高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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44 アストラマリス - Astramaris -

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 賑やかな宴の後、イオネは銀の盆の上にケーキを載せて、アルヴィーゼの執務室へ赴いた。既に外は暗くなったが、部屋の中は燭台の火で昼のように明るく照らされている。
 ところが、部屋の中を左右に見回してみてもアルヴィーゼの姿が見当たらない。
「…?」
 一歩奥へ踏み入ったとき、背後から突然腕が伸びてきてイオネの身体をゆったりと包んだ。
「ひゃあぁ!」
 驚きのあまり落としそうになった盆を咄嗟に支えたのは、アルヴィーゼの腕だ。おかしそうに肩が上下に揺れている。
「びっくりした。何してるの」
「お前の足音が聞こえたから扉の後ろに隠れていた」
「ルドヴァン公爵がこんな幼稚な悪戯をするなんて。せっかくのケーキを落とすところだったわ」
「それは危なかった」
 アルヴィーゼは機嫌良く言うと、イオネの頬に口付けをして盆を取り上げ、執務机に置いた。
 イオネが急に恥ずかしくなったのは、アルヴィーゼの視線がとんでもなく甘いからだ。
(前からこんな目をしていたかしら。わたしの気持ちが変わったせい?)
 どちらにせよ、恥ずかしいことには変わりない。
 頭の中を探るように、アルヴィーゼが身を屈めて顔を覗き込んでくる。イオネは顔が熱くなるのを耐えて奥歯を噛んだ。
「これ、梨とニワトコの糖蜜のケーキなの。わたしが年を取るたびにいつも母さまが焼いてくれていたのだけど、今年はリディアとバシルがここの料理人と一緒に作ってくれたのよ。…あ」
 と、この時気づいたことがある。
「そういえば、あなたは甘いもの好き?あまり食べているのを見たことがないけれど」
「そうだな。普段は進んで食べないが、嫌いではない。お前からの差し入れならば喜んでもらう」
「そう。よかった」
 イオネは安堵して目元を和らげた。
「よく考えたら、あなたのことをそれほど知らないのよね」
 アルヴィーゼの目が甘やかに翳って、長い指が頬へ伸びてくる。イオネはその指が自分の頬に触れるのを、ムズムズするような気持ちで見ていた。
 この男には何度も触れられているのに、関係が変わった途端に緊張するなんて、なんだか奇妙だ。
 アルヴィーゼがニヤリと笑い、執務机に腰を預けた。立っている時よりも目線が近い。身体がじわりと熱くなった。
「お前から好みを探られるのは初めてだ」
「把握しておく必要があるじゃない」
「なぜ」
「だって、これから――」
 イオネは口を噤んだ。が、アルヴィーゼにはその先の言葉が分かっている。
「‘長い付き合いになる’?」
 優しい声色だ。そのくせ、緑色の目の奥で誘惑するように淫靡な光が躍っている。
「恋人の自覚があるようで安心した」
 アルヴィーゼの手がイオネの手を掴み、自分の方へ引き寄せると、長い脚の間にイオネの身体を収め、両腕で腰を抱いた。
 身体が密着し、アルヴィーゼの秀麗な貌が至近距離に迫る。イオネはひどく恥ずかしくなったが、同時にこの温もりに安心感を抱いている自分を見つけた。こういう感覚は、きっと誰ももたらすことはできない。ただ一人を除いては。
「そこまで鈍くないわ」
「それなら明日の夜宴で恋人を放っておくことはないだろうな」
「…明日?」
「妹たちは喜んで出るとさ」
「明日の夜宴って何のこと?」
「薄情だな。覚えていないのか?ユルクスの新邸披露として大々的に夜宴を開くと言ってあっただろう」
「あ」
 思い出した。それまでに他に住む家を見つけたら同伴はしないという約束だったから、一度その前にこの屋敷を出た以上、厳密に言えば同伴してやる必要はない。が、もはや状況は変わってしまった。
 その上、妹たちも参加したがっているし、何よりこの男と一緒にいることを決めたのは自分自身だ。宴に同伴者として出席するのは、これ以上ないほど理に適っている。
