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36 虚無の隙間 - un genre de folie -
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アルヴィーゼは折悪しく数日留守にしていた。エマンシュナ西部の諸侯の会合が領地のルドヴァンで行われたためだ。本音を言えばイオネがフラヴァリ邸にいる今ユルクスを離れることは避けたかったが、予てより王命により定められていたことだから、主催のルドヴァン領主が欠席する選択肢はない。
本来は六日の予定だったが、アルヴィーゼはそれを大幅に短縮し、ほとんど睡眠も取らず、馬を駆って僅か四日のうちにユルクスへ戻って来た。
そして、旅塵にまみれたアルヴィーゼを待ち受けていたものは、トーレの領主夫人がユルクスのフラヴァリ邸を訪ねたという報せだった。
「あの青二才」
そう吐き棄てたアルヴィーゼの形相は、少年時代からこの気分屋の主人に付き従っているドミニクでもぞっとするほど凄まじいものだった。
アルヴィーゼは、クレテ夫人の用向きも、その裏で誰が何をしたのかも、瞬時に正しく理解した。
温和そうな童顔の割に、シルヴァン・フラヴァリの肚の内には薄暗いものがある。どちらかといえば、情深いマルクや利他的な価値観を持つドミニクよりもアルヴィーゼに近い思想を持っているだろう。
則ち、欲しいものを手に入れる手段をそれほど慎重に選ばない。
しかし、イオネの前では殊更に好青年ぶりたがるあの男がこれほど迅速に事を進めようとは、正直当たりが外れた。ヴィクトル老公も同じ屋敷に滞在しているからイオネの貞操を脅かすことはないだろうと踏んでいたものの、短期間で婚約まで漕ぎ着けるとすれば話は別だ。
男女の機微に子供よりも疎く、結婚などに爪の先ほどの興味もないイオネが簡単に靡くとは思えないが、情よりも理、或いは利を持って説けば考えが傾くかもしれず、あまつさえどういうわけか、ここのところイオネがアルヴィーゼから距離を取り始めたところだ。
まったく気に入らない。
強引に身体を奪って快楽を植え付け、氷山のように気位が高いあの女の矜恃を揺るがせ、学問で一杯の思考の中に入り込み、じわじわと侵蝕している最中だというのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
もう何日もイオネに触れていない。声を聞くことはおろか、顔も見ていない。
自分でも驚いたことに、それだけのことが精神を削いでいる。本能と理性の間に、イオネの存在がある。
アルヴィーゼはさっさと一人で湯浴みを済ませ、黒い髪から雫が滴ったまま、木炭のように黒いシャツを被った。不思議なほど疲労を感じない。
「あれ、またお出かけですか」
ひどく不審がるドミニクに一瞥もくれず、「明日戻る」とだけ告げて、アルヴィーゼは大股で扉へ向かった。ドミニクは行き先を聞かなかった。
イオネは、全ての学生が帰ったあとの講堂で、最前列の席に座ってぼんやりしている。かつて学生だった自分が座っていた席だ。
傾き始めた陽光が白い講堂の壁を暖かな色に染め、冷たい風が大きな窓から入り込んで薄い織物のカーテンを揺らしている。いつもなら帰り支度をしているはずの時間だが、今日は腰が重い。
どちらかというと色事に奔放だった三人の妹たちとは違って、男女のあいだのことは、イオネには耐性がない。頭の中に天文学的な規模で広がり、思考が飽和状態に陥って、虚無へ還ってしまう。
(…認めたくない)
それでも、その虚無の中に、あの男がいる。こんなことは理不尽だ。理不尽極まりない。
「イオネ」
名前を呼ばれて、イオネは顔を上げた。開かれたアーチ型の入り口に、シルヴァンが立っていた。
「帰りが遅いから迎えに来た。‘頼んでないわ’なんて言わないでくれよ」
シルヴァンは悪戯っぽくイオネの口調を真似して、陽気に笑った。
