18 / 19
18
しおりを挟む
「アシルー!」
森の境から上がった声に、俺は庭先の畑にしゃがみ込んだまま顔を上げた。
駆けてきた足音が目の前で立ち止まる。勢いのまま抱き上げられ、俺は焦った。
「ヒューゴ!急に抱き上げるなと言っているだろう」
「すみません」
殊勝に謝りながら、ヒューゴは機嫌よく笑った。
兄の事件の後始末を、ヒューゴは目の見えない俺に代わって全て行ってくれた。せめて兄が襲ったという人たちに頭を下げて回るくらいはしたかったが、ヒューゴはそれすらも俺にはさせなかった。
ヒューゴが駆けまわっている間、俺は意識の戻らない母の病室で、ヒューゴが帰ってくるのをただじっと待ち続けていた。触れた母の手は、本当にこの下に血が流れているのかと思うほど冷たく乾いていた。誰もいない病室は静かで、物事を考える時間は山ほどあった。それでも、俺には兄が考えていたことが何一つ分からなかった。
兄が俺や、他の何人かの街人を襲ったことには一応の理由がつけられていた。兄を知っている俺からすれば首を傾げたくなるようなもので、納得など到底できなかった。しかし、唯一反論できるはずの兄はもうこの世にはいない。全てを抱き込んだまま兄は逝ってしまったのだ。
気晴らしに外へ出ようにも、久方ぶりに出てきた街は俺にはもう喧しすぎ、白木の杖を持っていてさえ、雑音や、歩くごとにぶつかる人や障害物に気後れした。
籠りきりになる俺をヒューゴは時々街に連れ出し、手を引いて歩き、全ての後処理が終わると、あの森の小屋で二人で暮らそうと言った。
俺は迷うような顔をしながらも、おそらくはヒューゴの言う通りになるだろうと頭では思い、実際に数日後にはそうなった。
箱庭のような全てが完結するこの小屋で俺は野菜を育て、ヒューゴは森に罠を仕掛ける。その日食べる物だけを収穫し、雨の日は何もせずに過ごす。
そんな生活はどこまでも穏やかで、街で消耗し混乱したままだった俺の頭の中にも、ようやく静寂が戻りつつある。
「アシル、何を考えているんですか?」
また俺を観察していたらしい。ヒューゴはそう言うと、俺を抱き上げたまま小屋の前の段差に腰かけた。膝の上に座る格好になり、俺は身を捩った。こういう扱いにはまだ慣れない。
「お前がどうしたら俺の忠告を聞くようになるか考えていたんだ」
「俺に触られるのは嫌ですか?」
「そんなことは言ってない。 っ!・・・ヒューゴ」
背中に伸びた腕がシャツをたくし上げる。抗議するために闇雲に伸ばした腕に何かが触れた。その『何か』がバランスを崩し、床に転がり重たい音を立てる。俺は驚き、見えない目で音の出所を探った。
「今の音は?」
「音?ああ、剣ですよ。森に入るのに一応、護身用に持って行きました。憲兵隊に未練はありませんが、ないと不安で」
「最初から持っていたんだろう?それは」
「はい。ただ、こんな物を持っている男を家に入れるのは怖いでしょう?特にアシルは目が見えませんし。だから、黙っていました。怒りましたか?」
「いや」
だとしたら、始めヒューゴが小屋に来た時にさせた、重たい物を床に置くような音はやはり剣をどこかへ立てかけた音だったのだ。それならそれで納得できた。あの時から、兄が急襲して来れば迎え撃つ気だったのだろうから。
シャツに潜り込んだヒューゴの指が探るように動き、俺は思わず手で触れたシャツを握りしめた。
「ヒューゴ」
「ダメですか?」
「・・・ここで?」
「誰も見ていませんよ」
「それはそうだが・・・」
瞼や頬に落ちる日がじわりと暖かい。その温まった皮膚にヒューゴの唇がおちる。俺は、暖かさを味わうように薄い胸に顔を埋めるヒューゴの髪を引っ張った。
「ヒューゴ、何かしゃべってくれ・・・」
黙ったまま触れられるのは怖い。どうしても、侵入者X・・・ 兄にされたことを思い出してしまう。
成人した男の手など皆似ているものなのだろう。ヒューゴの手も、兄の手も、侵入者Xの手もよく似ていて、黙っていられると、時々、誰に触れられているのか分からなくなる。
