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33 季節の組曲 - la Musique dans le Cœur -

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 イオネとシルヴァンがノンノ・ヴェッキオのビックリ顔を拝むことに成功したのは、シルヴァンが到着した翌夕のことだった。
 到着した馬車をまずシルヴァンが出迎え、ヴィクトル老公が驚いて馬車を降りたところで、馬車の影に隠れていたイオネが老公の手を取って更に驚かせた。
「これは驚いた!なぜふたりが一緒にいるんだね」
「ノンノ・ヴェッキオを驚かせるためよ」
 ヴィクトル老公は相好を崩してイオネを抱擁し、孫のシルヴァンの肩をパンパンと叩いた。
「ノンノが来るから、屋敷の管理をお願いしたんだよ。ちょうどこの間トーレでバッタリ会ったんだ」
「トーレでばったり?」
 ヴィクトル老公は怪訝そうにイオネを見た。イオネがクレテ家の本家と絶縁状態にあることは、無論知っている。
「ノンノが聞くべき話がたくさんありそうじゃないか」
 ヴィクトル老公が白い口髭の下で笑い声を上げた。
「もちろん、話せる部分はね」
 イオネは微笑し、年を取ってもスラリと背の高いヴィクトル老公が曲げた肘に手を添え、屋敷の扉に続く石畳を踏んだ。
「まったく、イオネ。ノンノには話せないことなんかないと言って全部聞かせて欲しいものだがね」
 ヴィクトル老公はやれやれと諦めたように首を振った。イオネの性分は昔から知っているが、幼い頃から孫よりも深く愛情を注いできたノンノ・ヴェッキオが相手であっても、彼女が自ら自分の話をしたことは、今までに数えるくらいしかない。
「イオネは無理。なんでも自分でなんとかしたい探求者症候群にかかってるからね。先天性の」
 シルヴァンがふざけて言うと、イオネは目をぎょろりとさせてシルヴァンを咎めた。
「ありもしない病気を捏造しないで。失礼ね。ただの性分よ」
「だからその性分に名前をつけるなら、なんでも自分でしたい症候群ってところだろ。君にぴったりだ」
「あなたさっきは先天性なんでも自分でなんとかしたい探求者症候群って言ってたわ」
「一回で覚えるなんて凄いな。案外気に入ったんじゃないか」
「気に入らなくても一度聞いたことは覚えるわよ。普通でしょ」
「君、そういうとこがちょっとずれてるんだよな」
 二人の会話を聞いていたヴィクトル老公が、弾けるように笑い出した。八十五歳の老爺が発するには豪快な声だ。
「まったく、お前たちは変わらんな!子供の時もそうやってよく言い合ってたのを今思い出したよ。かわいい孫のシルヴァンと孫と同じくらいかわいいイオネがせっかく出迎えてくれたんだから、今夜はささやかな宴と行こうじゃないか」
 ヴィクトル老公がイオネとシルヴァンの肩をそれぞれ抱いて、ひどく上機嫌に言った。

 ノンノのいる夕べは、イオネにとっては実の家族と共に過ごすよりもゆったりと安らぎのある時間だった。
 長く学問の世界に身を置くヴィクトル老公は経験豊富で博識で、芸術への造詣も深い。
 夕餉の食卓は、まるで学堂だ。シルヴァンが辟易するほどの熱の入りようでイオネとヴィクトル老公が新しく発見された遺構や新種の薬草についての意見交換をし、その後話題がどう発展したのか、食後酒が進む頃には「芸術家の霊性が作品を生み出すのか、芸術への妄執が作品となって芸術家に霊性を与えるのか」という議論になっていた。
「ノンノもイオネも、いつもそんな面倒くさいこと考えてるの?感性の理由なんて考えるのは野暮だ。その時だけの感情があって、自分も変化するんだから、作品もそうだろ。霊性なんてものが存在するとしたら、作品と芸術家だけの間にある一時的なものだ。どっちが先かなんて関係ないんだよ。音楽の演奏と同じようにさ」