イオネの胸がちくちくと痛いのは、昨日まで友人と思っていたシルヴァンの心の内を知ってしまったからだ。勝手に友人を失ったような気分になって失望していることを悟られてはいけない。
「そんな言い方しないわ。でも、ありがとう。気遣ってくれて…」
「避けないでよ」
イオネが立ち上がる前に、シルヴァンは講堂の中へ入ってきて、イオネの席の目の前で立ち止まった。ちょっと自嘲するような目だ。
「だって、気まずいんだもの。こういうことに慣れていないの。あなたのことはいい友達だと思っていたし、急に縁談とか…好きとか言われたら、どんな顔したらいいか分からないわ。ただでさえわたし…」
イオネは口を噤み、視線を落とした。今、誰の名を口にしようとしたのか、気が付いてしまった。
講堂の机に影が落ちた。気付けばシルヴァンが触れそうな位置に立って、イオネの手を握っている。
「公爵が好き?」
「違うったら!嫌いよ。あんなろくでなし」
心臓がぐらぐらと揺れた。イオネはそれを無視した。
「僕のことは?」
「それは…もちろん好きよ。いい友達だもの」
「よかった」
シルヴァンが屈んで机越しにイオネの顔を覗き込んだ。自分がどんな顔をしているか分からない。頭が破裂しそうだ。
「じゃあ口付けしていい?」
「どうしてそうなるのよ。友達って言ったでしょ」
「友達から始まる夫婦関係っていうのもアリじゃないかなぁ。むしろそれぐらいの感覚の方が良い夫婦になれると思うんだよなぁ。ちょっと試してみようよ。してみて最悪って思ったら、この縁談はやめておこう」
「う。でも…」
シルヴァンのハシバミ色の目が、柔らかな熱を持って近付いてくる。
拒む理由が見つからない。イオネはまぶたを伏せて、唇がそっと触れるのを許した。シルヴァンの唇には、確かな体温があった。手の甲に触れる手のひらと唇を通して、シルヴァンの中を走るものが伝わってくる。いつもと同じように冗談混じりだったくせに、イオネの胸までひりひりするような緊張が、その肌の上にあった。
ゆっくりと唇が離れたとき、イオネの胸に迫ったものは、シルヴァンへの友愛と、小さな罪悪感だった。
シルヴァンの目が優しく弧を描いて、愛おしそうにこちらの目を覗き込んでくる。むずむずと胸がくすぐったくなるほど、真っ直ぐな輝きがあった。
「…いやだった?」
「いいえ。でも、驚いたわ」
「ちゃんとしていいか訊いたのに?」
「あなた、本当にわたしが好きなのね」
シルヴァンは目を丸くした後、眉を寄せ、苦笑した。
「だから、そう言ってるじゃないか」
「言葉はそれほど重要じゃないもの」
「そうだった。君って聞いた話より自分の頭で理解しないと気が済まない症候群なんだったっけ」
「だっ、大事なことでしょ。また変な病気を捏造しないで」
イオネが頬を赤くすると、シルヴァンは楽しそうに笑った。
「まあ、いいか。本気だって信じてくれたなら」
シルヴァンの唇が、今度は手の甲に触れた。
「実は最悪って思われてないか心配してたんだ」
「心配しないで。そんなに悪くなかったわ」
自分がいやになる。
こんな時でさえ、頭の隅にアルヴィーゼの存在を感じてしまう。あの男の唇が触れた時の感覚は、今シルヴァンがもたらした優しいものとはまるで違っていた。
小さな罪悪感の正体は、これだ。
(わたし、シルヴァンを利用して公爵のことを頭から追い出そうとしているんだわ)
ヴィクトル老公は、二人の縁談について何も口にしない。自分が意見をした後の周囲への影響力を理解しているからだろう。あくまで二人の意志に任せるつもりらしかった。が、イオネはなんとなく敬愛するノンノがシルヴァンとイオネの婚姻を期待している気配を察していた。特別可愛がっている孫と孫のように愛情を注ぐイオネが一緒になったとしたら、大いに喜ぶに違いない。
それに、利益の点でもラヴィニアの言ったことは正しい。ルメオに於ける最大の家門である二つの家が一族として結びつけば、その利益はそれぞれの領地にとどまらず共和国中に影響するだろう。
