高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

文字の大きさ
上 下
46 / 78

45 美は力 - la Beauté est une Force -

しおりを挟む
 大学から帰ってきたイオネは、ややうんざりした気分でソニアや女中たちのされるがままになっていた。
 ここに三人の妹たちも加わっているから、さらに賑やかだ。宴のたびに母にせっつかれ、妹たちには人形遊びのようにあれこれと着せられていたかつての少女時代を思い出す。
 それも、毎回イオネが舌を巻くほど器用なもので、姉妹四人分のドレスが押し込められた古びたワードローブからあれこれと引っ張り出しては流行のスタイルに自分たちで直したり、着方を変えアレンジを加えるなどして姉妹で着回したりしていた。中でもクロリスの独創性は群を抜いていて、いつも宴で真新しいドレスを着ているように鮮やかな手腕だった。イオネだけはユルクス大学に入ってからというもの、学業を理由に煩わしい社交界から距離を置いたが、妹たちは結婚するまでユルクスの社交界の花として君臨していた。
 しかし、今目の前にあるのは、古びたワードローブなどではない。
「こんなにたくさん綺麗なのがあったらどれにしようか迷っちゃうね」
 イオネがドレスについて言葉を発するよりも先に、リディアはいつの間にかイオネ専用に用意されていた衣装部屋を覗いていた。
「これって半分はソニアの意匠なんですって?すごい才能だわ。どれもイオネによく似合いそうなものばかり」
「あっ、これ今流行ってるやつ!しかもルーデシャンのレース使ってる!最高級品よ」
「どれどれ」
 妹たちはひとしきり騒いだ後、光沢のある孔雀石色のドレスを選んだ。襟が肩まで大きく開き、滑らかに広がるスカートの深いスリットから繊細なレースが覗くものだ。
 彼女たちがこの色を選んだ意図は、何となく分かる。アルヴィーゼの目の色に近い色味のドレスを身に纏うことで、ふたりの親密さを大いに印象づけようとしているのだろう。
「ねえ、わたしの意志は?」
 イオネはむくれた。着るのは自分なのに、どれが良いかさえ訊かれない。
「イオネが選んだら地味ぃーで気難しそぉーなやつになっちゃうでしょ。外国からも賓客が来るっていうんだから、それなりに着飾らないとだめよ。いくら顔が美人でもね、公爵家の大宴会で野暮ったい格好したら舐められるわ」
「う…」
「いい?独身で美男で金持ちの公爵には、娘を嫁がせたいオジサンオバサンと結婚したい小娘たちがたくさん群がってくるわよ」
 昔から社交界で女性同士の激しい闘争に身を投じてきたクロリスには、勝利者としての威厳がある。イオネがこの弁舌を大人しく聞くことにしたのは、クロリスは謂わばこの分野における有識者だからだ。
「美しさは力よ。兵法と同じ。かおは将、ドレスは兵、装身具は武器。例え将がポンコツでも、大砲に玉が入っていなくても、めちゃくちゃ強そうに見えれば先制攻撃は成功よ。目に見える戦力の差が敵を圧倒するの。相手の、戦意を、挫くのよ。そして軍師の戦術で、敵を完膚なきまでに叩き潰すのよ」
 クロリスが深い青の目をくゎっと見開いた。まるで本当に兵士たちを率いる将軍のように力強い。
「軍師って?」
 リディアが訊ねた。
「知性のことよ。イオネには誰よりも優れた軍師がいるでしょ。ちょっと偏ってるけど」
「なるほど、道理ね」
 神妙に頷いたイオネのそばで、ニッサがギロリとクロリスを睨め付けた。
「ちょっと、イオネはポンコツじゃないわよ。あなたそんなだから女狐って呼ばれてたのよ」
「ただの例えじゃない!いちいち揚げ足とらないでよ、この姉狂い」
「姉狂いって何よ。変な呼び方しないで」
「本当のことでしょ」
 リディアは突如始まった姉妹喧嘩にケラケラと笑い声を上げながら、イオネの首飾りを選んでいる。
「これ、素敵」
 と手に取ったのは、ブロスキ邸の夜会の時に新調した真珠の首飾りだ。
「今夜の武器・・の一つはそれにするわ。気に入っているの。以前自分でドレスを仕立てたついでにソニアが予算に合わせて選んでくれたのよ。彼女優秀でしょう」
 イオネが誇らしげに言うと、イオネの髪を結っていたソニアは一瞬だけ口元を強張らせ、言葉なくにっこりと微笑んだ。
「えっ、ほんと?イオネが装飾品にこんなにお金かけると思わなかった。だってこれ…」
 リディアはぴたりと口を閉じた。ソニアがイオネの後ろでぷるぷると首を振り、何か必死に訴えるような目をしていたからだ。いくつもの鉱山を持つ宝石商の一族に嫁いだリディアは、その分野の経験が浅い割に夫や舅も舌を巻くほどの目利きだ。一見慎ましやかな首飾りの真珠そのものと彫金技術にどれほどの値打ちがあるか、一目で理解した。
 しかし、ソニアの様子からするとそれを口にしてはいけないようだ。なんとなく、この首飾りにまつわる物語が見えた気がした。
「…ま、いっか。大事にしなよぉ」
 リディアは首飾りを鏡の前の台にそっと置いた。

