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28 仕事は踊る - le travail danse beaucoup -
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低く甘い声が耳をくすぐる。身体の中心に長い指が触れ、感じやすい場所を解すように奥へと入ってくる。もどかしさに堪らず熱い息が口から出ていくと、連れ立つように小さな嬌声が漏れた。
腹の奥がじくじくと疼いて、その中にあの憎たらしい男の肉体を迎え入れるのを待ち侘びているようだ。
(嘘よ…)
認めたくない。自分がこんなに淫らな願望を抱いているはずがない。
色事をただの遊戯として楽しんでいるだけの放蕩者にいいようにされているようでは、一人前の教育者として面目が立たないではないか。何にも流されることなく、凜とひとり立っていられるイオネ・アリアーヌ・クレテでいるべきなのだ。
――肚の奥の、お前の柔らかい虚を俺のもので満たされる感覚を覚えているな。
悪魔のような甘い囁きが耳の奥に蘇った途端、イオネは飛び起きた。
カーテンの閉まった窓からは陽光が滲んで部屋をぼんやり照らし出し、外からは波の音と、とうに仕事を始めた船乗りたちの話し声が聞こえてくる。
あまりの夢見の悪さに寝台の上で茫然としていると、今ひとつ悪いことに気付いてしまった。
「最低…」
脚の間が濡れている。下着まで汚れて、とても今日一日身に付けていられないほどだ。
あまりの恥辱に身体中の血が沸騰しそうだ。ソニアが部屋に入ってくる前に、続き部屋の浴室で身体を清めようとしたが、残念ながら湯がない。それだけのことで、泣きたくなった。
「どうして、わたしが、あんな人のことで凹まないといけないのよ!」
イオネがピカピカの浴槽の底に向かって怒りを発散させたちょうどそのとき、ソニアが宿の使用人を引き連れて現れた。
とても穏やかとは言えない独り言を聞かれてしまったことに気まずい思いをしたが、ソニアは諸事心得ている。使用人たちに湯浴みの準備を頼み、イオネをソファへ誘って髪に櫛を通し始めた。
「イオネさま、本日は昼から商談が一件と夕刻からはジェメロ閣下主催の舞踏会の予定ですが、お疲れのご様子ですし、お休みになってはいかがですか?」
商談の予定は事前に聞いていたが、今日も舞踏会に同伴者として繰り出されるとは聞いていない。しかも、ジェメロと言えばトーレで何代も続く造船業者の一族で、当主パヴロス・ジェメロは亡父イシドールの旧友でもあった人物だ。
まったく、腹が立つ。事前に聞いていたら拒否されると思ったか、拒否したところでイオネの出席は決定しているといったところだろう。
「いいえ」
イオネは権高に顎を上げた。
アルヴィーゼと顔を合わせたくないからと言って、仕事を放棄し尻尾を巻いて逃げるような真似は、矜持が許さない。
「トーレでの仕事も今日で最後なのだから、きちんとやるわ」
そして、これをルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールと同伴する最後の夜会にする。明日ユルクスへ帰ったら、さっさと新しい家を見つけてこの妙な関係も解消すればいい。
(これ以上振り回されるのなんて、御免よ)
この日の夕刻、アルヴィーゼとやや気詰まりな商談を終えたイオネは一度宿へ戻り、夜会への身支度を始めた。
気詰まりなのは商談ではない。そちらはむしろ好調だ。アルヴィーゼが共和国憲法の商業に関する事項を徹底的に挙げて相手方の主張する専売権を却下した上、自領で生産した薬品と相手の商品を抱き合わせてより多く流通させるという提案をまんまと呑ませてしまったとき、この男の恐ろしいほどの抜け目なさを改めて感じた。