ヴィクトル老公もかつては大貿易都市であるバイロヌス地方を治めていた頭首だった。同じ考えでいるに違いないのだ。
が、三人で囲む食卓ではそういう素振りを少しも見せず、薬草学の学会に出席した際の話や、友人の某が孫と球遊びをしていたら池に落ちた話などをいつも通り面白おかしく聞かせた。
シルヴァンはイオネに対して、以前よりも少し踏み込んだ関わり方を試みているようだった。今の段階でイオネがどこまで許してくれるのかを、慎重に見極めようとしているのだ。
湯浴みを終え、薄地の寝衣にガウンを羽織って浴室を出てきたイオネを出迎えたのも、そういう理由だ。
「寝室の前まで送っていい?その、君がよければ…」
イオネは目を丸くして黙っていたが、ついに失笑して承諾した。シルヴァンが余りに顔を赤くしているのがおかしかったのだ。
「そんなに恥ずかしいなら、やめておけばいいのに」
「どんな好機も逃したくないんだよ。確かに改まって言うとすごく恥ずかしいんだけど」
シルヴァンは手燭を持って寝室の前までイオネを導くと、イオネの手を取って甲に短く触れるだけの口付けをした。
「おやすみ。いい夢を見て」
「あなたも。おやすみなさい」
イオネはシルヴァンから手燭を受け取って、寝室へ入った。
朝出て行ったきり誰も入っていないから、部屋は真っ暗で手燭の灯りがなければ寝台の位置も覚束ない。
この時部屋の隅でユラリと動いた影に、イオネは気付かなかった。
サイドテーブルに手燭を置いて吹き消そうとした時、後方へ強い力で引っ張られた。腰を誰かの腕に捕まえられている。恐怖と驚愕で頭が混乱し、反射的に口から叫び声が上がりそうになったが、寸前で大きな手のひらに口を塞がれた。
もっと驚いたことは、匂いと気配で後ろにいる男が誰かわかってしまったことだ。糸杉に似たアルヴィーゼの匂いが冷たい夜気に溶けて、イオネの心を湿らせた。
「んんー!」
イオネが怒って唸り声を上げると、背後の男が吐息だけで笑った。この僅かな空気の揺らぎがこの男の気分をイオネの肌に伝えた。ひどく怒っている。
「あいつがお前を驚かせるのはよくて俺はだめなのか?」
背筋がヒヤリとするほど冷たい声だ。
アルヴィーゼの来訪があったのならヴィクトル老公が黙っていたはずはないから、この寝室にアルヴィーゼがいる理由はただ一つ――忍び込んだのだ。とても正気とは思えない。
「髪が濡れたまま、寝室まで送らせたな。こんな薄着で」
口を押さえつけられているせいで抗議の声を発することもできず、イオネはアルヴィーゼの手首に爪を立てた。それでもアルヴィーゼが手を緩める気配はない。
首の後ろにアルヴィーゼの高い鼻が触れ、まだ濡れたままの髪をそっと分けて、唇が触れた。確かな熱と共にチクリと痛みが走った瞬間、イオネは口を塞ぐ指に思い切り噛み付いた。不意を突くことに成功したらしい。手から力が緩んだ隙に、イオネは首を振って口を自由にした。
「あなた一体、何してるの」
「また来ると言っただろう」
アルヴィーゼの口調は、白々としている。依然として腰を強く抱き寄せられているせいで、後ろを向くことができない。
「会いたくないって言ったわ」
「俺の意見は違う」
ぎりぎりと心臓が痛くなった。鳩尾が引き絞られて落ち着かなくなり、身体が熱くなる。まるでこの男の前ではこうなってしまう呪いを掛けられたように、身体が思い通りにならない。
「いったい、わたしをどうしたいの」
目の奥が熱くなった。意地でも泣きたくなんかない。それなのに、声が震えた。いちいちこんな男に乱される自分がいやになる。
「わからないのか?」
アルヴィーゼの手が寝衣の上を這って、鳩尾に触れた。ぞくりと身体の内側に熱が走り、無様にも顔が熱くなった。
「やめて。人を呼ぶわよ。大事になる前に帰って」
「あの男と婚約したからか」
アルヴィーゼが唸るように言った。
