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70 母たる大原則 - Maman Reine -

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 イオネが使用人たちの「奥さま」という呼びかけに対してようやく反応するようになった頃のことだ。
 今まで娘の結婚に対して沈黙を貫いていた母デルフィーヌ・クレテから手紙が届いた。
 宛て名は、『ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・トリスタン・コルネール閣下、イオネ・アリアーヌ・クレテさま』となっている。
 既に母には手紙で結婚したことを報告しているから、本来であればイオネの姓はコルネールと書かれなければならない。
「嫌な予感…」
 なんだか母の機嫌をひどく損ねた気がしてならない。しかし、早々に結婚させることを諦めた一番上の娘が公爵家に嫁いだのだから、異論などあろうはずもなかった。
 エマンシュナ出身の母がルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールの権力を知らないはずがなく、イオネと違って格式や名声に惹かれるたちの彼女ならば大喜びで祝福してくれるだろうと、イオネは当然のように予想していた。
 ところが――
『ルドヴァンでお会いしましょう。二人揃って十日以内にいらっしゃい』
 と、母らしく丸みの少ない筆記体で記された文は、明らかに好意的ではない。
「しかも、ルドヴァンでって、どういうことかしら」
 イオネは首を傾げた。
 母が暮らしているパタロアでもクレテの領地トーレでもなく、敢えてコルネール家の領地ルドヴァンを選んだあたりに、何やら緊張感が漂っている。
 ともあれ、クレテ家では母の命令は絶対だ。
 イオネは死に物狂いで授業の内容を変更し――無論、学生たちも死に物狂いでアリアーヌ教授の授業の速さと課題の量についていかなければならなかった――アルヴィーゼもまた寝る間も削るほどに忙殺され、手紙を受け取ってからぴったり十日後に、ルドヴァンに到着した。

「そろそろ着くぞ」
 アルヴィーゼの声でイオネは目を覚ました。がたがたと揺れる馬車の中へ、夕陽が差し込んでいる。
 いつの間にかアルヴィーゼの膝を枕にしていたらしい。イオネはゆっくりとまぶたを開き、愉しそうにこちらを覗き込んでくるアルヴィーゼをぼんやり見上げた。
「…ん…どこに?」
「寝ぼけているな」
 アルヴィーゼは優しく目元を和らげて、イオネの髪を頬からよけ、額に口付けをした。
「俺の城だ」
 イオネはむくりと起き上がり、アルヴィーゼが視線で指した窓の外を見た。
 よく整備された黒い石畳の街道の両脇には夕陽を浴びて黄金色に輝くユリノキが整然と立ち並び、この緩やかな上り坂の一本道の果てに、一際高い尖塔が聳える荘厳な城が見えた。
 左右対称の白い城郭で、一見して目の痛くなるような派手さはないものの、遠目からでもわかる微細な浮き彫りを施された壁や細やかな金の装飾が施された青石の屋根は、この城の主の洗練された美的感覚とその財力を物語っている。
「外郭には古代の要塞の名残があるけれど、不思議とお城の美麗さとよく調和しているわ。素晴らしい城ね」
「気に入ったようで何よりだ。お前の城でもあるからな」
「あ」
 イオネはアルヴィーゼを振り返って、頬を赤くした。
「そ、そういうことになるのよね」
「自覚が足りないな、公爵夫人」
「まだ公爵夫人じゃないわ。ルメオでは法的に夫婦でも、エマンシュナではまだ婚姻の証明がないもの。特に貴族は国王に認めてもらわないといけないでしょう」
 イオネの言う通り、厳密にはまだエマンシュナでの法的な手続きは済んでいない。ところが、アルヴィーゼは愉しそうに唇を吊り上げた。
「その通りだ、公爵夫人。国王は既に俺の妻が誰か承知している」
「どういうこと?」
 アルヴィーゼは訝しげに眉を寄せたイオネの唇に触れるだけの口付けをした。
 イオネはまだ知らないのだ。
 冬の祝宴で拝謁したときには既に、イオネは国王からアルヴィーゼ・コルネールの妻であると認知されていた上、国王もこの婚姻を逃すなとアルヴィーゼに念押しするほど歓迎している。
 無論、息子同然に目をかけているアルヴィーゼの幸せを願っているというだけではない。その裏には、政治的な目算がある。
 エマンシュナにおける陸上貿易の要衝ルドヴァンの領主とルメオで最も重要な貿易拠点であるトーレの領主一族が姻戚として結びつくことは、エマンシュナ王国にとっても大きな利となるのだ。
「伯父貴どのもお前の才知と力を欲しがっているのさ」
 これもまた事実だ。冬の祝宴で言葉を交わして以降、アリアーヌ・クレテ教授はレオニード王のお気に入りになっている。
「光栄だわ。でも、才知はともかく、力はどうかしら。わたしのクレテ家での立場は、国王陛下の役に立つにはあまりに弱いわよ」
「謙虚だな。俺の妻は」
 アルヴィーゼはニヤリと笑って、もう一度イオネの唇を塞いだ。
(無自覚な女だ)
 いっそ何も持たない女であれば誰の関心も引かずに自分だけのものにできようものを、イオネはあまりに多くの魅力を持ち過ぎている。
(まあ、いい)
 それでこそ征服しがいがあるというものだ。

