上 下
9 / 42
第三話 狼は狡猾

しおりを挟む
 夜になって、キルケは研究室でじっと本を読んでいるふりをしていた。

 風呂にも入り、もう後がない。落ち着かず、本を読もうとしても頭に入らなくて困っていた――が、なにかをしているふりをしていないと、今すぐにルーがやってきそうだ。実際、彼女がいつ寝るのかとちらちら様子をうかがっている気配がある。



(どうしよう……説明だけですむだろうか。いや、すまさなければ)



 夕食の時に、あの本のことを説明しようとした――つまり、あれは東方の秘術に関する本で、魔女熱病にも関係がありそうだから調べようとしていたのだと。

 しかし一言、



「それで、気持ちいいとなにが出るの?」



 と訊かれて、彼女は沈黙した。説明できなかったからだ。



 先延ばしにしても、いずれ絶対に説明させられるのはわかっていた。

 人狼は執念深い。ものごとに執着し、追い詰め、白黒つけるまではあきらめないのだ。

 もちろんルーにもその傾向があって、彼女を困らせる時は、大体それが原因だった。



 だが、キルケが言って聞かせれば、渋々でも納得させることはできるだろう。

 腹をくくることにして、彼女は席を立った。



「ルー!」

「寝るの?」



 廊下に出たところで、隣の台所からにこにこしたルーが出て来る。

 キルケはため息をつき、ぐっと拳を握りしめた。



「話がある。こっちへ来なさい」

「……」

「返事は?」

「はい」



 キルケは研究室にルーを招き入れた。

 研究室と言っても、広いわけでも、設備が充実しているわけでもない。背の高い本棚が壁際にあって、キルケの大きな机がある。そして、作業台に各種の器具が載っているだけだ。



 キルケの机の横にひとつ椅子を置いて、ルーと向かい合った。



 人狼はなにを話されるのか予想がついているらしく、早くも『絶対に言うことは聞かない』とでも言いたげな顔をしていた。



「わかっていると思うが――」



 キルケはそれでも切り出した。



「魔女熱病のことだ。助けてくれたのは感謝してるし、ありがたいと思っている。だが、わたしにはお前を奴隷身分から解放し、幸せにする義務があるんだ。魔女熱病の治療は、その……つまり、ちょっと特殊なことをしなければいけないだろう? だから、こんなことを続けていてはお前の解放のさまたげになるに違いないんだ」

「キルケって、僕のことを解放して放り出すつもりなの?」

「放り出すってなんだ……?」



 キルケは戸惑った。



「そうじゃない。解放した後はお前の自由にしていいんだ。そのための解放なんだから」

「僕は自由になっても君のもとを離れないからな」

「それは今決めなくてもいい。お前には魔法がかかっていて、そのせいで誤った判断を下している可能性が高いんだ」



 おおまじめに言うと、なぜかルーはうんざりしたようだ。



「僕は一生君の奴隷でいい。話ってそれだけ?」

「一生だなんて軽々しく言うな」

「……君はいつもそうだよね、キルケ。なにが正しいとか正しくないとか、本の知識で言うんだ」

「なんの話をしてる?」



 ルーがなにを言っているのかよくわからなかったが、ともかく、彼の説得に失敗しそうなのはつたわってきた。



(まずい、話の持っていき方を間違えたか……)



 ひそかに焦るキルケに、ルーがふてぶてしく腕を組んだ。そして、一方的に話を終わらせる。



「それで、気持ちいいとなにが出るの? あの本でなにを調べてたのか聞かせてもらっていい?」



 キルケは仕方なく、答えた。



「……お前もあの本を読んで勝手に調べたらいい」

「おもらしをしたかもって、気にしてたんだろ」



 ルーがはっきりと切り出して、魔女はぎくりと身体を硬直させる。

 それから、動揺をさとられまいと目を逸らした。



「ち……違う」

「君が研究室にこもってるあいだにシーツを洗濯したけど、すごいことになってたよ」

「違う。あれはおもらしじゃない」

「じゃあなに?」

「せ、洗濯したならわかってるだろう……」



 キルケは弱々しく言った。あれがなんなのかは、結局のところよくわからなかったからだ。一説に魔素の放出だとか、一説に単なる生理現象だとか、いろいろなことが書いてあった。

 気持ちがいいと出てくるのは確からしい。正体の話もそうだが、そこもかなり気まずかった。要するに、それは彼女が行為に快楽を感じている証拠だからだ。



「それでね、キルケ。そのおもらしのことなんだけど」

「おもらしじゃない!」

「おもらしじゃないかもしれない水分のことなんだけど、実はシーツと毛布が乾かなくて」

「えっ?」



 ルーが心から残念そうに見える顔で言った。



「ベッドもまだちょっと濡れててね……?」

「ど……どういうことだ?」

「君の寝る場所がない」



 キルケは愕然と奴隷を見た。

 ルーはしれっとした顔で彼女を眺めていた。洗濯した瞬間から気づいていたにもかかわらず、ずっと黙っていたのだろう――キルケは日常の些事に疎いし、寝る時まで気づかないと確信していたに違いない。



