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27 コルネールの城 - le château de Corner -
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コルネール家の居城は、ルドヴァンの中心地にある。城というよりも、屋敷という趣の強い建物だが、この富めるルドヴァンにおいて最も壮麗で、最も権威ある建物がこのコルネール城だ。アストル家がエマンシュナの王となるもっと前の時代から、コルネール一族はここに居城を築き、領民と共に生活してきた。建物自体は何度か基礎から造り直しているものの、先祖代々受け継いだこの場所は、変わらず一族の歴史を紡ぎ続けている。
現在の当主アルヴィーゼ・コルネールとその嫡子オクタヴィアン、更に当主の弟ユーグがそれぞれ騎乗してルドヴァンの広い馬車道を進み、彼らの案内に従ってルキウスとオルフィニナが、その後方にコルネール家の侍従や警備兵が従い、その後ろを王太子の三十余名の兵が、そして最後列をコルネールの警備兵が固めている。
「見事だ」
オルフィニナが感嘆したのは、鉄柵の門を越え、城の広大な敷地に馬の歩を進めたときのことだ。
石畳の歩道を行く人々を見守るように気儘に木々が生い茂り、低木は新緑の葉を纏い、そこかしこで春の暖気を待ちわびたように花の蕾が膨らみ始めている。一般的な庭園の整然とした美しさではなく、よく手入れされた小さな森のような趣がある庭園だ。水分をよく含んだ土と、陽光を浴びた草や葉の匂いに混じって、微かに甘やかな春の花の香りが空気中に舞っている。
「何か増やした?」
ルキウスは小さな白いつぼみをいくつもつけた低木を眺めて言った。庭園の奥の方に、等間隔に何本も植えられている。前回忍びでルドヴァンへ来た時は、慌ただしくしていたために気付かなかった。
アルヴィーゼは馬上で後ろを振り返り、誇らしげに笑んだ。
「イオネが――」
と、その妻の名を口にすると、その冷たく低い声が温かみを帯びる。
「ミルティーユを植えさせた」
「それはいい。季節で美しく移ろう目にも楽しい木だ」
オルフィニナは眉を開いた。オルフィニナもブルーベリーの木が好きだ。春に咲く小さな鈴のような花は愛らしく、夏には美味な果実がなり、秋から冬にかけては葉が紅く色づく。
「それだけじゃない。今度は養蜂を始める気だ」
アルヴィーゼが苦笑しながら言った。なるほどミツバチを呼ぶのには、ブルーベリーは最適だ。
「養蜂?ここで?」
ルキウスはおかしそうに訊いた。
「そうだ。ここで定着したら領内に養蜂場をいくつか作って好物の蜂蜜酒を作る気らしい」
「それを、まずは領主の城で試してるってことか?」
ルキウスは声を上げて笑い出した。一方、オルフィニナは大真面目に頷いて感心している。
「公爵夫人は先に自分で検証したいのだな。理に適ってる。農学や生物学に明るいのかな」
「専門は言語学だ。他の知識は付け焼き刃だと本人は言っているが、夫としての欲目を無しにしても深いところまで理解している。好奇心が人格を持ったような女だ」
アルヴィーゼは目を細めて隣を行く息子を見た。公子オクタヴィアンもまた、くすくす笑っている。弟のユーグが二人を振り返り、可笑しそうに眉を上げた。
「女公殿下はアミラ語をお話しになりますから、あれこれ聞きたがるでしょうね」
「ああ。先に断っておく。気分を害されないよう」
アルヴィーゼが言った。
「絶対そうだ。イオネは気難しいけど、君を好きになる。彼女にとって初めてのアミラ人だろうからね」
ルキウスが隣で馬を進めるオルフィニナに屈託ない笑顔を向けた。オルフィニナの見るところ、アルヴィーゼといる時のルキウスは、まるで普通の家庭の中にいるただの青年のようだ。それほど彼に気を許しているのだろう。
「とりわけマルス語を話すアミラ人は珍しかろう」
オルフィニナのこの言葉は、皮肉だ。初めて夕食を共にした時ルキウスに問い詰められたのが、アミラ人ながらマルス語を難なく話せることだった。閉鎖的なアミラでは、マルス語を難なく話せる人間は極めて稀だ。オルフィニナ自身も、なぜルッツが自分たちに徹底したマルス語教育を与えたのかは、未だに明確な答えを出せずにいる。