「どうしてその話を――」
言い終わる前に頤を掴まれ、後ろを向かされた。
暗闇の中で緑色の目が鈍く光っている。イオネの身体の奥でぞくりと湧いたものは、恐怖だけではない。
「許さない」
アルヴィーゼがイオネの唇に噛み付いた。
本来は六日の予定だったが、アルヴィーゼはそれを大幅に短縮し、ほとんど睡眠も取らず、馬を駆って僅か四日のうちにユルクスへ戻って来た。
そして、旅塵にまみれたアルヴィーゼを待ち受けていたものは、トーレの領主夫人がユルクスのフラヴァリ邸を訪ねたという報せだった。
「あの青二才」
そう吐き棄てたアルヴィーゼの形相は、少年時代からこの気分屋の主人に付き従っているドミニクでもぞっとするほど凄まじいものだった。
アルヴィーゼは、クレテ夫人の用向きも、その裏で誰が何をしたのかも、瞬時に正しく理解した。
温和そうな童顔の割に、シルヴァン・フラヴァリの肚の内には薄暗いものがある。どちらかといえば、情深いマルクや利他的な価値観を持つドミニクよりもアルヴィーゼに近い思想を持っているだろう。
則ち、欲しいものを手に入れる手段をそれほど慎重に選ばない。
しかし、イオネの前では殊更に好青年ぶりたがるあの男がこれほど迅速に事を進めようとは、正直当たりが外れた。ヴィクトル老公も同じ屋敷に滞在しているからイオネの貞操を脅かすことはないだろうと踏んでいたものの、短期間で婚約まで漕ぎ着けるとすれば話は別だ。
男女の機微に子供よりも疎く、結婚などに爪の先ほどの興味もないイオネが簡単に靡くとは思えないが、情よりも理、或いは利を持って説けば考えが傾くかもしれず、あまつさえどういうわけか、ここのところイオネがアルヴィーゼから距離を取り始めたところだ。
まったく気に入らない。
強引に身体を奪って快楽を植え付け、氷山のように気位が高いあの女の矜恃を揺るがせ、学問で一杯の思考の中に入り込み、じわじわと侵蝕している最中だというのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
もう何日もイオネに触れていない。声を聞くことはおろか、顔も見ていない。
自分でも驚いたことに、それだけのことが精神を削いでいる。本能と理性の間に、イオネの存在がある。
アルヴィーゼはさっさと一人で湯浴みを済ませ、黒い髪から雫が滴ったまま、木炭のように黒いシャツを被った。不思議なほど疲労を感じない。
「あれ、またお出かけですか」
ひどく不審がるドミニクに一瞥もくれず、「明日戻る」とだけ告げて、アルヴィーゼは大股で扉へ向かった。ドミニクは行き先を聞かなかった。
イオネは、全ての学生が帰ったあとの講堂で、最前列の席に座ってぼんやりしている。かつて学生だった自分が座っていた席だ。
傾き始めた陽光が白い講堂の壁を暖かな色に染め、冷たい風が大きな窓から入り込んで薄い織物のカーテンを揺らしている。いつもなら帰り支度をしているはずの時間だが、今日は腰が重い。
どちらかというと色事に奔放だった三人の妹たちとは違って、男女のあいだのことは、イオネには耐性がない。頭の中に天文学的な規模で広がり、思考が飽和状態に陥って、虚無へ還ってしまう。
(…認めたくない)
それでも、その虚無の中に、あの男がいる。こんなことは理不尽だ。理不尽極まりない。
「イオネ」
名前を呼ばれて、イオネは顔を上げた。開かれたアーチ型の入り口に、シルヴァンが立っていた。
「帰りが遅いから迎えに来た。‘頼んでないわ’なんて言わないでくれよ」
シルヴァンは悪戯っぽくイオネの口調を真似して、陽気に笑った。
イオネの胸がちくちくと痛いのは、昨日まで友人と思っていたシルヴァンの心の内を知ってしまったからだ。勝手に友人を失ったような気分になって失望していることを悟られてはいけない。
「そんな言い方しないわ。でも、ありがとう。気遣ってくれて…」
「避けないでよ」
