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46 色彩 - beaucoup de couleurs -
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アルヴィーゼがイオネの望み通りルドヴァン風のステップでイオネを導き始めると、周囲の視線がうっとりと二人に注がれた。
公爵を知るものはみな驚いた。あれほど楽しそうに踊る公爵は、誰も見たことがない。
同時に、彼らがイオネにますます興味を持ったことは言うまでもない。少女時代からユルクスにおける華やかな社交界には顔を出さず、学界の関係者でなければほとんど口をきいたこともない厳格な氷の花――イオネ・アリアーヌ・クレテ教授が、微笑みを湛えてあの冷徹な公爵に身を任せている。
無論、注がれるのはうっとりとした視線だけではない。
「今まで殿方に目もくれなかった高尚なクレテ教授も、相手が公爵閣下ほどのお方となれば必死で誘惑するのですね。さすが、お目が高くていらっしゃるわ」
先ほどアルヴィーゼに全く相手にされなかった令嬢だ。取り巻きの令嬢と一緒になって、大広間の中央へ冷ややかな視線を送っている。そこへ、別のニンフが現れた。
「お久しぶり、カミラ・バスティル嬢。バスティル議員といらっしゃったの?」
淡い藤色のドレスをふんわりと可憐に纏ったリディアが、令嬢ににっこりと笑いかけた。令嬢は、天真爛漫な笑顔にたじろいだ。昔から竹を割ったような性格のリディアが苦手なのだ。
「姉妹揃ってユルクスに帰ってきたのね。みなさん婚家と折り合いが悪いのかしら」
リディアはこの嫌みにムッとする様子など微塵も見せず、子供をあしらう調子で肩をすくめた。
「もう。違うって分かってるでしょ?誰かを貶めれば自分が優位に立てるなんて未だに思ってるなら、そろそろ考えを変えた方がいいわ。いい年なんだし。ユルクス大学でイオネの学級に入れなかったからって、逆恨みするのもいい加減にやめなよね」
「なっ…なんですって!」
バスティル議員の令嬢は顔を真っ赤にして言葉を失った。誰がどう見ても、図星を指されたに違いなかった。
「あと、ふふ。ねえ見て。必死で誘惑してるのはうちのイオネお姉さまじゃなくて公爵の方よ。ほら」
「リディア、あなたももうプレヴァン夫人なのだから、お行儀よくなさい」
上品なワイン色のドレスを優美に着こなしたクロリスが、パチリと扇子をリディアの肩に乗せて優艶に微笑んだ。その後ろではニッサが微笑を浮かべて睨みをきかせている。アイスブルーのドレスが更に冷たい色に見えるほどの冷笑だ。
三人ともコルネール家でイオネのために誂えたドレスを借りているから、その洗練された装いはこの大広間の中でも群を抜いていた。その上彼女たちは、いかに自分のためのドレスではなかったとしても、己が美しく見える着こなし方をよく知っている。かつてルメオの社交界の花であった母デルフィーヌ・クレテの美的感覚を、揃って受け継いでいるのだ。
クレテ姉妹の圧倒的な戦力に耐えきれなくなった令嬢たちがすごすごと退散した後、クロリスはぽかんと呆気に取られたマルクに艶然と笑いかけた。
「ごきげんよう、閣下。お目汚しをしてしまったかしら」
「むしろ逆だよ。クレテ姉妹はみんな極上の美人な上に強いんだな」
マルクがカラカラと笑った。彼女たちの豪胆さは、それぞれに個性的で面白い。
「ええ、そうよ」
クロリスがイオネとそっくりな仕草で気高く顎を上げると、リディアとニッサもくすくすと笑った。
「ハハ。しかし、君らの姉さんはすごい人だな。あのアルヴィーゼがベタ惚れだ」
マルクの視線の先には、他の一切を目に映さず、ただ一人イオネだけを優しく見つめて踊るアルヴィーゼの姿がある。
