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19 騎士の忠誠 - Majesté, ma Reine -

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「ベルンシュタインを使ってフレデガルを調べていたのはそのためだったんだな」
 オルフィニナの馬の横で轡を取って歩きながら、クインが暗い声で言った。
「そうだ」
「ずっと妙だと思ってた。フレデガルが毒を盛ったとわかったのに、あんたが放っておくなんて」
「聞かずにいてくれたこと、知ってるよ。感謝してる」
 オルフィニナは不満そうに眉を寄せたクインに向かって微笑んだ。
「王の書状はどうした」
「ちゃんと持ってる」
 簡潔で曖昧な返答だ。しかし、クインがそれ以上問い質すことはない。明瞭な答えがないときは、「それ以上聞くな」という意味であることを、クインは心得ている。
「そうか」
 クインはあの日のルッツと同じ、慈しむような顔で馬上のオルフィニナを見上げている。オルフィニナは目をぎょろりとさせ、うんざりしたように天を仰いだ。
「お前まで。その目やめて」
「何だよ。どんな顔すりゃいい」
「いつもみたいに陰気な顔でもしていればいいよ」
「ムカつくやつだ」
 クインはヒラヒラと舞うスカートの上からオルフィニナの脛を肘で小突いた。
「わたしはさ、逃げたんだよ。クイン」
 親指に嵌めた琥珀の指輪を眺め、オルフィニナが言った。罪の告白のように、声が重い。
「今は機を待つ時だと自分に言い訳しながら、指輪を隠し、重圧を捨てようとした。その代償に何を払うことになるか考えもせずに」
「持ってただけマシだ。とっとと捨てちまえばいいものをよ」
 オルフィニナは歪な笑みを見せた。
「わたしは一度ならず間違えた」
 インクを水で溶いたような雲が、頭上をゆっくりと過ぎてゆく。
 オルフィニナは静かに続けた。
「父が急病に倒れた時、毒を疑う者もいたのに、結局は脳に溜まった澱のせいだという侍医の言葉を鵜呑みにした」
「みんなそうした」
「だがわたしがその時調べさせていたら、フレデガルの逆心に気付けたかもしれない。そうすれば、父上は死なずに済んだ」
「そんなのは結果論だ。今更意味がねえだろ。それに、血筋も確かじゃない十八の小娘が何を言ったところで何か変わったとは思えない」
 クインは忌々しげに言った。
 王国と名のつく国家は得てして血族意識が強いものだ。その中でもアミラ王国は、血筋の正統性や神性を重視する傾向が特に顕著であると言える。ドレクセン家が古代帝国を治めていた皇帝の末裔であるという自負が、その気風をいっそう強くしているのかもしれない。
 そのために、神々と民が認めた王の妻であるミリセント妃の娘でないオルフィニナは、ドレクセンの姓が与えられ、国王が実の娘であると公認した後も、‘王女’という身分にはならなかった。
 オルフィニナは十年間、ドレクセンの名を持つ王族ではあるものの、一方で王女ではないという、ひどく複雑な立場に置かれている。‘女公’という身分が与えられたのは、その補填のためだ。
 そういう事情を抱えた若い娘を、アミラ王府の重臣たちは当然ながら軽視した。彼らの優先的な判断基準は、聡明か愚鈍かではなく、その血が正統、即ち神聖か、或いはそうでないかなのだ。
 だから、クインの言うことは正しい。
「でも、考えずにはいられないんだよ、クイン。もしわたしが父の死を公表していたら。わたしが王の指輪を手に王位を主張していたら。フレデガルを簒奪者だと糾弾していたら。エマンシュナとの戦を止められたかもしれない。兵や民が死ぬこともなかったかもしれない。そういう可能性が、僅かでもあったんじゃないか。そんな詮のないことを、考えない日はない」
 クインは首を振った。そんなことは、馬鹿げている。
「その前にあんたがフレデガルに殺されて終わりだ。指輪を隠したのは、正しい判断だった」
「本当にそう言えるか?大勢死ぬことになったのに」
