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七話
しおりを挟む「ん、んんっ……ぁ、ときわ、さ……」
睦み合うように舌を絡めながら、由宇は深い口付けに溺れてゆく。彼に唇を探られる度に、彼の唇の温もりを知る度に、止め処ない歓喜が零れ、溢れた。頭の芯が甘く痺れ、指先までも口付けに酔い痴れる。由宇は常盤の首に腕を回し、甘えるように脚を腰に絡めて──そうして、ふと、気付いた。
「ん……っ、常盤さん……?」
「うん、そうだね」
常盤は由宇の手を取ると、ゆっくりとそれを己の下腹に導いた。由宇の指先が、何かに届く。一瞬感じたその熱さに、由宇は反射的に手を離し、しかし今度は自分から、おずおずとそれに触れる。指先に触れる、熱と硬度。それが紛れもなく常盤の身体の一部であることをはっきりと確かめて、由宇は小さく息を呑んだ。
視線を下げれば、そのかたちがまざまざと瞳に映る。由宇とは全く違う、隆起した雄の、色や太さ。指先から伝わる熱と触感。初めて目の当たりにするその有様は、常盤が紛れもなく、由宇の身体に欲を覚えていることの証左だった。いつも木漏れ日のように笑っている常盤が、他の誰でもない、由宇自身を欲している。ようやくそれが自覚となって、由宇の身体にじくじくと火を灯した。
「これ、由宇くんの中にいれたい」
「ぁ……ときわ、さ……」
「由宇くんのお腹の中まで、たくさんかわいがってあげたい。由宇くんの全部、僕のものにしたいよ」
由宇の耳に、吐息を帯びた常盤の言葉が吹き込まれる。ぞわりと背筋を駆け上がる悪寒めいたものに、由宇は思わず僅かに腰を引いた。腹の奥で、何かがとくとくと脈を打っている。知らない感覚に、理性が一瞬怯えを感じて。
「でも、由宇くんが嫌なら、これ以上はしないから」
「え……?」
由宇を真っ直ぐに見下ろして、常盤はこともなげにそう言ってみせる。その笑顔は、いつもの彼と何ら変わらないものだった。由宇の頬を優しく撫でる手が、濡れた唇にそっと触れる。
「大丈夫、何も怖がらなくていいよ、由宇くん。僕はきみが嫌がるようなことはしない。約束するよ」
「常盤さ……」
「由宇くん、僕が怖い?」
常盤の囁く声が、頭の中に反響する。常盤の手が、由宇の頬に、髪に、眦に触れて、愛おしげに撫でる。その大きな掌が、由宇の心臓に直接触れているような錯覚。早鐘を打つ心臓が、全身に熱を広げてゆく。けれどもそれは、由宇にとって、決して不快な感覚ではなかった。常盤の瞳の中に、由宇は己の姿を映し見る。どんな時も、優しく由宇を見つめている、彼の眼差し。今、その奥に垣間見える光は、慈愛のそれだけではなかった。由宇の知らない、知らなかった、常盤の一面。けれども、それを見た由宇は、由宇の気持ちは、決して──。
「こわく……ない、です」
由宇の手が、常盤の肩に触れた。ひどく頼りない力で、しかし彼を手離してしまわないようにと、確かな意志を帯びて。
「やめないで……常盤さん、全部、してください……常盤さんなら、いいから」
「……由宇くん」
「すき、常盤さん、だいすき……常盤さんのしたいこと、なんでも、して……」
未知の感覚に対する怯えよりも、常盤が離れてしまう恐怖の方が、由宇にとっては何倍も強かった。常盤が欲しいというのなら、このちっぽけな自分の何であろうと、捧げてしまって構わない。自分の存在は、対価と呼ぶにはきっとあまりにも粗末なものでしかなく、けれども常盤が、それでいいと言ってくれるのなら。
消え入るように囁く由宇の声に、常盤はほんの一瞬、眼を丸くする。けれどもすぐに、ひどく嬉しそうに頬を弛ませると、由宇の鼻に、柔い口付けを落とした。
「……由宇くんは、本当に、いい子だね」
「ぁ……っ」