イオネはアルヴィーゼのリードに任せてゆらゆらとステップを踏んでいたが、ようやく慣れてきたところで一歩踏み間違えた。アルヴィーゼが腰を支えて折よくイオネの身体をくるりと回したので、イオネが実はダンスが苦手だと気づいた者はいない。
「何を余所見している」
アルヴィーゼがイオネの耳に直接触れる距離で囁いた。声色がどこか上機嫌に弾んでいる。
「あっちでクロリスがオトニエルさんと踊っているの。あれって不貞にはならないわよね」
無論、踊っているくらいでは不貞になるはずもないが、イオネは妹たち――特にクロリスのかつての奔放さを知っている。自分に会いにきた妹がこんな所で浮気をしようものなら、母親にどやされるのは長女であるイオネだ。
「マルクは女好きだが人妻には手を出さない。妹たちを一人ずつダンスに誘った後は適当に別の女に声をかけるさ」
「ならいいけど」
「気になるならあいつに言っておこう。お前の妹たちに話しかけるのは金輪際禁じると」
「ふふ。そこまでしなくても」
イオネがおかしそうに笑い声をあげた。
「あなたが信頼すると言うなら信じるわ。彼、いい人だし」
「いい人?」
ぐい、と腰を引き寄せられて、イオネはバランスを崩した。弓形に反った腰を支えたまま、アルヴィーゼが上体を前傾させて迫ってくる。
「お前はああいう軽薄な男が好きなのか」
「確かに軽薄そうだと思ったけど、話してみたら案外博識で面白い人だったわ。任務で赴いた国の話も興味深いもの。わたしみたいな学者の視点と軍人の視点では、同じ花でも葉を見るか花弁を見るかくらいの違いが――」
イオネはその先を続けることができなかった。どういうわけかアルヴィーゼが俄に不機嫌そうに目を細め、覆い被さるような体勢のまま身を乗り出してイオネの唇を塞いだからだ。
「んん!ちょっと…!」
顔から火が出るかと思った。ただでさえ注目を浴びているというのに、妹たちを含む大勢の目の前で突然口付けするなんて無作法が過ぎる。
「他のことに気を取られるお前が悪い」
「何よそれ!」
「ほら、ダンスは終わっていないぞ」
アルヴィーゼが意地悪く笑ってイオネの身体を抱き上げ、曲に合わせてふわりと一回転した。その間、イオネを不埒な目で見ていた男たちが凍り付くような視線に肝を冷やしたことを、イオネは知らない。
その後もアルヴィーゼがイオネから手を離すことはなかった。
主催者としての挨拶回りだけでなく、お偉方が奥方たちとともに興じているカードゲームの席にもイオネを伴い、ゲームが進行している間も指を絡めてきたり、甘い視線で他愛もないことを語りかけてきたりと、あからさまなほどだ。
イオネは相手に対して特に愛想良くすることもなく、ただアルヴィーゼの接触に逐一顔色が変わってしまうのを堪えて無表情を取り繕った。
宴を主催する側の人間として立ち回るうちに、アルヴィーゼはイオネの新しい顔を知ることになった。
イオネは他人に興味がない割に、会話や行動の中から相手の美徳を見出し、それを何気ない言葉にして伝えるのが上手い。それだけでなく、言葉の訛りや名前から相手の出身地を特定し、その土地に纏わる逸話や名産物の話をして相手を喜ばせると言う特技も発揮した。それも、どういうわけか土地のものでなければ知らないようなことも知っているから、その教養深さと記憶力に多くの者が驚くことになった。
(しかし、いただけないな)
周囲の人間がイオネの魅力を知れば知るほど、アルヴィーゼの機嫌が斜めに傾いていく。
今まで人付き合いが希薄で愛想のない才媛としかイオネを認識していなかった者たちが、その真の魅力を知ってしまったのだ。これまで以上に害虫が湧くに違いない。
アルヴィーゼが二度目のダンスにイオネを誘おうとしたとき、ドミニクが最後の賓客の到着を告げた。ヴィクトル・フラヴァリ老公である。
「さて、アルヴィーゼ・コルネール閣下――」
イオネを抱きしめて挨拶を交わした後、ヴィクトル老公が白い髭の下で穏やかに笑った。
