年をとりすぎた男

主道 学

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大金

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 その捨てたものは、胸騒ぎから始まった。
 闇に侵食されつつある暗き夜だった。
 男は目覚めていた。
 ベットから這い上がり、本棚の面前に陳列された古風な時計たちを見やると、深夜の2時だった。
 男にはもう日がない。
 心の中は暗雲が覆い。気持ちが意識共々沈んでいくかのようだ。男にあるのは過去のことばかりだ。
 それらが、男を苦しめていた。
 なにもないのだ……。
 
 男は78年も生きていた。
 生涯独身で、仕事への意志を重んじる性格だった。低所得者でもあり、貧しいながらも懸命に働き続けていたのだ。
 夜が開け、なにもないのが恐ろしくなった男は外へと出掛けようとした。
 男は一度も使っていない幾つかの銀行の金を調べることにしたのだ。
 安アパートからでると、雨の降りしきる街だった。街全体も男には、漆黒が迫り。心中やぶさかではなかった。
 交差点の信号機にも、やはりなにかしらの薄暗さを覚えた。
 もう日はないんだ。
 男はそう思った。

 銀行にはそれぞれ、大金が蓄えてあった。
 貧しいが健やかな生活を愛していた男には、驚くこと当たり前だった。
 男は孤独というわけではない。
 一人の友人がいた。
 同い年の安アパートの大家である。小太りな身体つきで、人当りがいいよく。長い間、アパートの住人たちに信頼を築いていた。
 男は早速、友人にある思い付きをいった。
「このアパートで、一番の貧乏だが、真面目で誠実な若者は誰か? いるのかいないのかだけでいいが……教えてほしいんだ」
 そこで、すぐに男は頭を小突いて考えを変えた。
「いや、私がしたと聞いたら不審に思うだろう。君が渡してほしい」
 男は全財産を振り絞った高額な聖書、仏典、ロレックスの腕時計。高級なネクタイにスーツなどを渡そうとした。安アパートの駐車場に停めてある自動車は550万はするので、それらが不審に思われたら最後だと思ったのだ。
「へえ、思い切ったことをしたな。若者は喜ぶだろう。もう私たちは年だしな。その金の出所は、曖昧じゃないさ。あんた真面目だったよな。一心不乱に働く姿はおれも気が引き締まったよ」

「これをぼくに? なんで?」
 青年は大学生だった。
 偶然、世界中の宗教の研究が趣味だった。
「誰とはいわないが、この安アパートの一人が、お前さんを立派に社会に出したいってさ。きっと、もう長くないんだよ。どうか受け取ってくれ」
 青年は戸惑いを隠すことをしなかった。
「人助けさ。年とって癌とかになると、何か残さないといけないっていうだろうな。切羽詰ってさ。でも、これは例えだ。相手は老人じゃないかも知れない。若くても死を免れないんだし。けれども、やっぱり、誰とはいえないんだ。恥ずかしがり屋の最後の善意を受け取ってくれ」
 青年は渋々、詐欺ではないと信じられるだろうかと考えているようだ。同じ安アパートの人なら、貰ってもいいかと気持ちが揺らいでいるのではないだろうか。
「そういえば! 隣の若い女性が乳がんだった。今は誰とも会いたくないとかいって、部屋に閉じこもっているけど、親は金持ちって噂で、やっぱりなにか残したいんだろうな。わかったよ。貰うよ。そして、約束する。立派な社会人になってみせる」
 友人は満足して自分の部屋の管理人室へと戻った。しばらくしてから、男が現れた。
「貰ってくれたか?」
「ああ、あんたは立派だよ。どうせおれたちは棺桶にしか居所がなくなるしな」
「よかった」

 それから、数日して、友人が血相変えて男の部屋のドアを叩いていた。
「おい! あの若者は東大生だった! 贈り物のお礼にこれまた豪華な宝石箱をおれに寄越して、贈り物をした人へ渡してくれって頼まれてしまった! 形見だそうだ!」
 男は考えた。
 いまの私にそんなものが必要か?
 少し考えてから。
「この安アパートで、一番苦労している若い女性は誰かいないかな?」
「それなら知っている。乳がんの女だ。まさか、渡してこいっていうのか?」
「そうだ」

 
「こんなに綺麗な宝石箱をわたしに?」
「そうそう、人生何が起きるかわからないんだよ。この年ではもう日常茶飯事だ。さあ、受け取って」
 女はしっかりと宝石箱を胸に押し当て。
「その人って、男性?」
 男の友人は、男の正体がバレると困るので咄嗟に嘘をついた。
「ああ、若いよ。でも、同じ苦労をしている女性を放っておけない性質なんだ」
「ちょっと待って」
 女は部屋の奥から、これまた素晴らしいマフラーを持って来た。高価なマフラーで、オートクチュール(高級洋品店)から特注で買ったのだといった。
 男の友人は顔には出さないが、心底困っていた。

 困り果てている友人に、少し頭を捻った後に男はこういった。
「答えはこうだ!」
 男は叫んだ。

「え? その女性がぼくに? なんて素晴らしいんだ! じゃあ、ぼくもこれを!」
 東大生の若者は、貴重な医学書を男の友人に渡した。

 ここまでくると、友人は機転を回して、乳がんの女性に医学書を渡しに行った。

「まあ! 私のために読みやすい乳がんの医学書を!」
「ああ、どうしてもっていってね。やっぱり……」
 男の友人が言い終わる前に。
「父と母とも相談しました。乳がんが治ったら、私、その人と結婚します。その人と会わせてください」

 友人が慌てふためいて、安アパートの男の部屋に一足先に知らせにいった。
「なんだって!?」
 男は頭を抱えた。
 今更、私が最初に贈り物をしたなどとややこしいことをいうのも嫌で。恥ずかしさを耐えるのもどうしても嫌だった。
「すぐに来てしまう。その女性は20代で凄い美人なんだ」
 友人の言葉に男はひらめいた。

「ああ、ちょっと、管理人室のトイレに行ったのさ。その人ならここにいるよ」
 男の友人は走り回ったので、やや呼吸を乱しながら、東大生の部屋のドアを開けた。
「なあ、カッコイイだろ。今まで必死に勉強ばかりして、貧乏だが親の面倒でもみるためなんだろうな。それで、東大生になったんだろう。とても誠実な若者なんだ」
 東大生と乳がんの女性は、お互いの瞳をしばらく見つめ合っていた。

「これで、もう思い残すことはないな」
「あんた。立派だよ」
 男と男の友人は、管理人室で一杯やっていた。
「最初の贈り物の出所は、言ってしまったよ」
「ああ、仕方ないな」
「今度、お礼がしたいってさ」
「ああ、人生捨てたもんじゃないな」

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