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一、姫君の旅 - la Princesse voyage -
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‘王国の花’と言えば、ここエマンシュナ王国ではシダリーズ・リリー・アストル姫のことだ。
姫君には、他にもいくつかの肩書きがある。
大陸一広大なエマンシュナ王国を統べる獅子王レオネの従妹、慈愛深き王妃ルミエッタの親友、第一王女ミネルヴの後見人、王立アストレンヌ大学理事、エマンシュナ婦人協会‘メルレットの会’代表理事――これらが華々しい部類の肩書きだ。中でも彼女がいちばん気に入っているのは‘王妃の親友’で、いちばん誇らしく思っているのは‘メルレットの会’代表理事だ。
しかし、よいものばかりではない。
‘隣国の王妃になり損ねた行かず後家の姫’とか、可憐な容姿に反して獅子のように獰猛な心を持つ‘獅子心姫’などという耳の痛いものもある。どちらも事実だから、まあ仕方がない。と、本人は半ば諦めている。
そして、目下シダリーズが多忙を極めているのは、エマンシュナ教育局役員としての仕事だ。まさに今、そのために王都を離れている。
「ですからぁ、姫さま」
ガタガタと大きく揺れる馬車の中で、侍女のマノンが毛皮の外套に包まれた肩を大きく怒らせた。
「なぜ、姫さまが直々に赴く必要があるのですか?教育局の役員は他にもいるのですから、殿方に任せておけばよろしいではありませんか。この国で王妃陛下と王女殿下の次に高貴な姫さまがわざわざこんな僻地に来なければならない理由が、どこにあるというのです?」
シダリーズは手に持った羊皮紙の書簡から顔を上げ、目の前でいきり立つ侍女に柔らかい笑みを向けた。
「誰でも良いというわけではないのよ。大切な子供たちの学校を作るための視察だもの。でも、わたしの心配をしてくれて嬉しいわ。ありがとう」
マノンは眩しい神の光を見たように目をパシパシと瞬き、やっと薄目で主君を見た。
まもなく二十七歳を迎えようとしているのに、いつまでも少女らしい清純さがこの姫にはある。ちょうど収穫時の麦の穂のような髪に、木漏れ日を思わせるようなハシバミ色の瞳、頬や唇は神殿に描かれた天使のようにバラ色をしていて、光沢のある淡いブルーのドレスと貂の毛皮のショールがよく似合い、その高貴さをいっそう際立たせている。
これほどまでに美しく心までが清らかな女性を、マノンは他に知らない。
(ああ、もう一人いらっしゃったわ)
シダリーズ姫の親友であるルミエッタ王妃もまた、輝くばかりに美しく、女神のように清らかな心の持ち主だ。
隣国のイノイル王国から嫁いできた黒髪の王妃は異国的な美を、金髪のシダリーズ姫はエマンシュナ的な美を具現化したような存在で、今ではこの二人の女性がエマンシュナ王国を代表する美の象徴であり、国民の憧れの的となっている。
(そんな姫さまを荒くれ者と山と土だけのド田舎へ向かわせるなんて、国王陛下は頭がおかしいわ)
死んでも口に出せないことだが、マノンは王都アストレンヌでこの馬車に乗り込んだときからそう思っている。
「陛下は他の者を行かせようとしたのだけど、わたしが行かせて欲しいと頼んだの。あなたを慣れない土地へ連れて来ることになってしまって、悪いことをしたと思っているわ。でも、あなたが一緒だと心強いから…、ごめんなさいね」
シダリーズはマノンの心を読んだかのように、申し訳なさそうに儚げな金色の長い睫毛を伏せた。
マノンはすっかり恐縮してしまった。その慌てようは、今にも泣き出さんばかりだ。
「そんな!わたくしのことは結構でございます!姫さまが頼りにしてくださるなんて、こんなに光栄なことはございません。ただ…姫さまが働き過ぎてお身体を壊されないか心配しているのです。マノンの差し出口をどうかお許しください」
