高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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39 理由 - la raison -

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 植物園を出た時、イオネはぴたりと足を止めた。柵の前に、青毛の愛馬に跨がったアルヴィーゼがいる。この男がどうしてここにいて、どうやって居場所を知ったのかなどは、もはや逐一訊ねるのも馬鹿馬鹿しい。
 その答えを聞かずとも受け入れてしまえる程度には、この男に毒されてしまった。
「遅い」
 アルヴィーゼが不機嫌に言い放つと、イオネはむっと頬を膨らませ、冷ややかに馬上を睨め付けた。
「呼んでない」
 不遜で威圧的なアルヴィーゼの顔に、嫌みったらしい笑みが広がっていく。
(本当にどうかしてるわ)
 あんなに乱暴で一方的な行為を強要されたのだから、憎み、断罪して然るべきだというのに、不思議なほど不快感も怒りも湧いてこない。それどころか、顔を見た瞬間に胸が弾むなんて、自分を呪いたくなるくらい正気じゃない。
 イオネは無言で差し出されたアルヴィーゼの腕に掴まり、引っぱり上げられるままアルヴィーゼの脚の間に身体を収めた。
 なんとなく顔を直視できなくなったのは、服越しに感じる体温が、明け方まで自分が何をされていたのか思い出させたからだ。
 馬が走り出したあと、アルヴィーゼが背後からイオネの耳にかじりつき、吐息で笑った。咎めようと振り向いたイオネの唇は、愉しそうに弧を描くアルヴィーゼのそれに塞がれた。
 アルヴィーゼは、いつもの通り往来の視線を気に留める素振りもなく、むしろ見せつけるように堂々としていた。
(いやな男)
 その傲慢さでさえも魅力にしてしまう。こんな男のそばにいることを選んだら、身の破滅を招くかもしれない。
 それでもイオネは、アルヴィーゼの口付けを受け入れた。

 アルヴィーゼはコルネール邸の門を入り、屋敷の数メートル手前で馬を止めた。
「あれを見ろ」
 と指差したのは、三階の窓だ。
 落ちかけた夕陽がオレンジ色に照らす窓へ視線を上げると、イオネが以前見た長い髪の女が、窓際に背を向けて立っている。
(やっぱりいるんじゃない)
 胃がひどく重くなるのと同時に、「女」が外を振り返り、窓を勢いよく開けた。
「…ん?」
 何だか様子がおかしい。イオネが目を眇めて窓を注視していると、女は長い髪を掴み、頭からズルリと剥ぎ取った。
 イオネはギョッとした。それが自分の髪色とよく似たかつらだと認識したのは、それまで髪の長い女だと思っていた短髪の人物がそれを外へ放り投げて、なにやら窓の奥にいるらしき誰かに怒声を放ったときだ。間違いなく若い男の声だった。
「二度と女装はしないと言ったのに!もうこれで最後ですからね、公爵閣下の依頼でも!」
 と、窓の外のアルヴィーゼに向かって言い放ったのは、ドレスを着た華奢な体格の青年だった。
「依頼じゃない、クレマン。命令だ」
 アルヴィーゼの口調はにべないが、どこか機嫌がいい。
「どうして閣下の恋人の機嫌を取るために任務外の女装なんかしなくちゃいけないんですか!僕はあなたに仕えてるんじゃない。王国に仕えているんです!」
「いい部下だ、マルク。こいつは見所がある」
「どうも、親友。やあ、アリアーヌ教授。今日もきれいだね」
 ひとりでばさばさとドレスを脱ぎ始めた青年の後ろから平服のマルクが顔を出してニカッと笑った。
 イオネは眉を寄せてアルヴィーゼを見上げた。
「あれって…どういう理由でナヴァレに女性の振りをさせていたの?」
