レーヌ・ルーヴと密約の王冠

若島まつ

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22 巣穴の女公 - fermée -

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 どうやらオルフィニナの怒りは相当に深いらしい。
 ルキウスの頭に一撃を食らわせてから、食事の誘いも乗馬の誘いも黙殺し、部屋から一歩も出てこない。腕利きの料理人に旬の果物をたっぷり使ったケーキを作らせてお茶に誘ってみても、稀少な蒸留酒を手に入れて酒の席に招いてみても、梨のつぶてだ。彼女の部屋に出入りが許されるのは、例外なくクインとお気に入りの女中に限られている。
 これが、三日続いている。
(やりすぎたかな)
 と、さすがにルキウスも思わざるを得ない。
(でもあれは不可抗力だった)
 一方でそう思ってもいる。あんなに可愛い反応をされたのでは、止められるはずがないというものだ。
 しかし、そろそろ限界が近い。同じ城の同じ階に起居していながらこれほど顔を見られないとなると、ふとした拍子に今どうしているかと気になって、どうにも落ち着かなくなる。
 気持ちが落ち着かないだけならまだしも、行動にまで影響が出ているから厄介だ。
 執務中にも、気付けば彼女の部屋がある方角の壁をじっと見つめたまま長い時間微動だにしなくなったり、用事もないのに彼女の寝室に近い廊下をウロウロしたりしている。そういう奇行の最中にハッと我に返り、その滑稽な自分に腹を立てる。そして机に戻れば、その繰り返しだ。
 今までの人生でこれほど誰かに平常心を乱されたことはない。理不尽な苛立ちと不思議な高揚感の狭間でフワフワと浮ついているような気分だ。

 この主人のいつにない様子を、バルタザルは不思議な思いで見ていた。
 社交的で頭が良いルキウスにとっては、気の利いた会話で相手を楽しませることなど息をするように容易い。時には繊細な一面を見せて相手の母性本能をくすぐることも、相手を威圧して牙を折ることもできる。事実、小さい頃からそうやって他人を自分のたなごころに乗せ、思い通りに動かしてきた。
 ルキウス・アストルはそういう男だから、その気になれば難攻不落の女公殿下だって部屋から出すことぐらいはできそうなものなのに、一向に陥落の気配はない。
「花は何を贈ったらいいと思う」
 などと、朝起きて一番に訊かれたときは耳を疑ってしまった。答えに窮するあまり、
「武器になりそうなものは控えた方がよろしいのではないでしょうか」
 と、全くもって的外れな返答をしてしまった。にもかかわらず、ルキウスは「そうか」とだけ言い、小難しい顔で沈黙したのだった。
 これは、女公殿下に相当参っている。と、バルタザルは見た。ルキウス本人にその自覚があるのかどうか、何とも奇妙なことだ。
「今朝もお見えになりませんね」
 黙々と朝食のブリオッシュを口に入れていくルキウスを尻目に、バルタザルが言った。
(それにしても、一体何をしたらあの女公殿下をあそこまで怒らせられるんだか…)
 活動的な彼女が一歩も部屋から出て来ないなんて、余程のことだ。
(…いや、あんまり考えるのはよそう)
 バルタザルは小さく溜め息をついた。
 ここへ、クインが現れた。殺風景な食堂の外に立って、開かれた扉をコンコンと鳴らし、指をちょいちょいと動かしてバルタザルを呼んでいる。
「何か?」
「遣いで外出する。ニナがあんたに言っておけとさ」
 ここのところ、クインとバルタザルの関係は比較的良好だ。仲良く世間話をする関係にはほど遠いが、少なくとも以前のような険悪さはない。バルタザルはクインに頷いて見せた。
「では、供の者をつけます。よろしいですよね?殿下」
 ルキウスはふっくらした椅子の背もたれに気怠げに背を預け、クインに冷たい目を向けた。
「…用件は?」
「女公殿下に物資調達を仰せつかりました」
 クインも同じくらい冷たい目でルキウスを見た。慇懃な物言いだが、声色は低く、抑揚がない。
「ニナが必要なものはこちらで用意する」
「あなたには用意して欲しくないそうです」
 クインはニヤリと唇を吊り上げて言った。
 バルタザルは反射的に主君の顔を見た。嵐の予感だ。しかし、眉間に深々と皺を刻んでいるものの、ルキウスが噛み付く様子はない。心当たりがあるからだろう。
「…許可する。供を連れて行け」
 それだけ言うと、ルキウスはテーブルに向き直って湯気の立つコーヒーに口を付けた。
 供――とは、監視役のことだ。無論、クインも承知している。クインは不遜に笑って頭を下げ、去り際にバルタザルにだけ聞こえる声で言った。
「ニナの命令・・が待ち遠しい」
「悪い冗談です」
 バルタザルは憂鬱そうに言って、食堂の外に控える衛兵を呼んだ。