「差し出口だなんてとんでもないわ。ありがとう。いつもわたしのことを気にかけてくれるマノンが大好きよ」
シダリーズはにっこりと笑った。春の陽のように暖かい笑顔だ。マノンは心が浮き上がるような気持ちでこくこくと頷いた。
「マノンは、どこまでも姫さまに、ついて参ります…!」
うるうると灰色の目を潤ませる侍女の銅色の髪を優しく撫で、シダリーズは柔らかく笑った。王国の花という称号に相応しい顔だ。
(ちょろいわ)
――と、内心ではそう思っている。
シダリーズはどちらかというと計算高い。こと処世術に関しては器用な方だ。
マノンを侍女として側に置いているのも、彼女が気に入っているという以上に、その役回りの都合良さによる部分が大きい。
忠実で主君の考えに敏感かつ激情家のマノンを側に置いておけば、自分の主張は自然とマノンの口から出ていくことになる。そして、シダリーズがそれを宥める温厚で上品な姫君の役割を果たすことで、世間の理想像である静淑なシダリーズ姫を演出することができるのだ。
しかしながら、それもしばらく前から襤褸が出始めている。
(‘獅子心姫’なんてあだ名を付けられちゃうくらいだからね…)
シダリーズは小さく溜め息をついて、馬車の窓の外の田園風景へと視線を巡らせた。外面をどれほど淑やかに取り繕っていても、心の苛烈な部分は完全に隠すことはできない。
今回の視察に名乗りを上げたのは、そういう自分を戒めるためでもある。
エラデール地方は、王都から概ね五日ほどで到着する場所にある。距離だけで言えばそれほど離れてはいないが、整備された街道がなく、土や石が剥き出しの悪路を馬車で行く他ない。その上、領地に入る前に、山道を越えなければならない。
華々しい王都と比べれば、荒れ地という表現がふさわしい地域だ。作物もそれほど豊かに育っている様子はない。
高地にあるためやや空気が薄く、足元も悪い。馬車の揺れもひどいものだ。侍女のマノンなどはすっかり気分を悪くして顔が真っ青になっている。シダリーズも多少気分を悪くしていたが、顔や態度に出さないよう気を張り、背を伸ばした。王族である自分が、侍女の前でみっともない姿を見せられない。
(こんな土地に、学校が建てられるのかしら)
シダリーズは急激に不安に駆られた。
この視察の目的は、これだ。王国政府が定めた新たな法令として、エマンシュナ王国の領主たちはその地域の人口に応じて教育施設を作らなければならなくなった。ところが、ここエラデールの領主は発令から十年経ってもなおそれを無視し続けている。王国政府からの再三の召喚も領主の重病を理由に拒否し、代理のものを送ってくることもない。
実際にエラデールを視察することになったのは、教育局の役員であるシダリーズの発案だ。事前に知らせては都合の悪い事実を隠そうとするかも知れないからと、抜き打ちで行うことになった。
そのために、馬車は王族専用の豪奢なものではなく、中堅から上位の役人が使う黒塗りのものを使用した。全体は鮮やかではないものの、浮き彫りにされた獅子の紋章が金色に塗られ、窓の縁や扉に細かい葉綱の装飾が施されていて、いかにも官僚が乗るのに相応しい格式高さがある。
供連れは、侍女のマノンと無口なベテラン御者のジルベールの他、ちょっと頼りないが目端の利く護衛騎士のジャンだけだ。みな付き合いが長いから、気兼ねなく話ができる。そう言う点では、心強い。
エラデールの境界には、大きな樫の木造りの門前にヒョロリとした中年の警備兵が立っているのみだった。護衛のジャンが下馬して王国の紋章を見せながら声をかけると、警備兵は慌てた様子で中へ入り、上官と思わしき大柄の男を連れてきた。
十分ほどの会話ののち、ようやく馬車が領内へ通された。馬車の中の貴婦人への挨拶はない。
