マスターワールドヘリテージ ~天狼域の守護者~

只野緋人/Hito Tadano

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【二人の王女】編

Prologue. 14年前の月夜

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 ――明日の狩りに連れていってほしい。

 そう弟に頼んだのは、わたしのほうだった。
 今までも、狩りに同行したことはある。
 けれど、今回は少し違う。
 白涙の採集にはまだ、立ち会ったことがなかった。
 それは天寿を全うする白狼が最期に流す涙で、とても稀少なもの。
 死にゆく白銀の大狼は、けれど気高さをそのままに、穏やかには斃れてくれない。まるで避けられない運命に抗うがごとく、大地に伏せるその瞬間まで荒れ狂うと聞く。
 だから白涙の採集は狩りのなかでも特に危険で、熟練の狩人さえも命を落とすことがあるという。
 それでもわたしは、この目で確かめておきたかった。
 いずれ王位を継ぐ者として、そして、崇高なる白狼の守護者として、その責務があると考えたからだった。
 何より、明日の白涙採集は弟にとっての晴れ舞台。これまでの狩りの功績を認められ、大頭領である義母のロッデンから、白涙採集の許可が出たのだ。
 姉として、こんなに誇らしいことはない。
 だから部隊に交ぜて連れていってほしいと頼んだ。弟の部隊は気心の知れた友人たちばかりで、皆が家族も同然だった。
 それでも足手まといにだけはなりたくないから、ベテラン狩人のブラウに稽古をつけてもらってきた。彼が言うには、「王女殿下には狩人の素質がありますなあ」だそう。
 そうして義父上の説得もクリアし、いよいよ狩りの日がやってきた。
 それは、夜空に高く昇った満月の美しい、秋の晩だった。
 一人前の狩人として弟が認められる祝いの日に相応しい夜になる――。

 白銀の月光が降り注ぐ巨樹の森を、複数の人影が疾駆する。
 枝から枝へ、地面から幹へ。縦横無尽に彼ら――狩人は、闇が満ちるこの森の“異物”だ。
 森に息づく生きものたちは、狩人を歓迎しない。事実、駆ける彼ら自身、森へと踏み入った時点でそれは覚悟していたものだ。
 自分たちへ間断なく向けられる、森の住人たちの、警戒と殺気。
 この森で隙を見せれば、意識するより早く彼らに呑みこまれるだろう。
 それはまるで森そのものが、異物たる狩人を排除せんと息を鎮めているような張り詰めた空気だった。
 ラクリキア王国北東部に広がる大森林――ウーリ源狼域。
 はるか太古、王国が建国されるよりも前から悠久のときを経てきた、大自然の聖域。
 人間など、後から勝手にやってきたか弱い二足歩行の生きものに過ぎず、その自慢の知性さえここではほぼ無意味だ。元よりここは、この星に息づくあらゆる生きもの、その頂点に君臨していた王が棲まう森。
 古の争い以降、姿を消したかの王たちにこそ、森とそこに棲まうものたちは敬意を払う。
 ましてや、その王たちに牙を剥いた人間など、侵入者に他ならない。

「――今日はやけに殺気立ってんなァ。ま、元よりオレらは歓迎されない身だが」

 駆ける速度を落とすことなく、狩人の先頭を行く長身が独りごちた。その声は纏った風格と裏腹に、若い少年の無邪気さを印象づける。
 文字通り肌を刺すような森の殺気を全身に浴びながら、少年の出で立ちは軽装だ。
 暗闇で月色を発する銀の毛皮を纏い、顔の下半分を狼を模したマスクが覆う。束ねたセミロングの赤毛を風になびかせ、その合間から覗くは音を鋭く聞き分ける狼耳。碧眼と金色のオッドアイが鋭く前方を捉え、腰のベルトに月光を反射した短剣が提がる。柄には王家の紋様――黄金色の翼を羽ばたたかせた盾を模したエンブレムが煌めいた。
 そうして針葉樹の細い葉を微かに揺らし、大地に足跡さえ残さず疾駆する少年の傍へ、対照的な濃紺の人影が寄り添う。

