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29 ナヴァレの男 - l’homme du Navalé -
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イオネは思いがけず興味深い会話を通訳できたことを喜ばしく思った。
アルヴィーゼの領地ルドヴァンと東の小国ガナファには、医術が独自に発達しているという共通点があった。遠く離れた地にもかかわらず、同じ植物の亜種を似たような用法で薬として利用し、外科的な治療の必要な患者に用いているほか、大きな怪我の縫合などの際に麻酔として適量の芥子を用いる方法もほぼ同じ要領で行われていた。
イオネとアルヴィーゼが揃って興味を示したのは、ガナファでのハーブを用いた温浴の治療法だ。公衆浴場として宗教施設に併設されているほか、どんな小さな町にもひとつは庶民向けのものがあるという。
イオネが参考文献について訊ねると、商人は気前よく筒状に丸められた文書を譲ってくれた。すべてガナファの言語で綴られているが、細かい文字のアクセントや一部の語順を除けばほとんどエル・ミエルド語と同じだから、それほど苦労せずに解読できそうだ。
「とても良い経験になった。今夜のあなたの無礼については、これで相殺してさしあげるわ」
三杯目のワインも手伝って、イオネは上機嫌だ。
「あの場でルドヴァンから使節を送る段取りまで付けてしまったのは、見事だったわね」
「では褒美にもう一曲相手をしてくれるか?教授」
アルヴィーゼは手を差し出した。ほろ酔いで気分を良くしているイオネを二度目のダンスに誘って、大勢の前で彼女が誰のものか見せつけようと目論んでいるのだ。
今夜のイオネは夜に香るマグノリアのように、虫どもの鬱陶しい視線を集めている。――が、ささやかな計画はすぐに頓挫することになった。
青い軍服姿の偉丈夫が、大きな声で名を呼びながら軽快な足取りで近づいて来たからだ。
「よお、親友!」
「…マルク」
アルヴィーゼは不機嫌に眉を寄せて、無遠慮に肩に乗せられた大男の腕を邪険にどかした。
(友達いたんだ…)
イオネはその様子を不思議な思いで眺めた。
「やあ、初めまして。とびきりきれいな人。俺はマルク・オトニエル。これでもナヴァレの中将だ」
偉丈夫が茶色の太い眉を上げ、ちょっと暑苦しいくらいの笑顔を向けた。目尻は柔和に下がっていて、チョコレート色の虹彩が大きく溌剌と輝いている。軍人らしく髪を短く整え、背は城壁のように高く、肩は分厚く、おまけに声が大きい。
‘ナヴァレ’といえば、エマンシュナ海軍の中でも選りすぐりの精鋭部隊だ。活動拠点を国内外に複数置き、ルメオを含む同盟国との合同任務に就いているから、この場にエマンシュナの海軍将校がいたとしても、それほど不思議はない。
不思議なのは、傲岸で冷徹なルドヴァン公爵とは全く気が合わなそうなこの男が、公爵を「親友」などと呼んで気安く肩に腕を乗せられる間柄であるということだ。
そして、どちらかと言うとイオネは、こういう騒がしい手合いとのやり取りは得意ではない。
「初めまして。アリアーヌ・クレテです。これでも教授よ」
イオネはにこりともせずに、マルクが差し出した大きな手を取って儀礼的な握手に応じた。
「トーレの領主令嬢って船乗り連中の間で有名だけど、君のことだったのか」
「有名かどうかは知らないけど、厳密には前領主令嬢よ」
「そうなのか?やっぱり噂話は当てにならないな。聞いてた話よりずっと美人だし」
マルクはイオネのすげない態度を気に留めることなく片目をパチリと瞑り、にこにこと手を握ったままでいる。
「何の用だ」
アルヴィーゼがマルクの手首を掴んでイオネから引き離すと、マルクは「ハハァ」と悪童のように笑い、意味ありげにアルヴィーゼへ目配せをした。
「一昨日の夜、女たちが引き止めたのに帰った理由が分かったぞ」