(失礼ね)
シダリーズは静かに憤慨したが、田舎の人々はもしかしたら王国政府の関係者だからと言って馬車の中の人には挨拶をしてはいけない習慣があるのかもしれない。と思い直した。
もちろん、そんなはずはない。しかし、これから面会する領主のデュロン伯爵に初対面からギスギスしてしまうよりも、馬鹿げた想像で自分を納得させる方がマシだ。今のところは。
(なんて言ったって獅子心姫なのだし)
最も有効な武器は怒りではなく、‘王国の花’の顔だ。シダリーズは表情を取り繕って背筋を伸ばした。
ところが、もっと悪いことが起きた。殺風景な石造りの領主邸の前で馬車を停めているときだ。
「会わないですって?」
シダリーズの眉が不機嫌に歪んだ。馬車の中は、凍り付いたようになった。
デュロン伯爵家からの返答をもたらしたジャンには、領主邸の壁からこちらを見下ろす無数のガーゴイルの像までもが凍りついたように見えた。
「重病で生死の境を彷徨っているとか」
ジャンが元々下がり気味の眉尻をもっと下げた。
「何年も前から同じ言い訳を聞いているわ。重病を口実に王都への報告を無視しているのよ。無理にでも会ってもらいます」
シダリーズは怒りを露わにし、馬車から降りようとした。が、ジャンがその前に立ちはだかった。普段は温厚でシダリーズの言うことに反対することなど滅多にないが、今回ばかりは毅然として主君を諌めようとしている。
「なりません。もし病気が本当なら、シダリーズさまを近づけるわけにはいきません。本当に何かおかしな伝染病だという可能性も皆無ではないのですから。目に見えないものこそ怖いのですよ」
シダリーズは唇を結んで護衛騎士の顔を見た。昔は気弱な男だったのに、いつの間にか思慮深い男性になっている。
まったく、ぐうの音も出ない。
「そうですよ、姫さま。嘘か本当か、きちんと確かめてから押しかけたらよいではありませんか」
シダリーズは馬車の椅子に座り直し、白い指を顎に当てて少しのあいだ思案した。
「…わかったわ。探りを入れることにします」
とはいえ、エラデールにおける最高権力者である領主に会えないとなると、今夜の滞在場所を誰に紹介して貰えば良いのかわからない。
通常であれば、王国政府からの訪問者に礼を尽くして最も格式高い家や宿屋に滞在場所を用意し提供するものだが、今回は突然の訪問である上に、最初の態度からして、とてもこの地の領主が通常の対応をしてくれるとは思えない。王族であることを明かせば相応に態度を改めるかもしれないが、それはシダリーズの教育局の役員としての権限を超える行為だ。何より「獅子心姫事件」の二の舞にはしたくない。
(少なくとも今日は馬車で野宿かしら)
それも楽しそうだとシダリーズが敢えて前向きに考えていると、馬車の前に脚の太い鹿毛馬に乗った男が現れた。領主邸の門から出てきたらしい。
深秋の寒空の下、簡素なシャツに革のベストだけを着、黒い細身のズボンを狩猟用のブーツに仕舞い込んでいる。馬上にいても分かるほど背が高く、肩は広く、背に矢筒を負い、弓を斜めに掛けていて、いかにも森の中を疾駆して獲物を狩る姿が似合いそうだ。
「態度を改める気になったのかしら」
シダリーズは隣のマノンと顔を見合わせた。
が、男は騎乗したまま無遠慮に馬車に近付き、最初に応対しようと扉の前に立ったジャンを押しのけて馬車の窓を叩いた。
「あなた、無礼ではないですか!」
ジャンが温厚なこの男にしては珍しく怒声を放ち、男の前に立ちはだかって剣を抜こうとした。
男は鋭い目つきでジャンを睨め付け、煩わしそうに頭を掻いた。退く気配はない。
「あんたの主人に話がある」
(あら)
と、シダリーズは思った。
扉の前にジャンの背中があるから顔はよく見えないが、荒っぽい言動の割には、優しい声をしている。かつてほんの少しの間だけ婚約していた隣の国の王子さまを思い出させる声だ。