「今晩の目的は、〈天涙〉の採取だ、大頭領の乳牙。それが白き狼の天命だったとしても、森は哀しむし、棲むものたちは敏感にもなる。天寿を迎えぬものなどいないが、俺ら狩人は彼らにしてみれば許せんことだろう」
「だからァ、ベレンよォ。その呼び方、やめれ」
「大頭領閣下――お前の御母堂に、フルヴィオお前が身の程知らずにも競争を挑んで、ボロクソにやられた結果の、灸を据えられたこの異名が嫌いかフルヴィオ?」
「……相変わらずおめェ、物覚えがいいな」
「当たり前だ。俺ら〈乳牙隊〉は、そのためにいる。お前のお守りを何年つとめてると思ってる?」
「おめェと歳は一歳しか違わんじゃねェかよ。てか、よく自分で名乗ってケロッとしてんな」
「何を恥じることがある。お前は千年王国ラクリキア王国大頭領の子息で、俺らはその護衛だ。ラクリキア大頭領より賜った名を、俺は誇りに感じるぞ」
「ハァ……。母上の目に違いはねェ、ってか」

 嘆息をこぼしたフルヴィオの声音はどこか楽しげだった。こうして軽口を叩き合える仲間が、自分にはいる。背後を振り返らずとも、さらに何人もが自分の背を追っているのがわかる。出自も年齢も異なる彼らだが、苦楽を共にした仲間たちには変わりない。仲間たちがいる限り、自分は進んでいける。肩に背負う重荷が軽くなることは決してないが、仲間たちがいれば自分はそれを背負っていけるだろう。――それに。

「ベレン。狩りの最中は姉貴についててやってくれ。そんでもって質問攻めにでもされて得意の頭脳を披露しとけ、副隊長」
「俺の知識で王女殿下のご期待に添えればいいが。今晩のため殿下はマスター・ブラウに教えを請うたそうだな。さすがは未来のラクリキアを担う御方だ。抜かりがない」
「オレも〈双王〉後継者なんだが?」

 問い返したフルヴィオにベレンはいつも通り鼻を鳴らすと、「今晩の狩り、しかと成功させるぞ」と言い残して後方へ退いていった。
 踵で木々の幹を蹴りあげ、フルヴィオは月明かりと頭に叩き込まれた森の地図を頼りに北の方角へと、歩を速める。
 ベレンの言う通り、今宵の狩りには“客人”が同行している。
 〈天涙〉の採取が決まってすぐ、同行を願い出てきたのには驚いたが、姉は前から心に決めていたのだろう。
 生真面目な姉のこと。考えてみれば何も不思議な願いではない。
 姉はやがて王国の政を司る、王の後継となる身。その身が背負う責は狩人であるフルヴィオとまた異なり、別の意味で重責だ。
 だから狩りに同行する必要などなく、むしろその身を思えば、父王が顔をしかめたのも無理はない。
 それでも姉は、譲らなかった。
 居並ぶ王の重鎮たちの前で、姉はその持ち前の揺るぎない、王家のそれとは色の異なる瞳で、父王を見据えて言った。

 ――わたしはラクリキアをもっと知らなければなりません。いまこの国が果たしている責を思えば、無知ではいられない。王と狩人の垣根を越え、互いをよく知るために。

「――姉貴には負けてらんねェなッ!」

 知らず、哮った声が漏れて、フルヴィオの全身を高揚感が駆け抜けていった。
 そうしてひときわ高く、跳躍し、月夜を背後に指示を咆える。

「いくぜおめェら! 還りし者の巨岩まで、あと200だ。気ィ引き締めていくぞッ!」

 *   *   *

「――フルフルってば、張りきってるねぇ。いつもより気合い、3割増しって感じじゃない?」
「もっとあるわね、スベニャ。きょうは特別なんだし。あたしらのリーダーもこれで、〈看取りし人〉の仲間入りなんだし」
「あらー。それだけではありませんでしょー? 今日の狩りは、お客さまが一緒なんですしー。グウェン、うれしいですわー」
「――みなさん、同行を認めてくださって感謝します」

 人耳に装着した通信機から伝わる、先を行く各員の声に、枝を蹴ったヴァヴァリアは小さく顎を引いて謝意を表す。
 正直、今日の狩りの同行を告げて、どのような反応が返るか心の中で心配していた。彼女たち――〈乳牙隊〉の女子メンバーが、ヴァヴァリアの同行を嫌がるはずがない。そう理解しているからこそ、なんだかそんな彼女たちの気持ちを利用しているようで気が引けた。
 弟のフルヴィオと共に育った彼女たちは、ヴァヴァリアにとっても姉妹のような存在だった。血のつながりもなく、王家へ迎え入れられたヴァヴァリアに彼女たちは最初からごく普通に接してくれた。ラクリキア王女としてでなく、同年代の友人として。
 それがどれほどありがたく、自分にとって大切なことか、とても言葉では伝えきれない。
 叶うならいち早く同行のことを打ち明けておきたかった。けれど、機密保持を理由にそれは義母上にも止められて、結局彼女たちに伝えられたのは今朝になってから。
 だから狩りの同行をおそるおそる告げたヴァヴァリアの言動に対し、最年長でムードメーカーのスベニャはこう笑って言った。
 ――リアリア、気つかいすぎだってば。

