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43 初恋 - son premier amour -
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この日の授業を終えたイオネは、急いで帰り支度を始めた。
早朝からアルヴィーゼに好き勝手されたせいで、時間に追われ慌ただしい一日を過ごしている。遅れて着いた朝食の席ではなんだか生温かい目で妹たちにじろじろ見られるし、アルヴィーゼには妹や使用人たちの目も気にせず涼しい顔で頬に挨拶の口付けをされた。
ソニアやドミニクは表情にこそ出さないものの、いつもよりやや声が高く溌剌としていたような気がする。多分、ただの気のせいではないはずだ。
ただ、そういう自分も少々浮ついている自覚はある。
ついさっきも最後に講堂を出ていった女学生に「花かぐわしい季節ですね」などと含みのある挨拶をされたところだ。間もなく秋も終わろうとしている時節に花かぐわしいとは似つかわしくない。イオネの雰囲気の変化のことを指しているに違いなかった。多感な年頃の女学生には、イオネの纏う空気の変化がわかるのだろう。
(わたしってそんなにわかりやすいのかしら)
昨夜も妹たちに色々と嗅ぎ付けられてしまったばかりだ。
女学生にまで分かってしまうのだから、当然勘の鋭いアルヴィーゼにも悟られているということになる。惹かれていることを認めはするが、全てがあの男の思い通りになるのは、やっぱりなんとなく癪に障る。
イオネは頬の両側をきゅっとつねって凜とした顔を取り戻し、講堂をあとにした。
同じ頃、コルネール邸でも慌ただしい時間が流れている。
コルネールの使用人たちがイオネの帰還と誕生日が同時にやってきた幸運をたいそう喜んで、その幸運を運んできた妹たちと一緒になって祝いの準備をしているのだ。
もとより翌日の夜宴のためにドミニクが陣頭に立って大がかりな準備をしていることもあり、祝いの席は妹たちが当初意図していたささやかなものとはかけ離れている。
「せっかく素敵なお庭なんだから、ここでやりましょうよ」
そう言い出したのは、クロリスだ。ソニアがすぐさま大きな円卓を設置するよう男性の使用人に指示をし、自分も料理の冷めにくい食器や火鉢の用意を始めた。
リディアはコルネール家の料理人がバシルと一緒に焼いた梨のケーキの盛り付けに夢中になり、ニッサは飾り付けに勤しんだ。これも、クレテ家の娘たちだった頃から変わらない役割だ。
イオネが帰ってくると、姉妹たちの宴が始まった。
バシルはイオネに誕生日の贈り物として新しく刊行された文学書について自分が書いた書評を手渡し、「これを評価させてあげるのが、俺からの贈り物」と言って宴席の誘いを断り、さっさと帰って行った。女が大勢集まった時には自分にとって不都合が起きることを、年の離れた姉を二人持つバシルは重々承知している。
妹たちからの贈り物は、それぞれ舶来の蜂蜜酒、鍛冶屋が作った真鍮のペン、古代の製紙法で作った日記帳だった。妹たちはイオネの好みを熟知している。
この席に、アルヴィーゼは姿を見せなかった。
イオネがドミニクにそれとなく訊ねると、仕事が立て込んでいるから夕食は執務室で摂るらしいと教えてくれたが、なんとなく姉妹だけの時間に配慮してくれているような気がした。
「それで?イオネ」
クロリスがニッコリと微笑んだ。この顔は、何かよからぬことを考えている顔だ。イオネはケーキをフォークに刺したままピタリと動きを止めた。
「昨日公爵になんて言ったの?しらばっくれないでよ。朝からあまーい雰囲気を漂わせちゃって、何があったかちゃんとみんなわかってるんだから」
「な、なんてって…わかっているなら聞く必要はないでしょう」
イオネがじわじわと顔色を変えるのを、妹たちはケーキよりも美味しく見守っている。
「イオネの口から聞きたいんじゃない。ちゃんと教えてよね」