 シルヴァンはそう言ってこの議論を打ち切ろうとしたが、これがヴィクトル老公の音楽好きに火をつけた。
 酒が飲めないシルヴァン以外の二人は、ほろ酔いで上機嫌だ。ヴィクトル老公が若者たちを二階の演奏室へ誘い、イオネにピアノの伴奏を頼むと、自らヴァイオリンを持ち、シルヴァンにはチェロを抱えて座らせた。
 選曲は、ヴィクトル老公お気に入りの『季節の組曲』のうち、一番の『春』だ。イオネの最も苦手な曲でもある。
 イオネにしてみれば楽譜通りのけんを楽譜通りのリズムで叩いているつもりなのに、いつも春らしくない不機嫌な調子だとか、春は春でも曇天の日のようだとか、情感の表現に煩いヴィクトル老公には酷評されるのだ。
 しかし、この日は違っていた。
 イオネが練習を怠ったせいで思うように動かない指に苦労していたにもかかわらず、演奏を終えたヴィクトル老公の評価は意外なものだった。
「驚いたよ。ずいぶん春らしくなった」
「そうかしら」
 抑揚のない声で言いながら、イオネはまたしても脳裏に浮かんだ男の影を必死で掻き消そうとした。ヴィクトル老公が逢瀬の甘い時間を思い浮かべながら弾けなどと無理を言うから、否応なしにアルヴィーゼとの外出を思い出したのだ。イオネにとって男性と二人で出かけた経験は、あれくらいしかない。
(あれは別に逢瀬なんかじゃなかったし、甘い時間なんて――)
 微かな狼狽は、ヴィクトル老公には隠せない。ヴィクトル老公は幼い孫が初めて一人で歩いたときのように目尻を下げた。
「ああ、イオネ。誰かを想って弾いたんだね。お前さんにしてはずいぶん大きな進歩じゃないか」
 イオネは黙して立ち上がった。顔が燃えるように熱い。これまで心の中で小さく燻っていたものが、一気に噴出した。
「違うわ!わたしは誰のことも想っていないし、必要ないもの!」
 あまりの剣幕に自分でも驚いた。尋常ではなく取り乱した自覚はある。すぐに無礼を詫びようとしたが、ノンノ・ヴェッキオは気を悪くするどころか、いっそう優しげに微笑んでいた。
「ふたりとも紅茶いるだろ?淹れてもらってくるよ」
 軽快に言ってシルヴァンが部屋を出て行くと、ヴィクトル老公はもう一度イオネをピアノの椅子に座らせ、自分は今までシルヴァンが座っていたチェロの椅子に座った。
「お前さんは昔から不安になるとよくそうしていたなぁ」
 イオネは無意識のうちに小指の指輪をくるくると弄んでいた手をぴたりと止めて、拳を握った。
「さて、何に怯えているのかノンノに話してごらん。誰とか、何があったとかは訊かないよ。話せることだけでいい」
「わたし、怯えているのかしら…」
「初めて大海原を目の当たりにしたミズナギドリの雛のようにね」
 これを聞いて思い浮かんだのは、波打ち際を右往左往する小さな水鳥だ。海は、エメラルドの色をしていた。
「――怖い…」
 イオネは、言葉が勝手に唇から溢れていくのを聞いた。
「わたしがわたしでなくなっていくのが怖いの。心が思い通りにならないのは、もっと怖い」
「ではイオネ。どんなイオネだったらお前さんは満足するんだ?変化を恐れているようだが、その先に元の自分はいないのかい?」
「わからないわ。でも変わってしまったら元の自分には戻れない」
「それはそうさ。知識を一度得たら減ることはない。それと同じだ。人間というのはね、常に新たな自分を得続けていくものだ。この世に不変のものは存在し得ないんだから」
 イオネはヴィクトル老公の優しい目を見て、なぜか目の奥が熱くなった。ノンノ・ヴェッキオにこんな話をしている自分が信じられない。
「お前さんは言語学者だろう、イオネ。ノンノの問いに正しく答えなさい。変化の先に、元の自分はいないと思うかい?それまでの自分は消えてしまうのか?」