常盤の手が、由宇の脚を持ち上げる。ひくひくと震える入口に、溶けるような熱がひたりと触れるのが分かった。それだけで、じわりと痺れるような感覚がせり上がってくる。雄の先端が、そこを押し広げるように動く。そのまま、ゆっくりと、熱く硬いものが、狭筒を割り開いていった。
「ひっ……ぁ、ああぁ、ん、ぅ……!」
痛いだとか苦しいだとか、そんな感覚は、よく分からなかった。ただ、何かが自分の中の、知らない扉を抉じ開けて、一杯に満たしてゆく鮮烈な衝撃ばかりが、強く、強く。びくびくと身体が勝手に震えて、喉から細い悲鳴が押し出される。何もかもが、由宇の意志を超えたところで起こっていた。
「ふぁ……っ、あ、は、ぁぁ……? ん、や、なか、いっぱぃ……っ」
ずりずりと、身体の中から音がする。その度に、背中が大袈裟に震えた。一際狭いところが隙間もなく満たされて、もうこれ以上は、と思うのに、更に深く、由宇の知らないところが開かれて、また満たされる。その繰り返しだった。
「ひ、ぃぃんっ、ぁ、あ、ときわさ、ときわ、しゃぁ……っ」
「ん……大丈夫、ここにいるよ」
「ぁ、ふぁ、あぁっ……ん、ときわ、さ……」
ひくひくとままならない呼吸の下で、由宇は身体を埋める圧倒的な質量に感じ入る。真っ白になってしまいそうな意識を辛うじて繋ぎ止めながら、未知の感覚にただ翻弄されるばかりの由宇の耳に、これで全部、と常盤の優しい声が吹き込まれた。
「んぁ、ぁ、おなか、これ、ときわしゃ……?」
「うん、入っちゃった。えらいね、由宇くん。こんな小さな身体なのに、ちゃんと出来たね」
「ぁ、ときわ、さん……」
手を伸ばせば、隙間もなく由宇の中をぴったりと埋めるそれが、内側から腹を押し上げているのが分かる。小さな頭を優しく撫でては褒めてくれる常盤の声に、由宇はふんわりと頬を弛ませた。自分の中で、常盤が忙しなく脈を打っているのを感じる。ただそれだけで、震えるような歓喜がせり上がって、由宇の眦に涙を滲ませた。身体の中まで、余すことなく常盤のものにされている。そう思うだけで思考が甘く蕩けて、喜びが全身を支配して。
「……ん、っふぁ……ぁ?」
ぞくり、と背筋を這い上がる感覚に、由宇は肩を震わせた。ひどい風邪を引いた時のような、熱と悪寒が綯い交ぜになった何かが、由宇の全身に広がっていく。常盤は自身を由宇の中に納めたまま、動いてもいないというのに、内襞が勝手にざわめいて、熱杭を締め上げてしまった。
「ひゃ、ぁん……っ」
甘い吐息が、鼻に抜ける。先程常盤の指に散々覚え込まされた、由宇の中の敏感な部分が、押し潰されているのを感じる。思わず身動ぎすると、太い幹にそこが擦られて、じんと重い痺れが頭まで抜けていった。爪先が丸くなって、びくびくと身体が跳ねてしまうのが止まらない。常盤を受け入れたところが、どんどん熱を上げていく。まるで、何かを期待しているかのように。
「……気持ちいい?」
「や、ぁっ、ときわさ、なに、なんで……っ」
「大丈夫だよ、由宇くん。きみは、それでいいんだよ」
「あっ、や、ぁ、ときわ……しゃ、ぁっ……」
「たくさん、気持ちいいことを覚えたね。でも、これからもっともっと、教えてあげる」
常盤の優しく、低い声が、由宇の耳に囁き掛ける。それとほぼ同時に、中に埋まった熱いものが、ずるりと引き抜かれた。涙に滲む由宇の視界に、常盤の微笑みだけが、はっきりと映る。
「ぅあっ……ぁ、ひぁ、や、とき……っ」
「今度は、一緒に気持ちよくなろうか、由宇くん」
ずん、と重たい衝撃が、由宇の腹を叩いた。
「ひぁぁぁっ、ぁ、や、ぁぁぅ!」
由宇の目の前で、何かが音を立てて弾ける。身体の中で張り詰めていた何かの糸が切れて、洪水のように熱が溢れ出していく。ひどく狭い肉の筒を一杯に押し広げながら、逞しい雄が、痙攣する襞をぞりぞりと擦り上げた。張り出した雁首が、常盤の指に散々苛められた場所を抉るように押し上げて、奥まで突き抜ける。息が止まるような快楽が、由宇の細い腰をびくびくと浮かせた。