それはいい。
イオネにとっての大問題は、アルヴィーゼが近くにいると心臓が暴れ出し始めることだ。冷静な判断力を欠いてしまいそうで、怖くなる。あの恥辱に満ちた淫蕩な熱が、身体の中にまだ残っている。
(しっかりするのよ)
イオネはみゅっと自分の頬をつねって鏡台に映る自分の顔を見た。
「これは仕事これは仕事これは仕事…」
気持ちを切り替えようと呪文のように繰り返していると、ソニアがやって来た。またしても不穏な独り言を聞かれてしまったが、もはやソニアに聞かれて困ることなど何もない。
イオネはソニアに促されてこの日二度目の湯浴みをし、香油を塗り込められ、髪も肌もピカピカに磨かれて、またしても初めて見るドレスに袖を通すことになった。
勝手にドレスを誂えたことを詰ったところで、また「必要経費だ」などと一蹴されるに決まっている。以前、ドレスを仕立てるための採寸をしている時に現れたアルヴィーゼは、ソニアにこのことを命じたに違いなかった。彼女が用意したデザインの中から他に何着作らせているかなど、知りたくもない。
奇しくも今夜のドレスは、ソニアのデザインのうち、イオネが二番目に気に入ったものだ。
収穫の時期に似つかわしく落ち着きのある桑の実色のドレスは、光沢のある絹糸でザクロの紋様が縫い取られ、両肩が出るほど大きく開いた襟には小さな真珠や緑水晶で飾られたレースがあしらわれている。スカートの膨らみは少なく、軽やかに流線を描いて足下へ落ちるような形だ。
髪はギンバイカの生花を茎ごと編み込んでゆるやかに下ろし、首にはブロスキ邸の夜会と同じ真珠の首飾りをつけた。
化粧は、それほどしない。元より肌の色が白く、そばかすもないから、ソニアはイオネの肌に白粉を重ねることはせず、唇に淡い薔薇色の紅を引き、目元は真珠の粉で光沢を出すのみにとどめた。
ソニアはイオネの立ち姿に惚れ惚れする思いだった。やはりこの貴婦人はどこにいても視線を集める。もっとも、本人に全くその意識がないことは少々問題だ。
「ありがとう、ソニア。これならそんなに目立たなそうだわ」
と、イオネはソニアの感想とは正反対のことを言った。どうやらドレスの装飾が少なく、色味がそれほど派手ではないから目立たないのだと思っているらしい。
この感覚の齟齬が新たな火種になりそうな気がしないでもないが、こうなってはもはや祈るしかない。
ソニアは騎士の槍試合に家族を送り出すような気持ちでその後ろ姿を見送った。
アルヴィーゼは、紳士らしく夜会への同伴者を馬車の前で待っていた。
闇に溶けるような黒の夜会服を纏っているのに、この男は嫌味なほどに目立つ。丈の長い漆黒の上衣の裏地に黒イチゴ色の上質な絹が使われ、細めのタイも同系色のもので揃えている。
イオネは騒ぎ出した心臓を無視してアルヴィーゼが差し出した手を取り、馬車に乗り込んだ。
いつものように偉そうな戯言が飛んでくるかと思ったが、予想に反してアルヴィーゼは無口だった。気味が悪いほどだ。そのくせ、向かいで不遜に脚を組む男の視線が痛いほどに刺さる。
「…何か言いたいことがあるなら――」
堪りかねてイオネが口を開くと、アルヴィーゼが不機嫌そうに眉を寄せ、短く息をついた。
「お前、俺のそばでじっとしていろよ」
これには腹が立った。
「どういう意味よ」
「そのままだ。いつも通りネコのようにウロウロされては周りの目に毒だ」
「よくもそんな無礼な態度が取れるわね」
アルヴィーゼの真意は、イオネには伝わっていない。それどころか、ますます彼女の不機嫌に拍車をかけた。
