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35 新しい事業 - une visiteuse -

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 フラヴァリ邸へ戻ったイオネを待ち受けていたのは、なんとも気乗りしない晩餐会だった。
 見知らぬ客人は自らをラヴィニア・クレテと名乗り、貴婦人が型通りにするような膝を曲げる挨拶ではなく、男同士が信頼を示し合うように、イオネに握手を求めてきた。イオネは少々意外に思い、それに応じた。
 初めて会う書類上の伯母は四十をいくつか超えているはずだが、深い青の目は年若い青年が持つような英気で瑞々しく輝き、どこか中性的な雰囲気を漂わせていた。イオネが思いの外この伯母に好感を持つに至ったのは、その佇まいだけではなく、淀みなく美しいマルス語を話すことを知ったからだ。
「まずは、屋敷を売却してしまったことについて、クレテ家筆頭の一人としてお詫びを申し上げます」
 と、ラヴィニアは切り出した。曰く、妹たちが全員嫁いで母親も出て行ったことで、屋敷は長らく無人と認識されていたらしかった。
 あれほど腹を立てていたのに、今では屋敷を売られてしまったことがイオネの中で些末な事柄に成り果ててしまっていた。不思議なほど不満も怒りも湧いてこない。
 理由は、分かっている。
 屋敷なんかよりもずっと激しく心を乱す、別の問題が頭を占めているのだ。それも、一日も絶えることなく。
「勘違いがあっても無理はないわね。世間一般では、妹が嫁いだなら姉はもっと早くに嫁ぐのが通例だもの」
 と、イオネは本心とは別のことを言って本音を濁した。
「ですがあなたは普通とは違いますよね。わたくしたちはあなたの躍進的な人柄を考慮に入れるべきでした。エリオスはわたくし以上に後悔しています。合わせる顔がないと言ってずいぶんと逡巡していたので、わたくしがユルクスへあなたを追いかけて参った次第なのです」
 ラヴィニアがキビキビとした口調で言い、ナイフで鶏肉とオレンジのソテーを切り分けて口に運んだ。イオネもあまり食欲の湧かない胃を叱咤するようにスパイスとハーブの香るスープを口に運んで、話の続きを待った。
「ユルクスにクレテ家所有の邸宅がまだあるので、そのうちのどれかを住まいとして提供したいと思っています。あなたが望むなら、買い取ってくださっても結構です。相場に見合った適正価格で、支払いはひと月ごとに」
「悪くない提案だわ」
 思いのほか友好的な会話と食事が進むにつれ、イオネはラヴィニアに対する自分の所感が正しいと感じていた。ラヴィニアもまた、教養が高く、聡明で、合理的な考えを持っている。二人の間に決定的な違いがあるとすれば、ラヴィニアの性質は、どちらかと言えば政治向きであるということだ。
 そしてそれは、イオネの想定を超えていた。
「そろそろ本題に移っても良い頃合いじゃないかね、クレテ夫人。用向きはこれだけではないんだろう?」
 それまで当たり障りのない世間話にだけ反応していたヴィクトル老公が食後の紅茶を飲みながら鷹揚に笑いかけると、ラヴィニアは顎を引いて居住まいを正した。
「アリアーヌ、あなたが結婚に興味がないことは重々承知していますが、新しい事業を始めるつもりで、今からお話しする提案について考えてみて欲しいと思っています。あなたと、シルヴァン・フラヴァリ閣下の縁談です」
 新しい事業――とは、なんとも珍しい縁談の比喩表現だ。
 驚いたイオネが思わず隣に座るシルヴァンへ視線を移すと、シルヴァンはどういうわけか居心地悪そうに座り直し、頬を赤くしていた。驚いていると言うより、親につまみ食いがバレた子供のような反応だ。
「それって、シルヴァンと結婚してフラヴァリ家との縁を繋ごうと言うこと?」
「縁だけではないのです。ご存じの通りわたしとエリオスが子供を授かることはありませんから、あなたとシルヴァン閣下の間に子が生まれれば、その子がトーレを相続することになります。あくまで、シルヴァン閣下がクレテ家に婿入りするという前提の話になりますが」
 イオネは言葉を失った。確かに、直系の子が残らないとなれば、次期領主として親戚筋から養子をもらうしかない。が、それは相続争いの火種になりかねないから、できれば避けたい手段だ。何より、領主になる者としての教育は、子供のうちから授けなければならない。
 それらを考慮すれば、クレテ家としても領主一族の直系の血筋であるイオネに婿を取らせ、その子を領主として育てたいという理屈は十分理解できる。
 しかし、ラヴィニアの目論見はそれだけではなかった。
「我が国の法律では、領地を越えての共同事業には大きな制約がありますが、二つの家が同一の家門として結びつくことで、バイロヌスとトーレでの共同事業が比較的容易になります。そうなれば、ルメオの貿易事業を部分的に独占することも可能です。わたしたちがルメオを世界一の貿易大国へ押し上げることも、夢ではありません」
 今夜の会話で分かったことは、ラヴィニアがエリオスの妻と言うよりも、謂わば共同経営者に近い存在であるということだ。しかも、おそらく当主であるエリオス以上の野心を持っている。
 ラヴィニアは夫との夫婦生活が一般的でないことを恥じたり嘆いたりすることはなく、むしろ誇りに思っているようだった。
