レーヌ・ルーヴと密約の王冠

若島まつ

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74 星を呑む狼と太陽 - Wolfsgrube -

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 ギエリ城は肌を刺すような寒気の中、暗い朝を迎えた。
 クインとビルギッテの行方はわからないまま、イェルクの氷河のような憤怒と、彼に怯える諸侯の不安だけが城を包んでいる。
 臣下たちは戴冠式を延期にすべきだと進言したが、イェルクにその選択肢はない。
「こちらから探さずとも向こうから現れる」
 斥候の情報によれば、ルキウス・アストルの軍勢は、ルースからオルデンに進軍して三日が経っている。
 かつてオルフィニナが女公として統治していたオルデンには、エマンシュナの代官ルノーが留まっていたが、ギエリの政変を機にルノーはルースへ逃れ、その後はイェルクの臣下が領主代理としてこの地を管理していた。
 が、エマンシュナの軍勢は戦闘もなくオルデンへ入り、イェルクの臣下を捕縛した。
 オルフィニナに心酔しているオルデンの領民がその夫であるルキウスの軍に味方したことは、疑いようがない。
 戴冠式の混乱に乗じて彼らが王都まで進軍してくる可能性も大いに有り得る。それを阻止するために、イェルクは自らの軍を割いてオルデンへ向かわせた。
 戴冠式が終わって女王の名の下に攻撃命令が下されれば、オルデンもルース共々攻撃の対象にし、粛清の後に統治下に置けばよい。
(戴冠式は誰にも邪魔させない)
 王国の影にイェルク・ゾルガがいることを、証明すべき時だ。

 オルフィニナは、衣装部屋にいる。歴代の王妃が使用していたものと同じ部屋で、その大部分はイェルクがオルフィニナのためにかき集めてきたドレスと装飾品で占領されていた。
 スヴァンヒルドが全くオルフィニナ好みではない前時代的なコルセットをきつく締めるのを鏡越しに眺めながら、オルフィニナは唇を開いた。
「……あなたは、イェルクを愛しているのだな」
 この数日、彼女と過ごして理解した数少ない事柄のひとつが、それだ。この表情の少ない女がオルフィニナに発する敵意やイェルクに向ける眼差しは、深い愛を示している。以前のオルフィニナなら、その微かな情熱の気配を感じ取ることができなかっただろう。が、今は違う。愛し、心乱されることを知ったからだ。
「あの方はわたくしのすべてです」
 スヴァンヒルドは目線を下げたまま、コルセットの紐を結び終えて淡々と言った。
「こんな仕打ちを受けてもなお、変わらないのか」
「仕打ちとは言わないわ」
 スヴァンヒルドの声色が変わった。
「旦那さまは必要なことをなさっているだけ。どんなことであれわたくしが役に立つのなら本望です。旦那さまの幸せがわたくしの幸せですもの」
「それではあなたは生涯幸せになれない」
 バサ!と頭から留め具の外されたドレスを被らされた。黙って着ろということらしい。
 しかし、オルフィニナはドレスの広い袖に腕を通しながらなおも続けた。
「そばにいるなら知っているだろう。高貴な女を手に入れ、地位を手に入れ、名声を手に入れ、今度は女王と王国を手に入れようとしている。だが、その後は?スヴァンヒルド。何を手に入れようが、イェルクの心が満たされることは永遠にない。暴力で壊した秩序の上に、幸せなど存在しない。あなたはあなたの人生に目を向けるべきだ」
 スヴァンヒルドは黙したままドレスの背中の留め具をキビキビと留め始めた。
「……姿見の前にお座りになってください。お化粧いたしますから」
 この時、わらわらと五人の女中たちが現れて甲斐甲斐しくオルフィニナの髪を梳き、白粉や紅などの化粧品をサイドテーブルに広げ始めた。
 これ以上の会話は不可能だ。彼女は既に、自分の道を定めている。
 オルフィニナは胃のあたりにザワザワと込み上げる不安を奥歯で噛み殺し、古い時代に描かれた王妃の肖像と同じような姿に変えられていく鏡の中の蒼白い顔の女を見た。
 この時、ふと一人の小柄な女中に目が行った。
(……ん?)
 女中もチラリとこちらを見た。
 頬に丸みのある可愛らしい顔は、間違いない。スリーズだ。
 クインやベルンシュタインの手引きで城に入り込んだのだろう。スリーズがここまで近くに来たということは、他の仲間も潜入に成功しているはずだ。危険な場所に大切な侍女を招き入れた仲間たちに腹を立てるべきかもしれない。が、張り詰めていたオルフィニナの心が羽のように軽くなった。
 スリーズは櫛を持って鏡越しににっこりと笑いかけ、オルフィニナの髪をいつもの何でもない朝のように梳きはじめた。「女王陛下の侍女はわたしだけです」と、その勝ち気な目がいじらしく訴えかけてくるようだ。
 オルフィニナは笑い出しそうになるのを堪え、「あなたの好みに任せる」とアミラ語で言った。
 スリーズはオルフィニナと過ごす短い時間の中で、簡単なアミラ語なら理解できる程度になっている。
「明日のドレスはわたしがお選びしてもよろしいですか?」
 スリーズは髪を結いながら囁いた。
「もちろんだ」
 ギエリに来て初めて、オルフィニナは息ができたような気がした。