 スリーズが麗しの王太子殿下に声を掛けられたのは、この日の昼下がりのことだ。
 空の食器を盆に載せ、袖のないアンダードレスと白絹の寝衣を腕に引っ掛けて、オルフィニナの部屋から出てきたところだった。
「君」
 と言われているのが自分だと理解するまでに、頭の中の激しいパニックが治まるまで待たなければならなかった。
 ルキウスはそんな女中の様子を気に留めることなく、事務的に続けた。
「ニナはどうしてる」
「へぁっ!?あの、あの、あの――わ、わたくしでしょうか」
「君に訊いてる。ニナの様子は」
 スリーズは不機嫌な声をした王太子の顔を見ることができず、火を吹きそうな顔を足元に向けてオルフィニナに予め頼まれていたことを告げた。
「じょっ、女公殿下は、王太子殿下には、か、かっ、構わないで欲しいそうです!失礼いたします!!」
 ガバッ!!と頭を下げて脱兎が如く廊下の奥へ去って行く女中の姿を茫然と眺めた後、ルキウスは自室の方へ爪先を向けた。
(次は楽団を呼んでみるか…。仕立屋を呼んでドレスを作らせるのも有りかもしれない)
 などと考えてみたが、すぐに足を止めた。違和感に気づいたからだ。
 女中はオルフィニナの下着と寝衣を持っていこうとしていた。いつもなら、朝一番で着替えるはずの物だ。こんな時間になって片付けるのは、何かおかしい。
 ルキウスは扉を開いた。彼女の機嫌を更に損ねるのも、覚悟の上だ。
 寝室は静まりかえり、開いた窓から吹き込む風が柔らかな陽光と共にさやさやと草花模様のカーテンを揺らしていた。
 オルデンの子供たちが描いた肖像画が自由な配置で掛けられている賑やかな壁の奥に、天蓋から垂れる淡い色のカーテンで堅く閉ざされたベッドがある。
 ルキウスは内側から攻撃される可能性を考慮して少し離れた位置から天蓋のカーテンをそっと開いたが、オルフィニナが飛び出してくる様子はない。それどころか、黒い下着姿で眠っている。シュミーズの肩紐から伸びる白い二の腕を毛布の外に出しているのは、暑いからだろう。羽織っていた形跡のある薄絹のガウンが、無惨にもベッドの隅に追いやられている。
 ルキウスがベッドを軋ませて端に腰かけても、オルフィニナは昏々と眠り続けた。いつもの彼女なら、この時点で侵入者を床に捻じ伏せているはずだ。
(顔が赤いな)
 ルキウスは血管が青く透ける白いまぶたの下で小さく震える長い睫毛を注視した。呼吸が速く、額には汗が浮いている。
「…ちょっと触る。怒るなよ」
 申し訳程度にそう告げてから、額に触れた。熱い紅茶の入ったカップを触った時のようだ。熱がひどく高い。よほど消耗しているのか、オルフィニナが目を覚ます気配はない。
 はぁ、とルキウスの口から大きな息が出ていった。
「断固として俺の手を借りないつもりなら、俺もとことんやってやるからな」
 ルキウスはオルフィニナの熱い頬を撫でた。
「意地っ張りめ」
 耳元で言うと、オルフィニナがもぞもぞと頭を動かしてゴロリと寝返り、ルキウスの方へ顔を向けた。もともと年齢よりも若く見える顔立ちだが、寝顔は更に幼く見える。ルキウスは波打つ赤毛をふわふわと撫でた。

