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一話
しおりを挟む木蓮の花が咲いた。近頃は寒気のゆるい日が続くと思っていたが、知らぬうちに蕾が綻んでいたようだ。
形のよい枝を選んでノエル様の部屋へ持っていくと、大層喜ばれていた。
あの方は本当に花をお好みになる。優しく触れ、匂いを嗅いでは、もう春が来たのだと、無邪気に笑っておられた。
冬が終わる。今年も春の息吹が聞こえてくる。雪は解け、花が綻び、数多の生命が目を覚ます。
頬に触れる風が随分とぬるいものになったと自覚すれば、否が応でも思い出した。
十年前の、あの日のことを。
全てが終わり、始まった、あの日のことを。
――リヴィエール家家令、オーギュスト・ルブランの日記より
広大な庭を擁する荘厳な邸宅の門前に、豪奢な馬車が一台乗り付けた。微に入り細に入り職人の拘り抜いた意匠の光る馬車には、翼を広げる鷹を模した、美しい家紋が掲げられている。それこそかの王国において絶大なる権力を持ち、その威光にはもはや当代の王でさえも敵わぬものと真しやかに囁かれる、リヴィエール侯爵家の麗しき家紋であった。
侍従により、馬車の扉が開かれる。内部より悠然と姿を現したのは、金髪の青年だった。蒼い瞳は涼やかに、それでいてぞっとする程の色気を放ち、ゆっくりと視線を持ち上げる。真っ直ぐに通った鼻筋と細い顎は、高名な彫刻家が造り上げた芸術のように完成された美を内包していた。
彼こそが、その眼差しひとつで社交界の遍く華を虜にすると謳われる、現リヴィエール侯爵家当主、ジェラルド・リヴィエールその人である。貴族院の定例会議より帰宅した彼が馬車から降り立てば、ずらりと並んだ使用人達が、慇懃に頭を垂れて主を迎えた。一糸乱れぬその動作は、この家に仕える名誉を許された者が、いかに洗練された存在であるかを物語る。
「お帰りなさいませ」
そして、居並ぶ使用人の中でも、筆頭を務めるのが、家令たるオーギュストであった。先々代の折よりリヴィエール家に仕えるオーギュストは、常と同じく、完璧な礼でもってジェラルドの前に侍った。ジェラルドは威風堂々と靴音を鳴らして歩きながら、帽子や上着をオーギュストに預けてしまう。何気ない一つ一つの動作でさえも、その蒼き血に相応しい気品が溢れるようだった。
「ご苦労。何か変わったことは」
「いえ。本日も、万事恙無く」
「ノエルの様子は?」
「昼頃、ご報告申し上げた通りでございます。その後は、暫しお休みになっておりました。今は……」
屋敷の大きな扉が開かれる。それを潜ると同時に、ジェラルドの耳に届く音があった。繊細で、美しい、ピアノの音。心の中にするりと入り込んで、柔らかい部分を抱きしめるような、甘さを秘めた音だ。
「このように、ピアノを嗜んでおられます」
「……そうか」
抜き身の刃の如くに怜悧な威厳を纏わせていたジェラルドの表情が、不意に弛む。未だ二十五の若さにして国家を牛耳る程の権勢を振るう、烈々たる青年貴族の仮面が、ほんの僅かに薄くなった。その下から覗くものが、果たして何と呼ぶべきものか――それを言葉にすることは、このリヴィエールに生涯を捧げたオーギュストですらも、かなわない。
ジェラルドは忠実な家令を下がらせ、屋敷の階段を上った。この屋敷に、ピアノがあるのは一室だけだ。そして、それに触れることが許されているのは、ジェラルドを除けば、ただ一人。
そっと扉を開けると、美しい音のせせらぎが直接耳に流れ込むようだった。もっと近くで、この音を聞きたい。欲求のままに足を踏み出したジェラルドだったが、瞬間、音が途切れてしまう。しん、と静寂が耳を打つ中、聞こえたのはピアノの音色ではなく、小鳥のような柔らかな声だった。
「……お兄さま?」
「ただいま、ノエル」