イオネは首を傾げた。一昨日の夜と言えば、朝方までアルヴィーゼが帰ってこなかった日だ。
(この人と一緒に女遊びをしていたということね)
なんだかモヤモヤと不愉快なものが胸に迫る。初めての感情だ。
「しばらく通詞は必要ないわね。どうぞご友人とおしゃべりを楽しんで、公爵」
イオネが凍りつくような冷たい目で二人に一瞥をくれて離れていった後、アルヴィーゼはもっと冷たい目でマルクを睨め付けた。
本当ならマルクなど捨て置いてイオネのそばにいたいところだが、この男とはイオネに聞かれては困る話をする必要がある。しかし、折が悪かった。
「なんだよ、何か悪いことしたか?挨拶しただけだ」
エマンシュナの田舎貴族の三男坊としてのびのび育ったこの男は、誰に対しても底抜けに陽気で壁がない。そしてその分、繊細な気遣いというものがないのだ。だからこそ、警戒心が強く気難しい少年だったアルヴィーゼと十七年にも渡って友人関係を築いて来られたとも言える。
アルヴィーゼは機嫌悪く眉を寄せ、大きく息をついた。
「何故お前がここにいる」
「今日は休みなんだよ。で、そこら辺で飲んでたらジェメロさんの息子と意気投合して招待されたというわけだ」
こういうことは、マルクにとっては日常茶飯事だ。エマンシュナ海軍の精鋭部隊である‘ナヴァレ’は、同盟国の主要な軍港の一部を駐屯地として各国の海軍や自警団と協力し、海賊や違法な貿易の取り締まりに当たっている。その将校であるマルクは、配属が変わる度にその土地の人間と仲良くなり、顔を広げているのである。しかもどういうわけか、この男は権力者の懐に入るのが巧い。というより、本人の意図しないうちに懐の中に迷い込んでいると言った方が正しい。
「珍獣め」
とアルヴィーゼが言ったのは、そういうマルクの特性を奇妙に思ってのことだ。
「そんなこと言っていいのか?頼まれてた件、調べてやったんだぞ」
「ならさっさと報告しろ」
「相も変わらず偉そうだな。お前が元気で俺も嬉しいよ」
マルクは愉快そうに笑い声をあげて隅の小さなサロンへ移り、シュロの鉢植えが置かれた隅のソファに腰を下ろした。
アルヴィーゼが不審な手紙の送り主の調査を依頼したのが、旧友であるマルク・オトニエルだった。アルヴィーゼが信頼する数少ない人間の一人であり、ナヴァレの将校という立場と、異常なほどの顔の広さを有効活用できる類い稀な男だ。しかも、折良く任務でユルクスとトーレ近辺を行き来している。
二日前の呼び出しは、その中間報告だった。屋敷の所有者がジャシント・カスピオだったことが分かったと報告を受けた後は、底なしのザルであるこの悪友によって芸妓のいる店で「娼を抱かないならその分飲め」などと煽られて酒を浴びるように飲まされ、結果イオネを攻略する時間を削ることになった。
更に、この二日でマルクの調査も進んでいる。
「ギアサン・カスポとかなんとかって共和国議員のボンクラ息子――」
マルクはグラッパの入ったグラスを手に持ったまま、軽快に言った。
「ジャシント・カスピオ」
「そう、それだ」
と、マルクはアルヴィーゼに向かって人差し指を上げた。
「どうやらよくないお友達と付き合いがあるみたいだが、何も出ないんだ。確実に議員のパパが手を回して揉み消してる。お前の屋敷の周りを嗅ぎ回ってるのもこのお友達と見て間違いなさそうだ」
「そうだろうな」
特に驚くことはない。予想通りだ。
マルクは、アルヴィーゼのぞっとするような冷酷な笑みを見て、眉の下を暗くした。この男から個人的な頼みごとをされたのは、今回が初めてだ。
「なあ、その男、お前に何をしたんだ?いつもなら面倒ごとは金と政治で適当に解決するだろ」
「その男は害悪だ。徹底的に潰す」
「難しいと思うぞ。パパ・議員・カスピオが揉み消すからナヴァレの調査報告があったとしても公平な裁きは下されない。せめて疑いようもない現行犯で拘束できれば、少なくとも共和国憲法に則って裁かれるだろうが」
