高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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22 白い手紙 - papier blanc -

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 イオネはこの数日、アルヴィーゼを避けて生活している。
 無様に逃げ出すようなことはしたくないと思っていたのに、どういうわけか顔を合わせるたびに足が勝手にその場を離れてしまうのだ。
 そういうときは、いつも決まって心臓が速く打ち、身体が内側から熱くなる。
(公爵の身勝手さに対して怒っているからだわ)
 と、イオネはこの不可解な現象を結論づけた。
 不思議なのは、アルヴィーゼに対して嫌悪を感じないことだ。肌が触れ合う感覚を思い出すたびに、胸の内からどろりと後ろめたい粘性の熱が溢れて腹の方へ落ちていく。
 そして、ふとした瞬間に視線が絡めば、アルヴィーゼの目があの夜のように優しく弧を描いて、その目の奥に何があるのか、導き出せない答えを頭が勝手に考え始めるのだ。
 こういう感情を、イオネは知らない。

 この日もバシルは書庫へやって来た。
「イオネ先生、手紙が届いてるよ。今日は一通だけ」
 イオネはコルネール家の輸出品目録の翻訳作業を中断し、手紙の封を開けた。少し前に住まわせてくれないかと打診した空き家の所有者から返事が来ているかもしれないと思ったのだ。
 ところが、違っていた。その上、悪戯なのか差出人が相当慌てていたのか、イオネ宛ての封筒の中には真っ新な白紙が入っているのみだ。
「見て、これ」
 イオネが目をぎょろつかせてバシルにヒラリと手紙を見せると、バシルは弾けるように笑い出した。
「マヌケなやつもいたもんだね」
「紙は高級品だっていうのに、無駄遣いもいいところだわ」
「再利用したらいいんじゃない?ね、ソニア」
 バシルが振り返った先で、ソニアが顎を引いた。
「では、もしイオネさまが必要なければ、わたくしがお仕事用にいただいてもよろしいですか?」
「いいわ」
 それきり、イオネは手紙への興味を失った。
 正直なところ、家を貸してくれる不動産屋が見つからず、少々焦っている。
 このままズルズルこの屋敷に身を置いてはますますアルヴィーゼとの関係がややこしくなるし、居心地の良さに絆されつつある。これは、よくない兆候だ。
 しかし、折良く大学が収穫祭のために五日間の連休に入る。イオネはこの連休を利用して、新しい家探しに集中するつもりだ。
 ユルクス商人の財布の紐が緩くなる収穫祭の間であれば、頭の堅い不動産屋も独り身の女にも家を貸してくれる気になるかもしれないという、淡い期待がある。

 同じ日、アルヴィーゼが執務机の上の書類に目を通しながらドミニクに訊ねた。
「収穫祭はいつだ」
「明後日から五日間です。初日には女神の扮装をした乙女の行列が神殿から街中を行進するそうですよ」
 ドミニクもサイドテーブルに書類を広げて、領地や各拠点からの報告内容に目を通している。
「それはいい」
「ええ。女神役はその年に結婚が決まった十代の少女から籤で選ばれるそうです」
 アルヴィーゼは書類から目を上げた。ドミニクの非難がましい口調からして、頭の中でイオネに薄絹の女神の衣装を着せていたことがばれている。
「なおいい」
 その条件なら、イオネの結婚が決まったとしても、女神に選ばれて大衆の目にその妖艶な美しさを晒すことはない。
「空き家の買収はどうなってる」
「滞りなく。ですが、本当にこの辺りの空き家を全て買い上げるのですか」
 ドミニクがやや非難がましく言うと、アルヴィーゼは顔に暗い笑みを浮かべ、愉しそうに唇を歪ませた。
「以前言った通りだ。買った家は適当な値段で貸しにでも出しておけ。――アリアーヌ教授以外にな」
「教授がお知りになったら相当お怒りになりますよ」
「怒らせておけばいい」
 アルヴィーゼは書類に目線を戻し、ここ数日顔を合わせるたびに顔を赤くしてあからさまに自分を避けるイオネの姿を思い出した。
 あれで自覚がないのだから、ある意味で恐ろしい。
(逃げたところで、逃がすはずがないのに)
 イオネが快楽に対して素直な感受性を持っていることは幸いだ。頭では拒絶しようとしても、感じやすい場所を攻めればすぐに抵抗力を失い、アルヴィーゼに陥落する。そしてアルヴィーゼの肉体を自分の内側へ受け入れ、身体中で歓喜するのだ。
 気持ちがついてくる前に離れて行こうとするなら、それこそ退路を断ち、完全に包囲して逃げられないようにすべき時だ。
 あの色事に鈍感すぎる女に自分が何を言葉で告げたところで、本当の意味で理解されるはずがない。だから、自らの意志でここにいたいと認めるまで、閉じ込めてどこにも行かせない。
 あの気の強いスミレ色の目が、自分だけを映すようになるまで。――
 ごほん。と、ドミニクの咳払いで、アルヴィーゼの意識は仕事に戻った。
「アルヴィーゼさま、アリアーヌ教授のことで、お耳に入れたいことが」
「何だ」
「少々不審な手紙が教授宛てに届いています」
 アルヴィーゼは書類を置き、眉を寄せた。
「見せろ」
 ドミニクはセピア色のベストの内側から封書を取り出した。数時間前にソニアから報告を受けたものだ。中身が白紙というだけで別段危険なものではなさそうだが、ソニアの第六感によれば「何かわからないが嫌な感じがする」らしい。
 通常であれば、捨て置くところだ。が、イオネに関することは、例え爪が割れたとか髪が傷んでいるとか、取るに足らないことであっても報告するよう主人に命じられている。
 ドミニクの予想通り、封書を受け取ったアルヴィーゼは眉の下を暗くした。更には、ひどく気分を害したらしい。これも予想通りの反応だ。
 アルヴィーゼは白紙を広げて窓から差す陽光にかざし、角度を変えて見た後、紙の匂いを嗅いだ。趣味の悪い男物の香水の奥に、微かな柑橘の匂いが混ざっている。
「燃やさない程度に炙ってみろ。差出人を調べておけ」
「既に届けに来た者を探しています」
「教授には知られるな」
「心得ています」
 ドミニクはアルヴィーゼから封書を受け取り、懐にしまった。思い過ごしであればよいが、どうにも嫌な感じだ。面倒ごとの匂いがする。