シダリーズは自ら馬車の扉を開いた。
「いいわ、ジャン。わたしがお話しします」
「ですが――」
「わたしの身分は明かさないでね」
マノンとジャンにだけ聞こえるように言い含め、シダリーズはジャンの背をちょんちょんとつついて道を開けるよう合図し、不承不承従ったジャンににっこり笑いかけて、馬車の外に出た。
「ごきげんよう、狩人さん。わたしはシ――」
ハタ、と口を閉じた。馬鹿正直に本名を明かすところだった。偽名を使わなければ。
「リーズ…リゼット・メルル公女です。エマンシュナ王国教育局の代表として参りました」
シダリーズは朗らかに言った。即興で作ったにしては、良い名前だ。
「ギイ・ルマレだ」
男は馬上のまま名乗った。驚いた顔をしている。王都からきた教育局の役員と名乗る人物が若い女だとは思わなかったのだろう。腹立たしいが、いつものことだ。
しかし、目の前の人物に対しては、怒りや苛立ちよりも好奇心の方が勝った。シダリーズは馬上の男の顔を見上げた。
危険。――という表現がこの男には似つかわしい。が、姿勢は良く、歯並びも良く、馬上の所作一つ一つに、どことなく気品がある。
若木の枝を思わせる栗色の髪は緩やかに波打ち、目は洞窟の中の湖のように暗い青色をしていて、鼻梁がよく通って頬骨が高く、眉は物憂げな線を描いている。
(いいお顔立ち)
と思った。面立ちは冷たく鋭いのに、その目に吸い込まれてしまいそうだ。
(でも、だいぶ遊んでるわね)
これが、シダリーズのこの男に対する二番目の印象だった。こういう粗野で危険な魅力のある男性を、女たちは放っておかない。冷たい視線を向けてくるその目が優しく弧を描いたら、きっと多くの女性が虜になることだろう。
シダリーズがまじまじとギイ・ルマレの顔を観察していると、男の薄い唇が開いた。
「領主の命だ。あんたらを俺の屋敷に案内する」
‘狩人さん’がその不機嫌そうな表情よりも優しい声で言った。
姫君には、他にもいくつかの肩書きがある。
大陸一広大なエマンシュナ王国を統べる獅子王レオネの従妹、慈愛深き王妃ルミエッタの親友、第一王女ミネルヴの後見人、王立アストレンヌ大学理事、エマンシュナ婦人協会‘メルレットの会’代表理事――これらが華々しい部類の肩書きだ。中でも彼女がいちばん気に入っているのは‘王妃の親友’で、いちばん誇らしく思っているのは‘メルレットの会’代表理事だ。
しかし、よいものばかりではない。
‘隣国の王妃になり損ねた行かず後家の姫’とか、可憐な容姿に反して獅子のように獰猛な心を持つ‘獅子心姫’などという耳の痛いものもある。どちらも事実だから、まあ仕方がない。と、本人は半ば諦めている。
そして、目下シダリーズが多忙を極めているのは、エマンシュナ教育局役員としての仕事だ。まさに今、そのために王都を離れている。
「ですからぁ、姫さま」
ガタガタと大きく揺れる馬車の中で、侍女のマノンが毛皮の外套に包まれた肩を大きく怒らせた。
「なぜ、姫さまが直々に赴く必要があるのですか?教育局の役員は他にもいるのですから、殿方に任せておけばよろしいではありませんか。この国で王妃陛下と王女殿下の次に高貴な姫さまがわざわざこんな僻地に来なければならない理由が、どこにあるというのです?」
シダリーズは手に持った羊皮紙の書簡から顔を上げ、目の前でいきり立つ侍女に柔らかい笑みを向けた。
「誰でも良いというわけではないのよ。大切な子供たちの学校を作るための視察だもの。でも、わたしの心配をしてくれて嬉しいわ。ありがとう」
マノンは眩しい神の光を見たように目をパシパシと瞬き、やっと薄目で主君を見た。
