤は由宇の、世界そのものだった。
「常盤さんは」
「うん?」
「常盤さんは……何をしたいですか」
「僕? 僕か、うーん、そうだな……」
するりと顎に手をやって、常盤は中空を見つめる。見上げた空は、先程よりも少し明るく、確かな朝の気配が近付いてきているのが分かった。常盤は暫く考えるような素振りを見せた後、不意に視線を下ろして、由宇を見つめた。
「前からちょっと、考えてたんだけど」
「はい」
「今度はケーキ屋さんでもやってみようかと思ってるんだよね」
至極、真面目な顔をして、常盤は言う。彼を見上げる由宇の瞳が、ぱちりとひとつ、瞬いた。ケーキ屋。いかにも平凡平和極まりないその単語が、ぐるぐると由宇の頭の中を回る。結局一度も上手くコーヒーを淹れられなかった常盤が。けれどそれ以外はかねがね器用に何でもこなす常盤が。にこにこと朗らかに笑いながら、人間を肉塊二つに変えた常盤が。ケーキ屋。記憶の中に眠る様々な映像が頭の中を巡り巡った後、何故だか由宇は、唐突に。
「っふ……ふふふ、ふ、あは……!」
唐突に、何もかもがひどく可笑しく感じられて、高く声を上げて笑った。こんなにも大きな声で笑うのは、何年振りかも分からなかった。どうしてこんなに可笑しいのか、少しも理由は知れないけれども、とにかく笑えて仕方がなかった。常盤はそんな由宇を見て、僅かに驚いた顔をしたけれども、やがて同じように、声を上げて笑ってくれた。
何をそんなに面白がっているのか、二人で一頻り笑った後、長い溜息を吐き出して、常盤と由宇は視線を交わす。どちらともなく近付いた唇が、ごく自然に、重なり合った。伸ばした腕が肩に縋り、彼には背中を抱かれる。次第に深くなってゆく口付けに酔い痴れながら、ゆっくりと閉じる目蓋の向こうに、由宇は微かに白む空を見た。夜が明ける。今、すぐ、もうすぐ、きっと朝が来る。
もう二度と、夢は醒めない。
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