「いいえ。今までに得たものは消えないし、きっと元の自分もいるわ」
「じゃあ新しい自分が増えるという方が正しい表現じゃないかね」
 そうかもしれない。そう考えると、自分が変化に対して感じている恐怖は、それほどでもないような気がしてくる。だが、どうしようもなく拭えない恐怖がある。それは、変化とは別のものだ。
「それから、心はね。イオネ――」
 ヴィクトル老公がイオネの頭に手を置いた。
「いつだって儘ならないものだ。この闘争からは誰も逃れられない。怖ければ、克つしかないんだよ」
「ノンノはどうやって克つ?」
「わたしは学者だよ。検証あるのみ」
「検証…」
 イオネの場合は恐怖の根源に対峙するしかない。
「お前さんは今、初めて一人では完結できない世界に足を踏み入れたんじゃないかね。自ら望もうが望むまいが、立っている場所こそ自分にとって最良の場所だ。その先に何を選ぶか、心に聞いてみなさい」

 この夜イオネはとろとろと眠りに沈む意識の中で、海の上の夜霧のようなアルヴィーゼの声を聞いた。最後に触れ合った夜に囁かれた言葉が、耳の奥に自然と蘇ってきたようだった。
 ――早く俺を選べ、イオネ。その時は二度と離さない。
 アルヴィーゼ・コルネールが本当にそんなことを言ったのだろうか。もしかしたら、思い違いかもしれない。でももし、アルヴィーゼの言動がただの遊戯でないとしたら。
(わたしを見る眼差しが、ほんものだとしたら…)
 いちばん大きな問題はアルヴィーゼの言動ではない。自分の感情だ。

 明くる日曜日の朝、イオネは行動を始めた。
「ノンノは正しいわ。わたしたちは研究者だもの。検証あるのみね」
 馬車に乗るイオネを見送るとき、シルヴァンはひどく心配そうにイオネの顔を見つめ、何か言いたげにしていたが、ヴィクトル老公に肘で脇を突かれると、言葉なく頷いてイオネを送り出した。
 馬車の向かう先は、コルネール邸だ。
 何日離れても頭の中から追い出せない男に会って言葉を交わしたときに自分がどんな気持ちになるのか、確かめてみようと思ったのだ。
 口実は何でもいい。荷物の一部を取りに来たとか、アストロラーベを見に来たとか、いくらでも理由はある。それなのに、馬車がコルネール邸に近づくたびに心臓が奇妙なリズムで脈打ち、手のひらに汗をじっとりかいた。不思議なのは、その緊張感を煩わしく思わないことだ。心のどこかで贈り物の箱を開ける前のような、浮き立つような期待感がある。
 そうしておよそ十日ぶりのコルネール邸の門をくぐったイオネが最初に見たものは、三階の窓の奥で揺れる長い髪だった。
 見間違いかと思ったが、目を凝らして見ても間違いなく若い女の後ろ姿だった。三階――アルヴィーゼが極めて私的な空間として使っている場所だ。イオネが十日前まで使っていた部屋も、そこにある。
 イオネは激しく動揺した。動揺した、と自覚したことにも驚き、知りたくなかった自分の感情を目の当たりにした瞬間、ぐらぐらと胸が揺れて騒ぎ、胃が軋み、心臓がいやな脈を打った。
 なんということだろう。こんなことは知りたくなかった。アルヴィーゼが既に新しい女を招き入れていると言うこと以上に。
「最悪。バカみたい」
 イオネは自分を罵るように呟いて、そのまま馬車に戻った。
 こんな、非合理的で不明瞭な感情に振り回されるなんて、イオネ・アリアーヌ・クレテたる自分ではない。それなのに、認めざるを得ない。砦の崩壊は、もう始まっていたのだ。
(ただの遊びと分かっていたのに、一体何を期待していたの)
 馬車の車輪が石畳を転がる音が、どういうわけかやけに遠く聞こえた。
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