「トーレの景気が好調に転じたのはあなたのおかげね、ラヴィニア伯母さま」
 提案の内容はどうあれ、イオネはすっかり感心してしまった。行動力や考え方からして、恐らくは、この発案者は伯父ではなく彼女だろう。
「わたくしは経済学と交易学の専門家としてできることをしているだけです。エリオスは不遇の青年時代を過ごしたけれど、実直で勤勉で、領地も家業も十分に運営する能力があります。あなた方とは色々あったと聞いているけど、わたくしにとっては良き相談相手で無二の親友です。わたくし自身、トーレを愛してもいます。力になりたいと思っているのです」
 ラヴィニアが今度はシルヴァンに視線を向け、目を細めた。
「僕は異論ないですよ。イオネさえよければ、すぐにでも」
「シルヴァン!そんな簡単に…」
「簡単じゃないさ」
 シルヴァンの顔に、いつもの悪戯っぽさはない。
 イオネは助け舟を求めるようにヴィクトル老公の顔を見た。が、ヴィクトル老公は優しげに目で笑って見せただけで、黙している。自分たちで決めろと言外に諭しているのだ。
「わたくしは提案をしに来ただけですから、今すぐに答えを求めません。よく考えて、お返事をくだされば結構です。ただ、断言できます。お二人なら互いに尊重し合う良い夫婦関係を築けるでしょうし、この結びつきは両家にとって莫大な利益を産むことになります」
 胸を張って勝ち気に微笑むと、ラヴィニアは長居せず、早々にフラヴァリ邸を辞去した。こういう行動の潔さにも、イオネは好感を持った。

 夜半、シルヴァンはイオネを庭園に誘い出した。噴水の音がさらさらと夜空に響き、秋の花の艶やかな香りが優しく風に溶けている。
 用向きは、わざわざ聞くまでもない。伯母の突然の提案のせいで少々気まずくもあり、正直気乗りしなかったが、同じ屋敷で起居している以上は避けられない。
 そしてひとつ、イオネからも詰ってやろうと思っていたことがある。
「あなた、知っていたわね」
 イオネが腕を組むと、シルヴァンは少々バツが悪そうに口を開いた。
「君がトーレを離れたあと、ラヴィニアさんがうちに来たんだ」
 シルヴァンが告げるまでもなく、ラヴィニアはイオネがトーレに誰と来たか知っていたし、ルドヴァン公爵と親密にしているという噂も聞き及んでいた。
 ラヴィニアがシルヴァンに訊ねたのは、イオネが噂通り公爵と男女の関係にあるかどうかということだ。
 シルヴァンは、否定した。イオネから聞いた言葉通りだ。
 接点のなかったはずのイオネとルドヴァン公爵が一緒に行動していたことで、何が二人を引き合わせたのか、聡いラヴィニアが気付かないはずがなかった。
「ラヴィニア伯母さまは、わたしがまだ未婚だと知ったから例の‘新しい事業’を思いついたのね」
「そういうわけでもないんだ。実は、発案者は僕」
 イオネは驚いて声を発することを忘れた。
「軽くね。家同士のことだから僕の意向だけじゃ決められないし、ラヴィニアさんにどうかなって雑談がてら打診してみたんだけど、まさかこんなに早く正式な話を持ってくるなんて驚いたよ」
 雑談がてら、というあたりがシルヴァンらしい。しかし、ことの重大さには釣り合わないほどの軽妙さだ。まるで天気の話でもしているようにあっさりとしている。
「驚いたのはこっちよ!あなた、何考えてるの?」
「君のこと」
 そう言って目を暗くしたシルヴァンに、イオネはヒヤリとした。イオネが知っているシルヴァンとは、まるで違って見えた。悪戯好きな少年でもなければ、人当たりのよい好青年でもない。
「イオネはこうでもしないと僕のこと本気で考えてくれないだろ。君は僕を子供の頃の友達としか思ってないだろうけど、僕にとってはずっと初恋の人だったんだ。父さんとこの国を離れている間も忘れたことはなかったし、ノンノに君の話を聞いてずっともう一度会えたらいいなって思ってた。トーレで事業を始めたのも、いつか君がトーレに戻ってきたときに一人前になった僕を見て欲しかったからだ」
「二度と戻らないつもりだったのよ」
 声色に内心の動揺が滲み出たかもしれない。シルヴァンが自分のことをどう見ていたか、今の今まで深く考えたことがなかった。
「その時はそれでもよかったんだ。思い出の場所でフラヴァリさんちのシルヴァンくんが成功したらしいって、君の耳に届けばそれでいいと本気で思ってたんだよ。会っても会わなくても、君との思い出が大事だったんだ。…もう一度会うまでは」
 イオネが茫然としていると、シルヴァンに手を握られた。記憶にある少年の手とは違う。大きく、熱を持った、ひどく生な男の手だった。
「もう友達じゃ足りない、イオネ。大人になって、君と会って、また恋に落ちたんだ。新しい事業のつもりじゃなくて、僕とずっと一緒にいる未来を考えてよ」
「…夫婦として?」
「そうさ。悪くないと思うんだよなぁ。だって君、僕といるの嫌いじゃないだろ?っていうか、結構好きなはずだ」
 イオネは思わず笑い出した。別人のように真剣なときも、シルヴァンはシルヴァンだ。いつも相手を笑わせる事に抜かりない。
「確かに、そうね」
 しかしそれは、シルヴァンを数少ない友人の一人と思っていたからだ。
 皮肉なことだ。今になってアルヴィーゼの言葉が胸に刺さる。自分の考えでしか物事を捉えなかったから、真理を見誤っていた。
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