イオネが立ち上がる前に、シルヴァンは講堂の中へ入ってきて、イオネの席の目の前で立ち止まった。ちょっと自嘲するような目だ。
「だって、気まずいんだもの。こういうことに慣れていないの。あなたのことはいい友達だと思っていたし、急に縁談とか…好きとか言われたら、どんな顔したらいいか分からないわ。ただでさえわたし…」
イオネは口を噤み、視線を落とした。今、誰の名を口にしようとしたのか、気が付いてしまった。
講堂の机に影が落ちた。気付けばシルヴァンが触れそうな位置に立って、イオネの手を握っている。
「公爵が好き?」
「違うったら!嫌いよ。あんなろくでなし」
心臓がぐらぐらと揺れた。イオネはそれを無視した。
「僕のことは?」
「それは…もちろん好きよ。いい友達だもの」
「よかった」
シルヴァンが屈んで机越しにイオネの顔を覗き込んだ。自分がどんな顔をしているか分からない。頭が破裂しそうだ。
「じゃあ口付けしていい?」
「どうしてそうなるのよ。友達って言ったでしょ」
「友達から始まる夫婦関係っていうのもアリじゃないかなぁ。むしろそれぐらいの感覚の方が良い夫婦になれると思うんだよなぁ。ちょっと試してみようよ。してみて最悪って思ったら、この縁談はやめておこう」
「う。でも…」
シルヴァンのハシバミ色の目が、柔らかな熱を持って近付いてくる。
拒む理由が見つからない。イオネはまぶたを伏せて、唇がそっと触れるのを許した。シルヴァンの唇には、確かな体温があった。手の甲に触れる手のひらと唇を通して、シルヴァンの中を走るものが伝わってくる。いつもと同じように冗談混じりだったくせに、イオネの胸までひりひりするような緊張が、その肌の上にあった。
ゆっくりと唇が離れたとき、イオネの胸に迫ったものは、シルヴァンへの友愛と、小さな罪悪感だった。
シルヴァンの目が優しく弧を描いて、愛おしそうにこちらの目を覗き込んでくる。むずむずと胸がくすぐったくなるほど、真っ直ぐな輝きがあった。
「…いやだった?」
「いいえ。でも、驚いたわ」
「ちゃんとしていいか訊いたのに?」
「あなた、本当にわたしが好きなのね」
シルヴァンは目を丸くした後、眉を寄せ、苦笑した。
「だから、そう言ってるじゃないか」
「言葉はそれほど重要じゃないもの」
「そうだった。君って聞いた話より自分の頭で理解しないと気が済まない症候群なんだったっけ」
「だっ、大事なことでしょ。また変な病気を捏造しないで」
イオネが頬を赤くすると、シルヴァンは楽しそうに笑った。
「まあ、いいか。本気だって信じてくれたなら」
シルヴァンの唇が、今度は手の甲に触れた。
「実は最悪って思われてないか心配してたんだ」
「心配しないで。そんなに悪くなかったわ」
自分がいやになる。
こんな時でさえ、頭の隅にアルヴィーゼの存在を感じてしまう。あの男の唇が触れた時の感覚は、今シルヴァンがもたらした優しいものとはまるで違っていた。
小さな罪悪感の正体は、これだ。
(わたし、シルヴァンを利用して公爵のことを頭から追い出そうとしているんだわ)
ヴィクトル老公は、二人の縁談について何も口にしない。自分が意見をした後の周囲への影響力を理解しているからだろう。あくまで二人の意志に任せるつもりらしかった。が、イオネはなんとなく敬愛するノンノがシルヴァンとイオネの婚姻を期待している気配を察していた。特別可愛がっている孫と孫のように愛情を注ぐイオネが一緒になったとしたら、大いに喜ぶに違いない。
それに、利益の点でもラヴィニアの言ったことは正しい。ルメオに於ける最大の家門である二つの家が一族として結びつけば、その利益はそれぞれの領地にとどまらず共和国中に影響するだろう。
ヴィクトル老公もかつては大貿易都市であるバイロヌス地方を治めていた頭首だった。同じ考えでいるに違いないのだ。
が、三人で囲む食卓ではそういう素振りを少しも見せず、薬草学の学会に出席した際の話や、友人の某が孫と球遊びをしていたら池に落ちた話などをいつも通り面白おかしく聞かせた。
