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三話
しおりを挟むノエルが目を覚ましたのは、その凄惨より二日を空けた日のことだった。懇意にしていた貴族を頼って身を寄せたジェラルド達は、先行きの見えない混沌の闇に、ただ為す術もなく、茫然とすることしか出来ないでいた。
眠り続ける幼い弟の傍で、ジェラルドはただ無為に時を消費し続ける。全てを燃やし尽くしたあの炎は、夜が明けてからようやく沈火したが、未だ遺体の捜索すらも為されてはいない。誰も、そうしようとする者はいなかった。焦げた瓦礫の中に眠る無数の遺骨をその眼にして、正気を保っていられる者など、誰一人としてある筈もなかったのだ。
ノエルの傍にはジェラルドと、そして家令のオーギュストがいた。殆ど虚脱状態だったジェラルドに代わり、オーギュストが、諸々の手配を行っている。
二人の間に、会話は殆どない。これまでのことも、これからのことも、決して口にはしなかった。重く落ちてそのまま固まってしまったような空気の中、ただ時間ばかりが過ぎていく。
そこに変化をもたらしたのは、ノエルの唇から零れた、あえかな声だった。ジェラルドがふと気付いた時、ノエルは眉を寄せて、何事か言葉にならない声を上げていた。
「っ、ノエル」
「ノエル様」
反射的に立ち上がって、ジェラルドはノエルの顔を覗き込む。ノエルはむずがるように唇を動かすと、ややあって、目蓋をゆっくりと開いた。
ほう、と安堵の溜息を、ジェラルドとオーギュストが同時に吐き出す。この子はもう二度と目を覚まさぬのではないか。そんな鬼胎が、今まで胸の奥に凝っていた。暗く重いばかりだった空気が、僅かに軽くなる。
しかし、それも一瞬のことだった。
「ん……あ、れ……?」
「ノエル、大丈夫か。どこか痛いところはないか」
「おにいさま……?」
「ああ、そうだよ。俺だ。お前の兄だよ、ノエル」
眠たげに目許を擦りながら、ノエルは緩慢に身を起こす。しかし、ジェラルドの呼び掛けにも曖昧な反応しか返さぬまま、何かを探すように周囲に視線を惑わせるばかりだった。
「おにいさま、どこ?」
「ノエル……?」
紛れもなく眼前にいるというのに、ノエルはジェラルドを探しているような素振りを見せる。瞬間、仄暗い予感が、ジェラルドの背中に氷を伝わせた。戦慄が、心臓をどくりと跳ね上げる。どうか間違いであって欲しい。ただの杞憂であって欲しい。そんなジェラルドの願いを裏切るように、ノエルの視線は、何処にも定まらないまま、中空を彷徨い続けた。
「まっくら……どうして、あかりをつけないの……?」
至極不思議そうに、ノエルが呟く。それを聞いた瞬間、思考の全てが凍り付いた。
「ノエル……お前、目が……」
続く言葉は、震えて声にはならなかった。ノエルは未だ、要領を得ない顔をして、不安げに周囲をきょろきょろと見回している。その美しい蒼の瞳に、何も映しはしないまま。
煙を多く吸ったためか。あるいは他の要因があったのか。今となっては分からない。それを解き明かすことにも、きっと意味などありはしなかった。
「ああ、ノエル様……」
絶望に満ちたオーギュストの声が落ちる。透き通る、ノエルの眼差し。かつてそこには、輝きに満ち満ちた世界の色が映っていた。雨上がりの空を、枝先に囀る小鳥を、日陰に蕾を付けた健気な花を、日差しに踊る絢爛な蝶を、ノエルは幼気な瞳に捉え、その全てを愛していた。
この子の世界は美しかった。愚かな大人がどれほど傲慢で醜悪な思惑を方々でぶつけ合おうとも、この子には何一つ関係のない出来事だった。この子には何の罪もなかった。この子はまだ無垢なまま、真綿の慈愛に包まれていなければならなかった。この世の上澄みだけを、その眼に捉えていさえすれば、それでよかった。それでよかったのに。
──そんな、当たり前の世界を、この子はもう、二度と知ることはないのだ。
ノエルの眼は暗闇しか見ない。その瞳に、兄の姿を映すことはない。幼い弟の世界からは、終ぞ光は失われてしまった。ジェラルドが、何よりも、誰よりも、護ってやりたかった、このいとけない末の弟は、もう。
「……っ、はは」
ジェラルドの唇から、乾いた笑いが洩れる。肩を震わせ、押し殺す笑いは、しかし次第に大きく、部屋中に響くような哄笑に変わっていった。
「はは、は、はは、っはははははは!」
何もかもが愉快で堪らないとでも言わんばかりに。ジェラルドは天を仰ぎ、高く、高く笑った。唖然とするオーギュストも、何も分からぬノエルも置いたまま、ジェラルドは笑う。哂う。嗤う。少年の大きな笑い声ばかりが、静寂に支配されていた室内に満ちてゆく。オーギュストは唇を噛み、苦渋をその顔に滲ませると、震える手をジェラルドの肩に置いた。
「ジェラルド様……どうか、お気を確かに」
静かに諭す、オーギュストの声。それに応えるように、ジェラルドは笑みを引っ込めると、すうと細く、息を吐いた。緩慢に首を傾ければ、金糸の髪がさらりと落ちて、双眸が覗く。
「大丈夫だよ、オーギュスト。俺は正気だ」
二人の視線が、交錯する。刹那、オーギュストが大きく瞠目し、息を呑むのが分かった。ジェラルドは、何一つ嘘を吐いたつもりなどなかった。気が触れた訳でも、自棄になった訳でもない。むしろ頭は、ひどく冴え渡っていた。果てもなく昏い闇が靄となって思考を覆い隠していたのに、一陣の強い風が吹いて、それを全て掻き消してしまったかのようだった。心臓が、熱く鼓動を打っている。指先にまで、血潮が巡り巡るのが分かる。
「おにいさま……おにいさま? どうしたの……?」
一切の視界を奪われたまま、それでも兄を案じる優しい弟が、戸惑いがちに尋ねてくる。ジェラルドは手を伸ばして、そっとその小さな頭を撫でてやった。
「ああ……心配は要らないよ、ノエル。お前の兄は、ここにいるよ」
「ん……っ、おにい、さま……」
「大丈夫、今は分からないことばかりだろうけれど、じきに慣れてしまうから。怖いことなんて、なんにもない」
「ほん、と……?」
「もちろん。お前のことは、俺が護ってあげる。俺が、必ず、お前のことを、幸せにしてあげるから」
ジェラルドの手が、ノエルの頬を撫でる。何度も、何度も。己の体温を、その滑らかな肌に覚えさせようとするかのように。低く、柔く、甘い声で囁きながら、兄の手が、弟に触れる。心細い顔をしていたノエルが、次第に緊張を解いていった。
「だから、今は、お眠り。俺が傍にいるから」
「ん……いて、くれる……? ずっと、そこに……」
「ああ、いるよ。ずっとお前の傍にいる。寂しかったら、名前を呼べばいい。きっと、夢に逢いに行くから」
「……うん……」
優しく頭を撫でながら、ジェラルドはノエルの小さな身体をベッドに横たえる。掌が、そっとノエルの目蓋を塞いだ。何も映さぬその瞳を、ジェラルドの手がぴったりと覆い隠してしまう。おやすみ、と小さく囁いてやれば、ノエルは程なくして、安らかな寝息を立て始めた。幼い身体は、未だ本調子ではなかったのだろう。落ちるように眠ってしまったノエルから、ジェラルドは手を離す。直前、名残を惜しむように、丸いおとがいの線を指先でなぞりながら。
その一部始終を黙して見守っていたオーギュストは、固く拳を握り締め、ただの一度も、ジェラルドから視線を外さなかった。ジェラルドが顔を上げて振り返れば、どこか困惑した顔のオーギュストがそこにいる。どうしてそんな表情をしているのだろうか。随分可笑しな気分になって、ジェラルドはゆっくりと口角を吊り上げた。
そんな風に、身構えたような態度でいる必要など、何処にもありはしないのに。ジェラルドは、何も出来ない、何の力も持たない、愚鈍な子供でしかないのだから。
今は、まだ。
「この子は、俺の罪そのものなんだよ、オーギュスト」
ノエルのまろい頬を撫でながら、ジェラルドは謳うようにそう紡いだ。
「俺の家族を、従僕たちを殺したのは。この子の瞳から、光を奪ったのは、他の誰でもない。この俺だ」
「ジェラルド様……決して、そんなことは」
「なあ、オーギュスト。お前、幸福とは、一体何で出来ていると思う」
投げ掛けた質問に、オーギュストは当惑した表情をしてみせるだけで、何も答えなかった。何を藪から棒に、とでも言いたげなオーギュストを見て、どこか愉快そうに眼を眇めると、ジェラルドは悠然と言葉を繋ぐ。
「人だよ。幸福とは、即ち人そのものだよ。俺達は、誰かの肉を喰い千切り、血を啜り、骨を噛み砕かねば、幸福など創れない。俺が今まで醜く貪っていたそれらも、欺瞞と悪辣の果てに滴る腐った酒でしかなかったんだ。こうして沼底に追い落とされるまで、俺はそんなことにすら気付けなかった」
世界の本質に目を向けようともせず、偽飾に塗れた檻の中で人間の真似事をしていたジェラルドの生は、さぞかし滑稽だったことだろう。その出来の悪い喜劇を眺め、この国に根差す、肥え太った悪魔どもは腹を抱えて笑っていたに違いあるまい。
「無知は罪だよ、オーギュスト。俺はこの眼で見える世界ばかりが真実と傲り、疑うことすらしなかった。その癖賢しらに理想を吐き散らして、何かを勝ち得たつもりになっていたんだよ」
だから、こうなった。劇にはいずれ幕が引かれる。それが今だっただけのことだ。のうのうと生きさばらえていたこの身の臓腑は食い破られ、血肉を貪られ、骨を啜られた。そうなることが、世界の摂理だった。川が海へと流れるように、あまりにも自然な。ジェラルドはそれを、たった今、峻烈なまでに思い知ったのだ。
奪われたものは還らない。全てを失い汚泥の底で這いつくばるだけの、無様で無力な子供には、奪い返すことも出来ない。ならば。
「──罪は、贖われなければならない」
そう言って、ジェラルドはうっそりと笑った。彼の忠実なしもべが、ぐらつく瞳でジェラルドを見つめている。そこに宿るのは畏怖であり、同時に希望にも似た何かだった。
「俺はこの子を幸福にする。この子が生きる理由のすべてを、俺が与え続けてやろう。この唇も、頬も、手足も、声も――もう、何ひとつ、奪わせはしない。奪うならば……」
奪うならば、己のこの手で。
この世に唯一残された同胞。かわいい弟。哀れな子供。無垢ないきもの。その幸福を、ジェラルドは創る。誰かの悲鳴、誰かの悲嘆、誰かの血を、肉を、骨を糧にして組み上げた白亜の檻の中で。ジェラルドは狂おしい弟の為に、全てを与え、全てを奪う。闇に堕ちたその瞳が、己以外の万物を見失ってしまうまで、涯なく愛し続ける。
「そう決めた。もう、決めてしまった」
ジェラルドの蒼玉の如き眼差しの中に、真っ黒な炎が煌々と燃えていた。空をも焦がして燃え上がり続けたあの火が、今も瞳の奥を、じりじりと苛み続けていた。それはきっともう、永遠に、消えることはない。
ああ、と嘆息のような声が、オーギュストの唇から零れ落ちる。かつて太陽のように煌めき、見果てぬ夢に染まっていたジェラルドの双眸は、もはや見る影もない。真っ直ぐな少年であった面影を掻き消して、今ここに、美を纏うほど凄絶に笑うのは、何者か。老獪な従者の眼は、それをあまりにも正しく読み取った後、何かを受け入れるように、ゆっくりと閉じられた。
「ならば、万事主君の望むままに。このオーギュスト・ルブラン、生涯を賭けて、リヴィエール侯爵家にお仕えするのみにございます」
リヴィエールの忠実な家令は、完璧な礼でもって、新たなる侯爵家当主の御前に侍った。それを見下ろし、ゆったりと眼を細めながら、ジェラルドは安息に眠る弟の頬を、指先でなぞる。この薄い皮膚の下に、己と同じ血が流れているのだ。そう感じるだけで、ジェラルドの腹の奥底から、背中を這い上がってくるものがある。一笑に付して、ジェラルドは泰然と、視線を上げた。
「喜劇はもう終わりだ。劇場には――新しい演目が必要だろう」
その言葉をもって、ジェラルド・リヴィエールは死んだ。ジェラルドが生まれて初めて殺した人間は、他でもない、自分自身だった。醜く喰い荒らされ、汚泥の底に沈んだその身に刃を立て、五臓六腑を引き千切り、見る影もなく潰してしまった。ここに居るのは、無知の安寧に漂っていた、侯爵家の愚鈍な息子ではない。
ジェラルドはこの瞬間、正しくあることを、少年であることを、人であることを、永劫にやめてしまったのだ。
熾烈に王権を争っていた三名の王族が、相次いで謎の不審死を遂げたのは、それより数えて僅か数か月後のことであった。
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