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62 娘あるいは女王 - la fille ou la Reine -

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 暗雲が、立ちこめている。
 捜索の甲斐無くイェルク・ゾルガを捕らえることは叶わず、一週間が過ぎようとしていた。生きていれば、今頃はギエリに帰還しているだろう。
 ギエリを脱したイゾルフとビルギッテに関するその後の報せもなく、安否を知る術がない。
 加えて、近日中に開かれることになった評議会で、ルキウスの王太子たる正統性が問われることになっている。ヴァレルが議会の招集を発案し、国王がそれを認めたためだ。ここでヴァレルの主張通り、ルキウスがレオニード王の子でないという根拠が議会でも認められてしまえば、ルキウスの廃嫡は決定的となる。
 どれもオルフィニナの胸をモヤモヤと煩わせ、睡眠時間を削るのに十分な悪しき種だ。
 唯一この一週間で起きた良い出来事と言えば、バルタザルが歩けるまでに回復したことだ。
 バルタザルが杖をつきながら主人の執務室へ現れた時、バルタザルが謝罪の言葉を発する前に、ルキウスが口を開いた。
「過信したな。俺たち全員」
 ルキウスには、バルタザルの心のうちは分かっている。全て自分の失態だと恥じているのだ。しかし、それは違う。
「殿下の身代わりとしては、役に立たなくなりました。誠に申し訳――」
 チ。と、ルキウスはバルタザルの言葉を舌打ちで遮った。
「そういうことを言うから見舞いに行かなかったんだ。君の父親や政府に何と言われているか知らないが、俺が君を身代わりにしようとしたことがあったか?」
「…いえ、殿下」
 バルタザルは奥歯を噛んだ。目の奥が熱くなるの堪えるためだ。意識を取り戻す前に、毎晩ルキウスが様子を見に来ていたことを知っている。
 子供の頃から、有事の時には髪の色や背格好が似ている自分がルキウスの影武者となって死ぬように言われて育ってきた。ルキウスがそれを拒絶し続けていることも、バルタザルは知っている。
 自分の代わりに誰かが死ぬことに耐えられないのだ。そのくせ、ルキウスはバルタザルに対して臣下の中で一番に信頼を寄せ、そばに置き続けている。決して態度には出さないが、一種の友情のようなものが、この主従にはある。
「幸い俺は評議会の準備でしばらく城をあける予定がない。君も休め」
 ルキウスは冷淡な調子で言い、扉が閉まるのを見守った。
 その直後、ふふ、と、こちらに背を向けているソファが微かな声で笑った。
 ルキウスがそちらへ視線を移すと、オルフィニナが背もたれの向こうから顔を覗かせている。
「もう少し優しい言葉を掛けてやればいいのに」
「なんで隠れたんだ?」
 ルキウスはばつが悪そうに眉を寄せた。
「主従の会話に水を差すほど無粋じゃないよ」
 オルフィニナはソファにまっすぐ座り直して赤い髪を肩から胸元へ流すように梳いて整え、手元の書面に視線を落とした。
「それは君たち主従の会話にしばしば水を差す無粋者への牽制か?」
 ルキウスは甘い声で言い、狩りをする獣のようにオルフィニナへ近づいて、その背後で身を屈め、露わになったうなじに唇で触れた。
「はぐらかしても駄目」
 オルフィニナは柔らかく笑って、後ろから巻き付いてきたルキウスの腕をそっとほどいた。
「あの真新しい杖。腕を支える部分から脚の長さまでバルタザルにぴったりだ。あなたが腕利きの技術者に細かく注文を付けて作らせたんだろう」
 返事はない。無言の肯定だ。
「それほど気に掛けていることを、もっと分かりやすく伝えても良いのに」
 ルキウスは面白くなさそうに口を開いた。
「…あいつが望んだんだ。俺たちは友人ではないし、友人になることはないと。持ち主は道具に対して必要以上に愛着を持つべきじゃないと言ったのも、バルタザルだ」
「なるほど」
 オルフィニナはそう言って、ちょっと気分を害したように思い出を語るルキウスに笑いかけた。
 子供の頃には、同年代のバルタザルと友人として接したかった時期があったかもしれない。