 灰色のギエリの空に太鼓の音が響き、街中に登城した貴族たちの騎馬兵や王城の警備兵でごった返す物々しい雰囲気の中、戴冠式は始まった。
 ギエリ城の大広間には、大勢の貴族たちが詰め寄せている。大広間の一番奥に母后ミリセントが立ち、本来なら王と王妃が鎮座すべきふたつの玉座のうちの片方には、国王のように貂のマントを肩から掛けたイェルクが座っている。
 一部の田舎から出てきた貴族は王都で何が起きているかも知らずに王城へ馳せ参じたが、この異様な光景を目の当たりにして重大な変事が起きていることを悟った。
 オオカミの紋章が縫い取られたドレクセンの旗が見下ろす中、大広間の人々は新たな女王を迎えるために道を空けた。
 オルフィニナは、イェルクと揃いの貂のマントをたなびかせ、大広間の石床に敷かれた緋色の絨毯の上を歩んだ。
(不吉な色だ)
 血の色にも、落日の色にも似ている。
 女王を迎えるためにイェルクが立ち上がり、オルフィニナは典礼に従って、王冠を待つべく玉座の前で膝をついた。
 母后ミリセントは、オルフィニナの記憶にあるよりもひどく痩せていた。喪服のような黒のドレスを纏っているのは、亡き前王への哀悼というよりはむしろ、イェルクへの反抗のつもりかもしれない。
 ミリセントが神官のように厳かな所作で王冠を台座から取り上げ、イェルクが君主よりも君主らしい厳かさでそれを受け取ろうと彼女の前に歩み出たとき、オルフィニナの耳には確かに聞こえた。
 ――オオカミの遠吠えだ。
 オルフィニナは立ち上がり、大広間の諸侯をぐるりと見回した。
「女王陛下、頭を低くなされよ」
 イェルクが穏やかな声色で言った。目には、怒りが見える。
「何をする気だ」
 オルフィニナは黙殺した。
「わたしはアミラ女王オルフィニナ・ディートリケ・ドレクセンである」
 声は粛然と響き、琥珀色の目には強い光が躍っている。
「幸多き王国をつくらんと努めた父エギノルフ王の遺志に従い、わたしは自らの手で王冠を被り、自らの手でそなたら民を護ると、この身命に賭して誓う」
 高らかな女王の宣言に、大広間は沸いた。歓声と拍手が響き、イェルクの怒りの唸り声を掻き消した。
 オルフィニナは誇らしげに微笑するミリセントから王冠を受け取り、自らの頭に載せて、喝采に応えた。
「お前は今、家族を殺したぞ」
 イェルクがオルフィニナに囁いた。
「いや。お前の捕虜はもういない」
 オルフィニナは相変わらず視線を諸侯に向けながら、表情を変えずに言った。
「そんなはずはない」
「あるさ、ゾルガ将軍」
 オルフィニナの冷然とした笑みが、イェルクにひとつの鮮烈な仮説を発想させた。
 クインとビルギッテが姿を消した後、捕虜が逃げていないことを確認させたが、数が増えていたかどうかは確かめていない。
 監禁部屋を出た後、彼らが牢に入り込んで捕虜に紛れ、時を待っていたとすれば――
「オルフィニナ…!」
 イェルクはこめかみに青筋を立てて唸った。
「初めから彼らを解放する気がないことなど分かっていたよ。残念だ」
「捕虜を逃がしたところでここにお前の兵はないぞ。すぐにわたしの兵が逃亡者を捕らえ、みな殺す」
 オルフィニナは「女王陛下万歳」の声に手を振って応えながら、冷たい目でイェルクを一瞥した。
「その前にわたしたちがお前をこの場で断罪する」
 この時、喝采を送る諸侯の中から進み出てきた男がいた。男は毛皮の外套を着て、フードを被っている。
「俺の女王陛下」
 男がフードを外した瞬間、オルフィニナは太陽の光線を目に浴びたような心地がした。
 この群衆の中にあっても、その姿は輝いている。
「ステファン・ルキウス・テオドリック・レオネ・エヴァン・アストル――わたしの夫」
 オルフィニナが伸ばした手をルキウスが掴み、甲に口付けをした。エマンシュナの王太子との婚姻が事実であったことをこの場で知った者も多い。大広間には驚きの声が広がった。
「麗しい妻よ。どうか俺に、図々しくも君の隣に我が物顔で居座っているそいつを一発ぶん殴る許しをくれ」
「許す」
 と言い終わらぬうちに、ルキウスとイェルクが同時に動いた。イェルクがルキウスの首に手をかけるよりも、ルキウスの拳がイェルクの頬を打つ方が僅かに速かった。イェルクは床に身体を打ち付けられた瞬間、咆哮を上げた。
「売国奴!この女は国王の指環を持っていない!売国奴だ!女王などではない!神聖なる王家の指環がなくては戴冠など無効だ!その上この女は王族でありながら敵と寝た!みな武器を持て!逆賊を捕らえ、王国を守るのだ!」
 諸侯のどよめきが、波のように広がって大広間を包んだ。イェルクの兵たちが剣を抜こうとした時、ルキウスが叫んだ。
「指環はある!」
 この瞬間、大広間の扉が放たれた。
 現れたのは、堂々たる真珠色の装いに身を包んだ王太子イゾルフ・ドレクセンだ。腕を天に突き上げるようにまっすぐ伸ばし、琥珀を呑み込もうとするオオカミの指環を高く掲げている。
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