「どうしてそれを早く言わなかったんだ! 先に知っていれば、別のマットレスを用意したのに!」

「そうすれば僕のベッドで一緒に寝てくれるかな、と思って……」

「……」



 この家にベッドはふたつだけだ。つまり、キルケのものと、ルーのものである。

 ひとつのベッドが使えないとなれば、確かにもうひとつで寝るしかないに違いない。



「キルケ、もう寝ようか?」



 ルーが笑いかけて来て、魔女は顔を引きつらせた。



 ◆ ◆ ◆



「わたしは自分のベッドで寝る! 絶対に寝る!!」

「いさぎよくないなぁ……」



 ルーの肩に荷物のようにかかえられながら、キルケはじたばた暴れた。

 あまりに軽々とかつがれて運ばれ、ポイと投げ出される。



 もうそこはルーのベッドの上だった。



「湿ったマットレスで毛布もなく寝るつもりなの? 風邪を引くよ。あきらめて僕と一緒に寝よう」



 ルーは上機嫌で、彼女の前に立ちはだかっている。

 魔女は逃げる道を探した。ルーの脇を駆け抜けて戸口にたどり着けるだろうか?

 できないことはないだろうが、その前につかまる公算の方が高い。彼女はごくりとつばをのんだ。



(なんとかこの場を切り抜けなければ……そうだ)



 キルケは後ろに下がった。そっちには壁しかないが、それでも距離を取ろうと思ったのだ。



「そっ……そんなことをしたら」

「そんなことをしたら?」

「お前のベッドも明日には使えなくなってるぞ! 使えなくしてやるからな!!」

「ここでおもらしするってこと?」

「おもらしじゃない!」



 もはやなにを言いたいのかわからなくなってきた。

 ルーが首をかしげて『困った人だな』という目で見て来て、彼女は恥ずかしくなった。なんの脅しにもなっていないようだ。



「ベッドぐらいいくらでも好きに使えなくすれば? どうせ掃除したり片付けたりするのは僕なんだし」

「ベ……ベッドを汚すだけじゃない、お前のことも嫌いになってやる……!」

「それは困る」



 ルーが悲しそうな顔になった。

 しかし、容赦なくベッドに膝をつき、壁に背を押し付けるキルケに迫ってくる。

 行動がチグハグだ。嫌われたくなければ、今すぐ彼女を解放すべきだ。



 キルケは手を前に出してルーを押しやろうとした。壁に手をついているようなもので、びくともしない。

 それどころかぐいぐい前に進んでくる。



「いッ、いいのか、嫌いになっても!?」

「いや、それはだめだよ。君に嫌いになられたら僕はどうしたらいいかわからない」

「だったら今すぐ迫ってくるのをやめろ!」

「……」



 ルーがキルケの手を取った。優しい手つきだったので、彼女はあまり抵抗しなかった。



「脅しがへたくそだ」

「脅しにへたくそもなにもないだろう……」

「嫌いになられたら困るけど、君は絶対僕を嫌いにならないじゃないか」

「いっ、いや、そんなことは……」



 キルケは語尾を消えいらせ、目を逸らした。ルーの顔がいつの間にかものすごく近い。



「……賭ける?」

「え?」



 真剣な目がこちらを見ていた。



「僕を嫌いになれるかどうか。やってみれば?」

「なにを言ってるんだ、お前は」

「ものは試しって言うしね」

「!!」



 ルーが優しく握っていたはずの彼女の手を引っ張った。

 それだけで、魔女はバランスを崩してベッドに倒れ込んだ。



 人狼の手は片方が彼女の手を押さえつけ、片方が胸の辺りを彷徨っている。

 キルケは焦った。このままでは、また関係を持ってしまう。

 足をばたつかせた。



「やめろ!」

「これで嫌いになれなかったらもう完全に合意ってことでいいよね?」

「なっ、なんでそうなる!? あっ」



 耳の辺りをぬるりと舐められて、変な声が出てしまった。



「なんにせよ賭けるなら、どうなるか実行してみないと……」



 低い声でささやかされてぞくっとする。

 キルケは青くなった。



(だめだ、そんなことをされたらまた口実を与えてしまう!)