「そうだな。君は唯一無二だ」
ルキウスが柔らかい声色で言った。
この時、前方でアルヴィーゼと弟のユーグが意味ありげに目配せし合ったことには、二人とも気付かなかった。
広い庭園を十分ほど進んだところに、コルネール家の居城がある。
全体が白い石造りの壮麗な建物で、円筒形の塔を中心に尖塔を伴う城郭が左右対称に広がり、一見して装飾が少ないように見えるその城郭の細部には、緻密な彫刻や金の微細な装飾が施されている。
この居城の玄関口にある神殿のように白いアーチの下に、背筋を真っ直ぐに凛と立つ貴婦人がいた。胡桃色の髪をゆるく編んで後ろへまとめ、胸の下から軽やかな襞がゆったり広がる優美な藤色のドレスをまとっている。
この遠目からでも輝くように美しい貴婦人が、才媛と名高いルドヴァン公爵夫人イオネ・コルネールであることは、オルフィニナの目にも明白だ。
その傍らでは、公爵夫人と同じ髪の色をした三歳か四歳くらいの女の子が可愛らしい淡い桃色のドレスの柔らかい裾をヒラヒラさせてピョンピョン飛び跳ねていた。公爵夫人が女の子の手を優しく握って窘め、その後ろでコルネール家の使用人たちが彼女たちを微笑ましく見守っている。
「おとうさま!」
女の子が母親の手をパッと離してパタパタと駆け出すと、アルヴィーゼは馬を下りて娘を抱き止めた。
「こら、ニケ。殿下がたにご挨拶が先だろう」
イオネは夫と娘を横目で可笑しそうに眺めながら前へ進み出、馬から下りたルキウスとオルフィニナに恭しくお辞儀をした。
「王太子殿下、ようこそおいでくださいました。女公殿下――」
と、公爵夫人は見る者がみな息を呑むほど美しいスミレ色の目を見開いてオルフィニナの顔を見た。強い視線だ。
オルフィニナは一瞬、品定めされているのかと思ったが、すぐに違うと気付いた。これは、好奇心で輝く目だ。
「お会いするのを楽しみにしておりました」
それにしても、表情の少ない婦人だ。愛想笑いなど思いつきもしないような気位の高さが、どことなくこの貴婦人には窺える。それだけに、オルフィニナに会うのを楽しみにしていたという言葉は嘘ではないような気がした。耳触りがよいだけの世辞や社交辞令は、言わない質だろう。
「こちらこそ。ルドヴァン公爵夫人」
これも儀礼的な世辞ではない。探究心豊かなこの夫人に会うことを、ブルーベリーの木々を見てから自分でも驚くほど楽しみにしていた。
オルフィニナは美しい公爵夫人に男性同士が同等の者にするように手を差し出し、握手を求めた。
公爵夫人は冷徹そうなその顔に微かに柔らかな笑みを浮かべ、それに応じた。
握手を交わした後、公爵夫人の知識欲に満ちた視線が向かった先は、オルフィニナの横に行儀よく腰を下ろすエデンだ。
「あなたも」
イオネは白いオオカミに語りかけた。
「噂は聞いているわ、エデン」
エデンはむくりと腰を上げ、イオネの鼻に自分の長い鼻をくっつけて挨拶した。後ろに控える使用人や短い金髪の侍女らしき婦人がハラハラした様子で見守っているが、当のイオネは怖がる様子など微塵もなく、軽やかに笑い声を上げてエデンのふわふわした首を撫でた。
「礼儀正しいのね」
父親の腕から降りた小さな公女がおずおずと近づいてきて、大きな緑色の目をオルフィニナに向けた。
「ニケもエデンをよしよししていい?」
「いいよ、小さな公女どの」
オルフィニナがにっこり笑うと、公女ニケ・コルネールは母親とそっくりな口元を思い切り左右に引き伸ばした。
オルフィニナが隣に屈むと、「あっ」と小さな公女が頬を赤くし、片足を後ろに引いてお辞儀をした。忘れていた挨拶を思い出したのだ。
「ニケ・コルネールです。おはつにおめめにかかります」
オルフィニナはその拙い言動に心をくすぐられて、思わず破顔した。
「初めまして、公女ニケ・コルネール。わたしはオルフィニナ・ドレクセンだ」
オルフィニナは公女の小さな手を握って言った。
「なんてよぶの?」