「以前から不審者が屋敷の周りをうろついていた。女の方が狙われやすいから、囮を用意した。それだけのことだ。不審者は既に捕らえて投獄した。全て対処済みだ」
「そうだったの…」
 腑に落ちた。
 いかにユルクスが治安の良い街であるとは言え、突然宮殿のように豪勢な屋敷が建てられれば、忍び込んで金目のものを盗もうとする輩が現れてもおかしくはない。良くも悪くも、コルネールは目立ちすぎるのだ。
 フラヴァリ邸へ移ることを告げたときにアルヴィーゼが言った「ちょうどいい」とは、そういうことだったのだろう。
(わたしが危険な目に遭わないように、敢えて送り出したのね)
 そう思いつくと、それまで強張っていた心がほどけ、身体の力が抜けて、なぜかひどく動揺した。
「同居人に大事なことを何も知らせないなんて、嫌みな人ね」
 そういう憎まれ口を叩いたのは、狼狽えているのを悟られたくなかったからだ。
「俺の屋敷で起きた問題にクレテ家の人間を巻き込んだら国際問題になるだろう」
 もっともらしい理由付けだ。が、これも理屈屋のイオネが納得するには充分だった。
 やり手のアルヴィーゼ・コルネールは、今までそうやって壺の中で塵を燃やすように敵を排除してきたに違いない。
 考えてみれば、今までアルヴィーゼの口から聞いたことに嘘はなかった。この男の発する言葉は、全て真実なのだ。そうでなければ、こんなに尊大なはずがない。
「さて、俺にここまでさせたからには、教授――」
 アルヴィーゼが下馬してイオネの腕を掴み、抱き上げて鞍上から下ろした。身体だけでなく、頭の中までふわふわする。
「夕食の誘いを断ることはないだろうな。勿論二人で」
 イオネは腰を抱かれたまま、アルヴィーゼの秀麗な貌を見上げて顎を引いた。

 久し振りにコルネール邸へ現れたイオネへの歓迎は、凄まじいものだった。
 ソニアは長らく旅をしていた家族の帰還を喜ぶようにイオネに接し、ドミニクは夕映の美しい中庭での夕食だけでなく、早くも以前使っていた寝室の準備まで整えていた。
「夕食の後はフラヴァリ邸に戻るわ」
 というイオネの言葉にヒヤリとしたのはドミニクだ。
 この時のアルヴィーゼは、眉の下を暗くして、先ほどまでの上機嫌から一転、ひどく機嫌悪そうに口を引き結んでいた。
 ドミニクがフラヴァリ邸へ使者を送るためそそくさと中庭を辞去したあと、アルヴィーゼはイオネの椅子を引いて座るよう促し、イオネが座した後で手ずからワインをグラスに注いだ。
「お前、この期に及んであの男と同じ屋敷で過ごすつもりか」
 気に入らない。
 誤解をとけばこの屋敷へ戻ってくると想定していたのに、イオネの行動原理は違うらしい。
「だって、まだノンノ・ヴェッキオの滞在が終わっていないもの。シルヴァンとわたしの縁談は偶発的なものでノンノの滞在とは関係ないのだから、予定を変える理由にはならない」
「偶発的?」
 アルヴィーゼは苛立った。
 呑気な女だ。偶発的とは程遠い。
「そもそも屋敷の管理はシルヴァン・フラヴァリがお前に近付くための口実だぞ」
「それでも、ノンノにとっては偶発的な出来事よ。わたし自身、ノンノとの時間を大切にしたい気持ちもあるの」
「なるほど」
 アルヴィーゼはワインを喉に流し込んだ。どうやら手強いのはシルヴァン・フラヴァリではなく共和国の英傑ヴィクトル老公であるらしい。
 アルヴィーゼは饗されたホロホロ鳥の肉を丁寧に切り分けるイオネの細い指を眺めながら、あの指にどうやって永遠に抜けない指輪を嵌めてやろうかと思案した。よく温められたバターソースがふっくらしたイオネの唇を濡らし、美食への陶酔でその目元が和らぐと、どうしようもなく帰したくなくなった。
 再びこの屋敷から出て行く姿を見なければならないなど、まるで拷問だ。
「お前の答えをまだ聞いていなかった」
