どうか抱いてよテンペスタ

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四話

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「……は、ぇ?」
 ほろりと落ちた声は、レフィのものだった。あれほど喧噪に満ちていた周囲が、まるで何もかも嘘であったかのように、しんと静まり返っている。その場にいる誰しもの視線が、予期せぬ闖入者へと注がれていた。居並ぶ無数のオーガ達の背後、音もなく、気配もなく、そこに現れた、一人の男に。
 頭から爪先までも、漆黒に覆われた男だった。闇色の髪と瞳。夜に溶けるような衣装。隆々とした巨躯を誇るオーガに比べれば、身体付きは細身で、特筆する程長身という訳でもない。口許にゆるい笑みを湛えて、ひらりと気安く手を振る彼の姿は──しかし、いかにも屈強なオーガの集団を浮足立たせるに充分だった。
「ま──」
「き、貴様は、まさか、魔王ソーマ!」
 レフィが声にするより先に、隊長格であろうオーガが引き攣れるような声で叫んだ。
「ああ、うん、そうそう。どうも魔王です。魔王やらせて貰ってます。初めましてこんにちは」
 オーガ達の間に広がる動揺も見えていないかのように、ソーマは脳天気な挨拶を口にする。まるで散歩に出た先で近所の住人に遭遇した時のように。勿論のこと、オーガ達はそれで態度を軟化させる訳もなく、道端に蛇蝎を見付けたような眼で、ソーマを睨み付けた。
「何故だ。何故貴様がここに居る。この一帯は幻魔の秘薬により結界が張ってあった。上級の広域知覚術ですら、我々の存在は察知出来ない筈」
「あー、そーね。その通りだよ。範囲内の知覚攪乱と、一切の魔力干渉無効化。その秘薬とやらはちゃんと効いてるから、安心していいぜ。だから──」
 ソーマがおもむろに、片腕を上げた。それと共に、大きな羽音が聞こえてくる。思わず誰もが視線を上げた先、一羽の烏が舞い降りて、ソーマの腕に止まった。この森周辺で度々姿の見られる、魔界の三つ目烏だ。
「今回はこいつらが知らせてくれた」
「烏だと……?」
「いやあこいつら、偶然この辺りに放し飼いにしてたら、偶然異変を察知したらしくてな。うちの城に報せが来たんだよ。いや、偶然偶然」
 さらりとそんなことを宣いながら、ソーマは烏の嘴に干し肉を咥えさせる。烏は一声高く鳴くと、そのまま羽を広げて飛び立ち、天高く旋回した。
 一般の幻惑術とは違う幻魔の秘薬の特徴といえば、その対象が無差別になることだ。事前に秘薬を口にし耐性を得ていなければ、誰しもが幻惑の対象となってしまう。それが利点でもあるが、不特定多数を対象とするため察知されやすくもある。オーガ達が秘薬を撒く場所を、人気のないこの森に定めた理由も、おおよそそれに依拠すると推察された。が、さすがに烏が魔王と通じているなどとは、誰も予測してはいなかっただろう。
「小賢しくも烏など使役するか……姑息なる魔王のなり損ないめ」
 唸るような声が、忌々しげにそう吐き捨てる。しかしオーガ達は動揺しつつも、魔王の介入に怯んだ様子は見せなかった。弱者ならば視線だけで失神してしまいそうな、害意に満ちた無数の眼差しがソーマを貫く。
「……まおう、さま……」
 レフィはただその光景を、何も出来ずに見ていることしか出来なかった。目の前の出来事が、どこか現実味の薄いように感じられる。石化した木々の灰白が満ちる世界に、インクを一滴落としたように立っている一人の男。視界を埋めるオーガ達の姿よりも、そのたったひとつの影だけが、真にそこへ存在しているような。
「まあ、そんな訳で、何かこそこそやろうとしてたらしいけど、残念ながら見つかっちまった訳だわ。なもんで、とりあえずそれ置いて、おうち帰ってくんねえかな」
 無数のオーガの立ちはだかる先、未だ拘束されたままのレフィを指差して、ソーマは軽い調子でそう告げる。気の置けない友人に冗談を吐く時のように、肩を竦めて。
「マリウスにも民草をもっと気に掛けろって言われてるし、このまま何もせずに諦めてくれるんなら……まあ、あれだ、ちゃんと命は助けてやるから」