本性を隠すのが巧いアルヴィーゼ・コルネールは、仕事の相手や他の貴族に対しては礼儀正しく、必要最低限の愛想の良さでそつなく対応している。にも関わらず、イオネに対してはこれだ。
「わたしはあなたの玩具じゃないのよ」
「そんなことは知っている」
(これほど扱いづらい玩具があって堪るか)
アルヴィーゼは可笑しくなって唇を吊り上げた。
この態度が火に油を注いだ。アルヴィーゼはキッと眦を上げたイオネの唇が怒りの言葉を放つ前に、身を乗り出してイオネの唇を指でそっと撫で、口を閉じさせた。
「自意識が足りていないな、教授。もう少し自分が虫を寄せ付けやすいことを自覚した方がいい」
「髪に挿さっている花ならそんなに香りが強くないから大丈夫よ」
「そういうことじゃない」
アルヴィーゼは辟易したように言って、イオネの頬に指を滑らせ、首筋に触れた。
イオネはびくりと身体を強張らせたが、狭い馬車の中では逃げ場がない。アルヴィーゼの緑色の目が鈍く光ると、昨夜のことを思い出して、腹の奥がぎゅう、と熱くなった。
「…わたしに言い寄る男性が集まってくると思うなら、間違っているわ。話しかけてくる人がいるとすれば、それはわたしがクレテ家の人間だからだし、わたしがこういう場に出てくるのが珍しいだけだもの。ただの興味本位よ。全員があなたみたいじゃないんだから――」
はた。とイオネは口を噤んだ。何か迂闊なことを口にした気がする。
「俺みたいとは?」
そう問うアルヴィーゼは、意地悪い笑みを浮かべている。イオネは顔を赤くした。
「あ、あなたみたいに…誰彼構わず狼藉を働いたりしないって言いたいだけよ」
「心外だな。誰にでもあんなことをすると思っているのか」
今度は本当に不愉快そうだ。イオネは唇を噛んで目を逸らし、アルヴィーゼの手を振りほどいて窓の外へ顔を向けた。
「語弊があったわね。‘女性なら誰でも’と言うべきだったわ」
「お前はどうだ」
イオネは眉を寄せ、顔は窓を向いたまま、視線だけをアルヴィーゼへ向けた。
「迫られたら相手が俺じゃなくても許すのか」
カッと顔が耳の後ろまで熱くなった。こんな聞き方はあんまりだ。
「あなたにだって許した覚えはないわ!」
「本当に?」
アルヴィーゼは振り上げられたイオネの手を取った。
「お前が望まなかったとでも?」
アルヴィーゼの顔には、いつもの人を食ったような笑みはない。
柔らかい唇が指先に触れた瞬間、そこから生じた痺れが全身へ伝わってイオネの身体をぞくりと震わせた。
「…関係ないわ。もう二度と起こらないんだから」
目がこんなに熱っぽく潤んでいては、説得力がない。
(せいぜい吠えていろ)
アルヴィーゼは黙してイオネから離れ、目だけで笑った。
気位が高く全くもって素直でないイオネがこの手に落ちてくる瞬間が待ち遠しい。
ジェメロ邸はトーレ港へ注ぐ運河沿いの一等地にあり、陽が落ちる時分には、船や街灯の光が運河に反射して美しい光景が目の前に広がる。
この日は自邸での催し物が好きなジェメロ夫妻が異国風のランプを足元や柱の上方に無数に設え、マルス大陸には珍しい花々を飾って、由緒正しい大豪邸を幻想的な空間へ様変わりさせていた。
イオネの予想よりもずいぶん規模の大きな舞踏会だ。招待客はみな近隣の有力な議員や実業家で、ウェヌス大陸からの賓客の姿も多い。無論エリオス・クレテも招待されているが、領主が出席しては招待客に気を遣わせるという理由で辞退している。謂わば、貴族社会の習慣だ。
隣国のルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールを特別な賓客として迎えたジェメロは、その傍らにイオネの姿を認め、大きく目を見開いた。
