猫奴隷の日常

ハルカ

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戻ってきた日常

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「あれ?」

僅かな物音に、レイは足を止めた。
耳をすますと、その物音は厨房奥のドアの向こうから聞こえてくるようだった。
そっと近寄り、押し開ける。
音と気配から察した通りの生き物がそこにはいた。

「にゃーん」

怖がらせないよう用心しつつ身を屈め、手を差し出す。
猫はレイの手を丸い目で見つめた後、ぷいっとそっぽを向いた。

残念だが仕方がない。それでも諦めきれずに猫の一挙手一投足を見守っていたレイの横に、不意に誰かが立つ気配があった。

「サヤ」

レイに見上げられたサヤはなぜかちょっと得意げな表情で、先程のレイと同じように猫に手を差し出した。ただし、その手はハムの切れ端を摘んでいた。

「おいで」

猫はサヤを見上げ、さらにその手につままれているハムを見ると、警戒を見せながらも近づいてきた。
クンクンと匂いを嗅いだあと、サヤの手からハムを受け取る。
さっと距離を取ると、当然のように戦利品にかぶり付きはじめた。

「どう?」

再び得意げな顔を向けられ、レイは鼻白んだ。

「餌で釣ってるだけじゃないか。それに、今が初めてじゃないよね、絶対」

今までにも何回か餌を与えていたに違いない。そうでなければ、野良と思しき猫が直接人の手から食べ物をもらったりしないだろう。
レイの胡乱な表情にも、サヤはめげることがない。さらなるハムをちらつかせ、猫の鼻先に近づける。

「ほら、食べなさい。コウ」
「セバスさまに怒られても知らないよ・・・って、コウ?」

サヤの言葉に、レイは首を傾げた。
コウといえば、先日までこの屋敷に身を寄せていたが、ある朝忽然と部屋から姿を消してしまった男の名前である。それをなぜ今?
レイの疑問に、サヤは端的に答える。

「そうよ。この子の名前。コウさんがいなくなっちゃった次の日に現れたし、ほら、ちょっと似てるでしょ」
「似てる・・・?」

レイは、猫の顔を覗き込んだ。
茶色のキジトラで、眉がある辺りの毛色が濃い。それが八の字を形成しているせいか、困ったような情けないような表情にも見える。

「うーん。確かに、似てなくもないような」

特に眉毛の感じが。

「そうでしょ。横顔が、掃除してる時のコウさんにそっくりよ」
「あ、本当だー」

猫は人間たちの勝手な評価など気に留めることもなく二つ目のハムを咥えると、うにゃうにゃとなにか言いながら食べ始めた。

「コウさん、どうしていなくなっちゃったんだろう・・・」
「分からないわ」
「今どうしてるのかな。元気にしてるといいけど」
「レイ」

呼ばれて向くと、サヤはなにか決意したような顔でレイを見ていた。

「この子、こんなに似てるんだから、コウさんの生まれ変わりじゃないかしら」
「え?コウさん死んだの?」
「だからね、この子、ここで、飼・・・」
「ダメだかんな」

頭上から降ってきた声に、二人して振り仰ぐ。

「カイ!」
「どうしてだめなのよ」

カイは殊更大きくため息をついた。

「どうしてもこうしてもあるか。ここをどこだと思ってんだ。領主様の食事に猫毛でも入ったらどーすんだよ」
「僕の毛だよって誤魔化せば・・・」
「色が全然ちげーし」
「コウさんに激似なのに」
「全っ然似てねえ。オマエらはただ、猫飼う理由がほしいだけだろーが。大体、似てたらどうだってんだよ。そんな惜しむほど仲良しでもなかっただろーが」

言い返す言葉もなくむくれてしまったサヤと猫と共に、玄関先へと移動する。少し遅れて、ヴァイスもついてきた。
サヤと並んでベンチに腰を下ろす。ヴァイスは地べたに胡座をかいて座り、猫もヴァイスの横で丸くなった。
冬とはいえ暖かい日和で、ぽかぽかと心地がいい。

「カイ、怒ってた?」

ヴァイスが首を横に振る。

「カイも猫は好きだから」

ああいうふうに言ったのは、カイの本意ではない。そんなふうなことをポツポツと言って、ヴァイスは日光浴する犬みたいに目を閉じた。
喋る者がいなくなると、途端に辺りは静けさに包まれる。
それはレイにとっても身に馴染んだ静けさだった。

「なんだか、あっという間にみんな居なくなっちゃったね」

突然コウが居なくなり、お嬢様とメイドが失意の表情を浮かべたまま出ていったのが二日前。
たった三人増えただけだったのに、なんとなく落ち着かな日々だった。それも終わったのだ。

「あ」

目を閉じていたはずのヴァイスが、すっと立ち上がる。見ると、1台の馬車が門をくぐってくるところだった。
ヴァイスは身軽にポーチまで駆けていき、馬車を出迎える。御者台に座っているのは若い女性だった。見たことがある人だ。あれは・・・

「洗濯屋さんね」
「うん」

屋敷にやってくる外部の卸業者の内、食べ物以外のものはみんなヴァイスが対応している。洗濯屋もその内の一つだ。馬車の荷台や屋敷の中を指さしながらなにやら話している二人を見るともなしにする眺めていると、不意にぞくりと寒気が走った。

「・・・カイ」

いつの間にか、真横にカイが立っていた。
視線の先には、楽しそうに話す二人の姿が。
レイは首を傾げつつ、現実的な提案をしてみた。

「洗濯専門の人を雇えばいいのに。ほら、カイが妬かなくてすむような感じの人をさ」
「誰が妬いてるって?」

妬いてないとすれば、その顔は何の顔なのか。

「べっつに、なんとも思ってねーし」

言いながら、レイの横にどかっと腰掛ける。
不穏な雰囲気を感じとったのか、丸くなっていた猫が慌てたように飛び起きる。さっと草むらに飛び込んで消えてしまった。

「もー。カイが驚かせたからー」

また来るだろうか。来たら、飼いたいとエイベルに言ってみようか。やっぱり駄目かな?
考えながら、エイベルがいるはずの執務室の辺りに視線をやる。窓が開いていた。その窓から、愛しい男の姿が。目があった。遠目にも彼が微笑んだことが、レイには分かった。

「エイベルがいいって言えばいいんだよね?」
「なにが」
「猫!」
「あぁ?まぁ、そりゃそーだけど」
「僕、頼んでくる!」

レイは駆け出した。数日前までのように、誰かに制約されるされることもなかった。

ああ、日常が戻ってきたんだ。
レイは唐突に実感した。

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