それを言えばきっとヒューゴは気を悪くする。あんなに俺や母のために動いてくれたのに。
今も、街の診療所にいる母のためにヒューゴはお金を出しているはずだった。
「アシル、好きです」
「・・・俺も」
こういうやりとりには途端に口が重くなる俺に、ヒューゴは笑う。俺はまた居心地が悪くなり俯いた。
ヒューゴのことは好きだった。しかし、ヒューゴが俺を思ってくれているようには思えていない。
好意を利用している。そんな後ろめたさがある。
ヒューゴの父のことも。改めて謝ろうとした俺にヒューゴは何も言わせなかった。
俯けていた頬にヒューゴの手が触れて上向かされる。俺は暗闇の先にあるはずのヒューゴの顔に手を伸ばした。ヒューゴは今どんな表情をしているのか。指でなぞった唇は笑みの形をしていた。
「ゆっくりでいいですよ、アシル。もう誰も、邪魔する人はいません。時間はたくさんありますから」
ヒューゴが笑みを含んだ声で言う。
俺は目を閉じ、キスを受けた。
そうだ。俺にはもう母も兄もいない。
俺のいる暗闇の世界には、もうヒューゴしかいないのだから。
森の境から上がった声に、俺は庭先の畑にしゃがみ込んだまま顔を上げた。
駆けてきた足音が目の前で立ち止まる。勢いのまま抱き上げられ、俺は焦った。
「ヒューゴ!急に抱き上げるなと言っているだろう」
「すみません」
殊勝に謝りながら、ヒューゴは機嫌よく笑った。
兄の事件の後始末を、ヒューゴは目の見えない俺に代わって全て行ってくれた。せめて兄が襲ったという人たちに頭を下げて回るくらいはしたかったが、ヒューゴはそれすらも俺にはさせなかった。
ヒューゴが駆けまわっている間、俺は意識の戻らない母の病室で、ヒューゴが帰ってくるのをただじっと待ち続けていた。触れた母の手は、本当にこの下に血が流れているのかと思うほど冷たく乾いていた。誰もいない病室は静かで、物事を考える時間は山ほどあった。それでも、俺には兄が考えていたことが何一つ分からなかった。
兄が俺や、他の何人かの街人を襲ったことには一応の理由がつけられていた。兄を知っている俺からすれば首を傾げたくなるようなもので、納得など到底できなかった。しかし、唯一反論できるはずの兄はもうこの世にはいない。全てを抱き込んだまま兄は逝ってしまったのだ。
気晴らしに外へ出ようにも、久方ぶりに出てきた街は俺にはもう喧しすぎ、白木の杖を持っていてさえ、雑音や、歩くごとにぶつかる人や障害物に気後れした。
籠りきりになる俺をヒューゴは時々街に連れ出し、手を引いて歩き、全ての後処理が終わると、あの森の小屋で二人で暮らそうと言った。
俺は迷うような顔をしながらも、おそらくはヒューゴの言う通りになるだろうと頭では思い、実際に数日後にはそうなった。
箱庭のような全てが完結するこの小屋で俺は野菜を育て、ヒューゴは森に罠を仕掛ける。その日食べる物だけを収穫し、雨の日は何もせずに過ごす。
そんな生活はどこまでも穏やかで、街で消耗し混乱したままだった俺の頭の中にも、ようやく静寂が戻りつつある。
「アシル、何を考えているんですか?」
また俺を観察していたらしい。ヒューゴはそう言うと、俺を抱き上げたまま小屋の前の段差に腰かけた。膝の上に座る格好になり、俺は身を捩った。こういう扱いにはまだ慣れない。
「お前がどうしたら俺の忠告を聞くようになるか考えていたんだ」
「俺に触られるのは嫌ですか?」
「そんなことは言ってない。 っ!・・・ヒューゴ」
背中に伸びた腕がシャツをたくし上げる。抗議するために闇雲に伸ばした腕に何かが触れた。その『何か』がバランスを崩し、床に転がり重たい音を立てる。俺は驚き、見えない目で音の出所を探った。
「今の音は?」
「音?ああ、剣ですよ。森に入るのに一応、護身用に持って行きました。憲兵隊に未練はありませんが、ないと不安で」
「最初から持っていたんだろう?それは」