「ぁ、ひぃ、んんっ、なに、なにぃっ……ときわしゃ、わかんにゃ、ひ、ぁう……!」
「そういう時は、気持ちいいって、言ってごらん」
「ぁ、あっ……き、もちい……きもち、いいのっ……」
「うん、いい子だね、由宇くん。かわいいよ」
「ひぁ、あぁぁっ、ときわしゃ、きもちいぃ……っ!」
常盤の腰がぶつかる度に、由宇の視界が白く染まる。常盤の性器を受け入れた場所から、粘ついた音が引っ切り無しに響き、耳からも感覚を侵食してゆくようだった。きもちいい、と口にするだけで、まるで呪文のように、快楽がはっきりと浮き彫りになっていく。全身を支配する、この得体の知れない何かは、確かに肉の悦びなのだと、思い知っていく。
「ぁっ、ひ、ひぃ、んんっ、あぁぁ、こんにゃ、もっと、きもちよく、なっひゃ……っ」
「そうだね、気持ちいいね、由宇くん」
「あ、ぁぁっ、ときわしゃ……ときわ、しゃんも、きもち、ぃ?」
「うん、気持ちいいよ、由宇くんのなか、僕のこと好きって、言ってくれてるみたいだ」
「きゃぅ、ぁ、あぁぁっ……ん、うんっ……すき、しゅきれす、ときわしゃ……らいひゅ、きぃっ……!」
熱に浮かされるまま、拙い想いを口にすれば、胎内を埋める雄の質量が更に増したような気がした。しどけなく開いた脚を持ち上げられて、より深く繋がろうとするように、奥を抉られる。声にならないほど高い悲鳴を響かせながら、由宇は全身を痙攣させた。常盤の指に触れられていたところだけでなく、一番奥をずんずんと突き上げられるのも、柔い媚肉を擦られるのも、何もかもに快感を拾い上げるようになっていく。常盤を受け入れる為だけに、そこが作り変えられてしまうような感覚。それが、堪え得ぬ歓喜となって、由宇の身体をひくひくと震わせた。
「あ、ひゃ、ぅぅう、もっと、ひんんっ、もっ、と、おにゃか、こんこんしてぇ……っ」
「ん、奥、好き?」
「んんっ、しゅき、ぃ、あぁぁ、いっぱい、きもちい、れひゅ、ぅ、あぁぁぁ、っ!」
「そう、欲しいならいくらでもあげるよ。おねだり出来てえらいね、由宇くん」
「ん、ん、んんぅ……!」
ご褒美とでも言わんばかりに、常盤に深く口付けられる。由宇は彼の首に腕を回して、自ら舌を差し出した。口の中を掻き混ぜられながら、入口から奥まで突き上げられると、意識が飛んでしまいそうな快楽が溢れる。悦びも露わに雄を喰い締めて、由宇は甘えるように舌を絡ませると、きゅんと腰を小さく震わせた。重たい快楽が、頭まで突き抜けていく。絶頂の訪れに、常盤の腹に僅か擦れる由宇の性器が震えて、しかしもう何も出すものはないと主張するように、先端の小さな孔が喘ぐばかりだった。
「ぁ、ぁ……っ、あ──!」
「ああ……由宇くん、なんにも出さなくても、たくさん気持ちよくなれたんだね。中がすごく喜んでるよ。かわいい」
「ひぅぅ、っ、あ、きもち、きもちぃの、とまんにゃ、ぁああ、ぁ……!」
「うん、えらいね、由宇くん、気持ちいいね」
常盤の手が、由宇の髪をさらさらと撫でる。それにすら目の眩む快楽を拾い上げて、由宇は唇を戦慄かせた。常盤の触れるところ、全てが快楽の源になって、由宇の思考を溺れさせていく。全身のあらゆる場所が、常盤の存在に感じ入り、陶酔し、歓喜に震えた。彼が浅く息を吐く、それが聞こえるだけで、蕩けるほどに淫猥な悦びが、指先までも痺れさせる。
「ふぁ、あぁぁ、ん、ときわ、しゃ、ぁあ、ぁ……っ!」
前後も不覚に常盤を呼んだその唇に、深い深い口付けが降る。舌を絡め取られ、息を奪われて、由宇は滲む涙を伝わせた。強すぎる快楽が腹の中で暴れ回って、身体の中がぐちゃぐちゃに引っ掻き回されているようだ。ずん、と重い衝撃を感じれば、そのまま四肢がばらばらになってしまうのではないかとすら思った。けれど、それでも構わない。このままこの人に、元の形も分からないくらいばらばらにされても、由宇はきっと後悔などしない。