「告白したでしょ?お互い‘好き!’って言って、恋人成立」
リディアが指をこちょこちょさせながら満面の笑みで言ったのは、自分の経験談だ。
「あ…言ってない」
イオネがやや困惑して答えると、クロリスは「あー」と一瞬だけ遠い目をしてニヤリと笑った。
「身体で分からせる方式ね。凄そうだものね」
「ちょっと。やめて」
イオネが耳まで赤くしてクロリスに凄んで見せた。
「昨日は何て表現していいか分からないって言ってたけど、ちゃんと恋人って言えるようになったんでしょ?」
「ええ。そうよ」
イオネは澄まして見せたが、もはや隠せていない。表情が柔和に緩んで、誰かを想う幸せを歓んでいる。
「でも、あの人――」
と、ニッサはやや不満げに言った。
「束縛が激しそう。ルドヴァン公爵なんかと一緒になったら、イオネの折角の才能が埋もれていきそうで、わたしは少し勿体ないと思ってしまうわ。正直、あんまり応援できないかも。悪いけど…」
「ニッサってば。イオネの幸せに水を差すなんて」
クロリスが母親とそっくり同じ仕草で目をギョロリとさせた。
「イオネの幸せって?わたしはずっと、イオネにはわたしたちにできないことを成し遂げてほしいと思っていたわ。それがイオネの幸せだと思ってた。イオネは、特別なんだもの」
姉妹の中で父イシドールから直接教育を受けたのは、イオネだけだ。妹たちには母デルフィーヌが徹底的に社交界での立ち振る舞いや一家の女主人になるための教育を施し、彼女たちもそれを誇りに思っているが、大貿易都市の主だった父が目を掛けたイオネのことを、無意識のうちに特別な存在と認識していた節がある。
「そんなふうに思ってくれる妹がいて嬉しいわ、ニッサ。ありがとう」
イオネは軽快に笑った。
「でも、アルヴィーゼはわたしの才能を無駄にしないわ。むしろ全力で利用しようとするでしょうね。退屈しないわ」
そしてそれを、イオネも望んでいる。
(ああ――)
ニッサは初めて「イオネが自分で選んだもの」に見せる愛情を目の当たりにしたと思った。
敬愛する姉は、初めて恋に落ちたのだ。
早朝からアルヴィーゼに好き勝手されたせいで、時間に追われ慌ただしい一日を過ごしている。遅れて着いた朝食の席ではなんだか生温かい目で妹たちにじろじろ見られるし、アルヴィーゼには妹や使用人たちの目も気にせず涼しい顔で頬に挨拶の口付けをされた。
ソニアやドミニクは表情にこそ出さないものの、いつもよりやや声が高く溌剌としていたような気がする。多分、ただの気のせいではないはずだ。
ただ、そういう自分も少々浮ついている自覚はある。
ついさっきも最後に講堂を出ていった女学生に「花かぐわしい季節ですね」などと含みのある挨拶をされたところだ。間もなく秋も終わろうとしている時節に花かぐわしいとは似つかわしくない。イオネの雰囲気の変化のことを指しているに違いなかった。多感な年頃の女学生には、イオネの纏う空気の変化がわかるのだろう。
(わたしってそんなにわかりやすいのかしら)
昨夜も妹たちに色々と嗅ぎ付けられてしまったばかりだ。
女学生にまで分かってしまうのだから、当然勘の鋭いアルヴィーゼにも悟られているということになる。惹かれていることを認めはするが、全てがあの男の思い通りになるのは、やっぱりなんとなく癪に障る。
イオネは頬の両側をきゅっとつねって凜とした顔を取り戻し、講堂をあとにした。
同じ頃、コルネール邸でも慌ただしい時間が流れている。
コルネールの使用人たちがイオネの帰還と誕生日が同時にやってきた幸運をたいそう喜んで、その幸運を運んできた妹たちと一緒になって祝いの準備をしているのだ。
もとより翌日の夜宴のためにドミニクが陣頭に立って大がかりな準備をしていることもあり、祝いの席は妹たちが当初意図していたささやかなものとはかけ離れている。
「せっかく素敵なお庭なんだから、ここでやりましょうよ」