「これは、アリアネお嬢さま!ルドヴァン公爵閣下がどこの国の王女さまをお連れになったのかと思いました。なんというご縁か」
イオネは口元がむずむずと歪むのを抑えた。目を見ればわかる。ジェメロは完全にアルヴィーゼとの仲を誤解している。
違う!と大声で叫びたくなったが、静かに息を深く吐いて耐えた。
「お久しぶりです。パヴロス・ジェメロ閣下」
「なんと堅苦しい。昔のようにパヴロスおじさまとは呼んでくださらないのかな」
まったく、この男も遣り手のトーレ商人だ。イオネとの親交を見せつけることで、クレテ家との途切れぬ繋がりだけでなく、エマンシュナの有力者であるルドヴァン公爵との親密さをこの場で他のやんごとない招待客に印象付けるつもりなのだ。小柄で目立たない外見に反して、岩漿のように底知れないエネルギーを腹の内に抱えているような男だ。
無論、国内随一の造船業者であるジェメロとの繋がりを強調することは、アルヴィーゼにとっても利点となる。イオネはそういう政治の世界が苦手だ。
(これは仕事、これは仕事、これは仕事…)
「懐かしいわ、パヴロスおじさま」
イオネがぎこちなく言うと、ジェメロは愛娘が初めて言葉を喋った時のように相好を崩してウンウンと力強く頷き、イオネとアルヴィーゼの肩を交互にぱんぱんと叩いた。
「イシドールの忘れ形見とこんなふうに再会が叶うとは、女神さまも粋な計らいをなさるものですな」
「そうですね」
イオネはそう言いながら、にこやかにジェメロと談話するアルヴィーゼの横顔をチラリと見上げた。
‘女神の計らい’という部分を気に入らないと思っているに違いない。アルヴィーゼ・コルネールの考えでは、自分に関わる全ての出来事は、神や運命などではなく、常に自分自身が選んだ行動の結果であるはずだ。
嫌っているはずなのに、言葉にせずともこの男の考えがなんとなくわかるようになってしまった自分が、なんだか滑稽に思える。
大広間では楽隊が奏でる流行の舞踊曲に合わせて大勢の男女が踊っていた。舞踏会の始まりに相応しく、華やかでテンポの速い曲だ。差し出されたアルヴィーゼの手を、イオネはやむなく取った。
(これも仕事、これも仕事、これも仕事…)
徹底的にやると決めたのだから、逃げ出すことはしない。例え触れ合った手の温度に身体中の熱が上がったとしても。
「ご機嫌斜めにしては大人しいじゃないか」
アルヴィーゼが軽やかにステップを踏みながら低く言った。イオネは、緩やかにステップを踏んで適当に調子を合わせるだけでいい。
「…仕事と割り切っているの。前も思ったけど、あなたダンスが上手なのね。とても楽だわ」
「お褒めにあずかり光栄だ、アリアーヌ教授。ルドヴァン風の足運びは女が苦労しないようにできている」
「気に入ったわ。考案したのが男性なら奥さま思いだったのね」
「ハハ。次に帰郷したら曾祖父の墓に伝えておこう」
アルヴィーゼが屈託のない笑い声を上げた。珍しい顔だ。急激に胸が痛くなる。腰に添えられた手がやけに熱く感じるのは、きっと気のせいだ。
曲が終わると、イオネはさっさとアルヴィーゼから離れて飲み物を取りに行こうとした。が、脇にアルヴィーゼがぴったりとくっついてくる。
「珍客だ。ガナファの商人が来ている。通訳しろ」
アルヴィーゼは奥まった場所にある円卓で大勢の貴人と談笑する白いターバンを身につけた肌の黒い男を視線で示し、腕を曲げてイオネに手を添えるよう促した。
ガナファと言えば、東の海を挟んだウェヌス大陸のエル・ミエルド帝国よりも更に東方にある小国だ。海から離れた内陸部に位置し、それほど交易に適した地理ではないから、そこから商人が海を渡って来るのは珍しい。
「喜んで。公爵」