「――わっ?!」

 思考に気を取られ、気づいたときには枝へと伸ばしたはずの指が虚空を擦っていた。落下特有の浮遊感が身を包み、銀白に色づく月夜が遙か頭上へ遠のく。不思議なことに、恐怖は感じない。樹高30mを超す巨樹から手を滑らせたというのに、墜落を恐れる気持ちよりも、体を包んだふわりとした感覚がいっそ心地よかった。

「――」

 引き延ばされた時間のなか、ふいにヴァヴァリアの視界を"影"が掠めた。
 一瞬、ただの空目かと疑ったが、確かに満月を横切る一条の黒い線がある。細く鋭い線条はまるで月を両断するような錯覚をもたらして、どこか夢見心地だったヴァヴァリアの意識を瞬時に醒ました。
「はっ!!」
 短く気迫を吐き、四肢へと力を込める。それは刹那の電気信号となってヴァヴァリアの体を駆け巡り、同時に身に纏った〈狩衣〉へと信号が届けられる。
 そうして薄ら霜が降りた大地へ墜とされる直前、〈狩衣〉のアシストを得て転身したヴァヴァリアは落下のエネルギーを己の踵へ集中、翻って跳躍の糧とした。

「……ふぅ。なんとかできました」
「ハンター・アーマーの扱い――」
「――うまいじゃん、お姫さま」

 と、絶妙なタイミングで感想を述べたのは、ヴァヴァリアの左右を固めるように移動する双子のビンとタンだった。瓜二つの小柄な体躯がまるで鏡映しのように、完全に同期した動きを見せている。

「ありがとうございます。いちおう、練習しましたので」

 そう言葉を返すあいだも、ヴァヴァリアの目は必死にゴーグルへ示されるアシスト情報を滑り、纏ったアーマーの性能を最大限に発揮すべく体を動かし続けた。
 隊がヴァヴァリアに合わせて移動速度を落としているのは、だいぶ前から気づいていた。その必要はない、と言いたくても、もし彼らが全速で駆けたならあっという間に見えなくなる。
 やはり、追いつけない。
 誇らしいような、それでいて寂しいような寂寞が胸に広がり、ヴァヴァリアは誰にも聞こえないよう静かに奥歯を嚙んだ。
 そのときすっと、先頭の弟――フルヴィオに合わせて移動していた痩身が、足を止めてヴァヴァリアの横へ付ける。

「殿下、あまりご無理なされぬよう。御身は、栄えあるラクリキア王国の姫御子。くれぐれもお労りください」

 落ち着いた声が、マスクの上の鋭い目つきから届けられた。隊で最年長のベレン・デルガドは、実質的なまとめ役。やや感情的に動く癖のあるフルヴィオを冷静に支え、隊の実力を底上げしている。あいつがいないと空回りするんだよな、とは弟の言葉。2歳の差がある二人は小さい頃から気が合う本当の兄弟のようだった。
「ありがとう、ベレン」と返すと、短く頷いた副官は速度を上げて先頭へ駆け戻っていった。

「相変わらずベレンは固いな! 姉貴はそんなヤワじゃねぇよ。忘れたか? 小っさいときゃあ、オレよりも木登りが巧かったんだぜ?」
「王女殿下はレディであらせられる御方だ。そもそもの体の造りが異なる。木から落ちて傷ひとつ付かん化け物のおまえと違ってな、フルヴィオ」
「ベレベレひどーい! アタシだってレディだよ! ね、アデラ?」
「異性として見られていないの……? 私……うう」
「あらあらー。アデラちゃんを泣かせてしまいましたねー、サブリーダー」
「うるさいぞ、おまえら。そもそも〈狼王の乳牙〉にまでなっておいて、どこがレディだ? そこいらの男よりよっぽど腕っぷしが強いだろうが」
「ベレン副隊長――」「――そいつはちと、恨みを買うよ?」