「チョイと二人で話せるかな」
拒否権はない。隠居しているとはいえ、未だに共和国の重鎮であり、何よりイオネの後見人だ。
「喜んで」
アルヴィーゼは礼儀正しく微笑して承諾し、イオネの頬に口付けをした。イオネが不服そうに眉を寄せたのは、自分だけ蚊帳の外に置かれることに納得いかないからだ。
「あら、わたしはお邪魔なの?ノンノ・ヴェッキオ」
「男同士の会話というやつだよ、イオネ。妹たちとゆっくりしておいで」
「もう」
目尻の皺を深くしたヴィクトル老公に向かって、イオネは目をぎょろりとさせて見せた。祖父代わりとして、イオネと同じ屋敷で暮らすアルヴィーゼの為人を知りたいのだろう。が、イオネはヴィクトル老公が誰にでも愛情深く世話好きなノンノの顔を見せるわけではないことをよく知っている。
(大丈夫かしら)
アルヴィーゼはイオネの視線に気付くと、ニヤリと笑っていつもより少しだけ膨らんだ頬に口付けをした。
「心配要らない。すぐ戻る」
そう言って優雅な所作でヴィクトル老公を大広間の出入り口へと促し、去り際にドミニクにだけ聞こえる声で命じた。
「他の男を近付けるな」
「承知しました」
厳命だ。ソニアがそばにいれば命令の遂行は比較的容易になるが、生憎ソニアはイオネの意向で妹たちに付いている。
「はぁ…」
ドミニクは身震いするような思いで主人の言いつけを反芻し、イオネを中庭へ案内することにした。少なくとも、外にいればダンスに誘おうとする男は寄ってこないはずだと踏んだのだ。
アルヴィーゼがヴィクトル老公を案内したのは、大広間の奥にある応接間だった。夥しい数の異国の酒が大きなキャビネットに並べられ、貿易商人たちの守り神である海の女神オスイアが力強い筆致で描かれた絵画が、奥の壁面に飾られている。
「‘ソラグレン’でいいですか。ヴィクトル・フラヴァリ閣下」
アルヴィーゼがキャビネットからロックグラスを二つ取り出して片手で持ち、もう一方の手で濃い琥珀色をした蒸留酒を取った。
「酒の好みも調査済みかね」
「これはイオネから聞きました。二年前にご友人の葬儀で振る舞われて以来気に入って毎晩飲んでいると」
「イオネは君にそんなことも話すのか」
ヴィクトル老公の楽しそうな声色に、驚きが混じっている。
アルヴィーゼはグラスの三分の一ほどまで酒を注いでヴィクトル老公の目の前に置き、自分にはその倍の量を注いだ。
「近頃は健康のために控えているとも聞いています」
「あの子は君の前ではおしゃべりになるようだね」
ヴィクトル老公は笑い声をあげてアルヴィーゼとグラスを触れ合わせ、酒に口を付けた。
「この年になっても驚きという感情は絶えず起きるものだね。あのイオネが、恋に落ちるとは」
春の野風がそよいでいるような表情だ。その目には、幼いイオネが映っているに違いない。
「光栄なことに」
アルヴィーゼの唇が緩んだのは、見せかけの微笑ではない。ヴィクトル老公の目が柔らかく弧を描いた。
「わたしがあの子によく弾かせる組曲の『春』はね、演奏者の感情がよくわかるんだ。音が空気に色を付けるように見えるんだよ。幼い頃はたくさんの淡い色彩が見えたものだ。好奇心旺盛でいつも新しい発見を待っている、小さなイオネの色彩がね。だがイシドールが亡くなってからは、まるで雪が降る前のグリージョ・ギアッチョだ。期待は、呪いみたいなものだ。イオネは強い子だから、父親の期待を燃料にして学問の旅を必死に続けてきたんだよ。絶対に顔には出さないがね。だが燃料は灰になるだろう。あの子の人生の炎はすべて学問に捧げられてしまうのではないかと、それがどうにも、勿体なくてね。あの子は本当はもっとたくさんのものを愛せるはずだから」
ヴィクトル老公はもう一度グラスに口を付け、小さく息をついた。