これにはイオネも乗り気になった。イオネはアルヴィーゼの腕に手を添え、軽やかな足取りで円卓へ向かっていった。
公用語はエル・ミエルド語と聞いているから、多少の方言があっても意思疎通には問題ないだろう。
腹の奥がじくじくと疼いて、その中にあの憎たらしい男の肉体を迎え入れるのを待ち侘びているようだ。
(嘘よ…)
認めたくない。自分がこんなに淫らな願望を抱いているはずがない。
色事をただの遊戯として楽しんでいるだけの放蕩者にいいようにされているようでは、一人前の教育者として面目が立たないではないか。何にも流されることなく、凜とひとり立っていられるイオネ・アリアーヌ・クレテでいるべきなのだ。
――肚の奥の、お前の柔らかい虚を俺のもので満たされる感覚を覚えているな。
悪魔のような甘い囁きが耳の奥に蘇った途端、イオネは飛び起きた。
カーテンの閉まった窓からは陽光が滲んで部屋をぼんやり照らし出し、外からは波の音と、とうに仕事を始めた船乗りたちの話し声が聞こえてくる。
あまりの夢見の悪さに寝台の上で茫然としていると、今ひとつ悪いことに気付いてしまった。
「最低…」
脚の間が濡れている。下着まで汚れて、とても今日一日身に付けていられないほどだ。
あまりの恥辱に身体中の血が沸騰しそうだ。ソニアが部屋に入ってくる前に、続き部屋の浴室で身体を清めようとしたが、残念ながら湯がない。それだけのことで、泣きたくなった。
「どうして、わたしが、あんな人のことで凹まないといけないのよ!」
イオネがピカピカの浴槽の底に向かって怒りを発散させたちょうどそのとき、ソニアが宿の使用人を引き連れて現れた。
とても穏やかとは言えない独り言を聞かれてしまったことに気まずい思いをしたが、ソニアは諸事心得ている。使用人たちに湯浴みの準備を頼み、イオネをソファへ誘って髪に櫛を通し始めた。
「イオネさま、本日は昼から商談が一件と夕刻からはジェメロ閣下主催の舞踏会の予定ですが、お疲れのご様子ですし、お休みになってはいかがですか?」
商談の予定は事前に聞いていたが、今日も舞踏会に同伴者として繰り出されるとは聞いていない。しかも、ジェメロと言えばトーレで何代も続く造船業者の一族で、当主パヴロス・ジェメロは亡父イシドールの旧友でもあった人物だ。
まったく、腹が立つ。事前に聞いていたら拒否されると思ったか、拒否したところでイオネの出席は決定しているといったところだろう。
「いいえ」
イオネは権高に顎を上げた。
アルヴィーゼと顔を合わせたくないからと言って、仕事を放棄し尻尾を巻いて逃げるような真似は、矜持が許さない。
「トーレでの仕事も今日で最後なのだから、きちんとやるわ」
そして、これをルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールと同伴する最後の夜会にする。明日ユルクスへ帰ったら、さっさと新しい家を見つけてこの妙な関係も解消すればいい。
(これ以上振り回されるのなんて、御免よ)
この日の夕刻、アルヴィーゼとやや気詰まりな商談を終えたイオネは一度宿へ戻り、夜会への身支度を始めた。
気詰まりなのは商談ではない。そちらはむしろ好調だ。アルヴィーゼが共和国憲法の商業に関する事項を徹底的に挙げて相手方の主張する専売権を却下した上、自領で生産した薬品と相手の商品を抱き合わせてより多く流通させるという提案をまんまと呑ませてしまったとき、この男の恐ろしいほどの抜け目なさを改めて感じた。
それはいい。
イオネにとっての大問題は、アルヴィーゼが近くにいると心臓が暴れ出し始めることだ。冷静な判断力を欠いてしまいそうで、怖くなる。あの恥辱に満ちた淫蕩な熱が、身体の中にまだ残っている。