 隊の女性陣から一斉に避難を浴び、「ぐっ……」と詰まるベレンの声が返る。

「〈疾双剣のベレン〉様が、押されている……?」

 これまで会話に交じってこなかった戸惑いの声が通信機に伝わり、ちょうど枝木へ着地していたヴァヴァリアが後ろを振り返った。

「ああやってバランスを取っているんです、ベレンは。なにせ、この隊は女性の比率が高いですから」
「ヴァ、ヴァヴァリア王女殿下っ!? きょ、共有回線とは知らず、すみませんっ! あ、いや、ごぶれーしました……?」
「ふふっ。ヴァヴァリアで構いません、〈若葉のウィル〉。貴方のことは、ウィルフレッドとお呼びしてよろしいですか?」
「よ、よろしいですっ! ヴァ、ヴァヴァリア様!」
「そこは『光栄です』だ、新入り」

 副隊長からの訂正が入り、枝を飛び移っていたウィルフレッドが空中で器用に「は、はい!」と、直立不動の姿勢で拳を左胸に当てる狩人の敬礼を掲げる。当然、摑む腕が塞がり、瞬く間にウィルフレッドの姿が暗闇の樹下へ消えていった。

「ウィルフレッド?!」
「心配すんな姉貴。あいつも〈乳牙〉なんだ」
「しかしこの高さは! 下には白狼がいるかもしれませんし……」
「いまのここいら一帯にはいねぇよ。ま、見てろって」

 先頭にいたはずのフルヴィオが、ものの数回の跳躍でヴァヴァリアが立つ枝へ着地する。示し合わせたように隊の移動が止まり、二人を取り囲む位置に各々が陣取る。
 そうして各自が周囲の警戒を厳とする様は、彼らの練度の高さを示していた。
 〈狼王の乳牙〉は、若手の精鋭狩人が称することを許されるだけの称号ではない。大頭領の息子であるフルヴィオの警護もまた、彼らの任のうち。
 そして今は、ヴァヴァリアという護衛対象がもう一人。
 口にこそ出さないが、彼らが感じているプレッシャーは相当なはずだった。
 ここ、源狼域ウーリ区は大頭領が直に管轄する保護区とは言え、身の危険がない保証はどこにもない。
 一旦、王都ヴァルデンの門をくぐれば、そこは太古から姿の変わらない自然の原生林が広がっている。進化が育んだ大自然を前に、人間《ホモ・ルプス》など食物連鎖の下位に位置する一生物種に過ぎない。
 そのことを叩き込まれてきた狩人たちには、森の危険性が身に染みついている。
 だから彼らは決して、森を侮りはしない。

「北東の方角にオグロワシ! 距離120!」

 斥候役であり、隊で一番視力の良いスベニャが鋭く警戒の声を上げる。間を置かず、全員が姿勢を低くした。

「動くなよ姉貴。オグロワワシは目がズバ抜けちゃいるが、動かないもんには反応しねぇ。静かにしてりゃ――」
「――知っています。生物の授業はいっしょに受けました。ですが、下にはウィルフレッドが……」

 通信機からは、隊の最年少であるウィルフレッドの「うわ! これは源狼域で満月にしか花を咲かせないゲッコウヅタ!?」と、興奮の声が届いている。草木の個有能力《ユニーカ》を持つウィルフレッドが植物には目がないと、ヴァヴァリアは出発のときフルヴィオに耳打ちされていた。
 王都周辺に広がる広大な源狼域には、固有種の動植物が数多く生息している。王立研究院のロドリゲス教授が言うには、その種類は今も増えているという。
 それなら植物好きにはたまらないのも道理だ。

「ぜんっぜん聞こえてねぇな。やれやれ」

 ヴァヴァリアの横で、フルヴィオが手と指で素早く記号を作る。それが狩人の使うハンドサインであることはヴァヴァリアもわかるが、〈乳牙〉だけに通じるようカスタマイズされているのか、意味までは読み取れない。 
 が、隊の面々には伝わったらしく、ささやかな了解の意が通信機に届いた。
 さっとフルヴィオが枝から飛び降り、すぐさま入れ替わるようにベレンがヴァヴァリアの傍を固める。微かに聞こえた二重の葉音は双子のものと思われた。

「いまも昔も、息のあったチームですね」
「新入り以外は皆、付き合いの長い連中ばかりです。親のいない俺たちには、兄弟姉妹も同然ですから」
「弟も……フルヴィオにとっても、貴方がたは大切な家族です」
「殿下には違われるのですか?」