「…わかったわ」
 イオネが観念して細い顎を引くと、アルヴィーゼは満足そうに笑んでイオネの頬を引き寄せ、口付けをした。
「さて、恋人で同伴者のイオネ」
 イオネはひくりと唇を吊り上げて首を傾げた。聞こえよがしに言わなくても、二人の関係性は正しく認識している。
「キャビネットの中を見てみろ」
 アルヴィーゼがイオネの肩を掴んでくるりと身体を反転させた。ちょうどその目線の先に、ガラスのキャビネットがある。
 初めてこの公爵邸へ足を踏み入れたときには、数々の宝飾品が飾られていたが、今はそれらの全てが取り払われ、たった一つだけのものが置かれている。
 ひどく古い書物で、革の表紙には天体の神話を模した美しい細密画が描かれ、所々色褪せてはいるものの、箔押しされた金の文字は恐らく作られた当時のまま鮮やかに輝いている。文字そのものが絵画のように美しい題字は、エル・ミエルドの古語で、『天の海図』を意味する。
「えっ…これ――」
 イオネは頭が真っ白になるほど動転した。ふらふらと近付いてキャビネットを開けたところまでは良いが、これは素手では触れない。なにしろ、表紙の隅に小さく記された暦は七百年前の時代を示している。個人で所蔵するには恐れ多い宝物だ。
 イオネが言葉を失ってアルヴィーゼの方を振り向くと、アルヴィーゼは無言で布製の薄い手袋を渡した。用意周到だ。イオネの反応を予測していたに違いない。
 手袋を嵌めても手が震えるほどの緊張感だ。遺跡の扉を開くような気分でキャビネットを開き、こわごわと書物を取り上げて中を開くと、どのページも表紙に劣らず美しい細密画で装飾され、天体の配列、季節ごとの移り変わりや、エル・ミエルドとその周辺の地域の種まきから収穫時期までの詳細などが学術的に記されていた。
 それだけではない。後方のページに天体の並びを暦に置き換える詩歌の一節がある。イオネが愛してやまない『アストラマリス』の、恐らく最も古いと思われる文献だ。記憶にある限り、この時代よりも古い文献は見つかっていない。則ち、アストラマリスの原拠といってもいい。
「これって…ブロスキ教授の夜宴で出品された装飾写本じゃないの?」
「そうだ。そして今夜からお前のものだ」
「えっ」
 イオネはますます混乱した。ブロスキ邸の夜会で既に売却されていたであろうこの装飾写本を――恐らくはイオネがひと目でも拝みたいと熱望していたために、アルヴィーゼが買収者を探して更に買い受けたことになる。それも、イオネの数十年分の収入を遙かに越える金額であることは間違いない。
 それを、アルヴィーゼは事も無げに「お前のものだ」などと言う。
(どうかしてるわ…)
「お前がそれを受け取る理由は三つある」
 アルヴィーゼが淡々と言った。イオネの心中など見透かされているのだ。
「それが恋人から贈られた誕生日の祝いの品で、お前は自分自身にそれに見合う価値があると理解している。それから、この程度の贈り物には慣れてもらわなければならない。アルヴィーゼ・コルネールの隣を選ぶということは、そういうことだ」
 イオネは本をキャビネットにそっと置き、その隣に手袋を剥いで置くと、隣に立つアルヴィーゼを見上げた。いつもの高慢な笑み――それなのに、目は注意深く観察するようにこちらを見つめてくる。
「最後の理由が一番重要なのね」
「そうだ」
 アルヴィーゼの秀麗な目がおもしろそうに弧を描いた。
 恋人となった以上、アルヴィーゼからイオネに物を贈る口実はもはや必要ない。それがどれほど重く価値のある物であれ、アルヴィーゼがイオネに相応しく持たせたいと思った物は否が応でも甘受すべきであると、暗にそう言いたいのだ。
「回りくどい人。あなたって性格悪いわ」
 そう言った後、イオネはアルヴィーゼの胸に飛び込んで広い背に腕を回した。ふつふつと胸の奥から何かが小さく弾けて、舞い上がってくる。
「うう。でも――」
 この衝動に耐えきれなくなって、イオネは勢いよく顔を上げた。この言動は、全くもって自分らしくないが、こうして発散させないとどうにもならない。