 アドラー家で養女として育ったオルフィニナにも、気持ちはわかる。アドラー一家は家族のように振る舞ってくれるが、王の娘であるオルフィニナは本物の家族にはなれない。
 毎日そばにいようが、最も信頼する相手であろうが、国王になる少年と従者は友人にはなれない。時にはそういう相手に対して非情でなければならない。
 それは、真っ暗な大海原を一人で泳ぐように孤独なことだ。
 ここのところ、ルキウスはよく心許なげな顔をオルフィニナに見せる。
 廃嫡の危機というよりも、父親にお前は息子ではないと突きつけられること自体を恐れているようだった。ヴァレルが出自について口にしてからと言うもの、ルキウスは父親との対面を避けている。
(無理もない)
 顔を合わせれば何故ルキウスは自分の子だと断言して疑惑を一蹴しないのかと、詰ってしまいそうなのだろう。国王が議会の要請を簡単に棄却できないことは理解していても、父親として味方でいてほしいという期待を裏切られたような気分は、強くわだかまっているに違いなかった。
 この夜も霧の晴れない森を進むような薄暗さで、更けた。

 翌夕、オルフィニナが王城で晩餐を共にしたのは、レオニード王だった。「外交上の問題について話し合いたい」というアミラ女王としての申し入れを、レオニードは二つ返事で快諾した。
 急な申し入れにも関わらず、絢爛な美術品で装飾された最も格式高い広間に、ふたりの君主のための食卓が用意された。立ち入るのは給仕係のみで、互いに側近の同席はない。
「女性に誘わせてしまうとは、わたしの感性が老いてしまったようだ」
 レオニード王は赤いワインの入ったグラスを掲げ、オルフィニナにいたずらっぽくウインクをして見せた。形としては国家君主同士の会食だから、二人とも盛装だ。王は飾緒と勲章で飾られた軍服を纏い、女王は髪を寸分の狂いもなく左右対称に結い、深いグリーンの夜会用ドレスに身を包んで、円卓の対面に座っている。
「エマンシュナの栄光とアミラの繁栄に」
 オルフィニナは微笑んでグラスを掲げた。
 前菜のサラダとジャガイモのポタージュが揃った後、レオニード王が軽快に言った。
「今の君は義理の娘かな。それとも女王陛下かい?」
「分ける必要があるとすれば、アミラ王」
 オルフィニナはにっこりと笑み、フォークに蒸したアーティチョークを刺して口に運んだ。レオニード王は微笑みを崩さず、自分も前菜を楽しみながら、オルフィニナの言葉を待っている。
 女王という立場を強調したのは、義理の娘としてはあまりに聞きづらいことを問わなければならないからだ。
「レオニード王、率直に問いたい。あなたとダフネ王妃に初夜があったかどうか」
 レオニードは唇から僅かに笑みを消し、サラダを嚥下したあと、口直しをするようにワインを口に含んだ。
「晩餐の話題としては、なかなか刺激的だね」
「無礼は承知だ。だが、知る必要がある」
 オルフィニナは毅然とした態度でキッパリと言った。王冠を持っていなくても、女王として母国の地を踏んでいなかったとしても、自分は女王だ。この場では、レオニード王と対等でいなければならない。
「愛していたかとは訊かないところが、君らしいな」
 レオニード王は軽快に笑ったあと、顔から完全に笑みを消した。
 オルフィニナは、その顔に見入った。表情の端々に、ルキウスの面影がある。が、もしルキウスがジバルの子だったとしても、それは不思議ではない。レオニードとジバルは従兄弟同士だから、どちらに転ぼうが、血縁であることには変わりないのだ。同時にそれは、遺伝的特徴が二人の親子関係の証明になり得ないことを示している。近頃目にした肖像画のジバルもまた、金色の髪をしていた。黒髪のヴァレルよりも寧ろ、レオニード王と兄弟だと言われた方がしっくりくるほどに、‘アストル的’な容姿を持っていたのだ。
「わたしからもひとつ聞きたい、オルフィニナ女王」
 レオニード王が言った。
「ステファン・ルキウスがわたしの子でなかったとしたら、君の愛は息子から離れるか」
 愛。――と聞いて、オルフィニナはしばらく言葉が出てこなかった。
「わたしは――」
 唇が重い。どうしてこんな気分になるのか、考えたくない。しかし、ひとつ明確に言葉にできることはある。
「ルキウスの価値を血筋で判断したことはない」