 一瞬、問われた意味がわからず、ヴァヴァリアは言葉に詰まった。それを気分を害したと受け取ったのか、ベレンがすぐさま「出すぎた言葉でした。お許しを」と頭を下げてくる。
 ようやくベレンの気遣いを理解したヴァヴァリアは、

「いえ、とんでもない! ただ嬉しくて……。ちょっと止まってしまいました」

 と、勢いよく首を横に振って否定する。
 自分たちはヴァヴァリアにとっての家族ではないのか。
 ベレンはそう訊いていたのだ。
 ベレンたちがそうであるように、
 王家の伝統に則り迎え入れられた、孤児の一人だ。
 血のつながりがなくとも、父も母も弟も、ヴァヴァリアを実の家族のように愛してくれている。ヴァヴァリアも彼らを愛しているが、同時に戸惑いはいつも心の片隅にあった。
 ――わたしは、ちゃんと愛を返せているのだろうか。
 だからつい、ベレンの問いにも戸惑ってしまった。
 けれど、そんなこと、答えは決まっている。

「弟は幸せ者です」
「……殿下?」
「隊のみなさんに心から信頼されて、慕われて、家族のように想われて」
「殿下、先の俺の言葉は――」
「――そんなを持てたこと、わたしは幸せです」

 ベレンの言葉に被せてヴァヴァリアは言う。月明かりの下、元から白髪の角刈りの寄せた眉根の鋭い茶眼を真っ直ぐに見据えて、そう言った。

「……ありがたき御言葉」
「礼を言わなければならないのは、わたしのほうです。ありがとう、ベレン。これからも突っ走る弟の綱取り、よろしくお願いしますね」
「御意に」

 恭しく拳を胸に当てたベレンの頭上を巨大な影が渡っていった。ヴァヴァリアは空を仰ぎ、瞬く間に遠ざかっていく翼を見送った。人の背丈を遙かに超えた空の覇者は、月光をその雄大な両翼に浴びてそのまま夜空の彼方へと消えていった。

「――ふごっ……もごもごもご……っ」
「落ちつけっ、ウィル! オグロワワシが戻ってきちまうぞ!」

 カサカサ、と葉の擦れる音が足元から聞こえ、小枝やら葉やらを髪に引っ付けたフルヴィオの頭が樹冠からひょっこりと突き出す。その逞しい両腕に羽交い締めにされているのは、焦茶色の髪を後頭部に束ねた線の細い人影、ウィルフレッドだ。宵闇の中でも爛々と輝いているのが見えるウィルフレッドの目は、ユニーカ行使の証。事実、二人の体は蛍光緑に発光するツタのような植物に絡め取られ、まるで宙に吊り上げられるように空に向かって背丈を伸ばしていた。
 そのツタを伝い、身軽なステップでこちらの枝木に飛び移ってきた双子の妹、琥珀色の左目が前髪から覗くビン・ウーファが呆れた声音で、

「ありゃ病態だね」
 と言うと、真横で同時に頷いた姉のタンが、
「大型新人だね」
 と、肩をすくめてみせた。

「もう行ったぞ、ヴィオ。離してやれ、窒息して死にそうだ」
「ぷはぁー! 皆さん見てくださいよ、このゲッコウヅタ! ぼくのユニーカから伝わってくるこの、一夜限りの恋歌! はぁー、ボタニカル!」

 フルヴィオの拘束から解放され、恍惚とした声でウィルフレッドが天を仰ぐ。が、呼吸が間に合っていないのは明らかで、直後にふらりと上半身が傾いだ。

「――あっ」

 制御を失ったユニーカから解き放たれ、エレベータの役割を果たしていたゲッコウヅタがあっという間に解けていく。支えをなくしたウィルフレッドの体が樹冠へ沈んでいき、遙か下方の地面へと真っ逆さまに叩きつけられ――、

「――風巻!」

 ベレンの声とともに一陣の風が木々を揺らし、見失いかけたウィルフレッドの姿を再度、持ち上げる。ふわりと浮いたその体をフルヴィオが易々と受け止め、「おーい。しっかりしろ」と頬をペシペシ叩いた。