オルフィニナはキョトンとして首を傾げた。一瞬の後、この小さな子が、長くて発音しにくいその名前を、言葉の拙い自分のような子供がどう呼んだらよいのかと言う意図で訊ねていることを理解すると、愛らしいくりくりの目をじっと向けてくるニケに向かって優しく目を細めた。
「ニナでいいよ」
「にてるね」
「そうだな。ニケと似ている」
公女ニケの緑色の目は、ルキウスやアルヴィーゼの持つ目の色とそっくりだ。これがアストルの血なのだろう。しかし、その好奇心に満ちた輝きは、間違いなく母親の公爵夫人から受け継いだものだ。
そのそばから馬の手綱を馬丁に渡したオクタヴィアンが近づいて来て、エデンの顔をワシャワシャと撫で回した。
「はは」
オルフィニナは快活に笑った。
「お前、忙しくなりそうだな。エデン」
エデンは金色の目でじっとオルフィニナを見上げ、目の上の筋肉をぴくりと動かした。ちょっと苦々しげな表情にも見える。
オオカミは忌み嫌われがちだが、コルネール家の人々にとってはそうでもないらしい。
コルネール家のもてなしは抜け目がなかった。
ルキウスには普段彼がルドヴァンに滞在するときに使う最も広い客間が用意され、麾下の兵たちには城下で最も格式高い宿が与えられた。彼らがルドヴァン滞在中に寛げるよう、領内、街の城門の警備を普段の五倍に増やし、防犯上の対策も取った上で、昼間から街の広場で宴を開き、ルキウスの兵と領民たちが入り交じって豪勢な料理や酒、音曲を楽しんだ。
ルキウスとオルフィニナはコルネール家が普段私的な集まりで使う広間に通され、賑やかなコルネールの家族と昼食を共にし、緊張のあまり身体が震えてしばらく馬車から降りることができなかったスリーズと久々に最前線のルースから離れて解放感を得たバルタザルには、隣室で豪勢な昼食が饗された。二人とも客人としてもてなされる準備はしていなかったからすっかり恐縮してしまったが、同時にこれほどの歓待を受けるのは、ここがアルヴィーゼ・コルネールの膝元だからであるということを正しく認識しなければならないと悟った。無論、他の領地ではこうはいかない。
ルキウスが密かに不満を持ったのは、オルフィニナの寝室が庭園にある客人用の別棟に決められていたことだ。
「何故ニナだけ別棟なんだ」
この抗議に対し、アルヴィーゼは冷ややかな態度を取った。
「女公はあの煉瓦の家を気に入ったぞ」
だから第三者のお前が口を出す権利はない。と、言外に言っている。
「俺は許可してない」
ルキウスは憤然と言った。
「人払いまでして話したかったこととはそれか」
わざわざ上階の執務室に茶を運ばせたというのに、無駄な気遣いだったとでも言い出しそうだ。いや、多分、ルキウスの見たところ間違いなくそう思っている。
「話したいのはヴァレルのクソ叔父貴のことだ。でも先にニナの話をする」
「未婚の貴婦人をお前の近くに置いておくわけにいかない」
アルヴィーゼが白々と言うと、ルキウスは苦々しげに眉を寄せた。
「今更だ。それに、自分だって結婚するどころか恋人でもなかったくせに、イオネと同じ屋敷で暮らしてただろ」
昔のこととは言え、自分を棚に上げて理不尽な言い草だ。
「辺境の公爵と一国の王太子じゃ話が違うだろう。自分の立場を理解しろ。王太子と敵国の王族を同じ建物に滞在させている間に間違いが起きたら、コルネールの手落ちになる」
「言っておくが、俺は彼女と結婚する。ルイが心配するようなことはない」
婚約者なのだから同じ屋根の下にいて然るべきだろう。というのがルキウスの主張だ。
「リュカ――」
アルヴィーゼは眉間に皺を刻んで溜め息をついた。
仰々しい装いで現れたときから何となく予想はしていた。が、つい最近まで彼女の立場は捕虜だったはずだ。ルース城でドレクセンの女公の身柄を預かったと知ったとき、彼女をどうする気かと確かに問い詰めた。まさかそれが結婚することになるとは、異常事態だ。
「正気か」
「今までに無いぐらい正気だ」
ルキウスの目はまっすぐにアルヴィーゼを見つめている。そこには、狂気も享楽もなく、ただ選び取った運命に向かって肚を決めたひとりの青年の意志だけが存在していた。
