高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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38 倫理の境界 - sur la mer, dans la mer -

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 シルヴァン・フラヴァリはアルヴィーゼの予想に反して冷静だった。しかし、目の奥に映る冷ややかな怒りまでは取り繕えていない。
「不法侵入ですよ。公爵閣下」
「俺が忍び込んだことに気付いていて黙殺したな」
 アルヴィーゼは唇を吊り上げた。自分がシルヴァンの立場なら、そもそも屋敷に不審者の侵入を許すような脆弱な警備体制を敷くことはまずないが、その上で万が一にもイオネに他の男が近付いたとしたら、それを察した瞬間に武力行使をしてでも排除する事は間違いない。
 しかし、シルヴァン・フラヴァリの考え方は違うらしい。
「正直言って最悪の気分でしたけど、事の最中に僕が入っていったらきっとイオネはますます口をきいてくれなくなるから、あなたが外に出てくるまで待っていたんです。もし彼女があなたに強要されて傷付いたのだとしたら、僕が癒やせばいい。意外に思いました?」
「いや。君ならそういう策を弄する事ぐらいはするだろうな」
 アルヴィーゼは涼しい顔で言いながら、内心で唾を吐いた。イオネが傷付く可能性を考えていながら敢えてそれを見過ごし、その結果として彼女の心に空いた隙間に入り込もうとは、なかなかどうして功利主義的な共和国の人間らしい考え方だ。
「イオネがあなたと何をしていようが構いません。最後に僕を夫として選んでくれたらそれでいいんだ」
「それは諦めか?それとも欲しいものがイオネではなく利益だからか」
「両方です、公爵。僕は両方欲しい」
 シルヴァンは曇りのない目でアルヴィーゼを見据えた。限りなく純真でいて、それと同じくらい挑戦的だ。今まで思い上がりの若造から老獪な権力者まで数多の男たちと対峙してきたが、彼らの中にもこんな目をしたものはいなかった。
「だから小さな嫉妬心に振り回されるわけにはいかないんですよ。あなたには忠告をしに来ました。今後フラヴァリ家の屋敷へ正式な手順を踏まず見えた場合は、共和国議会とエマンシュナ王国政府に強く抗議します。それから、多分イオネはあなたと一緒だと幸せにはなれないので、手を引いていただきたい。どう考えてもイオネはあなたより僕といる方がよく笑うし楽しそうだ」
 アルヴィーゼは自分の顔が歪むのを堪えきれなかった。青二才の戯れ言にこれほど不愉快な思いをしようとは、自分でも驚いた。
「君を甘く見ていた。狡猾さと貪欲さは、俺の予想を遙かに超えていたようだな」
「どちらもあなたには及びませんよ。僕はイオネの家探しを邪魔するために近所の空き家を軒並み買い上げたりはできないな。あなたよりは良識があるので」
「良識ね」
 アルヴィーゼは鼻で笑った。イオネはその事実をもう知っているのだろう。間違いなくシルヴァン・フラヴァリの口から聞いたはずだ。
(俺の目の前で激怒するところが見たかったのに)
 最も腹立たしいのは、その機会をこの男に奪われたことだ。
「買収の件は早い段階で知っていたな」
「そうですね。ユルクスに来た時にはもう知っていました」
 少年のように笑うシルヴァンを見て、アルヴィーゼの胸にじわじわと奇妙な感情が湧いた。
 シルヴァン・フラヴァリはアルヴィーゼがイオネの家探しを邪魔していたことを知りながら看過し、イオネがコルネール邸で他の女性を見たと話した後で、この手札を切ったのだろう。彼女がアルヴィーゼに対する不信を募らせるのに最も有効な好機を図っていたのだ。
 腹立たしい男だが、やり方は嫌いではない。が、その中心にいるのがイオネであれば話は別だ。
「小賢しいことだ」
「僕はあなたみたいに何でも持っているわけじゃないから、自分が持っているものを一番良い方法で活用しているだけです。大砲がなくても剣や縄で闘えばいい。家同士の古い関係も、ノンノとの絆も、イオネの友情に絆されやすいところだって利用します」