 スリーズは氷水の入った盥を両手で持ち、肩には真っ白な布を数枚引っ掛けて、オルフィニナの寝室の扉を肩で押して中に入った。田舎の小貴族とは言え、スリーズは良家の令嬢だ。こんな力仕事は普段なら絶対にしないが、他ならぬ女公殿下のためだ。他の女中たちにあれこれ指示するよりも自分でやる方が早く、効率的だと判断した。
 オルフィニナは昨夜から月の障りが始まり、今朝から気分が良くないと伏せていたが、この一時間ほどで激しく発熱してしまった。この様子を近くで見ていたから、スリーズはひどく気が急いた。焦るあまり、ベッド脇に立って袖を捲り上げている人物を、遣いから戻ったクインだと思い込んだ。
「ああ、思ったより早かったですね、アドラー閣下。シロヤナギソル・ブランの煎じ薬は手に入りましたか?実は先程からお熱が出てしまったんです。シロヤナギはお熱にも効くそうなので、早く済んで良かったです。でも他の女中が言うには、胃に負担が掛かるそうなので、胃薬と一緒に――」
 無言で袖を捲り上げ、ヒョイと水盥を受け取った男の、ものすごく高級そうなシルバーグレーのベストから視線を徐々に上げて直視するには高貴過ぎる顔を認識した瞬間、スリーズは石のように固まってしまった。
「苦労を掛けた。あとは俺がやる」
 スリーズはまだ盥を抱えていたときと同じ体勢のまま暫く動けなかったが、サイドテーブルに盥を置いたルキウスがスリーズの肩に引っ掛かっている布を取り上げた時、魂を取り戻した。
「お、おお、お、王太子殿下!それは、わたくしがいたします」
「いい」
 ルキウスはスリーズの方を見向きもせずに布を盥の氷水に浸し、固く絞った。
「で、ですが――」
「ニナが俺に面倒を見られたくないのは承知してる」
「そ、それはそうなんですが、それだけではなくて…ええと…」
 スリーズの言葉は耳に届いていない。
 ルキウスは冷たい布でオルフィニナの額に浮いた汗を拭ってやると、もう一度布を水に浸して絞り、髪をそっと避けて額に乗せてやった。
「竈の者に湯を切らさないように伝えておいてくれ。目を覚ました時に何か口に入れられるものも頼む」
「承知いたしました…」
「着替えはどこにある?」
「ワードローブの手前に用意してございます。王太子殿下」
「わかった」
 スリーズは小さな驚きと共にその場を後にした。
 まさか王太子が自ら介抱を買って出るとは、思いもしなかった。それよりも驚いたのは、あの目だ。
(恋する目って、あれのことね)
 スリーズは何かいけないものでも見たような気分になった。
 彼女の中では、国中の女性の憧れの的である王太子は恋い慕われる存在であって、誰かに切なく恋い焦がれる存在ではなかったからだ。初めて青年としてのルキウス・アストルを目の当たりにした気がした。
 同時に、オルフィニナを取り巻くものの構図がなんとなく読めた。
(さすが、女公殿下だわ…)
 彼女から学ぶことは多そうだ。体調が戻ったら、今度こそ侍女にしてもらえるよう頼もうと思った。ここのところ毎日城へ来て女中の仕事をしているが、未だにオルフィニナに切り出せないでいる。なんとなく、恥ずかしくなって萎縮してしまうのだ。だが、心を尽くして仕えれば、きっと使ってもらえるはずだ。
 スリーズはパタパタと長い廊下を進んだ。ともあれ、女公殿下には早く元気になってもらわなければならない。
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