「は──ずっと、びくびくしてるね、由宇くん、気持ちいいんだね」
「ん、ぁ、あうぅ、っ、きもち、ぁ、はひゅ、っしあわしぇ……っ」
「由宇くん……うん、僕も、幸せだよ。由宇くん、たくさんかわいがってあげようね」
言葉通り、常盤は熱く張り詰めた昂りで、由宇の胎内を深々と突き上げ、余すところなく擦り上げる。彼の雄のかたちをすっかり覚え込んだ肉襞が、根元から先端まで、媚びるように吸い付いては、貪欲に快楽を求めた。太い幹が敏感な媚肉を擦り上げ、張り出した雁首に弱いところを容赦なく抉られ、硬く膨らんだ亀頭に奥を叩かれる。その全てに身体中が深く感じ入って、高く高く登り詰めたまま、帰って来られない。由宇の目の前が白く黒く明滅して、理性と呼べる何もかもが崩れ落ちていった。
「ひぅ、っああ、ときわさ、ときわしゃ、ぁあんっ……!」
「由宇くん、ねえ、いい? 由宇くんの一番奥のところ、汚してあげたい」
啄むような口付けと共に、常盤が低く囁く。受け入れた雄が中で跳ねるように脈を打って、何かを訴え掛けてくるようだった。腹の中が、ひどく熱く、重たくなる。肌の内側を駆け巡る衝動のような甘い痺れを、何と呼べばよいのかも分からないまま、由宇は何も考えずに首を縦に振った。
「ん、んっ、して、ときわしゃ、してくだしゃ……っ、なんでも、うれし、からぁ……!」
「っ、由宇くん……!」
常盤の、ほんの僅かに掠れた声が、耳元に吹き込まれる。吐息が耳殻を擽る感覚にすら背中を震わせながら、由宇は常盤の肩に縋った。快楽が大きな波となって、幾重にも襲い掛かってくる。上から打ち付けるように常盤の腰が由宇の腿にぶつかり、入口から奥まで、逞しい雄が何度でも擦り上げ、突き上げた。呼吸の仕方すら忘れたまま、由宇は常盤に穿たれる快楽に、悦びに、その身の全てを明け渡す。白み、薄れる意識の中、常盤が由宇の背を引き寄せ、強く、深く、胎内を抉り抜き──そうして、腹の一番奥、由宇自身ですらも知らなかった場所で、灼け付くような何かが、弾けた。
「ぁ、ひっ──、っ、ぁ、ああああ、っぁ、ぁ!」
「由宇、くん……由宇くん、ほら、全部飲んで……っ」
どくどくと溢れる熱が、由宇の身体の奥深くに広がっていく。容赦なく流れ込んでくるそれが、敏感な粘膜に噴き付ける度に、意識を焦がす快楽が、爪先まで走り抜けた。細い喉をがくがくと震わせながら、由宇は腹の最奥で、熱くどろついた雄の精を味わう。生まれて初めて知るその快楽がもたらすのは、全身に絡みつくような、圧倒的な多幸感だった。
「と、きわ、さ……」
「ん……えらかったね、由宇くん。ちゃんと全部、ここで受け止めて──」
「ん、んっ……すき、です、ときわしゃ……ぎゅって、ぎゅって、して、ほし……」
「いくらでも」
常盤は柔らかに笑みを深めると、その広い胸に由宇を抱いて、優しく頭を撫で下ろした。薄く滲んだ汗の香りにすら、深い悦びを覚えながら、由宇は彼の腕に全てを委ねる。未だ身体の中でとくとくと脈打つ常盤の存在が、ただ嬉しくて堪らなかった。
「よしよし、えらいね、由宇くんはいい子だね」
どこまでも由宇を甘やかしてくれる常盤の掌を感じながら、由宇はゆっくりと目蓋を閉じた。これ以上ないほどぴったりと寄り添って、その声を聞いて、体温を感じて。常盤の存在だけで、由宇の全てが満たされていく。かわいいね、由宇くん、大好きだよ。繰り返される睦言が心を掬い上げ、由宇の全てを肯定する。それはあまりにも、完璧で、幸福で──目の眩むような、甘い夢の時間だった。
薄く扉を開けば、静謐な朝の空気が、隙間から吹き込んでくる。肌を撫でる風の冷たさに、小さく身震いをする由宇の視線の先で、常盤が空を見上げた。聞き慣れたドアベルの音が、ちりりと鳴り響く。
「よかった。雨、上がったみたいだね」
「──はい」