「では手始めに悪いお友達と接触している証拠を掴む」
「忘れたのか?ルイ」
と、マルクはアルヴィーゼを宥めるように少年時代のあだ名を呼んだ。
「俺たちは外国人だ。しかも年寄りの共和国議員は王国ってものを嫌ってる。協力関係にあるからって勝手に捜査はできない。外交問題になるぞ」
「外交など知るか。議員の目が届くようでは意味がない」
マルクは驚いた。冷静沈着で合理的なこの男が、これほどの強硬手段を取ろうとは、並の事態ではない。
「おいおい、まあ待てよ。ナヴァレなら、囮を使う」
「囮だと」
アルヴィーゼの声どころか、目までも凍りつくようだ。
「おい、お前本当にどうしちまったんだ?別にお前が囮になったところで、相手に指一本――」
「標的は俺じゃない」
アルヴィーゼは機嫌悪く言った。マルクは不思議そうな顔のまましばらく固まって、数秒の後、啓示を受けたように薄茶色の目を大きく見開いた。
「女か!」
「声がでかい」
「あのとびきりきれいなアリアーヌ嬢!いつも現地調達、現地解散のお前が女性を舞踏会に連れてくるなんて珍しいと思ったんだ!いや、それだけじゃないな。…さては一緒に住んでるな?彼女を狙って不審者が屋敷の周りをウロついてるってことは、そういうことだろ。煩わしいとか言って個人的な空間に女を立ち入らせることなんてなかったのに、どういう風の吹き回しだ!おいおい親友!」
アルヴィーゼは満面の笑みで燥ぐ旧友を無言でギロリと睨め付け、グラスに入っていた琥珀色の蒸留酒を空にした。
「まあ、安心しろよ。囮なら俺の部下がやるさ」
アルヴィーゼはしばらく思案したあと、グラスをサイドテーブルに置き、暗い目をマルクに向けた。
「…知られるな」
イオネに、ということだ。マルクは承知している。
「でもなぁ、ルイ。知られたくないなら、しばらく別居するしかないぞ」
マルクはどこか面白がるように言って、四杯目のグラッパを飲み干した。
なんと、あのアルヴィーゼ・コルネールが苦虫を噛み潰したような顔で、どうしようもない不愉快さに耐えている。
アルヴィーゼの領地ルドヴァンと東の小国ガナファには、医術が独自に発達しているという共通点があった。遠く離れた地にもかかわらず、同じ植物の亜種を似たような用法で薬として利用し、外科的な治療の必要な患者に用いているほか、大きな怪我の縫合などの際に麻酔として適量の芥子を用いる方法もほぼ同じ要領で行われていた。
イオネとアルヴィーゼが揃って興味を示したのは、ガナファでのハーブを用いた温浴の治療法だ。公衆浴場として宗教施設に併設されているほか、どんな小さな町にもひとつは庶民向けのものがあるという。
イオネが参考文献について訊ねると、商人は気前よく筒状に丸められた文書を譲ってくれた。すべてガナファの言語で綴られているが、細かい文字のアクセントや一部の語順を除けばほとんどエル・ミエルド語と同じだから、それほど苦労せずに解読できそうだ。
「とても良い経験になった。今夜のあなたの無礼については、これで相殺してさしあげるわ」
三杯目のワインも手伝って、イオネは上機嫌だ。
「あの場でルドヴァンから使節を送る段取りまで付けてしまったのは、見事だったわね」
「では褒美にもう一曲相手をしてくれるか?教授」
アルヴィーゼは手を差し出した。ほろ酔いで気分を良くしているイオネを二度目のダンスに誘って、大勢の前で彼女が誰のものか見せつけようと目論んでいるのだ。
今夜のイオネは夜に香るマグノリアのように、虫どもの鬱陶しい視線を集めている。――が、ささやかな計画はすぐに頓挫することになった。
青い軍服姿の偉丈夫が、大きな声で名を呼びながら軽快な足取りで近づいて来たからだ。
「よお、親友!」
「…マルク」
アルヴィーゼは不機嫌に眉を寄せて、無遠慮に肩に乗せられた大男の腕を邪険にどかした。
(友達いたんだ…)
イオネはその様子を不思議な思いで眺めた。