 脅すような声でもなく、かと言ってへりくだる訳でもなく。ソーマは眼前に並ぶいくつもの巨体をのんびりと見回した。その、どこか無頓着な眼差しとは対象的に、オーガ達の赤い瞳は、憎悪や瞋恚でぎらぎらと輝き燃える。
「……否、と言ったら、貴様はどうする気だ」
「言わない方がいいと思うけどな。賢い生き方をお勧めするね、こういう時は」
「ほう、そうか。ならば……」
 オーガの唇が、三日月のように吊り上がるのをレフィは見た。下顎から天を貫くように生える長い牙の隙間に、真っ赤な口内の色が覗く。間近で見たことはなかったが、オーガといえど口の構造は他と大差ないらしいと、レフィはどこか他人事のように、そう考えた。その眼前で、歪な笑みを形作ったオーガがこきりと指を鳴らす。
「返事は、こうだ……!」
 熱い、と感じた。
 前触れもなく、レフィの身体が熱くなる。指先まで急速に血が巡り、鼓動が跳ねる感覚。その次に、全身が熱い訳ではないことに気が付いた。燃えるように熱いのは、肩だ。ちょうど、オーガの腕に掴まれていた辺りが、ひどく熱い。
 この熱の正体は何なのか。反射的に視線が動いて、レフィは自身の肩を見た。眼前の魔族に比べればあまりに細く、頼りない肩。
 そこが真っ赤に染まっているのがレフィの瞳に映ったのと、唇が勝手に動いたのは、ほぼ同時だった。
「──っあ、っぐ、ぁぁあア、ぁ……!」
 喉から絞り出されるような呻きが、開いた唇から吐き出される。本人の意志など関係なく、びくりと大きく身体が跳ねて、レフィの視界が赤に、そして白に染まった。肩が熱い。燃えるように熱く、そこから脳天を劈くような衝撃が走る。一瞬にして全身から汗が噴き出して、肌を伝い落ちた。
「ひ、っぎ、ぁう、ぁああ、ぁ……!」
 レフィの肩から、鮮血が溢れて、オーガの手を汚していく。その太い指の先、短剣のように鋭く長い爪が、レフィの肩に深々と突き刺さっていた。ぐり、と肉を抉るように爪を動かされ、喉から勝手に濁った声が溢れ出てしまう。
「居場所を突き止めた程度で、勝った気にでもなったか。出来損ないはやはり愚昧だな。この結界の中ではあらゆる魔術が封印される。人間崩れの出来損ないが、そんな貧弱な身体ひとつで我々に刃向かう気か?」
「余程焦っていたらしいが、供も付けずにのこのことやってくるなど、愚の骨頂だ」
「当代の魔王はまともに戦も出来ん小心者ってのはどうやら本当だったらしい」
 侮蔑が、嘲笑が、悪意に満ちた様々な声が、ソーマに浴びせ掛けられる。もしもレフィがこの時万全であれば、憤慨も露わに文句のひとつも言ってみせたかもしれないが、焼けるような苦痛に苛まれた唇からは、掠れた呻き声が零れるばかりだった。滲んだ涙にぼやける視界で、レフィはソーマを見据える。ソーマはオーガ達の言葉にも特段反応を寄越さないまま、素知らぬ顔で罵詈雑言を受け止めるだけだった。
「あ、そ」
 気怠げに持ち上がった手が、おもむろに襟足を掻く。眉ひとつ動かさぬまま、しかしソーマはその時確かに、レフィを真っ直ぐに見つめた、ような気がした。
「忠告はしたからな」
 そんな言葉が聞こえた。レフィは苦痛に悶えながら、辛うじてそれを理解した。理解した時には、既に世界は反転していた。今まで見えていた世界の全てが、一色に染まる。見覚えのある色だった。それは今、レフィの肩を汚すものと同じ色だ。即ち、鮮明で、鮮烈で、眼の奥に焼き付いて離れないような、あまりにも強い──血の色。
「……え?」
 落ちた言葉が、果たして誰のものだったかも、分からない。恐らくは、その時誰もが、理解していなかった。瞬目ひとつの間もないうちに起きたこと。消えた黒い影。レフィの眼前に、突如として現れた何か。屈強なオーガの胸から生えた、真っ黒な腕。その先にあるもの。五指が握った何か。今も、この瞬間も、己の現状に気付いてすらいないように、拍動を刻む、それ。
「ぁ……アア、グ、ガァ、ァ」
 喉を潰されたような声が聞こえた。しかしそれは、苦悶に震えるレフィのものではない。たった今、レフィの肩に爪を突き立て、肉を抉り抜き、その力のままに嬲ろうとしていた者──一角オーガの唇から洩れた呻き声だった。ごぼり、と音を立てて、彼の口から血が溢れ出す。ぐらぐらと揺れる真っ赤な視線が見ていたのはレフィの顔……ではなく。