なんと驚いたことに、本気なのだ。とアルヴィーゼは直感した。人懐こく、どちらかというと甘やかされて育ってきたこの年下の再従弟が、一人前の男になる覚悟を決めている。ルキウスのこんな顔は見たことがない。
「…恋と政治は相性が悪いぞ」
「そんなの、どうとでもなる」
ルキウスは面白くなさそうに言った。
現在の当主アルヴィーゼ・コルネールとその嫡子オクタヴィアン、更に当主の弟ユーグがそれぞれ騎乗してルドヴァンの広い馬車道を進み、彼らの案内に従ってルキウスとオルフィニナが、その後方にコルネール家の侍従や警備兵が従い、その後ろを王太子の三十余名の兵が、そして最後列をコルネールの警備兵が固めている。
「見事だ」
オルフィニナが感嘆したのは、鉄柵の門を越え、城の広大な敷地に馬の歩を進めたときのことだ。
石畳の歩道を行く人々を見守るように気儘に木々が生い茂り、低木は新緑の葉を纏い、そこかしこで春の暖気を待ちわびたように花の蕾が膨らみ始めている。一般的な庭園の整然とした美しさではなく、よく手入れされた小さな森のような趣がある庭園だ。水分をよく含んだ土と、陽光を浴びた草や葉の匂いに混じって、微かに甘やかな春の花の香りが空気中に舞っている。
「何か増やした?」
ルキウスは小さな白いつぼみをいくつもつけた低木を眺めて言った。庭園の奥の方に、等間隔に何本も植えられている。前回忍びでルドヴァンへ来た時は、慌ただしくしていたために気付かなかった。
アルヴィーゼは馬上で後ろを振り返り、誇らしげに笑んだ。
「イオネが――」
と、その妻の名を口にすると、その冷たく低い声が温かみを帯びる。
「ミルティーユを植えさせた」
「それはいい。季節で美しく移ろう目にも楽しい木だ」
オルフィニナは眉を開いた。オルフィニナもブルーベリーの木が好きだ。春に咲く小さな鈴のような花は愛らしく、夏には美味な果実がなり、秋から冬にかけては葉が紅く色づく。
「それだけじゃない。今度は養蜂を始める気だ」
アルヴィーゼが苦笑しながら言った。なるほどミツバチを呼ぶのには、ブルーベリーは最適だ。
「養蜂?ここで?」
ルキウスはおかしそうに訊いた。
「そうだ。ここで定着したら領内に養蜂場をいくつか作って好物の蜂蜜酒を作る気らしい」
「それを、まずは領主の城で試してるってことか?」
ルキウスは声を上げて笑い出した。一方、オルフィニナは大真面目に頷いて感心している。
「公爵夫人は先に自分で検証したいのだな。理に適ってる。農学や生物学に明るいのかな」
「専門は言語学だ。他の知識は付け焼き刃だと本人は言っているが、夫としての欲目を無しにしても深いところまで理解している。好奇心が人格を持ったような女だ」
アルヴィーゼは目を細めて隣を行く息子を見た。公子オクタヴィアンもまた、くすくす笑っている。弟のユーグが二人を振り返り、可笑しそうに眉を上げた。
「女公殿下はアミラ語をお話しになりますから、あれこれ聞きたがるでしょうね」
「ああ。先に断っておく。気分を害されないよう」
アルヴィーゼが言った。
「絶対そうだ。イオネは気難しいけど、君を好きになる。彼女にとって初めてのアミラ人だろうからね」
ルキウスが隣で馬を進めるオルフィニナに屈託ない笑顔を向けた。オルフィニナの見るところ、アルヴィーゼといる時のルキウスは、まるで普通の家庭の中にいるただの青年のようだ。それほど彼に気を許しているのだろう。
「とりわけマルス語を話すアミラ人は珍しかろう」
オルフィニナのこの言葉は、皮肉だ。初めて夕食を共にした時ルキウスに問い詰められたのが、アミラ人ながらマルス語を難なく話せることだった。閉鎖的なアミラでは、マルス語を難なく話せる人間は極めて稀だ。オルフィニナ自身も、なぜルッツが自分たちに徹底したマルス語教育を与えたのかは、未だに明確な答えを出せずにいる。
「そうだな。君は唯一無二だ」
ルキウスが柔らかい声色で言った。
この時、前方でアルヴィーゼと弟のユーグが意味ありげに目配せし合ったことには、二人とも気付かなかった。
広い庭園を十分ほど進んだところに、コルネール家の居城がある。