「やあ、初めまして。とびきりきれいな人。俺はマルク・オトニエル。これでもナヴァレの中将だ」
偉丈夫が茶色の太い眉を上げ、ちょっと暑苦しいくらいの笑顔を向けた。目尻は柔和に下がっていて、チョコレート色の虹彩が大きく溌剌と輝いている。軍人らしく髪を短く整え、背は城壁のように高く、肩は分厚く、おまけに声が大きい。
‘ナヴァレ’といえば、エマンシュナ海軍の中でも選りすぐりの精鋭部隊だ。活動拠点を国内外に複数置き、ルメオを含む同盟国との合同任務に就いているから、この場にエマンシュナの海軍将校がいたとしても、それほど不思議はない。
不思議なのは、傲岸で冷徹なルドヴァン公爵とは全く気が合わなそうなこの男が、公爵を「親友」などと呼んで気安く肩に腕を乗せられる間柄であるということだ。
そして、どちらかと言うとイオネは、こういう騒がしい手合いとのやり取りは得意ではない。
「初めまして。アリアーヌ・クレテです。これでも教授よ」
イオネはにこりともせずに、マルクが差し出した大きな手を取って儀礼的な握手に応じた。
「トーレの領主令嬢って船乗り連中の間で有名だけど、君のことだったのか」
「有名かどうかは知らないけど、厳密には前領主令嬢よ」
「そうなのか?やっぱり噂話は当てにならないな。聞いてた話よりずっと美人だし」
マルクはイオネのすげない態度を気に留めることなく片目をパチリと瞑り、にこにこと手を握ったままでいる。
「何の用だ」
アルヴィーゼがマルクの手首を掴んでイオネから引き離すと、マルクは「ハハァ」と悪童のように笑い、意味ありげにアルヴィーゼへ目配せをした。
「一昨日の夜、女たちが引き止めたのに帰った理由が分かったぞ」
イオネは首を傾げた。一昨日の夜と言えば、朝方までアルヴィーゼが帰ってこなかった日だ。
(この人と一緒に女遊びをしていたということね)
なんだかモヤモヤと不愉快なものが胸に迫る。初めての感情だ。
「しばらく通詞は必要ないわね。どうぞご友人とおしゃべりを楽しんで、公爵」
イオネが凍りつくような冷たい目で二人に一瞥をくれて離れていった後、アルヴィーゼはもっと冷たい目でマルクを睨め付けた。
本当ならマルクなど捨て置いてイオネのそばにいたいところだが、この男とはイオネに聞かれては困る話をする必要がある。しかし、折が悪かった。
「なんだよ、何か悪いことしたか?挨拶しただけだ」
エマンシュナの田舎貴族の三男坊としてのびのび育ったこの男は、誰に対しても底抜けに陽気で壁がない。そしてその分、繊細な気遣いというものがないのだ。だからこそ、警戒心が強く気難しい少年だったアルヴィーゼと十七年にも渡って友人関係を築いて来られたとも言える。
アルヴィーゼは機嫌悪く眉を寄せ、大きく息をついた。
「何故お前がここにいる」
「今日は休みなんだよ。で、そこら辺で飲んでたらジェメロさんの息子と意気投合して招待されたというわけだ」
こういうことは、マルクにとっては日常茶飯事だ。エマンシュナ海軍の精鋭部隊である‘ナヴァレ’は、同盟国の主要な軍港の一部を駐屯地として各国の海軍や自警団と協力し、海賊や違法な貿易の取り締まりに当たっている。その将校であるマルクは、配属が変わる度にその土地の人間と仲良くなり、顔を広げているのである。しかもどういうわけか、この男は権力者の懐に入るのが巧い。というより、本人の意図しないうちに懐の中に迷い込んでいると言った方が正しい。
「珍獣め」
とアルヴィーゼが言ったのは、そういうマルクの特性を奇妙に思ってのことだ。
「そんなこと言っていいのか?頼まれてた件、調べてやったんだぞ」
「ならさっさと報告しろ」
「相も変わらず偉そうだな。お前が元気で俺も嬉しいよ」
マルクは愉快そうに笑い声をあげて隅の小さなサロンへ移り、シュロの鉢植えが置かれた隅のソファに腰を下ろした。