(しっかりするのよ)
イオネはみゅっと自分の頬をつねって鏡台に映る自分の顔を見た。
「これは仕事これは仕事これは仕事…」
気持ちを切り替えようと呪文のように繰り返していると、ソニアがやって来た。またしても不穏な独り言を聞かれてしまったが、もはやソニアに聞かれて困ることなど何もない。
イオネはソニアに促されてこの日二度目の湯浴みをし、香油を塗り込められ、髪も肌もピカピカに磨かれて、またしても初めて見るドレスに袖を通すことになった。
勝手にドレスを誂えたことを詰ったところで、また「必要経費だ」などと一蹴されるに決まっている。以前、ドレスを仕立てるための採寸をしている時に現れたアルヴィーゼは、ソニアにこのことを命じたに違いなかった。彼女が用意したデザインの中から他に何着作らせているかなど、知りたくもない。
奇しくも今夜のドレスは、ソニアのデザインのうち、イオネが二番目に気に入ったものだ。
収穫の時期に似つかわしく落ち着きのある桑の実色のドレスは、光沢のある絹糸でザクロの紋様が縫い取られ、両肩が出るほど大きく開いた襟には小さな真珠や緑水晶で飾られたレースがあしらわれている。スカートの膨らみは少なく、軽やかに流線を描いて足下へ落ちるような形だ。
髪はギンバイカの生花を茎ごと編み込んでゆるやかに下ろし、首にはブロスキ邸の夜会と同じ真珠の首飾りをつけた。
化粧は、それほどしない。元より肌の色が白く、そばかすもないから、ソニアはイオネの肌に白粉を重ねることはせず、唇に淡い薔薇色の紅を引き、目元は真珠の粉で光沢を出すのみにとどめた。
ソニアはイオネの立ち姿に惚れ惚れする思いだった。やはりこの貴婦人はどこにいても視線を集める。もっとも、本人に全くその意識がないことは少々問題だ。
「ありがとう、ソニア。これならそんなに目立たなそうだわ」
と、イオネはソニアの感想とは正反対のことを言った。どうやらドレスの装飾が少なく、色味がそれほど派手ではないから目立たないのだと思っているらしい。
この感覚の齟齬が新たな火種になりそうな気がしないでもないが、こうなってはもはや祈るしかない。
ソニアは騎士の槍試合に家族を送り出すような気持ちでその後ろ姿を見送った。
アルヴィーゼは、紳士らしく夜会への同伴者を馬車の前で待っていた。
闇に溶けるような黒の夜会服を纏っているのに、この男は嫌味なほどに目立つ。丈の長い漆黒の上衣の裏地に黒イチゴ色の上質な絹が使われ、細めのタイも同系色のもので揃えている。
イオネは騒ぎ出した心臓を無視してアルヴィーゼが差し出した手を取り、馬車に乗り込んだ。
いつものように偉そうな戯言が飛んでくるかと思ったが、予想に反してアルヴィーゼは無口だった。気味が悪いほどだ。そのくせ、向かいで不遜に脚を組む男の視線が痛いほどに刺さる。
「…何か言いたいことがあるなら――」
堪りかねてイオネが口を開くと、アルヴィーゼが不機嫌そうに眉を寄せ、短く息をついた。
「お前、俺のそばでじっとしていろよ」
これには腹が立った。
「どういう意味よ」
「そのままだ。いつも通りネコのようにウロウロされては周りの目に毒だ」
「よくもそんな無礼な態度が取れるわね」
アルヴィーゼの真意は、イオネには伝わっていない。それどころか、ますます彼女の不機嫌に拍車をかけた。
本性を隠すのが巧いアルヴィーゼ・コルネールは、仕事の相手や他の貴族に対しては礼儀正しく、必要最低限の愛想の良さでそつなく対応している。にも関わらず、イオネに対してはこれだ。
「わたしはあなたの玩具じゃないのよ」
「そんなことは知っている」
(これほど扱いづらい玩具があって堪るか)
アルヴィーゼは可笑しくなって唇を吊り上げた。