 ルドヴァン市街地の高い城門をくぐったイオネは、民衆の熱烈な歓迎ぶりに目を見張った。
 まだエマンシュナではイオネがコルネール家の一員になったことは公表されていないはずだが、精鋭の騎兵隊に守られたコルネール家の馬車に領主と共に乗っている貴婦人が誰か、ルドヴァンの人々には容易に想像がついただろう。
 ルドヴァン城の門を抜けると、民衆はアルヴィーゼの手を取って馬車を降りたイオネに向かって、「ようこそ奥方さま」と口々に声を掛けた。
 こんな風に注目を集めるのは初めてだ。イオネはどう反応してよいものか困惑し、表情を作ることも忘れて無表情のままギクシャクとお辞儀をした。
「そう緊張するな。お前の民だぞ」
 アルヴィーゼがイオネの腰に手を添えて甘い声色で囁くと、イオネは安堵するどころかますます顔を赤くした。これくらいの注目には慣れている様子のアルヴィーゼが、何となく小憎らしい。
 そこへ、愛らしい花模様のドレスを着た使用人の娘らしき幼女がトコトコ進み出てきた。女の子がめいっぱい伸ばした小さな手には、スミレの花が一輪握られていた。
「わたしにくれるの?」
 最高の贈り物だ。思わず顔が綻んだ。
 イオネはドレスの裾が地面につくのも気にせず、女の子と同じ目線になるまで屈み、花を受け取った。
「ありがとう。お名前は?」
「アガト」
 舌足らずな発音で女の子が言った。
「嬉しいわ、アガト。あなたが摘んでくれたの?」
「おしろにいっぱい咲いてるの。おくさまにルドヴァンを好きになってほしいから、あげる」
「もう大好きになったわ」
 イオネが微笑むと、女の子は頬を赤くしてウンと頷き、若い両親の元へ駆けて行った。
「注目されるのは苦手だけど、こういうのはなんだか、くすぐったいわね」
 スミレのほのかに甘い香りを吸い込み、イオネが密かに笑った。声色に、嬉しさが滲み出ている。