アルヴィーゼが不審な手紙の送り主の調査を依頼したのが、旧友であるマルク・オトニエルだった。アルヴィーゼが信頼する数少ない人間の一人であり、ナヴァレの将校という立場と、異常なほどの顔の広さを有効活用できる類い稀な男だ。しかも、折良く任務でユルクスとトーレ近辺を行き来している。
二日前の呼び出しは、その中間報告だった。屋敷の所有者がジャシント・カスピオだったことが分かったと報告を受けた後は、底なしのザルであるこの悪友によって芸妓のいる店で「娼を抱かないならその分飲め」などと煽られて酒を浴びるように飲まされ、結果イオネを攻略する時間を削ることになった。
更に、この二日でマルクの調査も進んでいる。
「ギアサン・カスポとかなんとかって共和国議員のボンクラ息子――」
マルクはグラッパの入ったグラスを手に持ったまま、軽快に言った。
「ジャシント・カスピオ」
「そう、それだ」
と、マルクはアルヴィーゼに向かって人差し指を上げた。
「どうやらよくないお友達と付き合いがあるみたいだが、何も出ないんだ。確実に議員のパパが手を回して揉み消してる。お前の屋敷の周りを嗅ぎ回ってるのもこのお友達と見て間違いなさそうだ」
「そうだろうな」
特に驚くことはない。予想通りだ。
マルクは、アルヴィーゼのぞっとするような冷酷な笑みを見て、眉の下を暗くした。この男から個人的な頼みごとをされたのは、今回が初めてだ。
「なあ、その男、お前に何をしたんだ?いつもなら面倒ごとは金と政治で適当に解決するだろ」
「その男は害悪だ。徹底的に潰す」
「難しいと思うぞ。パパ・議員・カスピオが揉み消すからナヴァレの調査報告があったとしても公平な裁きは下されない。せめて疑いようもない現行犯で拘束できれば、少なくとも共和国憲法に則って裁かれるだろうが」
「では手始めに悪いお友達と接触している証拠を掴む」
「忘れたのか?ルイ」
と、マルクはアルヴィーゼを宥めるように少年時代のあだ名を呼んだ。
「俺たちは外国人だ。しかも年寄りの共和国議員は王国ってものを嫌ってる。協力関係にあるからって勝手に捜査はできない。外交問題になるぞ」
「外交など知るか。議員の目が届くようでは意味がない」
マルクは驚いた。冷静沈着で合理的なこの男が、これほどの強硬手段を取ろうとは、並の事態ではない。
「おいおい、まあ待てよ。ナヴァレなら、囮を使う」
「囮だと」
アルヴィーゼの声どころか、目までも凍りつくようだ。
「おい、お前本当にどうしちまったんだ?別にお前が囮になったところで、相手に指一本――」
「標的は俺じゃない」
アルヴィーゼは機嫌悪く言った。マルクは不思議そうな顔のまましばらく固まって、数秒の後、啓示を受けたように薄茶色の目を大きく見開いた。
「女か!」
「声がでかい」
「あのとびきりきれいなアリアーヌ嬢!いつも現地調達、現地解散のお前が女性を舞踏会に連れてくるなんて珍しいと思ったんだ!いや、それだけじゃないな。…さては一緒に住んでるな?彼女を狙って不審者が屋敷の周りをウロついてるってことは、そういうことだろ。煩わしいとか言って個人的な空間に女を立ち入らせることなんてなかったのに、どういう風の吹き回しだ!おいおい親友!」
アルヴィーゼは満面の笑みで燥ぐ旧友を無言でギロリと睨め付け、グラスに入っていた琥珀色の蒸留酒を空にした。
「まあ、安心しろよ。囮なら俺の部下がやるさ」
アルヴィーゼはしばらく思案したあと、グラスをサイドテーブルに置き、暗い目をマルクに向けた。
「…知られるな」
イオネに、ということだ。マルクは承知している。
「でもなぁ、ルイ。知られたくないなら、しばらく別居するしかないぞ」
マルクはどこか面白がるように言って、四杯目のグラッパを飲み干した。
なんと、あのアルヴィーゼ・コルネールが苦虫を噛み潰したような顔で、どうしようもない不愉快さに耐えている。
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