 クインには、見上げた先の琥珀色の目が透き通って見えた。
「癪だが、ルキウスの言うことは道理だ。わたしは父から国を託された。正統な権利を簒奪者に奪わせてはいけない。もう背を向けて大切なものを失うのは御免だ」
「あんたに責任はねえだろ」
「できたかもしれないことをしなかったのだから、その一端はわたしのものだ。この選択は、国や弟のためだけじゃない。わたしがわたしであるために必要なことなんだよ。この期に及んで逃げるなら、死んだも同然だ。そういう生き方はしたくない」
「…だからって、なんであの男なんだ。あの甘ったれ小僧が本当に役に立つのか?」
 クインは嫌悪感を露わにして言った。
「ハハ」
 オルフィニナは快活に笑った。何とも、おかしいことだ。一国の王太子でさえ、我が騎士にとっては甘ったれの小僧なのだ。
「お前が思うよりあの男は賢いよ。人を手玉に取る才があるし、大国の王太子として強すぎるほどの自尊心がある。その上、執念深い質だ。それなのに、廃嫡の危機に直面している」
「まじかよ。ますます信用ならねえな」
 小馬鹿にしたような調子だ。オルフィニナはまた笑い声を上げた。
「だからこそ、だ。あの男は自分をコケにした奴らを徹底的に叩き潰そうとしている。主に我らが敵フレデガルと通じているヴァレル・アストルをね。そしてわたしはその野望が成就する方に賭けることにした」
「勝算は」
「ある」
 オルフィニナはキッパリと言った。
「根拠は」
 まさか惚れたんじゃないだろうな。などと言うのはやめた。百歩譲ってそれが実現したとしても、オルフィニナは個人的な感情によって誰かの評価基準を変えたりはしない。
「わたしがいる。わたしにはお前が。だから、クイン――」
 オルフィニナはトントンと馬に合図をして止まらせ、牧草の上に降りて、ニッと笑んだ。
「もう止めるな。犠牲になったなんて思わないで欲しい。背を押してくれ。主君の命令じゃなく、妹の望みだ。頼む」
 クインは大きく息をついた後、ハシバミ色の目を泣き出しそうなほど潤ませて、強くオルフィニナを抱き締めた。
 ここまで言われては、もうオルフィニナの選択を否定することはできない。
「…じゃあ兄として言うぞ」
 オルフィニナはクインの腕の中でその声を聞いた。懐かしいアドラーの家の匂いがする。木々や瑞々しい若葉を思わせる匂いだ。
「そばにいさせろ、何があっても。俺はあんたの剣として生きる。俺より先に危険な目に遭うな。俺より先に死ぬな」
「ん、わかった」
 オルフィニナはクインの広い背に腕を回した。
「それから――」
「まだあるのか」
「もしルキウス・アストルを殺すとなったら、絶対に俺を使え」
 オルフィニナは目を丸くしてしばたたいた後、快活な声で笑い出した。
「そう言うな。わたしの夫になる男だ。誰にも殺させないよ」
 進む道を決めてしまえば、後は進むだけだ。不思議と心は軽い。
「しかしまあ、利害を理由に結婚するのは神々への冒涜だなどと抜かしてやがった女が、利害の一致で結婚とはね」
 クインは大袈裟に呆れたように言い、オルフィニナの細い鼻をギュッとつまんだ。
「子供の頃の話だ」
 オルフィニナは煩そうに言ってクインの手を払いのけた。
「嘘つけ。今でもそう思ってるくせによ」
「わたしは王族だぞ。利害関係のない結婚など元より望めない立場だ」
 多少、強がりだ。
 ルッツと妻ダナは熱烈な恋愛を経て夫婦となり、子供が全員成人した今もなお仲睦まじく、周囲にもその愛情を少しも隠さない。それを間近で見て育ったオルフィニナにとっての夫婦というものの理想形は、いつもそこにある。立場上諦めてはいても、オルフィニナの倫理観では、まことの伴侶とはそうあらねばならない。
「…本当にいいんだな。あいつで」
 クインはオルフィニナの心を知っているから、こう聞かずにはいられないのだ。
「あれはあれでいい男だぞ。顔とか」
「…ったく」
 クインはきちんとひと束に結った栗色の頭をガシガシと掻いた後、すぐに両手で乱れを直し、神妙な顔でオルフィニナに向き直った。
「仕方ねえな」