 アルヴィーゼは絢爛に整えられた大広間で、続々と集まり始めた招待客と挨拶を交わしていた。友好的な笑顔の裏で、彼ら一人一人を品定めしている。ユルクスに本拠地を構える商会の大旦那やその関係者、ルメオの港を多く使っている異国の貿易商、領地に貿易港を持つ貴族豪族や、隣国イノイルの王族、エル・ミエルドの皇家に連なる身分の者までこの夜宴に集まった。中にはひと月の航海の末にこの宴のためにユルクスまで足を運んだ者もいる。ルドヴァン公爵の宴となれば、それほどの価値があるのだ。
「よお、親友!」
 と陽気に現れた軍装の偉丈夫は、マルクだ。背が高く精悍な美男のアルヴィーゼと、軍人らしく厳めしい体付きに似合わず甘い顔立ちのマルクが並ぶと、そこに視線が集中する。エマンシュナの社交界では花形の二人だ。
「お前は呼んでいない」
「呼ばれなくても晴れ舞台に駆けつけるのが親友だろ?」
 マルクは邪心など微塵もない顔でキラキラと笑った。目立つことの好きな男だから、招待などしなくてものこのこやって来るだろうと思っていたのだ。
「どうせ女を漁りに来たんだろう」
「漁るなんて言い方は女性に失礼だ、アルヴィーゼ。俺は心躍るような出会いを求めてるんだよ。この機会を利用させてくれたっていいだろ」
「まあ、いい。お前には借りがあるからな」
 アルヴィーゼは給仕から瓶を受け取り、空になったマルクのグラスに注いでやった。珍しくこの無遠慮な男へ客人に対する礼を示したのは、少なからず今回の件を感謝しているからだ。
「気にするなよ、親友だろ」
「違う」
「ああ、ほら見ろ。さっそく出会いが向こうからやってきた」
 マルクは上機嫌に片目を瞑って見せた。楽団の奏でる華やかな曲でダンスに興じる人々の間を縫って、若い令嬢が二人、チラチラと意味ありげな視線を送りながら近づいて来る。
 視線を送ってくるのは彼女たちだけではない。アルヴィーゼの予想通り、多くの招待客が年頃の令嬢を同伴していた。珍しくもないことだ。
 そういう類の気が向かない面倒事はいつも余計な恨みを買わない程度に流してきた。相手が世慣れた貴婦人であれば、気が向いた時にはその場限りの関係を持つこともあったが、もはやそういうことは起こり得ない。
 豪奢に着飾った令嬢たちは恭しくお辞儀をすると、科を作るような笑みを広げた。
「わたくしたちにダンスの手ほどきをお願いできませんか」
 選ばれる自信があるのだろう。そう言ってアルヴィーゼの腕に触れてきた令嬢の一人は、共和国議員の娘だ。
「先約がある」
 アルヴィーゼは煩わしさを隠さずに腕を上げて令嬢の手を払いのけた。相手は気分を害したようだが、公爵たる己が気にしなければならないことではない。
「先約のお相手というのは、もしやアリアーヌ・クレテ教授では?」
 その名を呼ぶ声色が刺すように鋭い。同じ貴族階級の女でありながら自立しているイオネに嫉妬しているのだろう。或いは、両親から古臭い価値観を植え付けられて身の程も弁えず軽侮しているのかもしれない。
「ご自身の楽しみよりもお仕事上の礼儀を重んじるなんて、閣下は勤勉なのですね。ですが、クレテ教授は宴の場でも美しさより厳格さを重視される方ですから、閣下とのダンスには少々気後れされるのではないでしょうか」
 つまりイオネが公言している通り仕事上の関係である以上は、あんな野暮ったい女と公爵が踊る義理はないだろうと言っているのだ。明らかに社交的ではないイオネを揶揄している口ぶりだ。しかも、自分と踊る方が楽しいなどと思い上がっている。
(気分の悪い女だ)
 わざわざ口を開くのも億劫だ。
 この時アルヴィーゼが見せた冷酷な目に、令嬢は怯えたようだった。
 アルヴィーゼが凍りつかせた空気を陽気に溶かすのは、いつもマルクの役目だ。マルクが話題を変え、自分と大広間のどこかにいる部下に相手をさせてほしいと申し出て取り成そうとした時、大広間の空気が変わった。それまで鳴り響いていた軽やかな協奏曲が遠くなり、風が大広間中の燭台の火を揺らした。
 開け放たれた大きなアーチを描くガラス扉の向こうは、いくつものランプが柔らかく草花を照らす中庭だ。ステンドグラスの灯りが中庭の石畳に色彩を落とし、おとぎ話に登場する妖精の森のような空気が漂っている。その奥から現れた女たちの姿を、多くの者がニンフと見間違えただろう。
 アルヴィーゼは脇目も振らずに中庭の入り口へ進み出ると、孔雀石色のドレスを纏った美女の目の前で立ち止まった。
 白い肌が、胡桃色の髪が、燐光を放つように輝いている。
 アルヴィーゼはその柔らかい手を取って、指先に口付けをした。
 いつものような不敵な笑みはなく、軽口もない。ただ、感情を映すのを忘れてしまったような顔でイオネの顔を覗き込んでいる。イオネが緊張に耐えかねて唇を噛むと、エメラルドの瞳の奥に甘やかな熱が広がった。
「誰よりも美しい。俺のイオネ・アリアーヌ」
 イオネの頬がぱあっと染まった。
「ど」
 と唇が開いたとき、紅の色もいつもと違うことに気付いた。淡いが、いつもより濃い。長く激しい口付けをした後の色を思い出す。
「どうもありがとう…」
 顔に出さないようにしているようだが、声色がひどく恥ずかしそうに上擦っていた。
(さっさと終わらせよう)
 何束にも編み込まれ、美しく纏められた髪の後ろで魅惑的な細い首が露わになり、大きく開いた襟からは嫋やかな肩が覗いている。その肌を飾っているものは、アルヴィーゼがこっそり贈った真珠の首飾りだけだ。
(気付かぬうちに自ら首輪を嵌めてくるとは)
 どうにも口元が緩むのが我慢できない。早くあの首に噛みつきたくて仕方がない。
「最初のダンスだ、イオネ」
 大広間中の人々が、二人を見ている。
 アルヴィーゼはたった今、恐らくこの大都市ユルクスにおいて最も影響力を持つであろう人々の前で、初めて自ら明示したのだ。イオネ・アリアーヌ・クレテが、ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールの恋人であることを。
 イオネは凜然と顎を上げて、アルヴィーゼの手を握り返した。
「ルドヴァン風にして」
「いいだろう」
 アルヴィーゼが唇を吊り上げた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