イオネがこの血縁者でもない老爺を深く慕う理由がよく分かる。イオネが盟友の孫であるということや、その才能以前に、イオネ自身の存在を愛しているのだ。それも、惜しみなく、肉親よりも深い愛情を注いでいる。
アルヴィーゼの考えが正しければ、男ばかりの学界に身を置いているにもかかわらず、イオネほどの女が今まで貞操の危機に晒されなかったのは、背後にこの老公がいたからだろう。学界においても政界においても影響力の大きいヴィクトル・フラヴァリを知る者は、この重鎮がどれほどイオネに目を掛けているかをよく知っているのだ。
「それが、驚いた。近頃のイオネは音色で春の花をたくさん咲かせるんだ。君がもう一度色を付けたんだろうね」
「イオネの色彩は――」
アルヴィーゼは緩んだ口元を無意識のうちに隠そうとして、グラスを口に付けた。
「もともとイオネが持っていたものです。わたしといることで音が色付いたというなら、イオネが無意識のうちに忘れていたものを、わたしの入り込んだ隙間から自分で見つけたということでしょう」
「そうとも言える。だが一人では出すことのできない色だ。化学反応というやつだね。薄紅葵の茶にレモンを合わせたときのような」
「ふ」
アルヴィーゼが笑みを漏らしたのを、ヴィクトル老公は目を見開いて少し意外そうに見た。
「失礼。ものの喩え方がイオネと似ているので。あなたが比喩の師でしたか」
ヴィクトル老公は快活に笑った。八十五歳の笑い声にしては、随分と若々しい。
「他にもたくさんのことを教えたとも。公爵はエシェックをするかね」
「無論。ヴィクトル・フラヴァリ閣下にお相手いただけるなら、手加減はしません」
アルヴィーゼはキャビネットの下の段から盤と駒の入った木箱を出し、円卓に置いた。
「閣下が勝ったらこの部屋にある酒をいくつでも差し上げます」
「君が勝ったら?」
「イオネが小さい頃の肖像画を。あなたならお持ちでしょう」
アルヴィーゼは微笑して駒を並べ始めた。これは、闘争心を隠した作り笑いだ。
公爵を知るものはみな驚いた。あれほど楽しそうに踊る公爵は、誰も見たことがない。
同時に、彼らがイオネにますます興味を持ったことは言うまでもない。少女時代からユルクスにおける華やかな社交界には顔を出さず、学界の関係者でなければほとんど口をきいたこともない厳格な氷の花――イオネ・アリアーヌ・クレテ教授が、微笑みを湛えてあの冷徹な公爵に身を任せている。
無論、注がれるのはうっとりとした視線だけではない。
「今まで殿方に目もくれなかった高尚なクレテ教授も、相手が公爵閣下ほどのお方となれば必死で誘惑するのですね。さすが、お目が高くていらっしゃるわ」
先ほどアルヴィーゼに全く相手にされなかった令嬢だ。取り巻きの令嬢と一緒になって、大広間の中央へ冷ややかな視線を送っている。そこへ、別のニンフが現れた。
「お久しぶり、カミラ・バスティル嬢。バスティル議員といらっしゃったの?」
淡い藤色のドレスをふんわりと可憐に纏ったリディアが、令嬢ににっこりと笑いかけた。令嬢は、天真爛漫な笑顔にたじろいだ。昔から竹を割ったような性格のリディアが苦手なのだ。
「姉妹揃ってユルクスに帰ってきたのね。みなさん婚家と折り合いが悪いのかしら」
リディアはこの嫌みにムッとする様子など微塵も見せず、子供をあしらう調子で肩をすくめた。
「もう。違うって分かってるでしょ?誰かを貶めれば自分が優位に立てるなんて未だに思ってるなら、そろそろ考えを変えた方がいいわ。いい年なんだし。ユルクス大学でイオネの学級に入れなかったからって、逆恨みするのもいい加減にやめなよね」
「なっ…なんですって!」
バスティル議員の令嬢は顔を真っ赤にして言葉を失った。誰がどう見ても、図星を指されたに違いなかった。
「あと、ふふ。ねえ見て。必死で誘惑してるのはうちのイオネお姉さまじゃなくて公爵の方よ。ほら」
「リディア、あなたももうプレヴァン夫人なのだから、お行儀よくなさい」