 これだけは確かだ。きっかけは互いの苦しい立場によるものだったことは間違いないが、それでも相手がルキウスでなければこんな馬鹿げた密約に同意しなかっただろうという確信がある。
「わたしもだよ」
 レオニード王はやさしい笑みを浮かべた。父親の顔だ。
「結論から言えば、わたしはあの子は間違いなく自分の子だと思っている。ダフネとはきちんと初夜の儀も行ったし、義務的にだが一度ではなかった。だが、重臣たちはそれだけでは納得するまい。ダフネには家族として情を感じていたが、男女の愛かと問われれば否と答えるだろう。他に愛する男ができて関係を持ったとしても、わたしは咎められる立場にない。愛そうと努力をしなかったからな。だが彼女の死は…不本意だった。申し訳なかったとも思う」
 遠い昔の思い出話をするように、レオニード王は語った。だがそこに深い悲しみがあるかと言えば、オルフィニナにはそうとは思えなかった。
(その程度なのだ)
 と、オルフィニナは分析した。
 最初の王妃の死は長いあいだ後添えを選べぬほどにレオニード王を打ちのめしたが、二番目の王妃の死は、早々に思い出話になっている。不貞を疑いながら、怒りもしない。それは慈悲のようであって、残酷なことだ。妻としてのダフネにも、王妃としての彼女にも、それほど関心がなかったという証しに他ならないからだ。
「わたしはひどい夫かな」
 レオニード王はオルフィニナの心の内を察したように苦笑した。オルフィニナも思わずフと苦笑混じりの吐息を漏らした。
「一般論で言えば、そうかもしれない。だが国王としては寛大すぎるほどだ。不貞を働いた王妃は、断罪の上追放されてもおかしくない。一昔前なら死罪も有り得た」
「そういう見方もあるね。次に王になる者がわたしよりも向いていると良いが」
 レオニード王はそう言って、目尻の皺を深くした。
 食えない男だ。
 オルフィニナは思った。どういう話をしたくてこの場を用意させたか、この男にはお見通しなのだ。だからわざわざ核心を突かせようとしてくる。
 それなら、乗るまでだ。
「レオニード王、あなたはどういう狙いがあってルキウスに味方しない?」
 オルフィニナはレオニード王の目をまっすぐに見て言った。
「ヴァレルが王になれば、叔父のフレデガルをアミラ王として認めるだろう。わたしは失脚する。フレデガルとヴァレルは今でこそ手を組んでいるが、フレデガルはこの国を併呑することを目標にしている。必ず同盟は破れ、再び千年の戦が起きる。ヴァレルを推すべきではない」
「尤もだ、オルフィニナ女王。だがね――」
 レオニード王はちょうど給仕が運んできたメインディッシュの肉料理をナイフで切り分けながら、一瞬だけ、ひどく複雑そうな顔を見せた。オルフィニナがワインに口を付けながらじっと観察していることに気づきながら、一切気にしていない。自らを被検体として提供することを、楽しんでいるようにさえ見える。
「わたしのステファンが王になったとして、臣下はついてくるか?議会はどうだ?あの子は母親の死後大いに荒れた。その影響が、まだ濃く残っているよ。それにまだ若い。心許ないほどに。最近はよくやってるようだし、評判も上々だ。君のお陰もあるのだろう。だが、まだ足りない。英雄という壁を越えるには」
 オルフィニナは小さく頷いて、自分も肉料理にナイフを入れた。ワインで煮込んだソースが肉の断面に落ち、少し残った赤身の部分からうっすらと血の色をした水分が恨みがましくにじみ出ている。
「あなたが本当に息子を愛していることは分かった」
 オルフィニナはそれだけ言って、肉を口に運んだ。口に入れた瞬間に分かる。これはエマンシュナでも最高位の牛だ。
「息子を愛する者も、愛しているよ。我が娘」
 レオニードはやさしい父親の口調で言い、オルフィニナに柔らかく笑いかけた。
 オルフィニナは思わず苦笑した。
 これは、試されているのだ。王の後ろ盾がなくとも勝って見せろと、そう言っているのだろう。

 翌日、レグルス城へ突然の訪問者があった。
 まだ十代半ばの少年で、髪は赤い。供連れはなく、一人だった。
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