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23 レヴィアタンの縄張り - un territoire de Léviathan -
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収穫祭の朝、祝日には珍しく陽が高くなる前に目を覚ましたイオネは、行動を始める前の「ごろごろ時間」を寝台の上で過ごしていた。しばらくこうしていないと、いつもの通りに動けない。
祝日にもかかわらず昼前から行動を開始しようとしている理由は、家探しのためだ。女神のパレードは陽が高くなる正午頃に始まるから、ユルクスの不動産屋を訪ねるにはその前の方が都合が良い。
(腹が立つわ)
イオネは枕を抱えてごろりと仰向けになり、淡い色の天蓋をぼんやり眺めた。イオネが住むにじゅうぶんな家はこの大都市ユルクスにはありふれているというのに、腐り果てた価値観のお陰で貸してももらえない。その上、目星をつけた空き家にさっさと買い手が付いてしまい、話をすることもできないことが続いている。
「はぁ…」
小さく溜め息をついてまぶたを閉じたとき、天蓋から下がる薄布のカーテンが勢いよく開いた。
白い陽光を背に、きちんと髪を整え、上質な光沢のある絹のベストと雪のように白いシャツを洒脱に着こなしたアルヴィーゼがそこに立っている。
「外出の支度をしろ」
「ちょっと、急に入ってきて何なのよ!」
イオネは弾けるように身体を起こし、抱えていた枕で胸元を隠した。寝乱れて寝衣の裾はめくれ上がり、襟の胸元を留めるはずの紐は無残にも解けてその役割を成していない。
「祭を案内しろ。その足で港へ行く」
「港?」
「トーレで商談だ。ついて来い」
冷淡な声色で発せられた言葉に、頭を殴られたような気分になった。
「冗談でしょう」
トーレなんて、絶対に御免だ。大貿易港を有するトーレへ赴いて、ルドヴァン公爵ほどの人物が領主に接触しないはずがない。十年近く絶縁状態の親類と、あまつさえ公爵の同伴者として顔を合わせるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
「二度は言わない。さっさと支度をしろ」
普段より更に押さえつけるような言い方だ。視線は鋭く、いつもの面白がるような調子は微塵もない。断固拒否したいところだが、同居の契約を持ち出してくるに決まっている。そしてイオネは、どれほど故郷へ行きたくなかったとしても、それ以上に自分が提示した契約内容を無視することはできない。
この要求は、イオネのそういう性分を理解した上でのことだ。
「クレテ家の人間が同席すれば円滑に商談を進められるでしょうね」
怒りのせいで声が震えた。
まるで所有物だ。イオネがトーレの本家とは関わりたがらないことを承知していながら、それを無視して便利な駒のように利用するつもりなのだろう。
「そうだな」
アルヴィーゼの抑揚のない声に、イオネの心のどこかで小さな失望が生まれた。
絆されかけた自分が心底いやになる。この男が自分に手を出してきたのも、ただ思うままに支配することを愉しんでいるだけだ。
「…いいわ。契約の範疇としてわたしを使わせて差し上げるから、出て行って」
「十分で下りてこなければ、抱えて行くからな」
「出て行ってよ!」
イオネはアルヴィーゼ目がけて思い切り枕を投げた。が、アルヴィーゼはひょいとそれを躱してイオネに背を向け、そのまま扉へ向かった。
ふー、と大きく息を吐き、閉ざされた扉を睨め付けた後、イオネは寝台から下りて虚しく床に落ちた枕を拾った。壁に掛かった家族の肖像画が目に入った途端、取り乱してしまったことが急激に恥ずかしくなった。父親の青い瞳が、優しげな静寂を持ってこちらを見据えている。
「…仕事には手を抜かないわ」
それこそイシドール・クレテの薫陶を受けたイオネ・アリアーヌ・クレテが選んだ道だ。
イオネは完璧に旅装を整え、収穫祭に賑わうユルクスの街へ繰り出した。同伴者のアルヴィーゼと目を合わせるのは、事務的な会話を交わすときだけだ。
あわよくばアルヴィーゼがこの冷淡な態度に腹を立て、途中で気を変えてくれないかと淡い期待もしたが、当のアルヴィーゼは寧ろイオネの怒気を愉しんでいるようでさえある。
収穫祭の時期にだけ露店で売られる蕎麦粉のガレットや、野菜と果物を使った焼き菓子についてイオネが淡々と説明するのを聞きながら、アルヴィーゼは売り物には目もくれずにイオネの顔を見て目を細めていた。
(性格悪い)
何を言ってもどんな態度を取っても、この男を思い通りにはできないだろう。
イオネは今日交渉しに行くはずだった不動産屋の看板を横目に通り過ぎ、古書を売る露店の前で足を止めた。祝祭の度にユルクスへやってくる顔馴染みの行商人だ。中年の父親とイオネよりも少しだけ年若い息子が、方々を旅しながら珍しい古書を買い集めて遠方で売っている。
「おや、珍しく恋人連れかい?先生」
茶色い髭を生やした父親の行商人が後ろに立つアルヴィーゼを見て南部訛りの強い言葉で訊ねると、イオネは眉を寄せて首を振った。
「いいえ。仕事の関係というだけよ」
「そうかい。残念だったな、旦那」
行商人は薄く笑うアルヴィーゼに陽気な笑顔を見せた後、古びた木箱から装飾写本を取り出した。表紙に描かれた天体の細密画を見た途端に、イオネの目がきらきらと輝いた。
「ちょうど先生が好きそうな本が手に入ったんだ。値打ちモンだよ。二、三百年前にエル・ミエルド帝国よりもずっと東の方で書かれた‘アストラマリス’が載ってる」
「素晴らしいわ…」
イオネは本を手に取ってしげしげと眺め、壊れ物を触るような慎重さでページをめくった。マルス語とは全く異なる言語が流麗な書体で記され、文字そのものが絵画のように美しい。
正直、喉から手が出るほど欲しいが、家を借りるための資金を削るわけにはいかない。これほどの完成度で貴重な書物となれば、値段を聞かなくてもどれほどの価値になるか分かる。残念ながら、とても今出せる金額でない事は確実だ。
イオネが行商人の手に本を戻そうとしたとき、アルヴィーゼに腕を引かれた。
「出港の時間が近い。行くぞ」
「本を返さないと」
「支払いは済んでるよ、先生」
行商人がニッコリ笑った。イオネが不思議に思って後ろを振り返ると、アルヴィーゼの隣に立っていた行商人の息子の手に金貨が数枚乗せられている。親子が一年食べていくのに十分な金額だ。
「いつの間に…」
「行くぞ」
イオネはアルヴィーゼに腕を引かれるまま歩き出した。
「そんなことをしてもらう義理はないわ」
「必要経費だ。屋敷へ帰ったら書庫にでも置いておけ」
なんだか引っ掛かるが、公爵邸の蔵書ということであれば納得できる。屋敷を出て行くまでのあいだ本をじっくり堪能させてもらうことにすればいい。
「そうね。そうするわ」
ユルクスの大通りを抜けたところからは馬車で移動し、アラス港から海路を取る。港では、ドミニクとソニアが帆船の停泊している桟橋で既に待機していた。コルネール家の所有する大型のカラヴェラ船だ。
商品とは別にイオネとアルヴィーゼの荷物と思わしきトランクがいくつも運び込まれるのを見て、イオネの頭にふと疑問がよぎった。
「いつまでトーレにいるつもりなの」
「四日後に戻る」
「えっ」
収穫祭の最終日だ。泊まりになるだろうとは思っていたが、商談だけが用事なら遅くとも明後日には帰って来られると思っていた。収穫祭のあいだに家を探すという計画は、諦めざるを得ない。
「聞いていないわよ」
「聞かれなかったからな」
アルヴィーゼは白々と言ってイオネを舷梯へ導いた。イオネはぷりぷりと木の板を踏みながら船の甲板へ上がり、舳先の縁に頬杖をついて、小さな麻袋から栗を取り出した。アルヴィーゼが御者と話している間に露店で買ったものだ。
「何だそれは」
アルヴィーゼが怪訝そうな顔で訊ねた。
「焼き栗。食べたことないの?」
イオネの胸に子供じみた優越感が湧いた。アルヴィーゼを世間知らずな子供のように扱える数少ない機会だ。ちょっとした意趣返しになる。
「焼く前に切れ目を入れてくれているから、両脇を指で摘まむと簡単に開くのよ」
イオネは得意げにやって見せたが、実は昨年バシルから教わったばかりの知識だ。それまで露店で栗を買ったこともなければ、自分で剥いたこともなかった。公爵ほどの地位にある男には、尚更そんな経験はないだろう。
イオネがこれ見よがしに栗の殻と鮮やかな黄色に焼けた栗の実を両手に乗せると、アルヴィーゼは栗の実が乗っている方の手首を掴んでがぶりと栗を口に入れた。
「ちょっと!」
イオネが怒りの声を上げた途端、アルヴィーゼが顔をしかめた。
「渋い」
「自分でやらないから罰が当たったのよ」
無言で手を差し出したアルヴィーゼに、イオネは栗をもう一つ渡してやった。
アルヴィーゼは渡された栗を胡乱げに見つめた後、イオネがやって見せた通りに自分で栗を剥いて口に放り込んだ。
「ん。こっちは悪くない」
イオネはふふんと眉を上げたが、すぐに眉の下を暗くし、視線を海の方へ落とした。如何に焼き栗が美味しくても、不遜な公爵を子供扱いして溜飲が多少下がったとしても、たった今出港の合図が出てしまった。この船は、既に薄暗い思い出の地に向かっている。
「…あなたの仕事を手伝うことは、契約のうちだから仕方ないわ。でも、クレテ家の人間がいる場には一切同席しないわよ。この条件だけは絶対に飲んでちょうだい」
「今回の目的は向こうの豪商との折衝だ。エリオス・クレテとは既に会って話をつけている。お前が親族と顔を合わせる予定はないから、安心しろ」
イオネは栗の殻を割りながら、一体クレテ家の人間は自分の状況をどこまで把握しているのだろうかと考えた。勝手に屋敷を売却した伯父が、自分に対してどれほどの悪感情を持っているのかもよく分からない。
伯父と母の不仲のきっかけは、父の死だった。
当主であった父が死んだ後、同性愛と未婚であることを理由に生前の祖父によって廃嫡されていた伯父が親族によって当主として担ぎ上げられ、本人の意向を無視する形で相続が完了してしまった。
エリオスが自身で後継を残すことができないことを理由に、当時五歳だった末弟のキリルを養子として所望したが、母はそれを断固拒否したのだ。
未婚の同性愛者に大切な息子を育てさせる気はないと痛烈に告げた上、キリルを北部の領主である遠縁のアルバロ家に勝手に養子に出してしまったことで、二人の仲は完全に拗れた。
母の苦しみを目の当たりにした多感な少女は、伯父が無理な要求さえしなければこんなことにはならなかったと恨んだが、大人になった今は、少し違う見方をしている。伯父にも伯父なりの理由があったことは、今なら理解できる。
しかし、いずれにせよ、住んでいる屋敷を勝手に売られてしまったことは事実だ。イオネが伯父を恨むに値する唯一の事実でもある。
これほどまでに物事がこじれた全ての元凶は、父親の早すぎる死だ。
「不安か」
アルヴィーゼに問われて、イオネは顔を上げた。無意識のうちに、左手の小指に嵌められたアメシストの指輪をくるくると弄んでいた。
「全然」
イオネは抑揚のない声で応えた。なんとなくバツが悪い。心の中を見透かしているようにアルヴィーゼの目が優しく細まると、胸が騒いだ。
「親族の圧力から守ってくれと素直に俺を頼ればいいものを。強情な女だな」
「なっ…」
イオネはじわじわと顔が熱くなるのを止められなかった。
「わ、わたしたちはそんな関係じゃないでしょう」
「そうか?俺はお前の望みを聞く準備はできている。あとはお前次第だ」
アルヴィーゼはイオネの目の奥を覗き込むように身を屈め、海風になびく胡桃色の髪をそっとつかまえて、そこに口付けをした。
「揶揄うのはやめて」
心臓が苦しいほどに打ち始めた。心音がアルヴィーゼにまで聞こえてしまいそうだ。傲慢で、自分勝手な言い方なのに、まるでイオネから望まれることを待ちわびているように聞こえる。
今、頬に触れた指も、深いエメラルドグリーンの瞳も、言葉よりももっと深く、昏いものを秘めている。そんな気がする。
(いいえ、違うわ)
イオネは足を引いて、背を向けた。この男にとっては、全ては支配を目的とした遊戯に過ぎない。
(そんなものに振り回されるなんて、絶対にいや)
「…下の船室で休むから、トーレに着いたらソニアを寄越して」
イオネは振り返らずに下の甲板へ下りていった。
この時、ドミニクがイオネとすれ違ってアルヴィーゼの元へ現れた。
「捻くれてますね」
「そこがいい」
「あなたのことです」
ニヤリと唇を吊り上げたアルヴィーゼに向かって、ドミニクが呆れたように言った。
「もっと分かりやすく気持ちを伝えても良いのでは?」
「お前にはわからなくていいさ」
遠ざかってゆくイオネのまっすぐな背を眺めながら、アルヴィーゼは手に残ったイオネの髪の感触を皮膚の上で反芻した。
アルヴィーゼの感情を図りかねて思い悩み、戸惑い、逐一顔色を変えるイオネをもっと堪能したい。
イオネの頭の中をアルヴィーゼが占める割合が大きくなっていることは分かっている。肌に触れれば情交の熱を思い出して瞳が潤み、甘い声で囁けば耳にまで血色が昇る。心を許してしまいそうになると、灯り始めた小さな熱情と冷ややかな理性の間でぐらぐら揺れるのだ。
しかし、まだ足りない。
もっと自分のことで頭をいっぱいにして、身動きが取れなくなるほど狂おしく餓え、囚われるイオネが見たいのだ。そうして時が満ちたら、その時こそイオネの全てを手に入れる。
はぁ、とドミニクは溜め息をついて小さな紙片をアルヴィーゼに渡した。
「報告です。予想通りですよ」
アルヴィーゼは紙片の内容にさっと目を通した後、破って海に捨てた。
イオネに不審な手紙が届いて以降、手紙の送り主とイオネが感じると言う視線の正体を手飼いの密偵に調べさせていたのだ。
結果、やはり誰かが常習的にイオネの後をつけていることがわかった。そして数日前にイオネに届いた白い手紙には、文章がしたためられていた。火で炙ると茶色く焦げて浮かび上がる隠し文字だ。そこには、「近いうちに迎えに行きます」と、薄気味の悪い短文が記されていた。
手紙はユルクスの外れにあるランゲ通りの邸宅から送られていたことが判明したものの、屋敷の所有者は不明のままだ。恐らくは金持ちが隠れ家として使っている別邸だろうが、意図的に所有者が秘匿されている時点で胸糞悪い気配が漂っている。
「悪い虫を寄せ付ける女だ」
これほど厄介そうな人物に目をつけられているというのに、本人の認識は皆無だ。恐らくは今までも何かしら不気味な兆候があったはずだが、学問以外のことに無頓着なアリアーヌ教授にとっては気にかけるまでもない些末なことだったのだろう。
(今までよく無事でいられたものだ)
あまりに危険な無防備さだ。
イオネは誰かに付き纏われていることはおろか、手紙のことも知らない。不快なことを知らせるより前に対処すれば良いだけの話だ。
ユルクスを留守にしている間も、密偵は調査を続けている。アルヴィーゼは密かに、収穫祭の間に件の屋敷に出入りする者がいれば、その人物を徹底的に尾行して特定するよう命じていた。
「害虫の正体が分かったら二度と大陸の土を踏めなくしてやる」
ドミニクは静かに主人の横顔を見た。悪童が悪巧みをするような笑みの奥に、どこか見るものをゾッとさせるような闇深さがある。
悪い虫よりもずっと質が悪いのは、縄張りを荒らされた海蛇の怪物だ。
祝日にもかかわらず昼前から行動を開始しようとしている理由は、家探しのためだ。女神のパレードは陽が高くなる正午頃に始まるから、ユルクスの不動産屋を訪ねるにはその前の方が都合が良い。
(腹が立つわ)
イオネは枕を抱えてごろりと仰向けになり、淡い色の天蓋をぼんやり眺めた。イオネが住むにじゅうぶんな家はこの大都市ユルクスにはありふれているというのに、腐り果てた価値観のお陰で貸してももらえない。その上、目星をつけた空き家にさっさと買い手が付いてしまい、話をすることもできないことが続いている。
「はぁ…」
小さく溜め息をついてまぶたを閉じたとき、天蓋から下がる薄布のカーテンが勢いよく開いた。
白い陽光を背に、きちんと髪を整え、上質な光沢のある絹のベストと雪のように白いシャツを洒脱に着こなしたアルヴィーゼがそこに立っている。
「外出の支度をしろ」
「ちょっと、急に入ってきて何なのよ!」
イオネは弾けるように身体を起こし、抱えていた枕で胸元を隠した。寝乱れて寝衣の裾はめくれ上がり、襟の胸元を留めるはずの紐は無残にも解けてその役割を成していない。
「祭を案内しろ。その足で港へ行く」
「港?」
「トーレで商談だ。ついて来い」
冷淡な声色で発せられた言葉に、頭を殴られたような気分になった。
「冗談でしょう」
トーレなんて、絶対に御免だ。大貿易港を有するトーレへ赴いて、ルドヴァン公爵ほどの人物が領主に接触しないはずがない。十年近く絶縁状態の親類と、あまつさえ公爵の同伴者として顔を合わせるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
「二度は言わない。さっさと支度をしろ」
普段より更に押さえつけるような言い方だ。視線は鋭く、いつもの面白がるような調子は微塵もない。断固拒否したいところだが、同居の契約を持ち出してくるに決まっている。そしてイオネは、どれほど故郷へ行きたくなかったとしても、それ以上に自分が提示した契約内容を無視することはできない。
この要求は、イオネのそういう性分を理解した上でのことだ。
「クレテ家の人間が同席すれば円滑に商談を進められるでしょうね」
怒りのせいで声が震えた。
まるで所有物だ。イオネがトーレの本家とは関わりたがらないことを承知していながら、それを無視して便利な駒のように利用するつもりなのだろう。
「そうだな」
アルヴィーゼの抑揚のない声に、イオネの心のどこかで小さな失望が生まれた。
絆されかけた自分が心底いやになる。この男が自分に手を出してきたのも、ただ思うままに支配することを愉しんでいるだけだ。
「…いいわ。契約の範疇としてわたしを使わせて差し上げるから、出て行って」
「十分で下りてこなければ、抱えて行くからな」
「出て行ってよ!」
イオネはアルヴィーゼ目がけて思い切り枕を投げた。が、アルヴィーゼはひょいとそれを躱してイオネに背を向け、そのまま扉へ向かった。
ふー、と大きく息を吐き、閉ざされた扉を睨め付けた後、イオネは寝台から下りて虚しく床に落ちた枕を拾った。壁に掛かった家族の肖像画が目に入った途端、取り乱してしまったことが急激に恥ずかしくなった。父親の青い瞳が、優しげな静寂を持ってこちらを見据えている。
「…仕事には手を抜かないわ」
それこそイシドール・クレテの薫陶を受けたイオネ・アリアーヌ・クレテが選んだ道だ。
イオネは完璧に旅装を整え、収穫祭に賑わうユルクスの街へ繰り出した。同伴者のアルヴィーゼと目を合わせるのは、事務的な会話を交わすときだけだ。
あわよくばアルヴィーゼがこの冷淡な態度に腹を立て、途中で気を変えてくれないかと淡い期待もしたが、当のアルヴィーゼは寧ろイオネの怒気を愉しんでいるようでさえある。
収穫祭の時期にだけ露店で売られる蕎麦粉のガレットや、野菜と果物を使った焼き菓子についてイオネが淡々と説明するのを聞きながら、アルヴィーゼは売り物には目もくれずにイオネの顔を見て目を細めていた。
(性格悪い)
何を言ってもどんな態度を取っても、この男を思い通りにはできないだろう。
イオネは今日交渉しに行くはずだった不動産屋の看板を横目に通り過ぎ、古書を売る露店の前で足を止めた。祝祭の度にユルクスへやってくる顔馴染みの行商人だ。中年の父親とイオネよりも少しだけ年若い息子が、方々を旅しながら珍しい古書を買い集めて遠方で売っている。
「おや、珍しく恋人連れかい?先生」
茶色い髭を生やした父親の行商人が後ろに立つアルヴィーゼを見て南部訛りの強い言葉で訊ねると、イオネは眉を寄せて首を振った。
「いいえ。仕事の関係というだけよ」
「そうかい。残念だったな、旦那」
行商人は薄く笑うアルヴィーゼに陽気な笑顔を見せた後、古びた木箱から装飾写本を取り出した。表紙に描かれた天体の細密画を見た途端に、イオネの目がきらきらと輝いた。
「ちょうど先生が好きそうな本が手に入ったんだ。値打ちモンだよ。二、三百年前にエル・ミエルド帝国よりもずっと東の方で書かれた‘アストラマリス’が載ってる」
「素晴らしいわ…」
イオネは本を手に取ってしげしげと眺め、壊れ物を触るような慎重さでページをめくった。マルス語とは全く異なる言語が流麗な書体で記され、文字そのものが絵画のように美しい。
正直、喉から手が出るほど欲しいが、家を借りるための資金を削るわけにはいかない。これほどの完成度で貴重な書物となれば、値段を聞かなくてもどれほどの価値になるか分かる。残念ながら、とても今出せる金額でない事は確実だ。
イオネが行商人の手に本を戻そうとしたとき、アルヴィーゼに腕を引かれた。
「出港の時間が近い。行くぞ」
「本を返さないと」
「支払いは済んでるよ、先生」
行商人がニッコリ笑った。イオネが不思議に思って後ろを振り返ると、アルヴィーゼの隣に立っていた行商人の息子の手に金貨が数枚乗せられている。親子が一年食べていくのに十分な金額だ。
「いつの間に…」
「行くぞ」
イオネはアルヴィーゼに腕を引かれるまま歩き出した。
「そんなことをしてもらう義理はないわ」
「必要経費だ。屋敷へ帰ったら書庫にでも置いておけ」
なんだか引っ掛かるが、公爵邸の蔵書ということであれば納得できる。屋敷を出て行くまでのあいだ本をじっくり堪能させてもらうことにすればいい。
「そうね。そうするわ」
ユルクスの大通りを抜けたところからは馬車で移動し、アラス港から海路を取る。港では、ドミニクとソニアが帆船の停泊している桟橋で既に待機していた。コルネール家の所有する大型のカラヴェラ船だ。
商品とは別にイオネとアルヴィーゼの荷物と思わしきトランクがいくつも運び込まれるのを見て、イオネの頭にふと疑問がよぎった。
「いつまでトーレにいるつもりなの」
「四日後に戻る」
「えっ」
収穫祭の最終日だ。泊まりになるだろうとは思っていたが、商談だけが用事なら遅くとも明後日には帰って来られると思っていた。収穫祭のあいだに家を探すという計画は、諦めざるを得ない。
「聞いていないわよ」
「聞かれなかったからな」
アルヴィーゼは白々と言ってイオネを舷梯へ導いた。イオネはぷりぷりと木の板を踏みながら船の甲板へ上がり、舳先の縁に頬杖をついて、小さな麻袋から栗を取り出した。アルヴィーゼが御者と話している間に露店で買ったものだ。
「何だそれは」
アルヴィーゼが怪訝そうな顔で訊ねた。
「焼き栗。食べたことないの?」
イオネの胸に子供じみた優越感が湧いた。アルヴィーゼを世間知らずな子供のように扱える数少ない機会だ。ちょっとした意趣返しになる。
「焼く前に切れ目を入れてくれているから、両脇を指で摘まむと簡単に開くのよ」
イオネは得意げにやって見せたが、実は昨年バシルから教わったばかりの知識だ。それまで露店で栗を買ったこともなければ、自分で剥いたこともなかった。公爵ほどの地位にある男には、尚更そんな経験はないだろう。
イオネがこれ見よがしに栗の殻と鮮やかな黄色に焼けた栗の実を両手に乗せると、アルヴィーゼは栗の実が乗っている方の手首を掴んでがぶりと栗を口に入れた。
「ちょっと!」
イオネが怒りの声を上げた途端、アルヴィーゼが顔をしかめた。
「渋い」
「自分でやらないから罰が当たったのよ」
無言で手を差し出したアルヴィーゼに、イオネは栗をもう一つ渡してやった。
アルヴィーゼは渡された栗を胡乱げに見つめた後、イオネがやって見せた通りに自分で栗を剥いて口に放り込んだ。
「ん。こっちは悪くない」
イオネはふふんと眉を上げたが、すぐに眉の下を暗くし、視線を海の方へ落とした。如何に焼き栗が美味しくても、不遜な公爵を子供扱いして溜飲が多少下がったとしても、たった今出港の合図が出てしまった。この船は、既に薄暗い思い出の地に向かっている。
「…あなたの仕事を手伝うことは、契約のうちだから仕方ないわ。でも、クレテ家の人間がいる場には一切同席しないわよ。この条件だけは絶対に飲んでちょうだい」
「今回の目的は向こうの豪商との折衝だ。エリオス・クレテとは既に会って話をつけている。お前が親族と顔を合わせる予定はないから、安心しろ」
イオネは栗の殻を割りながら、一体クレテ家の人間は自分の状況をどこまで把握しているのだろうかと考えた。勝手に屋敷を売却した伯父が、自分に対してどれほどの悪感情を持っているのかもよく分からない。
伯父と母の不仲のきっかけは、父の死だった。
当主であった父が死んだ後、同性愛と未婚であることを理由に生前の祖父によって廃嫡されていた伯父が親族によって当主として担ぎ上げられ、本人の意向を無視する形で相続が完了してしまった。
エリオスが自身で後継を残すことができないことを理由に、当時五歳だった末弟のキリルを養子として所望したが、母はそれを断固拒否したのだ。
未婚の同性愛者に大切な息子を育てさせる気はないと痛烈に告げた上、キリルを北部の領主である遠縁のアルバロ家に勝手に養子に出してしまったことで、二人の仲は完全に拗れた。
母の苦しみを目の当たりにした多感な少女は、伯父が無理な要求さえしなければこんなことにはならなかったと恨んだが、大人になった今は、少し違う見方をしている。伯父にも伯父なりの理由があったことは、今なら理解できる。
しかし、いずれにせよ、住んでいる屋敷を勝手に売られてしまったことは事実だ。イオネが伯父を恨むに値する唯一の事実でもある。
これほどまでに物事がこじれた全ての元凶は、父親の早すぎる死だ。
「不安か」
アルヴィーゼに問われて、イオネは顔を上げた。無意識のうちに、左手の小指に嵌められたアメシストの指輪をくるくると弄んでいた。
「全然」
イオネは抑揚のない声で応えた。なんとなくバツが悪い。心の中を見透かしているようにアルヴィーゼの目が優しく細まると、胸が騒いだ。
「親族の圧力から守ってくれと素直に俺を頼ればいいものを。強情な女だな」
「なっ…」
イオネはじわじわと顔が熱くなるのを止められなかった。
「わ、わたしたちはそんな関係じゃないでしょう」
「そうか?俺はお前の望みを聞く準備はできている。あとはお前次第だ」
アルヴィーゼはイオネの目の奥を覗き込むように身を屈め、海風になびく胡桃色の髪をそっとつかまえて、そこに口付けをした。
「揶揄うのはやめて」
心臓が苦しいほどに打ち始めた。心音がアルヴィーゼにまで聞こえてしまいそうだ。傲慢で、自分勝手な言い方なのに、まるでイオネから望まれることを待ちわびているように聞こえる。
今、頬に触れた指も、深いエメラルドグリーンの瞳も、言葉よりももっと深く、昏いものを秘めている。そんな気がする。
(いいえ、違うわ)
イオネは足を引いて、背を向けた。この男にとっては、全ては支配を目的とした遊戯に過ぎない。
(そんなものに振り回されるなんて、絶対にいや)
「…下の船室で休むから、トーレに着いたらソニアを寄越して」
イオネは振り返らずに下の甲板へ下りていった。
この時、ドミニクがイオネとすれ違ってアルヴィーゼの元へ現れた。
「捻くれてますね」
「そこがいい」
「あなたのことです」
ニヤリと唇を吊り上げたアルヴィーゼに向かって、ドミニクが呆れたように言った。
「もっと分かりやすく気持ちを伝えても良いのでは?」
「お前にはわからなくていいさ」
遠ざかってゆくイオネのまっすぐな背を眺めながら、アルヴィーゼは手に残ったイオネの髪の感触を皮膚の上で反芻した。
アルヴィーゼの感情を図りかねて思い悩み、戸惑い、逐一顔色を変えるイオネをもっと堪能したい。
イオネの頭の中をアルヴィーゼが占める割合が大きくなっていることは分かっている。肌に触れれば情交の熱を思い出して瞳が潤み、甘い声で囁けば耳にまで血色が昇る。心を許してしまいそうになると、灯り始めた小さな熱情と冷ややかな理性の間でぐらぐら揺れるのだ。
しかし、まだ足りない。
もっと自分のことで頭をいっぱいにして、身動きが取れなくなるほど狂おしく餓え、囚われるイオネが見たいのだ。そうして時が満ちたら、その時こそイオネの全てを手に入れる。
はぁ、とドミニクは溜め息をついて小さな紙片をアルヴィーゼに渡した。
「報告です。予想通りですよ」
アルヴィーゼは紙片の内容にさっと目を通した後、破って海に捨てた。
イオネに不審な手紙が届いて以降、手紙の送り主とイオネが感じると言う視線の正体を手飼いの密偵に調べさせていたのだ。
結果、やはり誰かが常習的にイオネの後をつけていることがわかった。そして数日前にイオネに届いた白い手紙には、文章がしたためられていた。火で炙ると茶色く焦げて浮かび上がる隠し文字だ。そこには、「近いうちに迎えに行きます」と、薄気味の悪い短文が記されていた。
手紙はユルクスの外れにあるランゲ通りの邸宅から送られていたことが判明したものの、屋敷の所有者は不明のままだ。恐らくは金持ちが隠れ家として使っている別邸だろうが、意図的に所有者が秘匿されている時点で胸糞悪い気配が漂っている。
「悪い虫を寄せ付ける女だ」
これほど厄介そうな人物に目をつけられているというのに、本人の認識は皆無だ。恐らくは今までも何かしら不気味な兆候があったはずだが、学問以外のことに無頓着なアリアーヌ教授にとっては気にかけるまでもない些末なことだったのだろう。
(今までよく無事でいられたものだ)
あまりに危険な無防備さだ。
イオネは誰かに付き纏われていることはおろか、手紙のことも知らない。不快なことを知らせるより前に対処すれば良いだけの話だ。
ユルクスを留守にしている間も、密偵は調査を続けている。アルヴィーゼは密かに、収穫祭の間に件の屋敷に出入りする者がいれば、その人物を徹底的に尾行して特定するよう命じていた。
「害虫の正体が分かったら二度と大陸の土を踏めなくしてやる」
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