 イオネが小さく膨れた頬の奥で細かく咀嚼しながら首を傾げた。下ろした髪が風にふわりと靡いて、昨夜刻んだ痕が見えたとき、今夜もまたイオネの身体を手に入れようと決めた。
 身体中、服を着ていても見えるところにアルヴィーゼの痕跡を残したまま他の男に会っていたのかと思うと、暗く歪んだ愉悦が込み上げてくる。
「クレマンを見た日、お前はなぜここへ来たんだ」
 イオネは頬をじわじわと赤く滲ませ、ワインを喉に流し込んだあと、口を開いた。
「検証のためよ」
「どんな」
 愉しくて声が弾む。イオネが恥ずかしがって戸惑う姿は、美しいドレスで着飾るよりも魅力的だ。
「あ、あなたにもう一度会って自分がどう思うか、試そうと思ったの。結果は最悪だったけど」
「なぜ最悪だった。‘女’を見たからか」
 イオネが口を噤んだ。答えは明白だ。その目が、狼に追い詰められた子ウサギのように震えている。この先に起きることを予感しているのだ。
「俺に他の女がいるといやなんだろ。なぜだ」
「うっ」
 イオネは圧力に堪りかねたように呻き、手酌でワインを注いで、ひと息に飲み干した。
「もっ…もう帰る!」
 言うなり立ち上がったイオネの腕を、アルヴィーゼが掴んで引き寄せた。
「帰すと思うのか?」
「だって――」
 いきり立ったイオネの顔は、真っ赤だ。涙がこぼれそうなほどに目が潤んでいる。
「だって、信用できないもの。嫌がらせのために陰でこそこそ家探しを邪魔するような人を、信用できるわけないじゃない。あなたっていつもそう。言葉は真実でも、心の中は絶対に見せない。いつも霧がかかってるみたい。あなたといると疲れるのよ。心が乱されて、落ち着かなくなる。そういう自分がいやなの。答えのないものに囚われて、わたしがわたしじゃいられなくなるのが、我慢できないの」
「心の内を曝け出せば満足か」
 アルヴィーゼはイオネの頬に手の甲で触れた。肌の熱は、見たとおりだ。
 イオネがこれほど自分の腹の内を知りたがっていることに驚いた。このとき感じたものは、歪んだ愉悦とは違う。もっと精神の深みに触れ、胸を熱くするものだ。
「なぜ乱されているのが自分だけだと思う。お前の心が乱れる理由は何だ。俺は答えを与える準備はできていると言ったはずだ」
 アルヴィーゼはイオネの腰を強く抱き、するりと手のひらを背へ滑らせた。
「言わないとここで抱くぞ。昨日よりもじっくり時間を掛けて」
「やめて。わたし…」
(さあ早く、俺を選べ)
 ドレスの下で、イオネの身体が熱くなった。野に咲くスミレの花のような香りが強くなり、イオネの甘やかな吐息が頬を掠めるほど近付いても、イオネは拒もうとしない。
 唇が触れ合う――と思った瞬間のことだ。
「申し訳ありません、アルヴィーゼさま。火急のことで」
 と、ひどく気まずそうなドミニクが現れた。
 アルヴィーゼは不機嫌この上なく「何だ」と吐き捨て、咄嗟に離れようとしたイオネの腰を強く引いた。
「先ほどから三人のお客さまが見えていまして、屋敷の主人を出すよう求められています。そうでなければ議会に訴え出ると、ものすごい剣幕でして…みなさま貴婦人ですので、手荒にもできず…。一度アルヴィーゼさまにご対応いただいたほうが、穏便に済むかと」
 何でもそつなくこなし、面倒な客人をあしらうのにも慣れているはずのドミニクが泣きついてくるほどだから、相当に手強い相手なのだろう。それにしても、間が悪すぎる。
 優雅なユルクスに不釣り合いな物々しさを嫌って兵の配備をしていないが、一考の余地があるかもしれない。
 が、この時、ちょっと予想外のことが起きた。
「貴婦人」
 と、イオネが怒りを露わにしたのだ。
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