「やってみろよ、シルヴァン・フラヴァリ。少なくとも惚れた女の幸せを自分の尺度でしか考えられない男に、あの女の相手は務まらないぞ」
 アルヴィーゼはすれ違いざまにシルヴァンの肩を強く握り、殺人者のように暗い目で一瞥をくれてやると、次第に明るくなる道を進んだ。
(持っているもの全てでは足りない。この世の全てを使い尽くしてでも、イオネに俺を選ばせる)
 良識など、たかだか予定調和が産んだぼんやりした通念に過ぎない。イオネの存在はアルヴィーゼにとって、そういう概念の外にある。

 イオネはひどく気怠い朝を迎えた。
 フラヴァリ家の使用人がにこにこしながら起床の挨拶にやってきたとき、思わず身体を隠そうとしたのは、身体が生々しくアルヴィーゼの感触を覚えていたからだ。
 歯を立てられたところはまだひりひりするし、何度も激しく犯されたせいで、身体の奥には鈍い違和感が残っている。鏡を見なくても、いつの間にか着せられていた寝衣の下にいくつも所有印を刻まれているのがわかる。身体中に感じるアルヴィーゼの残り香がその証拠だ。
 どんな思いでアルヴィーゼがあんな無体をしたのか、どうして拒みきれなかったのか、考えたくないのに考えてしまう。それなのに、頭がふわふわとして考えがまとまらない。
(馬鹿になった気分だわ)
 こういう自分は、好きではない。しかし凜然たるアリアーヌ・クレテ教授でいるときの自分には、誇りが持てる。
(仕事に行かなくちゃ)
 イオネは愚かな自分を頭から追い出すように、布団から出た。床に足を付けた瞬間、膝に力が入らずぐにゃりと床にへたり込んだ。猛烈に恥ずかしさが襲ってきた。こんなになるまで好きにさせたなんて、やはりどうかしている。
 仰天したのは、年嵩の使用人だ。カーテンのタッセルを放り出してイオネの方へ駆け寄り、肩を支えて寝台へ戻した。
「おからだが優れないのではないですか?まだお休みになっていてくださいな」
「いいえ。大学に行くわ。講義があるもの」
「あら、アリアーヌ教授。今日は土曜日ですよ」
「そうだった…」
 最悪だ。頭の中がアルヴィーゼのことでいっぱいで、何も手につかなくなってしまう。そういう自分がいやで離れようとしたのに、あの男はそれを許さない。
 予感がする。
 どこへ逃げてもアルヴィーゼ・コルネールは追いかけてきて、心を激しく乱し続けるのだろう。昨夜のことが良い例だ。
(行くべきかしら)
 アルヴィーゼは他に女がいないことを証明するようなことを言っていたが、もしも当初の考えが真実だとしたら、自分で自分を一生許せない程度には傷つくだろう。
 イオネがようやく自由に身体を動かせるようになったのは、昼も近くなった時分のことだ。ヴィクトル老公はいつものように完璧な老紳士の佇まいでイオネを迎え、シルヴァンもブリオッシュを頬張りながら、いつも通り夏空のような笑顔で挨拶をした。
 ヴィクトル老公はイオネの様子がおかしいことに気付いていたが、イオネの性分を知っているからあれこれと詮索するようなことはせず、新しく発刊された古典文学の新訳本のことを話し始めた。
「訳の内容もいいが、訳者が追記した注釈もなかなか興味深いと話題になっているよ。お前さんの好きなアストラマリスの起源についての考察もされている」
「それは面白そうだわ」
 イオネは上の空で、ほとんど無意識のうちに生返事をした。
「それなら僕と書店に出かけよう、イオネ。ついでに植物園で散歩でもどう?ノンノは午後から学友の集まりで留守にするって言うしさ」
「そうね」
 と、これも上の空で返事をした。イオネが何にどう返答したのか気付いたときには、既に馬車の手配が済んでいた。

 馬車に乗り込むときも、馬車の中でも、シルヴァンは紳士だった。イオネの距離感に合わせて居心地が良いように気を配っているのが分かる。ふとした瞬間に戯けた様子で笑わせてくる気遣いのしかたも、イオネにとっては心地よかった。
 元首邸や議会場へ続く大通りに、共和国で最も大きな書店がある。イオネはそこで装丁の美しい天体の本や気に入っている冒険家の旅行記を脇に抱え、最後にノンノが言っていた古典文学の新訳書を手に取った。
 いつもなら真っ先に最初のページを読んでみるのに、別のことが頭の中に引っかかって何も入ってこない。
 コルネール邸に行くべきか否か、まだ迷っているのだ。