 夜半、アルヴィーゼは三階のバルコニーへ足を向けた。
 イオネが手燭を置いて蜂蜜酒入りのハーブティーを飲みながら仕事をしているのは、もはやこの屋敷では見慣れた光景となっている。
 この日もそうだ。
 いつものように長い髪を夜風にそよがせ、しかつめらしい顔で、真鍮製のペンを手に本と書面に向き合っている。集中しているらしく、アルヴィーゼがバルコニーのガラス扉を開いてもこちらを振り向く素振りもない。
 テーブルの隅には完成した目録が置かれていた。数日前にアルヴィーゼが複数の言語への翻訳を依頼したものだ。
 今イオネが真鍮のペンを走らせているのは、エル・ミエルド語の天文学に関する記述のようだった。
 アルヴィーゼは音もなくバルコニーのテーブルに近づくと、イオネの向かいの席に腰掛けた。ようやく目線を上げたイオネの顔が、燭台の灯りでも分かるほどに血色を増した。
「あ…」
「逃げるな、教授」
 アルヴィーゼがイオネの手を取ると、イオネは浮かせた腰を居心地悪そうに椅子へ戻し、小さく咳払いをして勝気に顎を上げた。
「逃げていないわよ。手を離して」
 見え透いた強がりだ。アルヴィーゼは意地悪く笑って首を振った。
「話が終わったらな」
「ちょうどよかった。話なら、わたしもあるわ」
 逃げようとしたくせに、先をアルヴィーゼに譲る気はないらしい。
(利かん気の強い女だ)
 アルヴィーゼの唇が自然と吊り上がった。
「目録の翻訳が終わったから、目を通してちょうだい。ルドヴァンから輸出する薬品の名称は独特だから、正しいか見ておいて欲しいの。それから、今後医術も広めるつもりなら、医学者の監修が必要だわ」
 淡々と言うイオネの顔は、研究者のそれだ。交易品として流通させようとしているルドヴァンの薬草や薬品の品目から、アルヴィーゼが薬品だけでなくルドヴァンで独自に発達した医術を広めようとしていることを察したらしい。
「勘が良いな」
 にもかかわらず、自分のこととなると人が変わったように鈍感だ。
 アルヴィーゼが手の甲を親指でするりと撫でると、イオネの指がぴくりと反応した。引っ込めようとしたのだろう。
「…最近危ない目に遭ったか」
「あなたに毎日遭わされているわ」
 イオネは大真面目だ。アルヴィーゼは顔を顰めた。
「何?」
「だって…あなたいつも襲ってくるじゃない。今のところはそれがいちばん身に危険を感じることよ」
「俺の身体の下で散々悦がっていた女の言葉とは思えないな」
 アルヴィーゼが意地悪く言うと、イオネが顔を熟れたコケモモのようにしていきり立った。
「なっ…!そ、そんなこと――」
 イオネが言葉を続けられなかったのは、アルヴィーゼが掴んだ手を強く握ったからだ。
 アルヴィーゼはイオネの手を自分の唇へ運び、白い指先に口付けをした。戸惑うようにイオネの指がぴくりと動くと、それだけでは足りなくなって舌を這わせた。スミレと、仄かな乳香と、インクの匂いがする。
 イオネの目が潤んで、揺れた。
(ほら、その目だ)
 触れられている時に自分がどんな顔をしているか、自覚がないのだ。こんなに無防備な女を、一人にさせておけるはずがない。
「んぅ…」
 びく、とイオネが指を引っ込めようとした。中指と薬指の間に舌が這う感触を、ひどくくすぐったがっている。
 アルヴィーゼが吐息で笑うと、イオネは怒ったように唇を結んで手を振りほどいた。
「話は終わり?」
 ツンとした言い方だ。が、赤くなったままの頬は隠せていない。
「まだだ。他に大学や行きつけの店で普段と違うことが起きたか」
「ないわ。視線が鬱陶しいっていうだけ」
「見られているのか」
 つい、声が荒くなった。しかし、イオネは気にも留めず、いつもの権高な調子でキリリと眉を上げた。
「そうよ。どこぞの公爵閣下と妙な噂になっているお陰で、色んな人にじろじろ見られて迷惑してるわ」
「そうか」
 それだけ言って立ち上がると、イオネが怪訝そうな顔をしてアルヴィーゼを見上げた。その唇が何故そんなことを訊くのかと疑問を発する前に、アルヴィーゼは身を屈めてイオネの唇に触れるだけの口付けをし、低く甘い声で囁いた。
「いっそ噂だけではなくしてしまえば勝手な憶測もなくなるだろうに」
「冗談はやめて」
 ぷいとそっぽを向いたイオネの頬にちょいと指で触れた後、アルヴィーゼは目録をテーブルから取り上げ、ふわふわの髪の先に唇で触れてからその場を後にした。
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