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39 火蓋 - l'ouverture -

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 間諜が紛れ込んでいる。――
 と、オルフィニナがルキウスに報をもたらしたのは、ルキウスが何人目かの紳士とダンスを終えた彼女を夜の中庭に誘い出した時だった。
「いいね。予想通りだ」
 ステンドグラスのランタンに彩られた石畳を踏み、ルキウスは不適な笑みを浮かべた。
「あなたが間諜を泳がせるよう指示したな」
 コルネール家の優秀な衛兵や存外抜け目のないバルタザルが、紛れ込んだ間諜を見逃すはずがない。オルフィニナが苦笑すると、ルキウスは機嫌よさそうに答えた。
「そうだ」
「エデンがネズミに張り付いてる。こそこそ逃げ出そうとするようなら噛み殺すだろうが、その必要は無いかな」
「ああ、ない。君に不都合がないなら」
 オルフィニナは離れたところに控えているクインに指で合図を出した。間諜のそばをうろついているエデンを引き離すための合図だ。クインは無言で頷き、大広間へ戻った。
「間諜はわたしが指輪を持っていることを報告するだろうな」
「そうだな」
 ルキウスはオルフィニナの指に自分の指を絡め、口元へ持ち上げて、その親指にキスをした。唇が触れた場所には、琥珀を飲み込もうとする狼の指輪が輝いている。
「不安?」
「いや、ちょうどいい。これから狼の群れがわたしの命を取りに来るぞ。あなたも狙われる」
「その狼たちは狙っているのが狼と獅子の群れだと知っているのかな」
 ルキウスの目が剣呑に光った。この上なく愉しそうだ。
「油断するな。現状フレデガルはベルンシュタインを使える立場にないが、王位を僭称した結果、それに従う者が現れないとも限らない。ベルンシュタインの狼は手強いぞ」
「ベルンシュタインは家族だろ。そんな彼らが君を狙うことなんて有り得るのか」
 ルキウスは眉を顰めた。本当の家族のようにベルンシュタインを大切に思っているオルフィニナの命を狙うなど、道理に外れている。
「多くの者が命令があれば家族でも殺せるよう訓練を受けてる。ひとたび王命となれば頭領のルッツも覆せない。だがオルデンのベルンシュタインは特別だ。みなわたしに忠義を尽くしてくれる。王都のベルンシュタインの動向もそこから探れるだろう」
「楽しくなってきたな」
 ルキウスは目を細めて屈み、オルフィニナの唇に触れるだけのキスをした。
「俺を信じる?ニナ」
 オルフィニナはルキウスの緑色の目を覗き込み、まっすぐな目で言った。
「時と場合による」
「ふ。君のそういうところ――」
 失笑したルキウスに、オルフィニナは首を傾げて見せた。
「何だ」
「いや、征服したい気持ちにさせてくれるよな」
「言っている意味がよく分からない」
 ルキウスの目が夜闇に妖しい光を放った。意図せず身体の奥がゾクリと震え、目の前の男への警鐘を鳴らし始めた。ルキウスが捕食者の目をするときは、認めたくないが、大抵劣勢に立たされる。
 足を後ろへ引こうとした時、強く腰を抱かれて抱き寄せられた。ドレス越しに伝わる体温が、ひどく熱い。
「今夜は俺の寝室に来て」
 誘惑するような声色だ。耳の後ろがざわざわする。
「なぜ」
「わかってるくせに」
 ルキウスの髪が首筋をくすぐった。頭が肩に乗ってくると、なんだか立ち上がってじゃれついてくるエデンを相手にしているような気分になる。しかし、エデンは肩に頭を乗せたままゆっくりと顔をこちらに向けたりしないし、目に熱情を宿すこともない。
「なあ、今日何人の男と踊った?」
 首にルキウスの吐息が掛かる。じわりと上がった体温が伝わってしまうかもしれない。
「覚えていない」
「七人だ。ドニーズ公の令息に、マルセット公、ラブーシェの次男坊、デクロワ…」
「まさかわたしと踊った男の名を全て覚えてるのか」
 オルフィニナが呆れて言うと、ルキウスは片方の眉を吊り上げて顎を引いた。
「俺が君に触れる男を見過ごすはずがないだろ。社交上の必要さえなければ俺が君を独占していた」
「馬鹿な」
 としか、言えなかった。自分も数々の貴婦人と踊っていたのに、彼女たちの相手をしながら自分の婚約者が誰と踊っているか一人一人確認していたとは、一体その行動の動機はどこにあるというのか。
「そうだな」
 びく、と身体が震えた。ルキウスの指が首に付けられた痕を隠すチョーカーに触れ、そこから背中へ伝っている。
「だから、所構わずこういうことをしないでと、何度言ったらわかる」
 オルフィニナは身をよじったが、ルキウスの腕はオルフィニナの腰から離れる気配がない。
「何度言われても聞く気はない。他の男が君に触れたら、それ以上に俺が触れないと気が済まない」
 オルフィニナの胸に苛立ちに似た感情が湧いた。困惑と焦燥が混じったような類のものだ。
「あなたは一体、どういうつもりで――」
 その先は続けられなかった。唇を重ねられたからだ。
 柔らかい舌が唇をなぞって中へ入り込み、首筋に触れるルキウスの手から脈動が伝わってくる。
「ニナ、今夜は俺の部屋に」
「ん、わかったから――んん…」