 オルフィニナが微笑むと、クインはその足元に跪き、オルフィニナの右手を取って、白い甲と親指の指輪に口付けした。
「身命を賭して、あなたに仕えます。俺の女王陛下マジェステ、マ・レーヌ
「ははっ。よろしく頼む」
 クインの妙に畏まった様子がおかしくて、オルフィニナは笑った。馬場の外から、エデンが悠然と闊歩してこちらへ向かってくる。
「ちょうどいい。クイン、厩舎から自分の馬を曳いて来て。あっちに障害用の馬術練習場を見つけたから、競走しよう」
「エデンも一緒にか」
 クインは呆れたように苦笑して立ち上がった。
「そうだ」
 そう言って笑ったオルフィニナの顔を、クインは眩しい思いで見た。オルフィニナは昔からこうだ。今にも死にそうな顔で思い悩んでいたと思ったら、次の瞬間にはけろっと笑っている。例えば死地にあって花を愛でるような、そんな呑気さにも似ている。
 とてもクインが手綱を握れるような相手ではない。
 そこが恨めしく、愛おしい。

 夜。オルフィニナは寝室と同じ階にあるサロンのテーブルに着いた。
 光沢の美しいビスケット色のドレスは、この日も手伝いのために城へ来ているスリーズと選んだものだ。四角く開いた胸元を、金とダイアモンドの首飾りが飾っている。細い金の鎖がレース状に編み込まれ、その中に無数の小さなダイアモンドが散りばめられているものだ。平素はそれほど装飾品を好まないオルフィニナが広がりの少ないシンプルなドレスにはやや派手なこの首飾りを選んだ理由は、鎖骨の下に付けられた痕を隠すのにこれが一番ちょうど良かったためだ。
 程なくして宣言通り、ルキウスが二人きりの晩餐へと姿を現した。形式的な挨拶の後は、昨夜と同じく、粛々と運ばれる前菜の向こうに艶然と微笑んで座している。
「‘三時間ルール’は効いたのかな」
 また不機嫌だ。顔は笑っていても、オルフィニナにはその皮の下の憤怒が見える。
「わたしとクインはいつも通り上々だが、あなたは何故そう不機嫌なんだ。わたしがあなたの計画に乗ったというのに、まだ不満なことがあるのか」
「機嫌いい顔してるだろ」
「そうは見えない」
 オルフィニナは片方の眉を吊り上げて白ワインが入ったグラスを掲げ、しゅわしゅわと上る小さな泡の向こうで僅かに眉を寄せたルキウスの顔を見た後、グラスに口を付けた。
 ルキウスは笑うのをやめた。
「――バルタザルから報告があった。君とアドラーが抱き合って仲直りした後、一緒に馬を駆けさせて遊んでいたと」
「相違ない。強いて言うならエデンもいた。もしかして勝手に馬場を使ったのがまずかったか?」
「それはいい」
「じゃあ、なに」
 首を傾げるオルフィニナを不機嫌極まりない表情で一瞥し、ルキウスが形の良い唇を開いた。
「もう君は俺の婚約者だ」
「承知してる」
「なら、他の男と気安く接するのをやめろよ」
「クインは家族だ」
「で、従者だろ。王太子妃は従者と仲良く抱き合ったりしない」
「だが兄と妹はする。前にも言ったように、わたしとクインの関係を変えることは不可能だ」
 ルキウスはイライラと立ち上がり、獣が獲物に近付くような足取りで向かいに座すオルフィニナに近付いた。
 オルフィニナは表情を変えずに、ピリピリするワインを舌の上で転がしながら、美しい顔を怒りに暗くしたルキウスを見上げた。
「君はまだ自分が誰のものかわかってないな。ゆうべあんなに教えたのに」
 孔雀石色の瞳が暗く翳る。昨夜と同じ目だ。冷たい目の奥に灯った熱に呼応して、オルフィニナの身体が昨夜の熱を思い出す。
「…そんなことをしなくても、理解している。わたしはあなたの婚約者だ」
「理解してないさ」
 ルキウスはオルフィニナの背後に立ち、背に垂れた長い三つ編みを肩の前に払い、白い項を露わにすると、首飾りをずらして首の窪みに唇をつけた。
 首飾りがひやりとオルフィニナの肌を刺し、触れたルキウスの唇から熱が伝う。
 微かにオルフィニナの肌が跳ねたことに、ルキウスは気づいている。
 ルキウスの手が肩から前に下り、ドレスの襟の中に指を滑らせる寸前で、オルフィニナはルキウスの手首を掴んだ。
「晩餐を前に、不作法だ」