(これじゃ、気を利かせてくれたシルヴァンに申し訳ないわ)
 イオネは隣の棚で真剣に本を選ぶシルヴァンに謝って帰ろうとしたが、満面の笑みを向けられて何も言えなくなった。イオネはこういう類のまっすぐな好意に弱い。ソニアやバシルも同じような性質を持っているから、彼らのお節介をいつも受け入れてしまうのだ。今も、そうだ。
「知ってた?ユルクス植物園にはこの大陸には珍しいバカでかい竜舌蘭があるんだって。実はそれが見たくて誘ったんだ」
「知っているわ。砂糖と蒸留酒の原料になる植物ね」
 断るつもりだったのに、思わず興が乗ってしまった。こういう誘いにも弱いという自覚はある。
 結局、中心地から馬車に乗って郊外の植物園までやってきてしまった。大陸には珍しい熱帯の植物や北方にしか生息しない白樺の木や大きな針葉樹などが植えられ、薔薇園では深みのある色合いの様々な薔薇が見事に咲き誇っていた。
「手をつないでもいい?はぐれないようにって建前じゃなくて、好きな子に触りたいっていう下心があるんだけど」
 というシルヴァンの願いを、イオネは小さな自己嫌悪を感じながら受け入れた。友人の願いを聞いてあげたいと思う自分とは別に、この期に及んでまだ試そうとしている自分がいる。アルヴィーゼと同じようにシルヴァンに触れられても、同じ感情になるのか検証しようとしているのだ。
 だが、比較にはならない。あの男の触れ方は、シルヴァンとは全く違う。
(やさしいひと)
 心底シルヴァン・フラヴァリという青年が好きだと思った。賢く、相手を常に尊重し、それでいてやり手の実業家らしく自分の意志を貫こうという好ましい野心もある。チェスも巧い。夏までにこの縁談がもたらされていたとしたら、受け入れていただろう。それくらい、シルヴァンはいい友人だ。
 しかし、どうしようもなく心を乱され、自分ではどうにも制御できない、形容し難い事象を、イオネは知ってしまった。それは、理性や常識的な倫理観に当てはめることのできないものだ。
 イオネは大地から湧き出す泉のように甕から顔を出した大きな竜舌蘭の前で、シルヴァンの手をそっと解いた。
「シルヴァン、ここから別行動にしましょう。行くところがあるの」
「知ってる」
 イオネはどきりとした。シルヴァンがまた知らない男の顔をしている。
「でも公爵のところなら、行って欲しくない。ノンノだって心配する」
「ノンノ・ヴェッキオはいつもわたしの選択を信じてくれるから大丈夫よ。あなたにも悪いとは思うけど、自分の向き合うべきことから逃げるのは矜持に反するわ」
「あの人のこと信じるの?隠れて君が住もうとしている家を横取りする人だ」
「もちろん、許していないわ。でも信頼に足る人かどうかを見極める必要があると思う。検証を途中で放り出すのは、それこそわたしのやり方じゃないもの」
「イオネ」
 シルヴァンがイオネの手を握った。さっきまでつないでいた手とは違う、強い力だ。
「もし、君が公爵が好きだって言うならそれでもいい。でも僕たちの結婚の利点は、君が公爵と深い関係になることより大きいよ。事業だけじゃない。君の生き方だって変えなくていいんだ。公爵は実業家である前に封建国家の要人だ。僕たちみたいな共和国の人間と違う。僕は君が好きだし、そばにいたい。でもそれ以上に、君が何かに縛られるのが我慢できないんだ。君が君らしく自由に生きていけるよう、僕に守らせてよ」
 シルヴァンの言い分は正しい。この先アルヴィーゼとどんな関係になるにせよ、深く関わればこれまでと同じ生き方はできないだろう。何者にも縛られず研究者として天職を全うするのであれば、シルヴァンと生きる道を選ぶべきだ。
 が、イオネは毅然と顎を上げた。
「ありがとう、シルヴァン。でもわたし、自分の自由は自分で守りたいの」
 イオネはシルヴァンの手を握り返して離すと、初めて自分からシルヴァンの頬に口付けをした。子供同士が親愛の挨拶でするような、ちょこんとした口付けだ。
「これは、ずっと親友でいてほしいっていう意思表示なのだけど…慣れていないから間違えていたら謝っておくわ」
 石のように固まってしまったシルヴァンに笑いかけ、イオネはその場から立ち去った。
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