 アルヴィーゼは高貴な為政者の顔でイオネを使用人たちに紹介したあと、イオネの手を引いて城内へ導いた。
 幾何学模様の大理石が広がるエントランスホールでは、使用人たちがズラリと並んで二人を迎えた。みな主人の帰りを待ち侘びていたのか、嬉しそうだ。アルヴィーゼが彼らにとってよい主であることは、イオネの目には明らかだった。
 そして、中でも最も喜色を露わにしたのは、中央で二人を出迎えたアルヴィーゼの弟ユーグだった。
 ユーグはアルヴィーゼとよく似た目元をくしゃくしゃにし、満面の笑みで兄嫁の前へ進み出た。
「お会いできて光栄です。わたしはユーグ・コルネール。心から歓迎します、イオネ・・・
 アルヴィーゼは眉間に深々と谷を作って、イオネを抱擁しようとしたユーグの肩を掴んだ。
「お前は誰の許しを得て俺の妻を気安く呼ぶんだ」
 ユーグは困惑したが、同時に珍しいものを見たように口元をむずむずと歪めた。面白がっている。
「家族はイオネって呼ぶって聞いたからさ。僕も家族になるんだから、そう呼ぶといいよって」
「誰が言った」
「デルフィ」
「えっ?」
 声を上げたのは、イオネだった。
 ちょうどその時、エントランスホールの奥から、白髪まじりの栗色の髪を上品に束ねた紳士が現れた。紳士は、スカートが釣り鐘型に広がるルメオ風のドレスを纏った貴婦人をエスコートしている。
「来たわね、あなたたち」
 貴婦人がイオネとそっくりの権高な調子で言い、公爵に品定めするような目を向けた。この視線の運ばせ方と言い、話しぶりと言い、イオネが誰に育てられたかは明らかだ。
「初めまして、公爵閣下。わたくしがデルフィーヌ・クレテです」
 イオネはおよそ一年ぶりに見る母の顔を半ば呆れた気持ちで見つめ、次に母の手を優しく取っている背の高い紳士の顔をしげしげと眺めた。年老いても美男子の面影が消えない端正な顔立ちと緑色の目は、アルヴィーゼとよく似ている。

「親父」
 アルヴィーゼが不機嫌さを隠さずに言った。
「二人で何を企んでいる」
「随分なご挨拶だな、ルイ」
 と、ガストン・コルネールは子供の頃のあだ名で息子を呼び、軽快に笑ったあと、目尻の皺をいっそう深くしてイオネに礼をした。完璧な紳士の所作だ。
「やっと会えたね、わたしの娘イオネ。本当に嬉しいよ」
「こ、こちらこそ…」
 イオネは母親の手前、完璧に優雅な所作でお辞儀をしたが、頭は混乱していた。
 母がルドヴァンに滞在しているであろう事は理解していたものの、まさかルドヴァン城に――あまつさえアルヴィーゼの父親と現れるとは思ってもみなかった。
「驚かせたみたいね。公爵閣下から熱烈なお手紙を受け取ってから、ガストン卿とわたくしは手紙で連絡を取り合っていたのですよ。子供同士が夫婦になるというのですから、必要なことでしょう」
 デルフィーヌは殊更ににっこりと笑みを作った。
 イオネは言葉をなくした。
 アルヴィーゼが直接母デルフィーヌに宛てて手紙を書いていたとは知らなかった。が、これについては不思議なことは何もない。この周到な男が何の根回しもなく婚姻の手続きまで行うはずがないのだ。
(それにしても、熱烈って…)
 どんな内容の手紙を送ったのか、知らない方がよさそうだ。
 それよりも驚いたことはむしろ、親同士の親密さだ。イオネはちらりとガストンとデルフィーヌの二人を見た。
「こうして皆で顔を合わせる機会をくださって、感謝しているわ、ガストン卿」
「あなたのためなら容易いことだ、デルフィ。あなたに似て美しく聡明なイオネを嫁に迎えられることを心から嬉しく思うよ」
「まあ。あなたって本当に優しい方ね」
 なんだかしっとりした雰囲気だ。
 イオネが当惑してアルヴィーゼの顔を見上げると、アルヴィーゼもミミズを踏んだ時のような顔でイオネを見た。
「――ですが、わたくしはイオネがルドヴァン公爵夫人になることを認めてはいません」

 アルヴィーゼの射るような視線を跳ね返すように、デルフィーヌは顎を上げた。
 イオネとそっくりな仕草だ。
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