「君に作法がどうとか言われたくない」
 言うなり、ルキウスはもう片方の手でオルフィニナの頤を掴み、後ろを向かせて唇を奪った。
 この時、サロンの扉が開いた。視界いっぱいにルキウスがいるせいで姿は見えないが、使用人が前菜を運んで来たのだろう。憐れにも間が悪かった。声も出せずに固まってしまったらしい。
「しばらく食事はいい。誰も近付くな」
 ルキウスは振り返ることもせず、冷たく言った。
「しっ…し、し、失礼いたしました」
 オルフィニナは、慌てて辞去した女中の後ろ姿を辛うじて見た。複雑な編み込みで美しく結い上げた栗色の髪の持ち主は、スリーズだ。
 なおも唇を重ねようとしてくるルキウスから、オルフィニナは顔を背けた。
「やめて」
「なぜ」
「必要がない」
「俺はそう思わない」
 ガタ!と音を立ててオルフィニナの椅子が倒れた時には、オルフィニナの身体はルキウスの腕の中にある。
 ルキウスの手が腰をするりと這い、臀部へ下りた。オルフィニナは先ほどよりも強く身をよじった。
「婚姻を認めさせるための行為だっただろう。もう意味がない」
 ふ。とルキウスの形の良い唇が吊り上がった。意地の悪い笑みだ。
「まさかあれで済むと思ったのか?君は男女のことを何もわかってないな」
「わかってる。子ができる行為だ。それは困る」
「いずれ跡継ぎは必要になる」
 低い声に冷たい怒りが溶け込んでいる。
「ドレクセンとアストルの血を引く子は厄介だ。火種になる。跡継ぎは誰か無難な血筋の別の女性に産んでもらって、法的にはわたしたちの子ということにすればいい。跡継ぎがわたしの子である必要は――」
「ふざけるなよ」
 この一言に、オルフィニナは目を丸くして顔を上げた。間違ったことは言っていないはずだ。どこに怒る必要がある。だが、今の発言がますますルキウスを怒らせてしまったことだけが理解できる。
「君は俺が考えなしにどこにでも種を蒔く放蕩者だとでも思ってるのか?言っておくが避妊もせずに抱いたのは君が初めてだ。たかだか遊びの女に王家の種をくれてやるわけがないだろ。君の父親と一緒にするな」
 これには腹が立った。
「わたしの父を侮辱する気か」
 フン、とルキウスが嘲笑するような調子で声を上げた。
「侮辱したつもりはないさ。放蕩の結果、君が存在してるんだ。むしろ感謝してる。だが君に同じような価値観でいてもらっては困る。俺は――」
 ルキウスはオルフィニナのドレスのスカートをたくし上げ、裾の下から腿に触れた。
「君以外に俺の子を産ませるつもりはない」
 じりじりと熱が肌を伝う。オルフィニナは昨夜開かれたばかりの腹の奥が疼き始めたことを知った。
「きっと気が変わる」
「君はその方がいいのかもしれないけど、変わらない気がするな。こんな気分になったのは初めてだから、自分でも何故かわからない」
 オルフィニナの胸に小さな動揺が広がった。
 捉えようによっては愛の告白とも思える今の言葉を、どう受け取るべきか判断がつかない。これを手練手管として使っているとしたら、恐ろしい男だ。
 美しい緑色の目の奥に燃える欲望が、オルフィニナから正常な思考を剥ぎ取ろうとする。
「…だめだ。やめて」
 声が震えるのを隠しきれなかった。
 ルキウスは既にオルフィニナの身体の変化を感じ取っている。唇を意地悪く吊り上げ、震えながら熱を持ち始めた肌を焦らすように撫でて、腿から上へ指を這わせた。
「じゃあ、身体にも意見を聞いてみようか」
「――っ!」
 ルキウスの指が臀部を通って脚の間に入ってくる。湿った音が静かな部屋の中でやけに大きく聞こえた。やすやすとルキウスの指を飲み込んだ理由は、オルフィニナには解っている。
 オルフィニナは無意識のうちにルキウスの袖にしがみ付き、下唇を噛んで、触れられたところから生まれる快楽に耐えようとした。
「ハッ、誰が獣だって?」
 ルキウスはオルフィニナが怒りの抗議を始める前に唇を奪い、舌でつついて唇を開かせ、その中を侵した。
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