 再び唇を塞がれ、オルフィニナは呻いた。押し付けられる胸を押し返そうとしていた手は広い肩を掴み、ルキウスのうなじに伸びようとしている。この気配を感じ取ったのか、ルキウスが唇を触れ合わせながら喉の奥で笑い、オルフィニナの頬に触れて唇を離した。機嫌がいい。
「ほら、君も俺を欲しがってる。所構わず何だって?」
「違う!あなたに話すことがあるから部屋に行くと言ったまでだ」
 顔が熱い。多分暗がりでも顔色が変わったのを隠せていないだろう。オルフィニナはフイとそっぽを向いたが、ルキウスが自分の肩に触れることは拒絶しなかった。

 同じ頃、クインは敷地内の最も暗い場所にいる。木の陰が闇をもっと暗くし、月の影さえも覆い隠す場所だ。クインのブーツが地面に倒れた男の外套を踏んでいる。その細い喉元ではエデンが牙を剥き、男が身動きした瞬間に牙を突き立てるのを待っている。生温かいオオカミの息が頸動脈に一番近い皮膚を湿らせる感覚は、生きた心地さえ奪うだろう。
「イェルク・ゾルガの配下だな」
 クインが恐ろしいほど冷たい声で言った。間諜は見事にどこぞの良家の子息のように装っていたが、ベルンシュタインの後継者であるクインには、その足運びや目つきが同業者のものであることは明白だった。
 だが、この男はベルンシュタインではない。ベルンシュタインであれば、クインがこの男の顔を知らないはずがない。その上、何よりも、ベルンシュタインにしては潜入がお粗末だ。恐らく、新たに誰かが諜者としてベルンシュタイン式の教育を施したのだろう。フレデガルに近しい者のうちそんなことが可能なのは、イェルクしかいない。出来が悪いとまでは言えないが、今回はどう考えても相手が悪い。新米には荷が重すぎる。
 間諜は黒い帽子のつばの下で、暗い目に恐怖を見せた。
「俺が誰か知ってるか」
 クインが腰から短剣を抜いた。鞘から解き放たれた剣は一回転しながら低く弧を描いて男の脚の間に突き刺さった。あと一センチもあれば男の局部を貫いていただろう。男は今にも声をあげそうな様子で息を呑んだが、辛うじて悲鳴は堪えた。エデンの牙が喉を狙っているからだ。脂汗で顔が溶けそうなほど濡れている。
「それをイェルクに持っていけ。今日見聞きしたことは全てお前の主人に報告しろ。来い、エデン」
 エデンが呼びかけに応じて間諜の喉から離れ、グルグルと威嚇しながら後退した。
 金色の目が、夜闇にギラギラと光っている。
「指環を取りに来るつもりなら、自分で来いと伝えておけ」
 クインは確信した。もはやイェルクは信用できない。フレデガルのために動いていることは、明白だ。
 間諜がエデンに追い立てられるように城の外へ逃げて行った後、真っ先に考えたのは、オルフィニナのことだ。
(信じるか)
 六年以上連絡を断っているにも関わらず、オルフィニナはイェルクを信頼している。
 八つ年上の兄イェルクは、少年の頃から物静かで思慮深く、剣術や暗殺術の分野では天賦の才を持っていた。人望篤く、自分にも他人にも厳しく、常に公平で、正義感が強い男だ。ルッツにより禁じられていたオルフィニナへの訓練を行ったのも、イェルクだった。
 イェルクはたびたび「アドラーの姓を名乗るのなら、養女だろうが甘やかすつもりはない」と言っていた。当時は王の娘だと知らず、手荒な稽古を付けていたが、きっと知っていたとしても同じことをしただろうという確信がある。
 オルフィニナは、イェルクのそういう公平さをその性根の誠実さの表れだと思っている。
 が、クインの意見は別だ。イェルクには、自分の軍隊を欲しがっているのではないかと思う節があった。ベルンシュタインの後継者という肩書きを棄ててわざわざフレデガルの妻の実家であるゾルガ伯爵家へ婿入りしたことも、その疑いを信憑性のあるものにしている。ゾルガ一門はアミラ王国において最も古い軍人の家系の一つで、アミラ王府直属よりも大きな規模の軍隊を持ち、優秀な指揮官を多く従えている。
 この家の当主がフレデガルの妻ヒルデガルトの兄であり、イェルクの妻スヴァンヒルドの父であるカジミール・ゾルガだ。カジミールは、婿に迎えて間もないイェルクを自らの後継者として指名し、ゾルガの軍を率いる指揮官に据えた。
 王国一の軍を自らのものとすることが狙いだったとすれば、オルフィニナに訓練を行ったことも、準備の一つに過ぎなかったのかもしれない。父親を欺き、ベルンシュタインという影の組織の呪縛から逃れるための、策略だったのではないか。
 オルフィニナの訓練を秘密裏に始めた時、イェルクは十六歳だった。果たしてそんな時分から果てしない野心を抱えていたとはクインにも考えづらいが、可能性はある。
 イェルクがゾルガ家に婿入りしたのは、十年前――オルフィニナがドレクセン王家に迎えられてから間も無くのことだ。
(何か裏がある)
 クインには、そういう疑念がある。
(だが、ニナは信じるか)
 オルフィニナは養父のルッツと同じくらいにイェルクを師と仰ぎ、尊敬している。
 しかし、もしもクインの疑念が現実のものだとしたら、今夜の報告を受けた後、イェルクは行動を起こすだろう。
 オルフィニナにとっては酷薄な警告を発しなければならない。
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