「仕方ない。俺がユニーカで直接、息を吹き込んでやろう――」
「――ぷはぁー! 生き返った! もう大丈夫です!」

 弾かれたように隊の新入りが立ち上がると、直立不動の姿勢を取って己の無事を宣言する。「ふっ。そうか」と微かに相好を崩したベレンを皮切りに、隊の面々がやいのやいのと新入りを囃し立てた。
 そんな弛緩した場の空気のなか、ふとヴァヴァリアは一人、混じってこない面子がいることに気づき、枝を数本飛び越えて近寄った。

「スベニャ。どうかしました?」
「……匂いが淀んでる」

 幼く見える顔立ちを進行方向へ向けて、しきりに空気の匂いへ鼻を晒すスベニャの表情が硬い。普段、ムードメーカーに徹することの多い彼女だが、斥候として長けたその実力は名高い。そんな彼女が、鼻だけでなく狼耳をも忙しなく動かし、状況を読み取っている姿にヴァヴァリアも緊張感が高まるのを感じ取っていた。

「ターゲットか?」
「ううん、ちがう。けど、近いよ」

 ヴァヴァリアの横に並んだフルヴィオから尋ねられ、険しい表情のままスベニャが答えた。見回すといつしかフルヴィオを中心に隊の全員が集結していた。そこにもう砕けた空気は微塵も感じられず、狩人としての静謐さを纏うばかりだった。

「よし、みんないいか。ブリーフィング通りにいくぜ。オレたちはこれから〈還りし者の岩〉で白涙を採取する。ターゲット個体は、3日前に群れを離れて単独で源狼域内を移動してきてる。事前に見た通り、水晶体の混濁、食欲の低下、脱毛の〈帰還兆候三箇条〉が確認された。毛髪のシーケンサ解析結果を含め、評議会はターゲット、固有名〈スコア・ブライトアイズ〉を〈帰還者〉認定。オレたちに草葬と白涙の採集を命じた」

 隊の面々を見回しながらフルヴィオが作戦内容を復唱する。全員の頭に入っている情報なのだろうけれど、抜かりがあってはならない。
 白涙の採集は危険で崇高な任務だ。
 フルヴィオたちがこれから立ち向かうのは、体長4メートル、体高が2メートルを越す巨大な白銀の狼――白狼。
 千年にわたり蓄積されてきた王国による観察データを元に、今宵、その白狼は天寿を全うすると結論が下された。
 白狼が死期を間近にしたとき、その濁り、けれど威厳を失わない双眸から数滴の涙が滲み出す。
 白涙と呼ばれるその液体が、絶大な治癒力を秘めていることは長年の研究と経験によって明らかになっていた。たった数滴の白涙を精製し、適切な分量で製剤すれば数万人の命を救う薬剤となる。
 狩人の最も重要な任務のひとつが、この白涙の採集だった。

「言うまでもねぇが、〈帰還者〉は荒っぽい。先月の採集で殉職者が出たのはみんな知ってるだろ?」

 帰還者――王国では、天寿を全うする白狼のことを敬意を込めてそう呼ぶ――は、静かに生命の灯火を吹き消すわけではない。
 白銀の大狼は迫り来る終焉を感じ取っているのか、最期のその瞬間まで、まるで死神と死闘を繰り広げるように、荒れ狂うのだ。
 そして両者の勝負が付いたとき、白涙はその効力を失う。万能薬たり得るその涙滴は、ただの水滴に帰してしまう。
 
 
 それが、"白狼の守護者"として幾星霜、王国狩人が背負ってきた使命だった。

「オレたちが単独で白涙の採集に向かうのは、これが初めてだ。これまでの採集補佐で危険は身にしみているはずだろうが、ターゲットはスコア《20年越え》の帰還者だ。どんなユニーカをぶつけてくるか、対峙するまでわからねぇ」
「スコアの、帰還者……」

 ヴァヴァリアの斜向かいに立つウィルフレッドからそんなつぶやきが伝わってくる。月明かりのせいもあるのかもしれないが、その表情は心なしか青ざめて見える。隊に入ったばかりの彼には、いきなりの大仕事だ。

「固くなってますわよー、ウィルフレッドさん」
「えっ!? えっと……」

 真横からグウェンに顔を覗き込まれ、ウィルフレッドがあたふたと目を泳がせる。姿勢的にグウェンの豊かなバストが肩に押し付けられている。
 つーと、ヴァヴァリアは視線を自身に落とし、意味もなく腕を組んでみる。が、腕にのし掛かる重みは皆無に等しく、そう違わない年齢のはずなのに違いすぎる特徴をまざまざと思い知らされ、無性にため息を吐きたくなった。