氷の騎士様は実は太陽の騎士様です。

りつ
恋愛
 イリスの婚約者は幼馴染のラファエルである。彼と結婚するまで遠い修道院の寄宿学校で過ごしていたが、十八歳になり、王都へ戻って来た彼女は彼と結婚できる事実に胸をときめかせていた。しかし両親はラファエル以外の男性にも目を向けるよう言い出し、イリスは戸惑ってしまう。  王女殿下や王太子殿下とも知り合い、ラファエルが「氷の騎士」と呼ばれていることを知ったイリス。離れている間の知らなかったラファエルのことを令嬢たちの口から聞かされるが、イリスは次第に違和感を抱き始めて…… ※他サイトにも掲載しています ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

好きだと言われて、初めて気づくこともある。

りつ
恋愛
 自分の気持ちにも、好きな人の気持ちにも。 ※「小説家になろう」にも掲載しています。

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

契約結婚のはずが、幼馴染の御曹司は溺愛婚をお望みです

紬 祥子(まつやちかこ)
恋愛
旧題:幼なじみと契約結婚しましたが、いつの間にか溺愛婚になっています。 夢破れて帰ってきた故郷で、再会した彼との契約婚の日々。 ★第17回恋愛小説大賞(2024年)にて、奨励賞を受賞いたしました!★ ☆改題&加筆修正ののち、単行本として刊行されることになりました!☆ ※作品のレンタル開始に伴い、旧題で掲載していた本文は2025年2月13日に非公開となりました。  お楽しみくださっていた方々には申し訳ありませんが、何卒ご了承くださいませ。

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろうにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

次期騎士団長の秘密を知ってしまったら、迫られ捕まってしまいました

Karamimi
恋愛
侯爵令嬢で貴族学院2年のルミナスは、元騎士団長だった父親を8歳の時に魔物討伐で亡くした。一家の大黒柱だった父を亡くしたことで、次期騎士団長と期待されていた兄は騎士団を辞め、12歳という若さで侯爵を継いだ。 そんな兄を支えていたルミナスは、ある日貴族学院3年、公爵令息カルロスの意外な姿を見てしまった。学院卒院後は騎士団長になる事も決まっているうえ、容姿端麗で勉学、武術も優れているまさに完璧公爵令息の彼とはあまりにも違う姿に、笑いが止まらない。 お兄様の夢だった騎士団長の座を奪ったと、一方的にカルロスを嫌っていたルミナスだが、さすがにこの秘密は墓場まで持って行こう。そう決めていたのだが、翌日カルロスに捕まり、鼻息荒く迫って来る姿にドン引きのルミナス。 挙句の果てに“ルミタン”だなんて呼ぶ始末。もうあの男に関わるのはやめよう、そう思っていたのに… 意地っ張りで素直になれない令嬢、ルミナスと、ちょっと気持ち悪いがルミナスを誰よりも愛している次期騎士団長、カルロスが幸せになるまでのお話しです。 よろしくお願いしますm(__)m

処理中です...