軒先から、ぽたぽたと雫が落ちてアスファルトを濡らす。扉の向こうに見える空は、久方振りに蒼穹を取り戻していた。抜けるような蒼が、柔らかな光を帯びて空を覆っている。一晩中降り続いた雨に晒された空気は、未だ特有の湿度を帯びていたが、それでも確かに朝の爽やかさを感じさせた。ゆっくりと扉を閉めると、常盤は由宇に視線を投げて、一際明るい笑顔を見せる。
すっかり乾いた自分の服に袖を通した由宇は、いつもと同じカウンター席に腰を下ろした。常盤もいつものエプロンを手に取ると、慣れた手付きでそれを身に着ける。
「眠気覚ましに、コーヒーでも淹れようか。あ、でも、朝から僕の淹れたコーヒーっていうのも、微妙かな」
苦笑交じりに、常盤は頬を掻いた。由宇は小さく微笑むと、彼の眼をじっと見つめて、首を横に振る。
「いえ、淹れてください。ぼく、常盤さんの淹れたコーヒー、好きです」
「──え、ほんとに?」
「はい」
それは、嘘偽りのない、由宇の正直な気持ちだった。常盤の淹れたコーヒーが美味いかと問われると、それは素直に是とは言えないが、それでも由宇は、常盤の淹れたコーヒーが好きだった。淹れる度にころころと味の変わる、おかしなコーヒーが、好きだった。常盤の瞳が、見るからに嬉しそうに輝く。彼はつかつかと由宇に歩み寄ると、頬にひとつ羽のような口付けを落とした。
「今日は美味しいのが淹れられそうな気がする」
「はい。楽しみにしていますね」
常盤の唇の感触が残る頬に触れて、由宇はゆるやかに頷く。常盤は上機嫌に袖を捲ると、やる気に満ちた顔でカウンターの向こうへ回った。胸の中に溢れる幸福感に、由宇は小さく溜息を吐く。身体の中に、まだ、熾火のような熱が残っていた。常盤の声が、常盤の手が、常盤の体温が、由宇の中に、甘い名残になって溶け合っている。心が、身体が、自分の存在そのものが、これ以上ないほどに満たされている。世界中の誰よりも好きな人が、自分を見て、笑ってくれる。そんな幸福が、由宇の全てを包んでいた。ただ、どこまでも、果てもなく、幸せだった。
由宇の背後で、扉の開く音がする、その瞬間までは。
「ああ、すみません。今はまだ、準備中なんですが──」
常盤の声につられて、由宇は後ろを振り返った。まだ陽の昇りきらないこの早朝に、誰かが店の扉を開いて入ってくる。それは二人組の男だった。二人とも地味な色のコートを着て、下にはスーツが覗いている。中年の男と、それよりかはいくらか若い男の二人だったが、二人とも、どこかいかめしい雰囲気を纏っているように見えた。由宇には全く覚えのない二人だ。だというのに、二人の姿を見た瞬間、由宇は心臓が、ひどく不穏に高鳴るのを感じた。
常盤が声を掛けるものの、二人はちらと顔を見合わせるばかりで、店を出て行こうとする気配もなかった。同時に懐に手を入れ、何かを取り出す。顔と同じ高さに掲げられた、四角い何か。それを見た瞬間、由宇の身体から、体温が消えた。
「警察の、方ですか」
常盤の問いに、二人の男は頷いて、一人ずつ名乗った。知らない苗字だ。由宇は、瞬きすることすら出来ないまま、二人の刑事をじっと見ていた。
「この朝早くに、私に何か御用ですか」
「はい。ですが我々はあなたよりも、むしろそちらの少年の方に、聞きたいことがありまして」
「……どういうことです」
常盤が、訝しげにそう尋ねた。刑事の一人が、唇を開く。駄目だ、言ってはいけない。言わないで欲しい。どうか、この人にだけは、言わないで。そう訴えたいのに、由宇の唇はわなわなと震えるばかりで、まともに声を上げることすらかなわなかった。硬く張り詰めた空気の中、由宇はそこから逃げ出すことも、耳を塞ぐことも、出来ないまま。
「──実は、昨晩この近辺で、男性の遺体が発見されました」
全てを崩す一言が、為す術もなく落ちてしまった。
(……ああ、)