「ま、姉貴は無理だな」
「なっ?! よ、余所見しないでくださいっ!」

 かあっと熱くなる頬を自覚しつつ、抗議したヴァヴァリアの言葉を素直に聞きいれてフルヴィオが視線を隊の輪に戻す。

「ん? 何のことですか、リーダー……痛っ?!」

 純朴な新入りが律儀に説明を求め、憐れにも副隊長からの無言鉄拳をみぞおちに受けて押し黙る。そうして何事もなかったように咳払いすると、ベレンは言葉を引き継いだ。

「積み重ねた日々の鍛錬を思い出せ。鍛錬は裏切らん。そして仲間を頼れ。狩人は決して仲間を見捨てん。俺らは、家族だ」

 最後はウィルフレッドに向けて言葉を結ぶと、〈風双剣のベレン〉は背に収めた細身の片手剣を引き抜いた。合わせて次々に、若き狩人たちが自分たちの得物を構えていく。自然と、ヴァヴァリアも腰に提げた短剣の柄に指を這わせていた。王家の娘に代々受け継がれてきた古の滑らかな骨の質感が、背筋を引き伸ばす。
 自分は、狩人ではない。
 そんな自分が彼らのたる森でこの短剣を抜くことは、侮辱にあたる。
 教わった礼儀を思い返し、ヴァヴァリアはそっと短剣から手を離した。

「リラックスしなよ、新入り。あたしたちがついてるって」

 内ポケットから小枝を取り出すウィルフレッドへ、鏃に似た大盾の内側から細剣《レイピア》を鮮やかに引き抜いたアデライードが声を掛ける。
「は、はい!」と明らかに緊張を滲ませながらも、ウィルフレッドは一呼吸ついて瞳を光らせた。たちまち、片手に収まるほどだった小枝が、背丈を超す大杖へと形を変える。

「はじめてお見かけしたときも思いましたけれど、ウィルさんの杖、おっきいですわねー。鈍器として使われるのですかー?」
「えーっと、いやあ……その……」
「ちょ、グウェン。杖で殴るとか、発想こわすぎ。あれで刺すんだって、新入り言ってたじゃん。ね?」
「言ってません! ちゃんと実演じゃないですか! これは、こうやって……」
「――なあ、姉貴」

 ウィルフレッドの緊張を解そうと画策している先輩二人を微笑ましく眺めていたヴァヴァリアの横から、フルヴィオが声を掛けてくる。目を合わせると、弟の眼差しがいつになく真剣味を帯びていて、つい「どうかしたのですか」と声が硬くなってしまった。
 弟がこんな目をするのは珍しい。そういうときは決まって、譲れない決意を秘めているときだ。しかも、その決意はたいてい――、

「後方から見学しててくれねぇか。ゴーグルのズームを使ぃや、狩りはよく見えるし――」
「――嫌です」
「姉貴……」
「わたしがただ、興味本位で狩りの様子を見学にきたと思いますか、フルヴィオ」
「いいや。ただの狩りなら、おふくろと何回も行ったしな」
「ええ。ついでに貴方のピンチを何回か助けもしましたし」
「……それはもういいだろ」

 リーダーではなく、幼いときから見慣れた不貞腐れ顔をする弟に愛おしさが込み上げてくる。

「フルヴィオ。わたしは、自分の目に焼き付けておきたいのです。草葬という体《てい》のいい衣を纏った、王国が背負った責の本質を。ただ貴方がた狩人に押し付けるのではなく、王国を継ぐ者として、その責を共に背負うために」
「それ、親父が聞いたら、なんて顔すんだろな」
「通信は切っているのでしょう?」

 言い返したヴァヴァリアにフルヴィオが小さく鼻を鳴らす。それは不満からというより、隠れて仕掛けたいたずらが巧く動いたときのような、してやったりという反骨と自慢の意だ。

「オレが言えた義理じゃねぇが……姉貴。その在り方は、辛ぇぞ?」
「よいのです。ラクリキアに拾われたのが運命《さだめ》だというのなら、その運命を全うすることもまた、わたしの責」
「それは言わない約束だろ! 姉貴はオレの姉貴に違いねぇんだ――」
「――それに」

 仲間たちの視線が集まることにも躊躇わず、フルヴィオが強い怒気を露わにする。その一途な想いが嬉しくて、大地の匂いを含んだ弟の大きな体を抱きしめたくなるが、今は我慢だ。代わりに、陽に灼けた頬へ触れて、