「はい。ただ、こんな物を持っている男を家に入れるのは怖いでしょう?特にアシルは目が見えませんし。だから、黙っていました。怒りましたか?」
「いや」
だとしたら、始めヒューゴが小屋に来た時にさせた、重たい物を床に置くような音はやはり剣をどこかへ立てかけた音だったのだ。それならそれで納得できた。あの時から、兄が急襲して来れば迎え撃つ気だったのだろうから。
シャツに潜り込んだヒューゴの指が探るように動き、俺は思わず手で触れたシャツを握りしめた。
「ヒューゴ」
「ダメですか?」
「・・・ここで?」
「誰も見ていませんよ」
「それはそうだが・・・」
瞼や頬に落ちる日がじわりと暖かい。その温まった皮膚にヒューゴの唇がおちる。俺は、暖かさを味わうように薄い胸に顔を埋めるヒューゴの髪を引っ張った。
「ヒューゴ、何かしゃべってくれ・・・」
黙ったまま触れられるのは怖い。どうしても、侵入者X・・・ 兄にされたことを思い出してしまう。
成人した男の手など皆似ているものなのだろう。ヒューゴの手も、兄の手も、侵入者Xの手もよく似ていて、黙っていられると、時々、誰に触れられているのか分からなくなる。
それを言えばきっとヒューゴは気を悪くする。あんなに俺や母のために動いてくれたのに。
今も、街の診療所にいる母のためにヒューゴはお金を出しているはずだった。
「アシル、好きです」
「・・・俺も」
こういうやりとりには途端に口が重くなる俺に、ヒューゴは笑う。俺はまた居心地が悪くなり俯いた。
ヒューゴのことは好きだった。しかし、ヒューゴが俺を思ってくれているようには思えていない。
好意を利用している。そんな後ろめたさがある。
ヒューゴの父のことも。改めて謝ろうとした俺にヒューゴは何も言わせなかった。
俯けていた頬にヒューゴの手が触れて上向かされる。俺は暗闇の先にあるはずのヒューゴの顔に手を伸ばした。ヒューゴは今どんな表情をしているのか。指でなぞった唇は笑みの形をしていた。
「ゆっくりでいいですよ、アシル。もう誰も、邪魔する人はいません。時間はたくさんありますから」
ヒューゴが笑みを含んだ声で言う。
俺は目を閉じ、キスを受けた。
そうだ。俺にはもう母も兄もいない。
俺のいる暗闇の世界には、もうヒューゴしかいないのだから。
0
お気に入りに追加
73
あなたにおすすめの小説
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました
SEKISUI
BL
ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた
見た目は勝ち組
中身は社畜
斜めな思考の持ち主
なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う
そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される
天涯孤独な天才科学者、憧れの異世界ゲートを開発して騎士団長に溺愛される。
竜鳴躍
BL
年下イケメン騎士団長×自力で異世界に行く系天然不遇美人天才科学者のはわはわラブ。
天涯孤独な天才科学者・須藤嵐は子どもの頃から憧れた異世界に行くため、別次元を開くゲートを開発した。
チートなし、チート級の頭脳はあり!?実は美人らしい主人公は保護した騎士団長に溺愛される。
勇者の股間触ったらエライことになった
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
勇者さんが町にやってきた。
町の人は道の両脇で壁を作って、通り過ぎる勇者さんに手を振っていた。
オレは何となく勇者さんの股間を触ってみたんだけど、なんかヤバイことになっちゃったみたい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる