高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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27 仮面の下 - les yeux sous le masque -

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 招待客が立食形式での宴会を楽しみ、酒が進んだ頃、競りが始まった。
 劇場の舞台へ支配人のシルヴァンが仮面をつけて登壇し、出品された美術品の紹介を簡単に行った後で入れ札が始まると、劇場内は異様な熱気に包まれた。
 イオネにとっては金にものを言わせて狙いのものを手に入れ、自分の財力を誇示するという富裕層の遊戯はそれほど楽しいようには思えないが、今回の利益の少なくとも三割は孤児院に寄付されるというから、社会貢献という点ではただの買い物よりもよほど有意義だ。
(シルヴァンらしいわ)
 イオネは壇上で絵画の落札者と握手を交わす旧友を眺め、その成長ぶりを誇らしく思った。

 アルヴィーゼは、宣言通りアストロラーべを落札した。それも、どこぞの富豪と競って三度値をつり上げ、この場の誰も手が出せないほどの値をつけてしまった。大きな商船を二隻買っても余剰分が出るほどの金額だ。
 この夜の最高額落札者として注目を集めることになったアルヴィーゼの周囲がにわかに賑やかになると、イオネはそれとなくアルヴィーゼの手から落札したばかりの革袋に包まれたアストロラーベを抜き取り、恭しくお辞儀をしてその場を離れた。
「馬車で待機しているドミニクに預けてくるわ」
 と告げたのは、建前だ。
 アルヴィーゼは不満げに目を細めていたが、機嫌良く話しかけてくる老紳士がアルヴィーゼに隙を与えなかった。相手が前共和国元首とあっては、アルヴィーゼも蔑ろにできない。
(今夜は友人に誘われて来たのであって仕事じゃないのだから、公爵の外交に付き合う義理はないわ)
 イオネにはそういう肚がある。
 劇場のメインホールを出て、かつての古い劇場の面影が残る廊下を進み、角に差し掛かったときのことだ。突然黒い影がヌッと躍り上がって「ワッ!」と叫び、勢いよく目の前に迫ってきた。
「きゃあぁ!」
 悲鳴を上げると同時に心臓がバクバクと揺れた。刹那の恐慌状態から我に返ったイオネの脳が目の前の人物を認識すると、どうしようもなく可笑しくなって笑いがこみ上げてきた。
「ちょっと!一体何をしてるの、シルヴァン」
 悪戯を成功させたシルヴァンが子供のように笑い声を上げた。
「昔ここに観劇に来るとよくこうして遊んだだろ?」
「遊んでいたのはあなただけよ!もう、びっくりした」
「悪かったよ」
 イオネが目をぎょろりとさせて腕組みをすると、シルヴァンは悪戯っぽく眉を上げ、おどけた動作で手を差し出した。
「忙しい公爵閣下に代わって僕が馬車までエスコートするよ」
「必要ないわ」
「そう言わずに。それとも公爵が嫉妬するかな」
 イオネは顔を赤くした。仮面をつけたままなのが幸いだ。赤くなった目元を見られなくて済む。
「そういうのじゃないわ。公爵が腹を立てるとしても、わたしが思い通りにならないからよ」
「…なあ、不思議だったんだけど、君たちの関係って――」
「仕事だけよ。公爵に借りがあるの」
 必要以上に強い口調になってしまった。シルヴァンが表情を暗くすると、ノンノ・ヴェッキオがイオネの一人旅を案じながら送り出す時とそっくりな顔になる。
「君がそう言うなら仕事上の付き合いなんだろうけど、一体どんな借りがあって公爵の仕事を手伝ってるんだ?君は放っておいて欲しいかもしれないけど、僕たち友達だろ。放っておけないよ。それに、うちのノンノだって心配する。あの、超個人主義のイオネ・クレテが他人にでかい借りを作るなんて、異常事態だ」
 イオネは唇を噛んでシルヴァンの手を取り、出口への長い廊下を進み始めた。隣からシルヴァンの小さな溜め息が聞こえる。頼ってもらえないことに落胆しているのだ。
 これは、白状するしかない。半端で主観的な情報がシルヴァンからヴィクトル老公の耳に入っては、余計に事態が拗れかねない。
「…伯父のエリオスが、わたしの休暇中にユルクスの屋敷を勝手に公爵に売っちゃったの。だから新しく住む場所を見つけるまで、公爵の屋敷に居候してるのよ。ちょうどいい空き家を見つけてもすぐに買い手が付いてしまうことが多くて、少し長くなりそうだから。仕事の手伝いはその見返り。後々まで借りを作るのはいやだから、わたしが提案したの」
 イオネは抑揚のない声で、しかしきっぱりと告げた。
「わたしが、提案したのよ。シルヴァン」
「そんなに強調しなくてもわかってるよ。まったく、君らしいな」
 シルヴァンは苦笑して、すぐに眉の下を暗くした。
「公爵とは、良好な関係?」
 この問いをどう受け取ってよいものか、イオネには判断できなかった。観察するようにシルヴァンの青い目が顔を覗き込んでくると、何故かひどく後ろめたい隠し事をしているような気分になった。アルヴィーゼとの複数回に及ぶ逸脱は、もはやなかったことにはできない。その事実を身体中に、ありとあらゆる方法で刻みつけられてしまった。これが良好な関係と言えるのか、イオネには判断できるだけの経験もなければ、こういう類の物事に関する知見もない。
「…君が答えられない質問なんて、初めてだな」
「質問の意図を考えていただけよ。別に、あの人とは――」
 イオネの頬がじわじわと赤くなる。
 シルヴァンの青い目が暗くなったように見えた――その時だ。
「イオネ!」
 背後からの叫ぶような声に振り返った瞬間、走ってきたアルヴィーゼに肩を掴まれ、その腕の中に囚われた。
「何があった!無事か」
 公爵のこんな顔は初めてだ。あの冷徹で不遜な公爵が、驚いて固まったシルヴァンを威嚇するように睨み、まるで全ての害悪を退けようとするようにイオネをその腕に包んでいる。
「えっ?別に…どうして?」
 イオネは目を丸くした。驚きのあまり、いつものようにこの男の強引さに腹を立てることも忘れてしまった。
「叫んだだろう」
 アルヴィーゼが語気荒く言った。
 信じられない。驚いて叫び声をあげただけで、コルネール公爵が血相を変えて遠い距離を走って来るなんて。
「驚かせてすみませんでした、公爵。イオネが来てくれたのが嬉しくて、じゃれてたんですよ」
 おどけて両手を挙げるシルヴァンに向かって、アルヴィーゼは鷹揚に微笑して見せた。が、緑色の目は深く翳って、底知れぬ怒りを映している。
「無事ならいい。では失礼する」
 言うなり、アルヴィーゼは丸めた絨毯を担ぐようにイオネの身体を軽々と抱き上げた。
「きゃっ、ちょっと…!」
「また勝手にフラフラされては困る」
「子供じゃないのよ!」
 アルヴィーゼはイオネの抗議を黙殺し、穏やかに目を細めて手を振るシルヴァン・フラヴァリへ一瞥をくれてやると、さっさと劇場を後にした。

 アルヴィーゼはイオネの身体を馬車の中へ投げ下ろし、閉じた扉を内側から叩いてドミニクと御者に出発を命じた。
「いったい何なのよ。だいたい、あなただって朝まで遊んでいたじゃない。わたしだけ行動を制限されるなんて不公平よ」
 イオネは憤慨したが、アルヴィーゼはそれも黙殺した。座面に膝をついて乗り上げてイオネに迫ると、黒いレースの仮面の奥でスミレ色の目が鈍く光り、揺れた。
「…ずいぶん楽しそうだったな」
 声色に苛立ちが混ざるのを隠しきれない。アルヴィーゼはゆっくりと手袋を剥いだ。
「ええ、楽しかったわ。ずっと会っていなかったのに昔と全然変わらなくて、もう一度友人になれたみたい」
「友人」
 アルヴィーゼは嘲笑った。この女は、どこまでも物事の本質を理解していない。
「あの男がお前と友人になりたいと?」
「シルヴァンは友達って言ってくれたもの。それより、あなたさっきイオネって呼んだ?」
(それがどうした)
 馬鹿馬鹿しい。ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールたる者がこんな物わかりの悪い女に歩調を合わせてやる必要など、どこにもない。
 仮面で目を覆っていても、その奥の感情までは隠せない。アルヴィーゼの瞳が暗く翳ったとき、イオネがびくりと身体を強張らせた。狩られる寸前の子鹿のような目だ。
 唇が自然と吊り上がる。如何に物わかりの悪い石頭でも、この先に何が起きるかは理解しているのだ。そして、それを覚えさせたのは、アルヴィーゼ・コルネールに他ならない。
 アルヴィーゼは逃れようとしたイオネの身体を馬車の隅に押し付け、細い顎を引き寄せて、結ばれた唇の下に噛み付いた。
「口を開けろ、イオネ」
 意地の強い女だ。下唇を噛みしめて抵抗している。言いなりになって堪るかとでも思っているに違いない。
「ん…!」
 アルヴィーゼがドレスの裾からイオネの脛に触れ、膝の裏を撫でて脚の中心へ手を滑らせていくと、イオネが脚を閉じようと抵抗した。アルヴィーゼは膝を抱えて阻み、イオネの首筋に噛み付きながら下着をずらし、隙間から秘所に触れた。浅い部分が、熱を持って湿っている。
 イオネが唇を開いて熱い息を吐いた隙を逃さず、アルヴィーゼは唇を奪った。逃げを打とうとしているのか、アルヴィーゼが歯の間から舌を挿し入れると、イオネが肩を押し返そうとしてくる。が、絡まった舌の淫らな音が馬車の中に響き始めた時、イオネの手が力をなくして肩にしがみつき、指で撫でている場所がひどく潤い始めた。
「んぁっ、いや…」
 イオネが身体を震わせて、アルヴィーゼから顔を背けた。仮面の下で目が潤み、素肌が熱と汗で湿り始める。アルヴィーゼの背を昏い愉悦が走った。
「よく言う。こんなにして」
「あ…!」
 アルヴィーゼが深くざらついた部分を指で強く突いて抜くと、奥からイオネの快楽がとろりと溶け出して腿の間を濡らした。
 溢れた蜜を秘所の上部で膨らんでいる実に塗りつけてそこを撫でた瞬間、イオネが高い悲鳴を上げて腰を反らせた。
「ドミニクと御者に聞こえるぞ」
 底意地の悪い声でイオネの耳朶をなぞるように囁いた。人差し指で突起を撫でながら中指を奥へ進み入れた瞬間に内部がきつく締まって指を包み、イオネが恨めしげにこちらを睨め付けた。
 ぞくぞくと悦楽が肌を奔った。気難しく偏屈なイオネの頭がアルヴィーゼで満ち始める瞬間だ。
 アルヴィーゼはイオネの後頭部で結ばれたリボンを解いて仮面を外し、暴いたイオネの貌を凝視した。
「そんな顔をしながらいやだと言っていたのか?矛盾しているぞ、イオネ」
 名を呼んだ瞬間、びくりと熱く熟れた場所が蠢いた。アルヴィーゼの胸にじわじわと奇妙な悦びが広がる。
「驚いたな。俺にその名を気安く呼ばれるのを嫌がっていたと思ったが」
「い、いやよ…」
「嘘だな」
 顔を見れば分かる。蕩けた目をして頬を染めていては、何をどう否定しようが、無駄なことだ。

「あっ――!」
「シィ。こら、聞かれてもいいのか」
 イオネは咄嗟に口を手のひらで覆い、脚の間から顔をあげたアルヴィーゼを恨めしく睨め付けて、乱されたスカートの中で再び狼藉を始めた男の舌から逃れようと身をよじった。
「んんっ、も…いやぁ」
 ぐり、と舌先が中心を突き、弄んで、その直下の隘路に侵入してくる。同時に腫れた突起を指で弄ばれ、目の前がチカチカするほどの強烈な快楽が襲ってきた。
「思い出せ、お前がここに誰を受け入れたのか」
 アルヴィーゼの声がざらざらと掠れている。
「肚の奥の、お前の柔らかいうろを俺のもので満たされる感覚を覚えているな」
 ぞく、と背が震えた。
 イオネの腹の奥から興奮が火花となって全身を走り回り、脳を焼くような絶頂が近付いてくる。あんなのをまた味わったら、おかしくなってしまう。
「うぅっ…いや――」
 ふ。と、この時、刺激が止んだ。
 イオネが突然の喪失感に驚いて乱れた髪の間から視線を上げると、濡れた指を舐めてこちらを見下ろすアルヴィーゼと目が合った。嘲弄するように、底意地の悪い笑みをその目に描いている。
「よかったな、教授・・。時間切れだ」
 アルヴィーゼがイオネの乱れた髪を解いて指で梳いた。声には暗い愉悦が混じっている。間を置かず、車輪の回る振動が次第に緩やかになり、馬車がゆっくりと停まった。
 腹の奥が燃えるように熱い。得られなかったカタルシスが身体の中でわだかまり、粘性のある澱となって、イオネの感じやすい器官にアルヴィーゼの触れた余韻を強く残している。
 羞恥と、自分への失望がイオネの頭を混乱させた。目元が熱くなり、視界がぼやける。
(わたし、どうかしてしまったんだわ)
 この先を期待して身体が疼き続けていることを知られたくない。
 イオネは涙が頬に落ちる前に、足元に落ちた仮面を拾って再び目を覆い隠し、アルヴィーゼから顔を背けて馬車の扉が開くのを待った。肩にちくちくと視線が刺さる。
 馬車の扉が開いて差し出されたドミニクの手を取ろうとした時、背後からアルヴィーゼに腕を掴まれた。
「続きが欲しければ、俺の名を呼べ。それが合図だ」
 耳に直接触れるような位置で、アルヴィーゼが小さく囁いた。
「あなたなんか、大嫌いよ」
 アルヴィーゼの顔を振り返ることもできない。涙声になるのを我慢したせいで、喉元が痛くなった。矜持も、自尊心も、全てぼろぼろだ。自分がひどく淫らで低俗な存在にさえ思える。
 イオネはドミニクの手を取って馬車を降りた後、ふらつきそうになるのを堪えてさっさと借宿の門をくぐった。
 その後ろ姿を見送ったドミニクが、アルヴィーゼに向かって片眉を上げた。今度は何をしたのかと無言で咎めているのだ。
 アルヴィーゼは暗い笑みを浮かべ、イオネの意識が自分へ向いていることに不思議な充足を覚えた。
 嫉妬も、独占欲も、執着も、これまでに抱いたことのない感情だから対処の方法など知らない。ただ、イオネの頭に自分が堂々と居座ってその感情をひどく乱していると思うと、溜飲が下がる。
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