全体が白い石造りの壮麗な建物で、円筒形の塔を中心に尖塔を伴う城郭が左右対称に広がり、一見して装飾が少ないように見えるその城郭の細部には、緻密な彫刻や金の微細な装飾が施されている。
この居城の玄関口にある神殿のように白いアーチの下に、背筋を真っ直ぐに凛と立つ貴婦人がいた。胡桃色の髪をゆるく編んで後ろへまとめ、胸の下から軽やかな襞がゆったり広がる優美な藤色のドレスをまとっている。
この遠目からでも輝くように美しい貴婦人が、才媛と名高いルドヴァン公爵夫人イオネ・コルネールであることは、オルフィニナの目にも明白だ。
その傍らでは、公爵夫人と同じ髪の色をした三歳か四歳くらいの女の子が可愛らしい淡い桃色のドレスの柔らかい裾をヒラヒラさせてピョンピョン飛び跳ねていた。公爵夫人が女の子の手を優しく握って窘め、その後ろでコルネール家の使用人たちが彼女たちを微笑ましく見守っている。
「おとうさま!」
女の子が母親の手をパッと離してパタパタと駆け出すと、アルヴィーゼは馬を下りて娘を抱き止めた。
「こら、ニケ。殿下がたにご挨拶が先だろう」
イオネは夫と娘を横目で可笑しそうに眺めながら前へ進み出、馬から下りたルキウスとオルフィニナに恭しくお辞儀をした。
「王太子殿下、ようこそおいでくださいました。女公殿下――」
と、公爵夫人は見る者がみな息を呑むほど美しいスミレ色の目を見開いてオルフィニナの顔を見た。強い視線だ。
オルフィニナは一瞬、品定めされているのかと思ったが、すぐに違うと気付いた。これは、好奇心で輝く目だ。
「お会いするのを楽しみにしておりました」
それにしても、表情の少ない婦人だ。愛想笑いなど思いつきもしないような気位の高さが、どことなくこの貴婦人には窺える。それだけに、オルフィニナに会うのを楽しみにしていたという言葉は嘘ではないような気がした。耳触りがよいだけの世辞や社交辞令は、言わない質だろう。
「こちらこそ。ルドヴァン公爵夫人」
これも儀礼的な世辞ではない。探究心豊かなこの夫人に会うことを、ブルーベリーの木々を見てから自分でも驚くほど楽しみにしていた。
オルフィニナは美しい公爵夫人に男性同士が同等の者にするように手を差し出し、握手を求めた。
公爵夫人は冷徹そうなその顔に微かに柔らかな笑みを浮かべ、それに応じた。
握手を交わした後、公爵夫人の知識欲に満ちた視線が向かった先は、オルフィニナの横に行儀よく腰を下ろすエデンだ。
「あなたも」
イオネは白いオオカミに語りかけた。
「噂は聞いているわ、エデン」
エデンはむくりと腰を上げ、イオネの鼻に自分の長い鼻をくっつけて挨拶した。後ろに控える使用人や短い金髪の侍女らしき婦人がハラハラした様子で見守っているが、当のイオネは怖がる様子など微塵もなく、軽やかに笑い声を上げてエデンのふわふわした首を撫でた。
「礼儀正しいのね」
父親の腕から降りた小さな公女がおずおずと近づいてきて、大きな緑色の目をオルフィニナに向けた。
「ニケもエデンをよしよししていい?」
「いいよ、小さな公女どの」
オルフィニナがにっこり笑うと、公女ニケ・コルネールは母親とそっくりな口元を思い切り左右に引き伸ばした。
オルフィニナが隣に屈むと、「あっ」と小さな公女が頬を赤くし、片足を後ろに引いてお辞儀をした。忘れていた挨拶を思い出したのだ。
「ニケ・コルネールです。おはつにおめめにかかります」
オルフィニナはその拙い言動に心をくすぐられて、思わず破顔した。
「初めまして、公女ニケ・コルネール。わたしはオルフィニナ・ドレクセンだ」
オルフィニナは公女の小さな手を握って言った。
「なんてよぶの?」
オルフィニナはキョトンとして首を傾げた。一瞬の後、この小さな子が、長くて発音しにくいその名前を、言葉の拙い自分のような子供がどう呼んだらよいのかと言う意図で訊ねていることを理解すると、愛らしいくりくりの目をじっと向けてくるニケに向かって優しく目を細めた。
「ニナでいいよ」
「にてるね」
「そうだな。ニケと似ている」
公女ニケの緑色の目は、ルキウスやアルヴィーゼの持つ目の色とそっくりだ。これがアストルの血なのだろう。しかし、その好奇心に満ちた輝きは、間違いなく母親の公爵夫人から受け継いだものだ。