上品なワイン色のドレスを優美に着こなしたクロリスが、パチリと扇子をリディアの肩に乗せて優艶に微笑んだ。その後ろではニッサが微笑を浮かべて睨みをきかせている。アイスブルーのドレスが更に冷たい色に見えるほどの冷笑だ。
三人ともコルネール家でイオネのために誂えたドレスを借りているから、その洗練された装いはこの大広間の中でも群を抜いていた。その上彼女たちは、いかに自分のためのドレスではなかったとしても、己が美しく見える着こなし方をよく知っている。かつてルメオの社交界の花であった母デルフィーヌ・クレテの美的感覚を、揃って受け継いでいるのだ。
クレテ姉妹の圧倒的な戦力に耐えきれなくなった令嬢たちがすごすごと退散した後、クロリスはぽかんと呆気に取られたマルクに艶然と笑いかけた。
「ごきげんよう、閣下。お目汚しをしてしまったかしら」
「むしろ逆だよ。クレテ姉妹はみんな極上の美人な上に強いんだな」
マルクがカラカラと笑った。彼女たちの豪胆さは、それぞれに個性的で面白い。
「ええ、そうよ」
クロリスがイオネとそっくりな仕草で気高く顎を上げると、リディアとニッサもくすくすと笑った。
「ハハ。しかし、君らの姉さんはすごい人だな。あのアルヴィーゼがベタ惚れだ」
マルクの視線の先には、他の一切を目に映さず、ただ一人イオネだけを優しく見つめて踊るアルヴィーゼの姿がある。
イオネはアルヴィーゼのリードに任せてゆらゆらとステップを踏んでいたが、ようやく慣れてきたところで一歩踏み間違えた。アルヴィーゼが腰を支えて折よくイオネの身体をくるりと回したので、イオネが実はダンスが苦手だと気づいた者はいない。
「何を余所見している」
アルヴィーゼがイオネの耳に直接触れる距離で囁いた。声色がどこか上機嫌に弾んでいる。
「あっちでクロリスがオトニエルさんと踊っているの。あれって不貞にはならないわよね」
無論、踊っているくらいでは不貞になるはずもないが、イオネは妹たち――特にクロリスのかつての奔放さを知っている。自分に会いにきた妹がこんな所で浮気をしようものなら、母親にどやされるのは長女であるイオネだ。
「マルクは女好きだが人妻には手を出さない。妹たちを一人ずつダンスに誘った後は適当に別の女に声をかけるさ」
「ならいいけど」
「気になるならあいつに言っておこう。お前の妹たちに話しかけるのは金輪際禁じると」
「ふふ。そこまでしなくても」
イオネがおかしそうに笑い声をあげた。
「あなたが信頼すると言うなら信じるわ。彼、いい人だし」
「いい人?」
ぐい、と腰を引き寄せられて、イオネはバランスを崩した。弓形に反った腰を支えたまま、アルヴィーゼが上体を前傾させて迫ってくる。
「お前はああいう軽薄な男が好きなのか」
「確かに軽薄そうだと思ったけど、話してみたら案外博識で面白い人だったわ。任務で赴いた国の話も興味深いもの。わたしみたいな学者の視点と軍人の視点では、同じ花でも葉を見るか花弁を見るかくらいの違いが――」
イオネはその先を続けることができなかった。どういうわけかアルヴィーゼが俄に不機嫌そうに目を細め、覆い被さるような体勢のまま身を乗り出してイオネの唇を塞いだからだ。
「んん!ちょっと…!」
顔から火が出るかと思った。ただでさえ注目を浴びているというのに、妹たちを含む大勢の目の前で突然口付けするなんて無作法が過ぎる。
「他のことに気を取られるお前が悪い」
「何よそれ!」
「ほら、ダンスは終わっていないぞ」
アルヴィーゼが意地悪く笑ってイオネの身体を抱き上げ、曲に合わせてふわりと一回転した。その間、イオネを不埒な目で見ていた男たちが凍り付くような視線に肝を冷やしたことを、イオネは知らない。
その後もアルヴィーゼがイオネから手を離すことはなかった。