終わってしまった、と。由宇はただ、そう思った。言われてしまうまで、それがひどく恐ろしかったのに、何故だか実際に聞いた瞬間、頭の中が一気に鮮明になり、急速に冷えていった。微睡みから醒めるような感覚だった。自覚してしまう。思い出してしまう。忘れたふりをしていたものが、眼を逸らしていたものが、何もかも全て、蘇ってしまう。
「遺体の状態から見て、他殺の可能性が極めて高いと判断し、我々は殺人事件と見て捜査を進めています」
「へえ、それは物騒な話ですね。それで、その殺人事件の手がかりでも、探しているんですか」
「ええ。殺された男性は、自宅で発見されたのですが、どうやら中学生のご子息が一人いるようでして。彼は昨日の朝、自宅の電話から、通っている中学校へ欠席の連絡をして──それから、消息が掴めていないんですよ。我々は今、この少年の行方を追っています。彼の名前は──」
「北村由宇」
常盤が、そう口にした瞬間、確かに時間が、止まった気がした。鼓動ひとつ分ほどの僅かの間、その場にいる四人の時間が停止し、そうして急激に、動き出す。
「そういうことですか、刑事さん」
二人の男に問う常盤の唇は、微笑みを湛えたままだった。僅かに瞠目した二人の刑事は、常盤の顔を見て、それからゆっくりと、由宇に視線を移す。
「……はい。それでは、やはり……」
「君が──北村由宇くんだね」
由宇は重たく俯いて、ほんの僅かに、頷いてみせた。分かっていたことだ、と頭の中で冷静な自分に詰られる。いつかこうなる、すぐにこうなると、由宇は知っていた。あの雨の中、外に飛び出した瞬間から。いつか、この時が来るのだと、そんなことは分かり切っていた。己の背負うべきだった全てを投げ出して、常盤の胸に飛び込んで。けれどもどれだけ夢の世界に逃避しても──朝が来れば、夢は必ず醒めてしまうものだ。誰にでも分かる、単純な理屈。
「失礼ですが、あなたは北村くんと、どのようなご関係で?」
「由宇くんは、私の店の常連さんですよ」
「北村くんが何故自宅ではなくここに居るのか、ご説明願えますか」
「ゆうべ、由宇くんがここを訪ねてきたんです。傘も差さずに、ずぶ濡れで。もう遅かったですし、随分憔悴していたように見えたので、昨日はうちに泊まって貰いました」
「親御さんに連絡を、などとはお考えにならなかったのですか」
「私は連絡先を知りませんし、ゆうべの由宇くんは、それを言えそうな様子でもなかったので、ひとまず落ち着くのを待とうと思いました。大事な常連さんですし、何よりこんな小さな子を、夜中に放り出す訳にもいかないでしょう」
理路整然と言葉を並べる常盤の言うことに、間違いはない。全て真実だ。多少なりと、伝えていない部分はあるとはいえ、昨夜由宇の身に起きたことに関して、常盤は全くの無関係なのだから、嘘を吐く理由もない。しかし二人の刑事は、常盤の供述に何かしら疑わしい点があると見たのか、それとも単に事務的な都合か、硬い表情のまま声を掛けた。
「申し訳ありませんが、昨夜のことについて、もう少し詳しくお聞かせ願えますか。出来れば──北村くんと一緒に、署の方まで来ていただいて」
「ええ、私は構いませんよ。ですが……」
続く言葉を言外に含ませたまま、常盤が由宇を見た。二人の刑事が近付いて、由宇の肩にそっと手を置く。
「北村くん。君も、一緒に来て貰えるかな。君のお父さんについて、聞かせて貰いたいことがあるんだ」
「正直に答えてくれれば、怖いことは、何もないからね」
「あ……っ」
二人の大人が、由宇の顔を見下ろしている。由宇は俯き、視線を逸らしながら、返事にもならない声を洩らした。もう、逃げ場所など何処にもない。現実は、由宇の見ていた境界線を容易く越えて、大事な夢を奪い去ってしまう。足元が、がらがらと崩れていく。由宇が欲しかったものは、手に入れたものは、何もかも、泡沫で、幻で、今この瞬間、弾けて、消えて、なくなってしまう。