「きょうは弟の晴れ舞台。そんな一大事を遠目に見るだけの姉が、どこにいるというのです」
「……やれやれ。姉貴にゃ敵わねぇよ」

 後頭部を搔いたフルヴィオに背を向け、ヴァヴァリアは仲間たちに向きなおった。全員が身支度を調え、いつでも発てる気合いがこちらにも伝わってくる。

「実りある狩りとなることを祈ります。わたしたちも彼らも、いずれ母なる大地へ還る身。送る者としての責務を果たすことを期待します。――共に還らんことを」
「「「共に還らんことを!!!」」」
 唱和した狩人たちの声が、月夜の森へ広がっていく。
「よし、出発だ。スベニャ、先行してくれ」
「了解」

 リーダーの指示を受け、小柄な斥候の姿が瞬く間に樹下へ消えていく。フルヴィオが後に続き、「殿下の傍を離れるな」と双子に言い置いたベレンが駆け出す。
 今一度、ヴァヴァリアが空を振り仰ぐと、高く昇った満月が銀色の光を静々と大地へ落としていた。

 *   *   *

「――満月に還りし白き者、か」

 宵闇を煌々と照らし出す月を見上げ、男は独りごちた。その声音はひどく感傷的で、風貌を別にすれば、名月を嗜んでいるようにさえ聞こえる哀愁を漂わせていた。
 ――が、やはり男の風貌は、風流とは程遠い。
 夜そのものを纏ったような漆黒のフード。目深に羽織ったそれの裾を彩るは、古代に失われて久しい文字で綴られた模様。例えその意味が理解できずとも、見た者に本能的な怖れの心を抱かせる意匠だった。
 さらに男をひときわ、禍々しく魅せるはその広い背に背負われた二対の大剣。十字を描き交錯するその二つの凶器は刃が波打ち、武器として些か実用に欠けて見える。が、幅広の闇に沈む刃身は妙に男と一体化した印象を与える。まるで、男のために鋳たれたような大剣だった。
 外界から隔絶された源狼域にあって、なお男の姿は異様。
 ――その溢れ出る魔性の気配を、いち早く察知したのは大自然だった。

「――」

 男の背後、常人ならば決して気配を気取られない巨樹の影から、一頭の肉食獣が駆け出していく。
 闇に、黄金色に浮かぶ双眸が、異能《ユニーカ》を顕現させた。
 それは圧縮された、風の刃。
 無形の圧として殺到するその威力は、ヒトが行使するそれより遙かに強い。少し前、ここから離れた地点で〈狼王の乳牙〉の青年が行使した風の異能がそよ風に思える違いだった。
 そうして、源狼域での使用を禁じられている自動車並みの巨躯が、分厚い肉球で足音を消し去り、男の背後へ迫った。
 危害を加えられない限り、人を襲うことのない白銀の毛皮を纏う巨獣。それが今、短剣にも匹敵する牙を剥き出し、森に姿を現したを排除せんと跳躍する。
 コレの存在を、許してはならない。コレは、森羅万象あらゆる生きとし生けるものにとっての脅威。
 そのような大自然の意志を宿し、白銀の獣は駆ける。
 真っ先に風の刃が男を両断し、刈り取れきれなかった命を己の牙で終わらせる。――はずだった。

「――痛ましいことだ」

 自分の身に何が起こったのか、最期まで白銀の獣が知ることはなかった。獣が最後に視覚したものは、断ち切られた己の胴と、やはり禍々しい災厄の声だった。

「そう思わないか。――白狼の守護者」

 片振りの大剣をゆっくりと背に戻し、男が湿った地面へ片膝を突く。節くれ立った指が散った血溜まりに浸され、湯気を上げる。が、男は意に介するでもなく、焼けた指先を慈しむような仕草で撫で回した。

「茶番の終わりは、近い」

 再び男が独りごち、巨体を立ち上がらせる。
 刹那、吹き抜けた風が、男のフードをはためかせた。
 白濁した左目が歪み、爛々と黄金に輝く右目が二重の環を虹彩に描き出す。
 次の瞬間、男の姿は跡形もなく消え去っていた。
 森に遺されたのは、永遠の驚愕を眼に宿したまま息絶えた、白銀の狼の遺骸。
 その毛皮を穢すように、赤黒い血が大地へ染み渡る。

 *   *   *

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