まもなく二十七歳を迎えようとしているのに、いつまでも少女らしい清純さがこの姫にはある。ちょうど収穫時の麦の穂のような髪に、木漏れ日を思わせるようなハシバミ色の瞳、頬や唇は神殿に描かれた天使のようにバラ色をしていて、光沢のある淡いブルーのドレスと貂の毛皮のショールがよく似合い、その高貴さをいっそう際立たせている。
これほどまでに美しく心までが清らかな女性を、マノンは他に知らない。
(ああ、もう一人いらっしゃったわ)
シダリーズ姫の親友であるルミエッタ王妃もまた、輝くばかりに美しく、女神のように清らかな心の持ち主だ。
隣国のイノイル王国から嫁いできた黒髪の王妃は異国的な美を、金髪のシダリーズ姫はエマンシュナ的な美を具現化したような存在で、今ではこの二人の女性がエマンシュナ王国を代表する美の象徴であり、国民の憧れの的となっている。
(そんな姫さまを荒くれ者と山と土だけのド田舎へ向かわせるなんて、国王陛下は頭がおかしいわ)
死んでも口に出せないことだが、マノンは王都アストレンヌでこの馬車に乗り込んだときからそう思っている。
「陛下は他の者を行かせようとしたのだけど、わたしが行かせて欲しいと頼んだの。あなたを慣れない土地へ連れて来ることになってしまって、悪いことをしたと思っているわ。でも、あなたが一緒だと心強いから…、ごめんなさいね」
シダリーズはマノンの心を読んだかのように、申し訳なさそうに儚げな金色の長い睫毛を伏せた。
マノンはすっかり恐縮してしまった。その慌てようは、今にも泣き出さんばかりだ。
「そんな!わたくしのことは結構でございます!姫さまが頼りにしてくださるなんて、こんなに光栄なことはございません。ただ…姫さまが働き過ぎてお身体を壊されないか心配しているのです。マノンの差し出口をどうかお許しください」
「差し出口だなんてとんでもないわ。ありがとう。いつもわたしのことを気にかけてくれるマノンが大好きよ」
シダリーズはにっこりと笑った。春の陽のように暖かい笑顔だ。マノンは心が浮き上がるような気持ちでこくこくと頷いた。
「マノンは、どこまでも姫さまに、ついて参ります…!」
うるうると灰色の目を潤ませる侍女の銅色の髪を優しく撫で、シダリーズは柔らかく笑った。王国の花という称号に相応しい顔だ。
(ちょろいわ)
――と、内心ではそう思っている。
シダリーズはどちらかというと計算高い。こと処世術に関しては器用な方だ。
マノンを侍女として側に置いているのも、彼女が気に入っているという以上に、その役回りの都合良さによる部分が大きい。
忠実で主君の考えに敏感かつ激情家のマノンを側に置いておけば、自分の主張は自然とマノンの口から出ていくことになる。そして、シダリーズがそれを宥める温厚で上品な姫君の役割を果たすことで、世間の理想像である静淑なシダリーズ姫を演出することができるのだ。
しかしながら、それもしばらく前から襤褸が出始めている。
(‘獅子心姫’なんてあだ名を付けられちゃうくらいだからね…)
シダリーズは小さく溜め息をついて、馬車の窓の外の田園風景へと視線を巡らせた。外面をどれほど淑やかに取り繕っていても、心の苛烈な部分は完全に隠すことはできない。
今回の視察に名乗りを上げたのは、そういう自分を戒めるためでもある。
エラデール地方は、王都から概ね五日ほどで到着する場所にある。距離だけで言えばそれほど離れてはいないが、整備された街道がなく、土や石が剥き出しの悪路を馬車で行く他ない。その上、領地に入る前に、山道を越えなければならない。
華々しい王都と比べれば、荒れ地という表現がふさわしい地域だ。作物もそれほど豊かに育っている様子はない。
高地にあるためやや空気が薄く、足元も悪い。馬車の揺れもひどいものだ。侍女のマノンなどはすっかり気分を悪くして顔が真っ青になっている。シダリーズも多少気分を悪くしていたが、顔や態度に出さないよう気を張り、背を伸ばした。王族である自分が、侍女の前でみっともない姿を見せられない。