そのそばから馬の手綱を馬丁に渡したオクタヴィアンが近づいて来て、エデンの顔をワシャワシャと撫で回した。
「はは」
オルフィニナは快活に笑った。
「お前、忙しくなりそうだな。エデン」
エデンは金色の目でじっとオルフィニナを見上げ、目の上の筋肉をぴくりと動かした。ちょっと苦々しげな表情にも見える。
オオカミは忌み嫌われがちだが、コルネール家の人々にとってはそうでもないらしい。
コルネール家のもてなしは抜け目がなかった。
ルキウスには普段彼がルドヴァンに滞在するときに使う最も広い客間が用意され、麾下の兵たちには城下で最も格式高い宿が与えられた。彼らがルドヴァン滞在中に寛げるよう、領内、街の城門の警備を普段の五倍に増やし、防犯上の対策も取った上で、昼間から街の広場で宴を開き、ルキウスの兵と領民たちが入り交じって豪勢な料理や酒、音曲を楽しんだ。
ルキウスとオルフィニナはコルネール家が普段私的な集まりで使う広間に通され、賑やかなコルネールの家族と昼食を共にし、緊張のあまり身体が震えてしばらく馬車から降りることができなかったスリーズと久々に最前線のルースから離れて解放感を得たバルタザルには、隣室で豪勢な昼食が饗された。二人とも客人としてもてなされる準備はしていなかったからすっかり恐縮してしまったが、同時にこれほどの歓待を受けるのは、ここがアルヴィーゼ・コルネールの膝元だからであるということを正しく認識しなければならないと悟った。無論、他の領地ではこうはいかない。
ルキウスが密かに不満を持ったのは、オルフィニナの寝室が庭園にある客人用の別棟に決められていたことだ。
「何故ニナだけ別棟なんだ」
この抗議に対し、アルヴィーゼは冷ややかな態度を取った。
「女公はあの煉瓦の家を気に入ったぞ」
だから第三者のお前が口を出す権利はない。と、言外に言っている。
「俺は許可してない」
ルキウスは憤然と言った。
「人払いまでして話したかったこととはそれか」
わざわざ上階の執務室に茶を運ばせたというのに、無駄な気遣いだったとでも言い出しそうだ。いや、多分、ルキウスの見たところ間違いなくそう思っている。
「話したいのはヴァレルのクソ叔父貴のことだ。でも先にニナの話をする」
「未婚の貴婦人をお前の近くに置いておくわけにいかない」
アルヴィーゼが白々と言うと、ルキウスは苦々しげに眉を寄せた。
「今更だ。それに、自分だって結婚するどころか恋人でもなかったくせに、イオネと同じ屋敷で暮らしてただろ」
昔のこととは言え、自分を棚に上げて理不尽な言い草だ。
「辺境の公爵と一国の王太子じゃ話が違うだろう。自分の立場を理解しろ。王太子と敵国の王族を同じ建物に滞在させている間に間違いが起きたら、コルネールの手落ちになる」
「言っておくが、俺は彼女と結婚する。ルイが心配するようなことはない」
婚約者なのだから同じ屋根の下にいて然るべきだろう。というのがルキウスの主張だ。
「リュカ――」
アルヴィーゼは眉間に皺を刻んで溜め息をついた。
仰々しい装いで現れたときから何となく予想はしていた。が、つい最近まで彼女の立場は捕虜だったはずだ。ルース城でドレクセンの女公の身柄を預かったと知ったとき、彼女をどうする気かと確かに問い詰めた。まさかそれが結婚することになるとは、異常事態だ。
「正気か」
「今までに無いぐらい正気だ」
ルキウスの目はまっすぐにアルヴィーゼを見つめている。そこには、狂気も享楽もなく、ただ選び取った運命に向かって肚を決めたひとりの青年の意志だけが存在していた。
なんと驚いたことに、本気なのだ。とアルヴィーゼは直感した。人懐こく、どちらかというと甘やかされて育ってきたこの年下の再従弟が、一人前の男になる覚悟を決めている。ルキウスのこんな顔は見たことがない。
「…恋と政治は相性が悪いぞ」
「そんなの、どうとでもなる」
ルキウスは面白くなさそうに言った。
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