けれど。
「由宇くん」
あまりにも優しく、甘く、落ちた声に、由宇は反射的に顔を上げた。常盤が、由宇を見つめて微笑んでいる。まるで今、二人の刑事が語った話など、何も聞いてはいなかったような顔をして。真っ直ぐに由宇だけを見つめて、常盤が唇を動かす。
「ねえ、きみは、どうしたい?」
「常盤、さん……?」
「聞かせて、由宇くん。きみは、どうしたいの。この人たちと一緒に行く? それとも、行きたくない?」
「そ、それ、は……」
おかしな質問だと思った。そんなもの、由宇に選択権などある筈がない。彼等はあくまでも任意での同行という形を取ろうとはしているが、由宇がそれを断れる訳がないのだ。そんなことをしたところで、意味はない。結局、辿り着くところは同じなのだから。これから由宇の辿る末路はひとつだけ。それ以外に、ある訳がない。ある訳が、ないのに。
「いいんだよ、由宇くん。素直な気持ちを、言ってごらん。僕の前では、我慢なんてしなくたっていいんだよ。聞かせて、きみが、どうしたいのか。行きたい? 行きたくない?」
「ぼ、ぼく……ぼく、は……」
勘違いを、してしまいそうになる。そんなに優しい声をして、常盤が問い掛けるから。由宇の一番好きな彼の微笑みが、由宇を見つめているから。跡形もなく崩れて、消えてしまう筈の夢が、まだそこに続いているのだと、錯覚してしまう。そんなこと、ある訳もないのに。許される筈もないのに。あまりにも身勝手で、傲慢な欲求が、顔を出してしまう。
「行きたく……ない。行きたくなんか、ない」
本当は、ずっとここにいたい。いつまでも常盤の傍にいたい。彼以外の世界の全てが、由宇にとっては見たくないものだった。常盤が、常盤だけがいれば、由宇は他に、何もいらないのだ。現実なんて、大嫌いだった。由宇の心をただ苦しめ、踏み躙るばかりの現実なんて。
俯き、唇を噛みながら、由宇はあまりにも素直な感情を吐露する。そうしたところで、どうにもならないのに。
「そう、分かった」
刹那、由宇の知らない鋭い音が、聞こえた気がした。
その正体が何なのか、由宇には分からなかった。それを考えるよりも先に、由宇の傍で、何か重いものが落ちるような音がした。どさり、と音がふたつ。自然と、視線がそちらを向く。床に、何かが落ちていた。落ちていた?
違う。落ちていたのではない。倒れていた、と表現するのが正しかった。先程まで、由宇の前に立っていた筈の二人の刑事が、床に倒れていた。それは何故か。分からない。分からないけれども、由宇は見た。倒れた二人の頭から、床の上に広がっていく、赤い水溜まりを。止め処なく溢れ出す鮮やかな色の液体が、由宇の座る椅子の脚まで浸してゆくのを。
「……え?」
濃い、鉄錆の臭いがする。それは、この小さな喫茶店には、あまりにも不釣り合いな、腹から吐き気の込み上げるような臭いだった。倒れた二人の男は、ぴくりとも動かない。瞬きもせずにそれを見下ろす由宇は、ただ、呆然としたまま、ゆっくりと後ろを振り向いた。そこには、先程と全く変わらない、穏やかな微笑みを湛えた常盤の姿があった。一つだけ、違う点があるとするなら──彼の手に、鈍色の何かが握られていることくらいで。
「と、きわ、さん……?」
世界が、正しく認識出来ない。何が起きているのか、分からない。分かりたいとも、思わなかった。何もかも、全てが理解の範疇を逸脱している。ただ、零れ落ちるように呼んだ名前の主は、彼だけは、由宇の見知ったその人のまま。
「言った筈だよ、由宇くん」
常盤の握った何かから、白い煙が薄くたなびいている。彼は由宇を真っ直ぐに見つめて、甘く、優しく語り掛けた。
「優しいひとが、わるいひとじゃないとは、限らないって」
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