この態度が火に油を注いだ。アルヴィーゼはキッと眦を上げたイオネの唇が怒りの言葉を放つ前に、身を乗り出してイオネの唇を指でそっと撫で、口を閉じさせた。
「自意識が足りていないな、教授。もう少し自分が虫を寄せ付けやすいことを自覚した方がいい」
「髪に挿さっている花ならそんなに香りが強くないから大丈夫よ」
「そういうことじゃない」
アルヴィーゼは辟易したように言って、イオネの頬に指を滑らせ、首筋に触れた。
イオネはびくりと身体を強張らせたが、狭い馬車の中では逃げ場がない。アルヴィーゼの緑色の目が鈍く光ると、昨夜のことを思い出して、腹の奥がぎゅう、と熱くなった。
「…わたしに言い寄る男性が集まってくると思うなら、間違っているわ。話しかけてくる人がいるとすれば、それはわたしがクレテ家の人間だからだし、わたしがこういう場に出てくるのが珍しいだけだもの。ただの興味本位よ。全員があなたみたいじゃないんだから――」
はた。とイオネは口を噤んだ。何か迂闊なことを口にした気がする。
「俺みたいとは?」
そう問うアルヴィーゼは、意地悪い笑みを浮かべている。イオネは顔を赤くした。
「あ、あなたみたいに…誰彼構わず狼藉を働いたりしないって言いたいだけよ」
「心外だな。誰にでもあんなことをすると思っているのか」
今度は本当に不愉快そうだ。イオネは唇を噛んで目を逸らし、アルヴィーゼの手を振りほどいて窓の外へ顔を向けた。
「語弊があったわね。‘女性なら誰でも’と言うべきだったわ」
「お前はどうだ」
イオネは眉を寄せ、顔は窓を向いたまま、視線だけをアルヴィーゼへ向けた。
「迫られたら相手が俺じゃなくても許すのか」
カッと顔が耳の後ろまで熱くなった。こんな聞き方はあんまりだ。
「あなたにだって許した覚えはないわ!」
「本当に?」
アルヴィーゼは振り上げられたイオネの手を取った。
「お前が望まなかったとでも?」
アルヴィーゼの顔には、いつもの人を食ったような笑みはない。
柔らかい唇が指先に触れた瞬間、そこから生じた痺れが全身へ伝わってイオネの身体をぞくりと震わせた。
「…関係ないわ。もう二度と起こらないんだから」
目がこんなに熱っぽく潤んでいては、説得力がない。
(せいぜい吠えていろ)
アルヴィーゼは黙してイオネから離れ、目だけで笑った。
気位が高く全くもって素直でないイオネがこの手に落ちてくる瞬間が待ち遠しい。
ジェメロ邸はトーレ港へ注ぐ運河沿いの一等地にあり、陽が落ちる時分には、船や街灯の光が運河に反射して美しい光景が目の前に広がる。
この日は自邸での催し物が好きなジェメロ夫妻が異国風のランプを足元や柱の上方に無数に設え、マルス大陸には珍しい花々を飾って、由緒正しい大豪邸を幻想的な空間へ様変わりさせていた。
イオネの予想よりもずいぶん規模の大きな舞踏会だ。招待客はみな近隣の有力な議員や実業家で、ウェヌス大陸からの賓客の姿も多い。無論エリオス・クレテも招待されているが、領主が出席しては招待客に気を遣わせるという理由で辞退している。謂わば、貴族社会の習慣だ。
隣国のルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールを特別な賓客として迎えたジェメロは、その傍らにイオネの姿を認め、大きく目を見開いた。
「これは、アリアネお嬢さま!ルドヴァン公爵閣下がどこの国の王女さまをお連れになったのかと思いました。なんというご縁か」
イオネは口元がむずむずと歪むのを抑えた。目を見ればわかる。ジェメロは完全にアルヴィーゼとの仲を誤解している。
違う!と大声で叫びたくなったが、静かに息を深く吐いて耐えた。