 なぜなら、ルーの言う通りだからだ。

 彼女は、この人狼の青年を絶対に嫌いになれない。

 少なくとも今から起こることでは、嫌いになることは難しいだろう。心底いやがっているのならともかく、そうではないからだ。



 ルーにされるのがいやではないのが、問題なのだ。



 それを知ってか知らずか――たぶん知っていてだが、ともかく、ルーがつぶやいた。



「これからいっぱいすることだし、そろそろ慣れた方がいいよ」





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

優しい先輩に溺愛されるはずがめちゃくちゃにされた話

片茹で卵
恋愛
R18台詞習作。 片想いしている先輩に溺愛されるおまじないを使ったところなぜか押し倒される話。淡々S攻。短編です。

慰み者の姫は新皇帝に溺愛される

苺野 あん
恋愛
小国の王女フォセットは、貢物として帝国の皇帝に差し出された。 皇帝は齢六十の老人で、十八歳になったばかりのフォセットは慰み者として弄ばれるはずだった。 ところが呼ばれた寝室にいたのは若き新皇帝で、フォセットは花嫁として迎えられることになる。 早速、二人の初夜が始まった。

大嫌いな次期騎士団長に嫁いだら、激しすぎる初夜が待っていました

扇 レンナ
恋愛
旧題:宿敵だと思っていた男に溺愛されて、毎日のように求められているんですが!? *こちらは【明石 唯加】名義のアカウントで掲載していたものです。書籍化にあたり、こちらに転載しております。また、こちらのアカウントに転載することに関しては担当編集さまから許可をいただいておりますので、問題ありません。 ―― ウィテカー王国の西の辺境を守る二つの伯爵家、コナハン家とフォレスター家は長年に渡りいがみ合ってきた。 そんな現状に焦りを抱いた王家は、二つの伯爵家に和解を求め、王命での結婚を命じる。 その結果、フォレスター伯爵家の長女メアリーはコナハン伯爵家に嫁入りすることが決まった。 結婚相手はコナハン家の長男シリル。クールに見える外見と辺境騎士団の次期団長という肩書きから女性人気がとても高い男性。 が、メアリーはそんなシリルが実は大嫌い。 彼はクールなのではなく、大層傲慢なだけ。それを知っているからだ。 しかし、王命には逆らえない。そのため、メアリーは渋々シリルの元に嫁ぐことに。 どうせ愛し愛されるような素敵な関係にはなれるわけがない。 そう考えるメアリーを他所に、シリルは初夜からメアリーを強く求めてくる。 ――もしかして、これは嫌がらせ? メアリーはシリルの態度をそう受け取り、頑なに彼を拒絶しようとするが――……。 「誰がお前に嫌がらせなんかするかよ」 どうやら、彼には全く別の思惑があるらしく……? *WEB版表紙イラストはみどりのバクさまに有償にて描いていただいたものです。転載等は禁止です。

[R18] 18禁ゲームの世界に御招待! 王子とヤらなきゃゲームが進まない。そんなのお断りします。

ピエール
恋愛
R18 がっつりエロです。ご注意下さい えーー!! 転生したら、いきなり推しと リアルセッ○スの真っ最中!!! ここって、もしかしたら??? 18禁PCゲーム ラブキャッスル[愛と欲望の宮廷]の世界 私って悪役令嬢のカトリーヌに転生しちゃってるの??? カトリーヌって•••、あの、淫乱の••• マズイ、非常にマズイ、貞操の危機だ!!! 私、確か、彼氏とドライブ中に事故に遭い•••• 異世界転生って事は、絶対彼氏も転生しているはず! だって[ラノベ]ではそれがお約束! 彼を探して、一緒に こんな世界から逃げ出してやる! カトリーヌの身体に、男達のイヤラシイ魔の手が伸びる。 果たして、主人公は、数々のエロイベントを乗り切る事が出来るのか? ゲームはエンディングを迎える事が出来るのか? そして、彼氏の行方は••• 攻略対象別 オムニバスエロです。 完結しておりますので最後までお楽しみいただけます。 (攻略対象に変態もいます。ご注意下さい)   

お兄ちゃんが私にぐいぐいエッチな事を迫って来て困るんですけど!?

さいとう みさき
恋愛
私は琴吹(ことぶき)、高校生一年生。 私には再婚して血の繋がらない 二つ年上の兄がいる。 見た目は、まあ正直、好みなんだけど…… 「好きな人が出来た! すまんが琴吹、練習台になってくれ!!」 そう言ってお兄ちゃんは私に協力を要請するのだけど、何処で仕入れた知識だかエッチな事ばかりしてこようとする。 「お兄ちゃんのばかぁっ! 女の子にいきなりそんな事しちゃダメだってばッ!!」 はぁ、見た目は好みなのにこのバカ兄は目的の為に偏った知識で女の子に接して来ようとする。 こんなんじゃ絶対にフラれる! 仕方ない、この私がお兄ちゃんを教育してやろーじゃないの! 実はお兄ちゃん好きな義妹が奮闘する物語です。 

悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~

一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、 快楽漬けの日々を過ごすことになる! そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

【R18】聖女のお役目【完結済】

ワシ蔵
恋愛
平凡なOLの加賀美紗香は、ある日入浴中に、突然異世界へ転移してしまう。 その国には、聖女が騎士たちに祝福を与えるという伝説があった。 紗香は、その聖女として召喚されたのだと言う。 祭壇に捧げられた聖女は、今日も騎士達に祝福を与える。 ※性描写有りは★マークです。 ※肉体的に複数と触れ合うため「逆ハーレム」タグをつけていますが、精神的にはほとんど1対1です。

処理中です...