鍵盤の上に指を踊らせていたのは、まだ年端もいかぬ少年だった。窓から差し込む穏やかな日差しに照らされて、華奢な少年がピアノの前に座っていた。陽に透ける亜麻色の髪に、仄赤い血色を透かす、白い肌。そして、ジェラルドと同じ色の、大きな瞳。はっとするような儚さを秘めた、紅顔の美少年だった。リヴィエール家の末弟、ノエルである。ノエルはジェラルドの帰宅を悟り、狼狽えるように瞳をぐらつかせた。
「ごめんなさい、お兄さま。ピアノを弾いていたから、帰ってきたのが分からなくて……オーギュストも、知らせてくれればよかったのに」
申し訳なさそうに眉を下げながら、ノエルは立ち上がろうとする。しかしジェラルドが肩に手を触れ、それを制した。
「いいんだ。わざわざ手を止めてまで、迎えに出ることはない。オーギュストもそれを分かっているから、知らせに来なかったんだよ」
「けれど……」
「それよりも、続きを弾いてくれないか」
ノエルの柔く小さな手を握り、ジェラルドは鍵盤に触れさせた。絹糸のように指通りのよい髪を撫で、ぐずる幼子を宥めるように、ノエルの耳に囁き掛ける。
「俺は、お前の音が聞きたいよ」
「お兄さま……」
ジェラルドの掌に懐き寄りながら、ノエルはそっと目蓋を閉じ、黙してひとつ頷いた。細い指が、するりと鍵盤に伸ばされる。途切れた音が、糸を繋ぎ合わせるように、続きを紡ぎ出していった。
ゆるやかに吹き抜ける風に乗って、大海までも見晴るかすような音色。それは、春の訪れを告げる曲だった。ノエルの幼い、小さな手は、世界の煌めきを捕まえてそのまま音に変えてしまう。微睡みにいるような心地よさを感じながら、ジェラルドは窓を小さく開いた。微かな雨の匂いがする。今朝方降った俄か雨の名残が、まだいくらか残っているらしい。
窓の外を見下ろせば、何処ぞの使者が書簡を持って訪ねてくるのが見えた。急ぎのものでなければよいが、とジェラルドは僅かに憂慮する。家令のオーギュストは気の利く男であり、余程火急の内容でもない限り、この部屋の戸を叩くような野暮な真似はしないだろう。その火急でないことを祈るばかりだ。少なくとも、可能性はない、とは決して言えぬのだから。
あまりに平穏なこの屋敷の中では夢か幻かと思いそうになるが、この国は戦の最中にある。侵略戦争だ。こちらが仕掛けた。
その手を引いたのは、他でもない、ジェラルド自身である。近隣の大国の王が崩御し、それに乗じて革命が起きた。世情は混乱し、最早かの国は無政府状態に陥っていると言っていい。この機を逃す訳もなかった。そもそも、その革命すらも、リヴィエールの手の者が煽動して行ったものなのだから。
敵国は周囲の同盟国に援軍を要請しているようだが、未だ色よい返事を寄越した国は皆無だった。それもその筈、開戦よりも随分と前に、どの国の王もジェラルドと密約を交わしている。即ち、この侵略戦争において、全ての国は中立を保つと。その他、各国の王侯貴族、宰相、大臣、諸々に至るまで、既に根回しは済んでいる。この戦は、戦端が開かれるより前から、結果の決まった戦だった。
開戦より数えておよそ一月。日々、ジェラルドの許へは種々の報告が上がってくる。しかしそのどれもが、戦争と呼べる程のものすら起きなかったと、伝えてくるばかりだった。何処へどの隊が進軍したか。そこでどれだけの人数が死んだのか。大凡の数しか記されてはいない書面を見て、ジェラルドは眉一つ動かさぬまま、処断を下すだけだ。全ては予定調和でしかなく。
人の命を数でしか認識しなくなって久しい。ジェラルドの腕の一振りで、毎日何千何万という人間が死ぬ。老若男女を問わず、等しく与えられる数多の死を、怨嗟を、呪詛を、慟哭を、遍く噛み砕き、踏み躙って、ジェラルドはここへ還るのだ。たった一人の弟の、たった一人の兄の顔をして。
それは、あまりに欺瞞に満ちた、おぞましく、愛おしい、幸福のかたちだった。
ノエルの指が、余韻を残して鍵盤から離れる。その指先から溢れ出る音に聞き入っていたジェラルドは、曲の終わりを感じてゆっくりと振り向いた。