(こんな土地に、学校が建てられるのかしら)
シダリーズは急激に不安に駆られた。
この視察の目的は、これだ。王国政府が定めた新たな法令として、エマンシュナ王国の領主たちはその地域の人口に応じて教育施設を作らなければならなくなった。ところが、ここエラデールの領主は発令から十年経ってもなおそれを無視し続けている。王国政府からの再三の召喚も領主の重病を理由に拒否し、代理のものを送ってくることもない。
実際にエラデールを視察することになったのは、教育局の役員であるシダリーズの発案だ。事前に知らせては都合の悪い事実を隠そうとするかも知れないからと、抜き打ちで行うことになった。
そのために、馬車は王族専用の豪奢なものではなく、中堅から上位の役人が使う黒塗りのものを使用した。全体は鮮やかではないものの、浮き彫りにされた獅子の紋章が金色に塗られ、窓の縁や扉に細かい葉綱の装飾が施されていて、いかにも官僚が乗るのに相応しい格式高さがある。
供連れは、侍女のマノンと無口なベテラン御者のジルベールの他、ちょっと頼りないが目端の利く護衛騎士のジャンだけだ。みな付き合いが長いから、気兼ねなく話ができる。そう言う点では、心強い。
エラデールの境界には、大きな樫の木造りの門前にヒョロリとした中年の警備兵が立っているのみだった。護衛のジャンが下馬して王国の紋章を見せながら声をかけると、警備兵は慌てた様子で中へ入り、上官と思わしき大柄の男を連れてきた。
十分ほどの会話ののち、ようやく馬車が領内へ通された。馬車の中の貴婦人への挨拶はない。
(失礼ね)
シダリーズは静かに憤慨したが、田舎の人々はもしかしたら王国政府の関係者だからと言って馬車の中の人には挨拶をしてはいけない習慣があるのかもしれない。と思い直した。
もちろん、そんなはずはない。しかし、これから面会する領主のデュロン伯爵に初対面からギスギスしてしまうよりも、馬鹿げた想像で自分を納得させる方がマシだ。今のところは。
(なんて言ったって獅子心姫なのだし)
最も有効な武器は怒りではなく、‘王国の花’の顔だ。シダリーズは表情を取り繕って背筋を伸ばした。
ところが、もっと悪いことが起きた。殺風景な石造りの領主邸の前で馬車を停めているときだ。
「会わないですって?」
シダリーズの眉が不機嫌に歪んだ。馬車の中は、凍り付いたようになった。
デュロン伯爵家からの返答をもたらしたジャンには、領主邸の壁からこちらを見下ろす無数のガーゴイルの像までもが凍りついたように見えた。
「重病で生死の境を彷徨っているとか」
ジャンが元々下がり気味の眉尻をもっと下げた。
「何年も前から同じ言い訳を聞いているわ。重病を口実に王都への報告を無視しているのよ。無理にでも会ってもらいます」
シダリーズは怒りを露わにし、馬車から降りようとした。が、ジャンがその前に立ちはだかった。普段は温厚でシダリーズの言うことに反対することなど滅多にないが、今回ばかりは毅然として主君を諌めようとしている。
「なりません。もし病気が本当なら、シダリーズさまを近づけるわけにはいきません。本当に何かおかしな伝染病だという可能性も皆無ではないのですから。目に見えないものこそ怖いのですよ」
シダリーズは唇を結んで護衛騎士の顔を見た。昔は気弱な男だったのに、いつの間にか思慮深い男性になっている。
まったく、ぐうの音も出ない。
「そうですよ、姫さま。嘘か本当か、きちんと確かめてから押しかけたらよいではありませんか」
シダリーズは馬車の椅子に座り直し、白い指を顎に当てて少しのあいだ思案した。
「…わかったわ。探りを入れることにします」
とはいえ、エラデールにおける最高権力者である領主に会えないとなると、今夜の滞在場所を誰に紹介して貰えば良いのかわからない。