 己の胸を貫いた一本の腕が、今まさに握り潰そうとする、血塗れの心臓だった。
「ぐ、ぅぅ、ギ、ぁああ、ア、ァ!」
 レフィの眼前で、生ぬるい果実が爆ぜた。雨のように降る血が、レフィの頬を濡らす。声帯ごと引き千切るような叫びと共に、オーガの胸からずるりと腕が抜け、巨体がずしんと倒れた。それに合わせてレフィの肩に突き立てられていた爪も抜ける。ようやく己の置かれた状態を理解し始めたレフィの身体が、激痛と共に血を噴き出した。己の肩を押さえながら、レフィは力なく地にくずおれる。
「ぅ、あ、うぅ……っ」
 出血と痛みでくらくらする頭を辛うじて持ち上げ、レフィは微かにぼやける視界で、周囲を確認した。目の前に倒れたオーガが、孔の開いた胸を押さえてのたうち回っている。誰かが、口々に何かを叫んでいる声が聞こえた。けれども複数の声が入り混じって、何を言っているのかよく分からない。分からないけれども、震える声で何かをがなり立てていることと、特に意味のない絶叫の二種類であることは判別出来た。
 涙の滲む瞳を瞬かせて、レフィは必死に、世界を捉えようとする。びちゃり、と濡れた音と共に、何かが近くに落ちるのが分かった。視線を向けてみれば、それは腕だ。誰の腕か。それは分からない。けれども、魔王ソーマのものでないことは確かだった。鼻を突くような、生々しい血の臭いがする。
「こ、こ、このっ、出来損ないの癖にっ!」
「ひっ……駄目だ、嫌だ、こんなの無理だ、逃げ……」
「いぎ、ぃぃぃ、ああ、あぁああ!」
「嘘だ、こんな、有り得ない、こん──あ、ぐあぁァア!」
 声が重なる。声が響き渡る。混じり合って雑音となったそれを聞きながら、レフィはようやく、辺りの様子を把握した。が、それを正しく理解したとは、到底言えなかった。
「……え?」
 あちこちに転がるのは、腕、脚、胴体、剥き出しの内臓に、何処のものともつかぬ肉片。地面に倒れ、苦痛に悶えるのは、いずれも身体の一部が欠損したオーガ達だった。呻き、喘ぎ、叫びながら、彼等は無様に地を転がり、血の海を広げていく。そしてそこに、一人また一人と、同じような傷を負った者が加わるのだ。目の覚めるような、鮮やかな地獄。
 それを作り出しているのは、たった一人の、武器もない丸腰の男だった。黒衣に袖を通した、屈強なオーガ達よりもよほど小柄な男。見間違える筈もない。魔王ソーマだ。つい先程まで、無数の悪意に晒されていた筈の。しかし、今、彼に襲い掛かろうとする者は、既に殆どありはしなかった。五体満足な者は引き攣った悲鳴を上げながら逃れようとする者ばかり。しかし、我先にと逃げようとする者から順に、黒い影の餌食になっていく。
 彼らはソーマが腕を振るう度に、腕を、足を捥がれ、腹に孔を開けられ、心臓を潰され、頭蓋を砕かれ、眼球を抉り抜かれ、地面に転がっていく。それは、戦闘と呼べるような代物ではなかった。まるで幼子が粘土で遊んでいるように、いとも容易く、隆々とした巨躯が引き千切られる。ソーマは散歩でもしているように悠然と歩いているのに、必死で逃げ惑うオーガ達の前にいつの間にか立っていた。次の瞬間には、誰かの身体が吹き飛ぶ。あまりに陳腐で、性質の悪い怪談めいた光景だった。
 鮮血が噴き上がる。肉が飛び散る。骨が砕ける。臓物が転がる。髄液が滴り落ちる。絶叫、哀哭、呻き声。噎せ返るような血の臭い。その中心で、全身に血を浴びる男が、歩き続ける。一歩一歩、足音を鳴らして。
「ひ……っ、ぃいっ、ま、魔王様、魔王様ぁっ、も、申し訳ありませんでした! お、俺は違うんです! 俺はただ、族長にやれと命令されて、それだけで……ほ、本当は魔王様に歯向かう気なんかなかったんです、本当に……!」
 眼前に魔王の姿を見たオーガが、その場にへたり込んで命乞いをする。屈強にして誇り高いオーガの戦士とは思えぬ醜態を、咎める者は既に残ってはいなかった。鋭い歯をがちがちと打ち鳴らしながらひれ伏すオーガを、ソーマはじっと見下ろす。そして、一言。
「だから?」