主催者としての挨拶回りだけでなく、お偉方が奥方たちとともに興じているカードゲームの席にもイオネを伴い、ゲームが進行している間も指を絡めてきたり、甘い視線で他愛もないことを語りかけてきたりと、あからさまなほどだ。
イオネは相手に対して特に愛想良くすることもなく、ただアルヴィーゼの接触に逐一顔色が変わってしまうのを堪えて無表情を取り繕った。
宴を主催する側の人間として立ち回るうちに、アルヴィーゼはイオネの新しい顔を知ることになった。
イオネは他人に興味がない割に、会話や行動の中から相手の美徳を見出し、それを何気ない言葉にして伝えるのが上手い。それだけでなく、言葉の訛りや名前から相手の出身地を特定し、その土地に纏わる逸話や名産物の話をして相手を喜ばせると言う特技も発揮した。それも、どういうわけか土地のものでなければ知らないようなことも知っているから、その教養深さと記憶力に多くの者が驚くことになった。
(しかし、いただけないな)
周囲の人間がイオネの魅力を知れば知るほど、アルヴィーゼの機嫌が斜めに傾いていく。
今まで人付き合いが希薄で愛想のない才媛としかイオネを認識していなかった者たちが、その真の魅力を知ってしまったのだ。これまで以上に害虫が湧くに違いない。
アルヴィーゼが二度目のダンスにイオネを誘おうとしたとき、ドミニクが最後の賓客の到着を告げた。ヴィクトル・フラヴァリ老公である。
「さて、アルヴィーゼ・コルネール閣下――」
イオネを抱きしめて挨拶を交わした後、ヴィクトル老公が白い髭の下で穏やかに笑った。
「チョイと二人で話せるかな」
拒否権はない。隠居しているとはいえ、未だに共和国の重鎮であり、何よりイオネの後見人だ。
「喜んで」
アルヴィーゼは礼儀正しく微笑して承諾し、イオネの頬に口付けをした。イオネが不服そうに眉を寄せたのは、自分だけ蚊帳の外に置かれることに納得いかないからだ。
「あら、わたしはお邪魔なの?ノンノ・ヴェッキオ」
「男同士の会話というやつだよ、イオネ。妹たちとゆっくりしておいで」
「もう」
目尻の皺を深くしたヴィクトル老公に向かって、イオネは目をぎょろりとさせて見せた。祖父代わりとして、イオネと同じ屋敷で暮らすアルヴィーゼの為人を知りたいのだろう。が、イオネはヴィクトル老公が誰にでも愛情深く世話好きなノンノの顔を見せるわけではないことをよく知っている。
(大丈夫かしら)
アルヴィーゼはイオネの視線に気付くと、ニヤリと笑っていつもより少しだけ膨らんだ頬に口付けをした。
「心配要らない。すぐ戻る」
そう言って優雅な所作でヴィクトル老公を大広間の出入り口へと促し、去り際にドミニクにだけ聞こえる声で命じた。
「他の男を近付けるな」
「承知しました」
厳命だ。ソニアがそばにいれば命令の遂行は比較的容易になるが、生憎ソニアはイオネの意向で妹たちに付いている。
「はぁ…」
ドミニクは身震いするような思いで主人の言いつけを反芻し、イオネを中庭へ案内することにした。少なくとも、外にいればダンスに誘おうとする男は寄ってこないはずだと踏んだのだ。
アルヴィーゼがヴィクトル老公を案内したのは、大広間の奥にある応接間だった。夥しい数の異国の酒が大きなキャビネットに並べられ、貿易商人たちの守り神である海の女神オスイアが力強い筆致で描かれた絵画が、奥の壁面に飾られている。
「‘ソラグレン’でいいですか。ヴィクトル・フラヴァリ閣下」
アルヴィーゼがキャビネットからロックグラスを二つ取り出して片手で持ち、もう一方の手で濃い琥珀色をした蒸留酒を取った。
「酒の好みも調査済みかね」
「これはイオネから聞きました。二年前にご友人の葬儀で振る舞われて以来気に入って毎晩飲んでいると」
「イオネは君にそんなことも話すのか」
ヴィクトル老公の楽しそうな声色に、驚きが混じっている。
アルヴィーゼはグラスの三分の一ほどまで酒を注いでヴィクトル老公の目の前に置き、自分にはその倍の量を注いだ。
「近頃は健康のために控えているとも聞いています」