「すごく嬉しいわ…!言葉で表現できないくらい」

 アルヴィーゼは面食らった。予想以上の反応だ。スミレ色の瞳が、鮮烈に輝いている。
「だってこれ、すごいのよ。当時の写本は知識層向けだけど、天体や暦を遊び歌にすることで、庶民が理解できるひとつの一般教養にしたの。アストラマリスは二つの大陸の広い範囲で言語を越えて伝播しているのに、言葉の並びや韻律の構成にあまり大きな差が見られないの。どうやって広まったのか詳しくはわからないけど、原拠がエル・ミエルドにあるということは、土着の風習に基づくものかもしれないわ。特に興味深いのは――」
 イオネの言葉は、殆どアルヴィーゼの頭には入ってこない。ただ、いつになくきらきらと少女のように頬を紅潮させて早口で熱弁を振るうイオネが可愛くて仕方なかった。
(今夜はどうやって俺の寝室に引っ張り込もうか)
 今までのように強引に連れ込むのでは面白みがない。折角この気位の高い女がこちらに心を傾けているのだから、甘い雰囲気に蕩けさせた上で、向こうから懇願させて事に及ぶ方がよほど興奮するというものだ。
「――だから、今日はあなたの贈り物と共に夜を過ごすわ」
 アルヴィーゼはイオネの腰を抱こうと伸ばした腕をピタリと止めた。
「…何?」
「安心して。貴重なものだからもちろん扱いには気をつけるわ。何度か読み終えたら、いくつか興味深い部分を書き写して、あとは日の当たらない場所で適切に管理するつもりよ。書庫に置いておくのもいいわね」
(…読み間違えたか)
 まさかこれほどまでに興奮させるとは思っていなかった。が、冷静に考えてみれば、或いは当然の反応かもしれない。新しい宝飾品を贈れば女はすぐに身に付けたがる。それが、イオネの場合は書物に記された古の詩歌を頭の中に取り込むことで歓びとなるのだろう。
「まあ、いい」
 アルヴィーゼは小さく息をついた。
「礼は口付けでもらう」
 イオネはいつになく積極的に身を乗り出し、爪先で立つと、アルヴィーゼの唇にちょんと唇をくっつけて、童女のように破顔した。
「素敵な贈り物をありがとう、アルヴィーゼ。この写本に見合う自分でいられるよう努めるわ」
 こんな時までくそ真面目な女だ。
 アルヴィーゼは内心で苦々しく思いながらイオネを寝室までエスコートし、イオネを抱き寄せて、こちらを警戒するような目を愉しんだ後、両頬と唇に口付けをして、最後に首筋に吸い付いた。
 また不機嫌に咎められるかと思ったが、意外にもキッと可愛らしく睨まれただけだ。
「今夜はここまでよ、公爵」
「いいだろう」
 明日イオネを籠絡する術を考えて夜を過ごすのもまた一興だ。
(怒らせるのも愉しいが、あれもまたいい)
 きっと他の誰もイオネの童女のように無邪気な顔を見たことがないだろう。

 翌日、アルヴィーゼは仕事から戻ったイオネを一階の奥のサロンに連れ込んで少々激しめの口付けで迎えた後、顔を紅潮させたイオネをソニアに預け、他の女中には三人の妹たちの身支度を命じて、いくつかの仕事を片付けてから、ようやく自分の身支度に取り掛かった。
 ごちゃごちゃと装飾の多い衣服は好きではない。アルヴィーゼにとっての贅とは、見た目の絢爛さではなく、素材そのもの、仕立てそのものにどれほどの労と技術と能力が費やされているかという点でその価値を見いだすものだ。
 一見して基礎的なものが、真の審美眼を持つものにとっては至高であり、ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールが身に纏えば、それらの価値は更に増すのである。
 アルヴィーゼは雪のように白いシャツにシルバーグレーのベストを重ね、重厚感のあるダークグリーンのクラバットを締めて、格式高い地織りの上衣を纏った。地織りの紋様は有翼の獅子が幾何学的に図式化されたもので、コルネール家の紋章でもある。
 今夜始まるのは、ただの娯楽を目的とした夜宴ではない。共和国民と王国民、商人と貴族が大勢入り交じって行われる肚の探り合いだ。
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