 唇が弧を描き、薄く笑みを浮かべたのを、レフィはその時確かに見た。オーガの腹に孔が開く。臓物がまろび出て、ぬらぬらと光りながら地面にびちゃりと叩き付けられた。それを、真っ黒な瞳が見ている。のたうち回る巨体を、ただ路傍の石とすら思わぬ、無機質な眼差しで。
「ま……おう、さ、ま……?」
 レフィの唇から紡ぎ出された言葉は、しかし、意志を伴ったものではなかった。血と肉が地を汚し、宙を飛び交う中、命の尊厳を冒涜し、蹂躙の限りを尽くしているこの男は、紛れもなく魔王ソーマだ。しかし、レフィは知らない。こんな眼をするソーマを知らない。こんな、どこまでも涯なく続く深淵のような色をした瞳は、知らない。こんな、遍く命を歯牙にも掛けず、見下し、睥睨するだけの眼差しなど。
 ──否。知らない筈はない。知っているのだ、レフィは。彼がこんな眼をすることを、知っている。何故ならレフィはかつて、それを確かに見たことがあるのだから。それはレフィが、初めて彼と、魔王となる前のソーマと、出会った時のこと。あの時もソーマは、今と同じ眼をしていた。あの、闇の底から足首を掴んで、二度と這い上がれもせぬ沼底に引きずり込むような、深い瞳を見て、レフィは彼を魂の奥底から畏怖し──そして、焦がれる程、峻烈に惹かれたのだ。
 忘れかけていた、その記憶。魔界に生きる者として、ただ本能から服従を迫られるこの感覚。彼が、ソーマがあまりにもレフィに柔く接するものだから、薄れていた筈の感覚が、せり上がってくる。五感を、六感を、それ以上の何かを超えた根源の部分が、感じ取っていた。これが、これこそが、紛れもなく、魔王たるの本質、そのもの。生けとし生ける全ての者に、森羅万象そのものに、原初から植え付けられた恐怖。破壊と殺戮の権化。いつか必ず訪れる、未来の象徴。
「……ぁ、っ……」
 レフィがただ茫然と、血の海を眺めている間に、いつの間にか、立っている者は、魔王を除いていなくなっていた。周囲には、四肢を捥がれ、身体を破壊された、凄惨極まるオーガ達の姿。しかしレフィは、その時気が付いた。苦渋に顔を歪め、地にのたくる彼等だが、そのうち、既に息絶えた者が、未だいないことに。
 オーガの生命力は非常に高い。人間はおろか、生半可な魔物達なら死に至るような傷を負っても、活動を続けることが出来る程度には。彼等は簡単には死なない。しかしそれは、裏を返せば、簡単には死ねない、という意味でもある。仮に致命傷を負ったとしても、オーガの血族は、その高い生命力で、すぐには死なない。つまり、どう足掻いても助からないような状況で、長く長く、苦痛が続くということだ。
 レフィの周りに転がる彼等は、その全てが、死を免れぬ傷を負っていた。しかし未だ、死には至っていなかった。ひとつの例外もなく、誰しもが、そうだった。全身を苛む激痛に悶えながら、血を吐き、這いずり、呻き声を上げる。それは決して、偶然に引き起こされたものではなかった。魔王ソーマの力をもってすれば、彼等を瞬目のうちに殺すことなど容易だっただろう。しかし彼はそうしなかった。彼は、ソーマは、意図的に、この状況を作り出した。
 この場に倒れるオーガ達は、その全てが、ソーマの手によって、最も長く苦しみが続く死を与えられたのである。
 己の確かな死を感じながら、命潰えるその瞬間までのたうつ程の痛苦を味わうのは、彼等に一体どれ程の絶望と恐怖を与えることか。彼等が見た魔王ソーマの黒い影は、その魂に、決して消えぬ記憶の呪いを刻むに違いない。この魔界では、その呪詛を受けた者達は、死後も解放されず、魂が恐怖や苦悶に苛まれ続けることになるのだ。いつまでも、永劫に。魔王がそれを望む限り。
 流れ出る血の生臭さばかりが鼻を突く中、赤い水溜まりの中を、びちゃびちゃと濡れた足音を立てて歩く影がある。道を塞ぐ巨体を小石のように蹴り飛ばしながら、ソーマは泰然と、レフィの許へ歩み寄った。
「ま、魔王……さま」
 血に濡れた魔王の、闇に染まった瞳。その色を見上げるだけで、レフィは背中に走る怖気を止められなかった。しかし、それと同じだけ、燃えるような憧憬が、全身を走り抜ける。視線を外すことも出来ないまま、レフィはただ、呆然とソーマの顔を見上げるばかりだった。


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