「あの子は君の前ではおしゃべりになるようだね」
ヴィクトル老公は笑い声をあげてアルヴィーゼとグラスを触れ合わせ、酒に口を付けた。
「この年になっても驚きという感情は絶えず起きるものだね。あのイオネが、恋に落ちるとは」
春の野風がそよいでいるような表情だ。その目には、幼いイオネが映っているに違いない。
「光栄なことに」
アルヴィーゼの唇が緩んだのは、見せかけの微笑ではない。ヴィクトル老公の目が柔らかく弧を描いた。
「わたしがあの子によく弾かせる組曲の『春』はね、演奏者の感情がよくわかるんだ。音が空気に色を付けるように見えるんだよ。幼い頃はたくさんの淡い色彩が見えたものだ。好奇心旺盛でいつも新しい発見を待っている、小さなイオネの色彩がね。だがイシドールが亡くなってからは、まるで雪が降る前のグリージョ・ギアッチョだ。期待は、呪いみたいなものだ。イオネは強い子だから、父親の期待を燃料にして学問の旅を必死に続けてきたんだよ。絶対に顔には出さないがね。だが燃料は灰になるだろう。あの子の人生の炎はすべて学問に捧げられてしまうのではないかと、それがどうにも、勿体なくてね。あの子は本当はもっとたくさんのものを愛せるはずだから」
ヴィクトル老公はもう一度グラスに口を付け、小さく息をついた。
イオネがこの血縁者でもない老爺を深く慕う理由がよく分かる。イオネが盟友の孫であるということや、その才能以前に、イオネ自身の存在を愛しているのだ。それも、惜しみなく、肉親よりも深い愛情を注いでいる。
アルヴィーゼの考えが正しければ、男ばかりの学界に身を置いているにもかかわらず、イオネほどの女が今まで貞操の危機に晒されなかったのは、背後にこの老公がいたからだろう。学界においても政界においても影響力の大きいヴィクトル・フラヴァリを知る者は、この重鎮がどれほどイオネに目を掛けているかをよく知っているのだ。
「それが、驚いた。近頃のイオネは音色で春の花をたくさん咲かせるんだ。君がもう一度色を付けたんだろうね」
「イオネの色彩は――」
アルヴィーゼは緩んだ口元を無意識のうちに隠そうとして、グラスを口に付けた。
「もともとイオネが持っていたものです。わたしといることで音が色付いたというなら、イオネが無意識のうちに忘れていたものを、わたしの入り込んだ隙間から自分で見つけたということでしょう」
「そうとも言える。だが一人では出すことのできない色だ。化学反応というやつだね。薄紅葵の茶にレモンを合わせたときのような」
「ふ」
アルヴィーゼが笑みを漏らしたのを、ヴィクトル老公は目を見開いて少し意外そうに見た。
「失礼。ものの喩え方がイオネと似ているので。あなたが比喩の師でしたか」
ヴィクトル老公は快活に笑った。八十五歳の笑い声にしては、随分と若々しい。
「他にもたくさんのことを教えたとも。公爵はエシェックをするかね」
「無論。ヴィクトル・フラヴァリ閣下にお相手いただけるなら、手加減はしません」
アルヴィーゼはキャビネットの下の段から盤と駒の入った木箱を出し、円卓に置いた。
「閣下が勝ったらこの部屋にある酒をいくつでも差し上げます」
「君が勝ったら?」
「イオネが小さい頃の肖像画を。あなたならお持ちでしょう」
アルヴィーゼは微笑して駒を並べ始めた。これは、闘争心を隠した作り笑いだ。
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結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。
俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜
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