シルヴァンはイオネに対して、以前よりも少し踏み込んだ関わり方を試みているようだった。今の段階でイオネがどこまで許してくれるのかを、慎重に見極めようとしているのだ。
湯浴みを終え、薄地の寝衣にガウンを羽織って浴室を出てきたイオネを出迎えたのも、そういう理由だ。
「寝室の前まで送っていい?その、君がよければ…」
イオネは目を丸くして黙っていたが、ついに失笑して承諾した。シルヴァンが余りに顔を赤くしているのがおかしかったのだ。
「そんなに恥ずかしいなら、やめておけばいいのに」
「どんな好機も逃したくないんだよ。確かに改まって言うとすごく恥ずかしいんだけど」
シルヴァンは手燭を持って寝室の前までイオネを導くと、イオネの手を取って甲に短く触れるだけの口付けをした。
「おやすみ。いい夢を見て」
「あなたも。おやすみなさい」
イオネはシルヴァンから手燭を受け取って、寝室へ入った。
朝出て行ったきり誰も入っていないから、部屋は真っ暗で手燭の灯りがなければ寝台の位置も覚束ない。
この時部屋の隅でユラリと動いた影に、イオネは気付かなかった。
サイドテーブルに手燭を置いて吹き消そうとした時、後方へ強い力で引っ張られた。腰を誰かの腕に捕まえられている。恐怖と驚愕で頭が混乱し、反射的に口から叫び声が上がりそうになったが、寸前で大きな手のひらに口を塞がれた。
もっと驚いたことは、匂いと気配で後ろにいる男が誰かわかってしまったことだ。糸杉に似たアルヴィーゼの匂いが冷たい夜気に溶けて、イオネの心を湿らせた。
「んんー!」
イオネが怒って唸り声を上げると、背後の男が吐息だけで笑った。この僅かな空気の揺らぎがこの男の気分をイオネの肌に伝えた。ひどく怒っている。
「あいつがお前を驚かせるのはよくて俺はだめなのか?」
背筋がヒヤリとするほど冷たい声だ。
アルヴィーゼの来訪があったのならヴィクトル老公が黙っていたはずはないから、この寝室にアルヴィーゼがいる理由はただ一つ――忍び込んだのだ。とても正気とは思えない。
「髪が濡れたまま、寝室まで送らせたな。こんな薄着で」
口を押さえつけられているせいで抗議の声を発することもできず、イオネはアルヴィーゼの手首に爪を立てた。それでもアルヴィーゼが手を緩める気配はない。
首の後ろにアルヴィーゼの高い鼻が触れ、まだ濡れたままの髪をそっと分けて、唇が触れた。確かな熱と共にチクリと痛みが走った瞬間、イオネは口を塞ぐ指に思い切り噛み付いた。不意を突くことに成功したらしい。手から力が緩んだ隙に、イオネは首を振って口を自由にした。
「あなた一体、何してるの」
「また来ると言っただろう」
アルヴィーゼの口調は、白々としている。依然として腰を強く抱き寄せられているせいで、後ろを向くことができない。
「会いたくないって言ったわ」
「俺の意見は違う」
ぎりぎりと心臓が痛くなった。鳩尾が引き絞られて落ち着かなくなり、身体が熱くなる。まるでこの男の前ではこうなってしまう呪いを掛けられたように、身体が思い通りにならない。
「いったい、わたしをどうしたいの」
目の奥が熱くなった。意地でも泣きたくなんかない。それなのに、声が震えた。いちいちこんな男に乱される自分がいやになる。
「わからないのか?」
アルヴィーゼの手が寝衣の上を這って、鳩尾に触れた。ぞくりと身体の内側に熱が走り、無様にも顔が熱くなった。
「やめて。人を呼ぶわよ。大事になる前に帰って」
「あの男と婚約したからか」
アルヴィーゼが唸るように言った。
「どうしてその話を――」
言い終わる前に頤を掴まれ、後ろを向かされた。
暗闇の中で緑色の目が鈍く光っている。イオネの身体の奥でぞくりと湧いたものは、恐怖だけではない。
「許さない」
アルヴィーゼがイオネの唇に噛み付いた。
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