「お久しぶりです。パヴロス・ジェメロ閣下」
「なんと堅苦しい。昔のようにパヴロスおじさまとは呼んでくださらないのかな」
まったく、この男も遣り手のトーレ商人だ。イオネとの親交を見せつけることで、クレテ家との途切れぬ繋がりだけでなく、エマンシュナの有力者であるルドヴァン公爵との親密さをこの場で他のやんごとない招待客に印象付けるつもりなのだ。小柄で目立たない外見に反して、岩漿のように底知れないエネルギーを腹の内に抱えているような男だ。
無論、国内随一の造船業者であるジェメロとの繋がりを強調することは、アルヴィーゼにとっても利点となる。イオネはそういう政治の世界が苦手だ。
(これは仕事、これは仕事、これは仕事…)
「懐かしいわ、パヴロスおじさま」
イオネがぎこちなく言うと、ジェメロは愛娘が初めて言葉を喋った時のように相好を崩してウンウンと力強く頷き、イオネとアルヴィーゼの肩を交互にぱんぱんと叩いた。
「イシドールの忘れ形見とこんなふうに再会が叶うとは、女神さまも粋な計らいをなさるものですな」
「そうですね」
イオネはそう言いながら、にこやかにジェメロと談話するアルヴィーゼの横顔をチラリと見上げた。
‘女神の計らい’という部分を気に入らないと思っているに違いない。アルヴィーゼ・コルネールの考えでは、自分に関わる全ての出来事は、神や運命などではなく、常に自分自身が選んだ行動の結果であるはずだ。
嫌っているはずなのに、言葉にせずともこの男の考えがなんとなくわかるようになってしまった自分が、なんだか滑稽に思える。
大広間では楽隊が奏でる流行の舞踊曲に合わせて大勢の男女が踊っていた。舞踏会の始まりに相応しく、華やかでテンポの速い曲だ。差し出されたアルヴィーゼの手を、イオネはやむなく取った。
(これも仕事、これも仕事、これも仕事…)
徹底的にやると決めたのだから、逃げ出すことはしない。例え触れ合った手の温度に身体中の熱が上がったとしても。
「ご機嫌斜めにしては大人しいじゃないか」
アルヴィーゼが軽やかにステップを踏みながら低く言った。イオネは、緩やかにステップを踏んで適当に調子を合わせるだけでいい。
「…仕事と割り切っているの。前も思ったけど、あなたダンスが上手なのね。とても楽だわ」
「お褒めにあずかり光栄だ、アリアーヌ教授。ルドヴァン風の足運びは女が苦労しないようにできている」
「気に入ったわ。考案したのが男性なら奥さま思いだったのね」
「ハハ。次に帰郷したら曾祖父の墓に伝えておこう」
アルヴィーゼが屈託のない笑い声を上げた。珍しい顔だ。急激に胸が痛くなる。腰に添えられた手がやけに熱く感じるのは、きっと気のせいだ。
曲が終わると、イオネはさっさとアルヴィーゼから離れて飲み物を取りに行こうとした。が、脇にアルヴィーゼがぴったりとくっついてくる。
「珍客だ。ガナファの商人が来ている。通訳しろ」
アルヴィーゼは奥まった場所にある円卓で大勢の貴人と談笑する白いターバンを身につけた肌の黒い男を視線で示し、腕を曲げてイオネに手を添えるよう促した。
ガナファと言えば、東の海を挟んだウェヌス大陸のエル・ミエルド帝国よりも更に東方にある小国だ。海から離れた内陸部に位置し、それほど交易に適した地理ではないから、そこから商人が海を渡って来るのは珍しい。
「喜んで。公爵」
これにはイオネも乗り気になった。イオネはアルヴィーゼの腕に手を添え、軽やかな足取りで円卓へ向かっていった。
公用語はエル・ミエルド語と聞いているから、多少の方言があっても意思疎通には問題ないだろう。
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