通常であれば、王国政府からの訪問者に礼を尽くして最も格式高い家や宿屋に滞在場所を用意し提供するものだが、今回は突然の訪問である上に、最初の態度からして、とてもこの地の領主が通常の対応をしてくれるとは思えない。王族であることを明かせば相応に態度を改めるかもしれないが、それはシダリーズの教育局の役員としての権限を超える行為だ。何より「獅子心姫事件」の二の舞にはしたくない。
(少なくとも今日は馬車で野宿かしら)
それも楽しそうだとシダリーズが敢えて前向きに考えていると、馬車の前に脚の太い鹿毛馬に乗った男が現れた。領主邸の門から出てきたらしい。
深秋の寒空の下、簡素なシャツに革のベストだけを着、黒い細身のズボンを狩猟用のブーツに仕舞い込んでいる。馬上にいても分かるほど背が高く、肩は広く、背に矢筒を負い、弓を斜めに掛けていて、いかにも森の中を疾駆して獲物を狩る姿が似合いそうだ。
「態度を改める気になったのかしら」
シダリーズは隣のマノンと顔を見合わせた。
が、男は騎乗したまま無遠慮に馬車に近付き、最初に応対しようと扉の前に立ったジャンを押しのけて馬車の窓を叩いた。
「あなた、無礼ではないですか!」
ジャンが温厚なこの男にしては珍しく怒声を放ち、男の前に立ちはだかって剣を抜こうとした。
男は鋭い目つきでジャンを睨め付け、煩わしそうに頭を掻いた。退く気配はない。
「あんたの主人に話がある」
(あら)
と、シダリーズは思った。
扉の前にジャンの背中があるから顔はよく見えないが、荒っぽい言動の割には、優しい声をしている。かつてほんの少しの間だけ婚約していた隣の国の王子さまを思い出させる声だ。
シダリーズは自ら馬車の扉を開いた。
「いいわ、ジャン。わたしがお話しします」
「ですが――」
「わたしの身分は明かさないでね」
マノンとジャンにだけ聞こえるように言い含め、シダリーズはジャンの背をちょんちょんとつついて道を開けるよう合図し、不承不承従ったジャンににっこり笑いかけて、馬車の外に出た。
「ごきげんよう、狩人さん。わたしはシ――」
ハタ、と口を閉じた。馬鹿正直に本名を明かすところだった。偽名を使わなければ。
「リーズ…リゼット・メルル公女です。エマンシュナ王国教育局の代表として参りました」
シダリーズは朗らかに言った。即興で作ったにしては、良い名前だ。
「ギイ・ルマレだ」
男は馬上のまま名乗った。驚いた顔をしている。王都からきた教育局の役員と名乗る人物が若い女だとは思わなかったのだろう。腹立たしいが、いつものことだ。
しかし、目の前の人物に対しては、怒りや苛立ちよりも好奇心の方が勝った。シダリーズは馬上の男の顔を見上げた。
危険。――という表現がこの男には似つかわしい。が、姿勢は良く、歯並びも良く、馬上の所作一つ一つに、どことなく気品がある。
若木の枝を思わせる栗色の髪は緩やかに波打ち、目は洞窟の中の湖のように暗い青色をしていて、鼻梁がよく通って頬骨が高く、眉は物憂げな線を描いている。
(いいお顔立ち)
と思った。面立ちは冷たく鋭いのに、その目に吸い込まれてしまいそうだ。
(でも、だいぶ遊んでるわね)
これが、シダリーズのこの男に対する二番目の印象だった。こういう粗野で危険な魅力のある男性を、女たちは放っておかない。冷たい視線を向けてくるその目が優しく弧を描いたら、きっと多くの女性が虜になることだろう。
シダリーズがまじまじとギイ・ルマレの顔を観察していると、男の薄い唇が開いた。
「領主の命だ。あんたらを俺の屋敷に案内する」
‘狩人さん’がその不機嫌そうな表情よりも優しい声で言った。
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*カクヨム様で先行掲載しております
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