そう言い出したのは、クロリスだ。ソニアがすぐさま大きな円卓を設置するよう男性の使用人に指示をし、自分も料理の冷めにくい食器や火鉢の用意を始めた。
リディアはコルネール家の料理人がバシルと一緒に焼いた梨のケーキの盛り付けに夢中になり、ニッサは飾り付けに勤しんだ。これも、クレテ家の娘たちだった頃から変わらない役割だ。
イオネが帰ってくると、姉妹たちの宴が始まった。
バシルはイオネに誕生日の贈り物として新しく刊行された文学書について自分が書いた書評を手渡し、「これを評価させてあげるのが、俺からの贈り物」と言って宴席の誘いを断り、さっさと帰って行った。女が大勢集まった時には自分にとって不都合が起きることを、年の離れた姉を二人持つバシルは重々承知している。
妹たちからの贈り物は、それぞれ舶来の蜂蜜酒、鍛冶屋が作った真鍮のペン、古代の製紙法で作った日記帳だった。妹たちはイオネの好みを熟知している。
この席に、アルヴィーゼは姿を見せなかった。
イオネがドミニクにそれとなく訊ねると、仕事が立て込んでいるから夕食は執務室で摂るらしいと教えてくれたが、なんとなく姉妹だけの時間に配慮してくれているような気がした。
「それで?イオネ」
クロリスがニッコリと微笑んだ。この顔は、何かよからぬことを考えている顔だ。イオネはケーキをフォークに刺したままピタリと動きを止めた。
「昨日公爵になんて言ったの?しらばっくれないでよ。朝からあまーい雰囲気を漂わせちゃって、何があったかちゃんとみんなわかってるんだから」
「な、なんてって…わかっているなら聞く必要はないでしょう」
イオネがじわじわと顔色を変えるのを、妹たちはケーキよりも美味しく見守っている。
「イオネの口から聞きたいんじゃない。ちゃんと教えてよね」
「告白したでしょ?お互い‘好き!’って言って、恋人成立」
リディアが指をこちょこちょさせながら満面の笑みで言ったのは、自分の経験談だ。
「あ…言ってない」
イオネがやや困惑して答えると、クロリスは「あー」と一瞬だけ遠い目をしてニヤリと笑った。
「身体で分からせる方式ね。凄そうだものね」
「ちょっと。やめて」
イオネが耳まで赤くしてクロリスに凄んで見せた。
「昨日は何て表現していいか分からないって言ってたけど、ちゃんと恋人って言えるようになったんでしょ?」
「ええ。そうよ」
イオネは澄まして見せたが、もはや隠せていない。表情が柔和に緩んで、誰かを想う幸せを歓んでいる。
「でも、あの人――」
と、ニッサはやや不満げに言った。
「束縛が激しそう。ルドヴァン公爵なんかと一緒になったら、イオネの折角の才能が埋もれていきそうで、わたしは少し勿体ないと思ってしまうわ。正直、あんまり応援できないかも。悪いけど…」
「ニッサってば。イオネの幸せに水を差すなんて」
クロリスが母親とそっくり同じ仕草で目をギョロリとさせた。
「イオネの幸せって?わたしはずっと、イオネにはわたしたちにできないことを成し遂げてほしいと思っていたわ。それがイオネの幸せだと思ってた。イオネは、特別なんだもの」
姉妹の中で父イシドールから直接教育を受けたのは、イオネだけだ。妹たちには母デルフィーヌが徹底的に社交界での立ち振る舞いや一家の女主人になるための教育を施し、彼女たちもそれを誇りに思っているが、大貿易都市の主だった父が目を掛けたイオネのことを、無意識のうちに特別な存在と認識していた節がある。
「そんなふうに思ってくれる妹がいて嬉しいわ、ニッサ。ありがとう」
イオネは軽快に笑った。
「でも、アルヴィーゼはわたしの才能を無駄にしないわ。むしろ全力で利用しようとするでしょうね。退屈しないわ」
そしてそれを、イオネも望んでいる。
(ああ――)
ニッサは初めて「イオネが自分で選んだもの」に見せる愛情を目の当たりにしたと思った。
敬愛する姉は、初めて恋に落ちたのだ。
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