「――お前の音は、魔法のようだね」
伏せられていたノエルの目蓋がそっと開き、はにかむように僅か細められた。少年の丸い頬が、ばら色に染まる。ジェラルドは絨毯を踏んでノエルの傍に歩み寄ると、色を濃くした頬を包み込むように手を触れさせた。ゆるく弧を描く唇から、低く甘い声が響く。
「お前のピアノの音色を聞いていると、俺はまさしく、この世に生きているのだと思えるよ」
「そんな、お兄さま、大袈裟だよ」
「ちっとも大袈裟なんかじゃないさ。お前のかわいい手がピアノを弾いてくれるなら、俺は何を捧げたって構わないんだから」
細く繊細な指を持ち上げて、ジェラルドは指先に口付けを落とす。ノエルは陶酔を滲ませてほうと小さく息を吐くと、その手をそっと、ジェラルドの頬に滑らせた。傷一つない、柔らかで幼い手が、ジェラルドの輪郭をなぞる。
「……お兄さま」
ノエルの瞳が、ジェラルドをじっと見上げる。兄の姿を、その眼差しの奥に焼き付けようとするように。
しかし。
「どうした、ノエル」
しかし、ジェラルドは、知っている。ノエルのその眼差しには、己の姿など映ってはいないことを。どれだけ願い、欲しても、その淡い色の瞳は、ジェラルドの姿を捉えることが出来ないことを。ノエルの瞳は、闇に閉ざされている。ノエルの眼は、世界の形を感じない。世界の色を感じない。ただ、眼窩に美しく、そこを彩る宝石のように、填まっているだけだった。これからも、ずっと、永劫に。
ノエルの手は、ジェラルドの頬を、眦を、鼻筋を、ゆっくりと辿っていく。視線の代わりに指先を使って、兄の存在を感じ取っていく。薄い唇をなぞり、耳の形まで確かめて、ノエルはひどく、嬉しそうに笑うのだ。
「お兄さま、少し髪が伸びた?」
「うん? そうだな、前髪が少し、伸びたかもな」
「そう……お兄さまはとても綺麗な金髪をしているから、きっと伸ばしても、とてもよく似合うよ」
「――ノエル」
光を捉えぬ瞳にジェラルドの姿を映しながら、ノエルは穏やかに微笑む。大きな蒼の瞳が、今この瞬間にも色彩を取り戻したと錯覚する程に、何かを見透かし揺らめいていた。
「僕、覚えているもの。僕の眼がまだ、見えていた頃のこと。うんと昔のことだから、もう忘れてしまったことがほとんどだけれど。でも、お兄さまがどんな顔をしていたか、どんなに綺麗な髪をしていたかは、忘れたりなんかしない」
「ああ……そうだな。そうだったな。お前は賢い子だから」
小さな頭を撫でてやれば、ノエルは喉を鳴らす猫のように眼を細めた。永遠に光を失った、美しい瞳。そこに投影される兄の姿は、あの日のままなのだろうか。何も知らずに笑っていた、愚かで無力な子供だった、あの頃の。それならそれで、構わなかった。この子の見る世界は、それでいい。この世に蔓延る穢れも醜いものもすべて、この手で拭い去ってやるから。この子の夢は、醒めぬままでいいのだ。
「ノエル。俺のかわいいおとうと。お前が褒めてくれるのなら、髪でも伸ばしてみようか」
「うん。きっとかっこいいよ。でも、お兄さま、たぶん途中でわずらわしいって切ってしまうだろうけど」
「はは、違いない」
柔い髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。ノエルは幼子のようなきゃらきゃらとした笑い声を上げて、肩を竦めた。その丸い頬に触れて、ジェラルドは背を曲げる。目許に唇を触れさせれば、促されるように、目蓋がするりと閉じた。白く、滑らかなノエルの頬に、薄い影が重なる。触れ合わせた瑞々しい唇は、蜜の滴る果実のような、香り高い甘さを孕んでいた。
少年の細い指先が、そっと鍵盤に触れる。美しく、柔らかな音が、静寂の中に長く尾を引いた。
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