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21 花の茶 - Matricaria -
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幾日かアルヴィーゼの留守が続いている。
イオネにとっては好都合この上ないが、どういうわけか気分が晴れない。それもこれも、あの男の身勝手な言動のせいだ。
(子供ができたら、どうするつもりよ)
遊び慣れているなら避妊薬の準備など当然しているだろうに、アルヴィーゼはあろうことか何の用意もしていなかった。イオネもイオネで、これまで誰かとこんな関係になることを全く想定していなかったから、そもそも自分が子供を妊娠する可能性があるという発想すらなかった。なんとも迂闊なことだ。
が、今更何を思ったところで後の祭りだ。アルヴィーゼは何度もイオネの中に自分のものを放っている。
ダンスの後、そしてあの夜、全身が燃えてしまいそうなほどの熱で――
はっ。と、イオネは熱くなった顔を上げた。今は授業を終えた後の講堂で、回収した学生の短い論文を読んでいるところだった。
(仕事中に思い出すなんて)
ここのところ、調子を乱されてばかりだ。
イオネが仕事の続行を諦めて大学を出ると、門前にコルネール家の仰々しい馬車が停まっていた。公爵家の御者と、ソニアが待機している。
「迎えはいらないって言っているでしょう」
イオネが眉を寄せると、ソニアは困ったように眉尻を下げた。
「旦那さまからきつく仰せつかっているので、お迎えには毎日参ります。わたくしもイオネさまがお一人で出歩かれるのは心配ですから」
ソニアは控えめなようでいて、決めたことを断固として曲げない芯の強さがある。そういうところはとても好ましいと思っているが、妹と同い年のソニアにまで帰り道の心配をされてしまっては、教育者としての威厳が失われるというものだ。
「子供じゃないのよ」
「旦那さまはああ見えて、イオネさまをとても気遣っておいでですよ」
ソニアの言葉は、決してその場凌ぎの方便ではない。アルヴィーゼ・コルネールが女性を屋敷に置いたり、迎えを命じたり、ねだられてもいないものを――あまつさえ自ら注文して贈るなど、今までに一度もなかったことだ。
イオネがアルヴィーゼの言動をどう受け取っているかは見ての通りだが、少なくとも、コルネール家の使用人たちは主人のこの変化を喜んでいる。
「ただの居候に、ずいぶんとご親切なことね」
イオネは皮肉を言って馬車に乗り込んだ。なんだかとんでもなく腹が立ってきた。同じ屋敷に住まわせて、自分の家の女中を侍女につけ、あれこれ世話を焼かせた挙句に貞操まで奪うとは、まるで愛人のような扱いではないか。
数日前もそうだ。事が終わってから、身体中に吸い付かれた痕跡があることに気付いた。知らぬ間にあの男の所有印を刻まれていたのだ。
こんなことが世間や遠く暮らす家族に露見でもしたら、本当に公爵の愛人として囲われていると思われる。
(冗談じゃないわ)
あんな傲慢な男の遊び道具になどなるつもりはない。
腹がちくちくと痛んで、石畳を蹴りつけるような馬車の振動が次第に眠気を誘った。
この腹痛と眠気が月の障りのせいだと知ったのは、コルネール邸へ帰って間もなくのことだ。
このところ急激に変化した環境下で慌ただしく過ごしていたせいか、ことのほか痛みがひどい。が、一方で安堵もした。少なくとも、子はできていない。
いつものように助手としてコルネール邸の書庫へやって来たバシルは、イオネの顔色を見て何事かを察した。
「今日は帰るよ」
六人兄弟の末っ子であるバシルは、姉が三人もいるせいか、なんとなく女の事情を心得ている。顔色と機嫌が悪いときの女性に何もさせてはいけないということは、十三年の人生経験で得た知見だ。
イオネは年齢に相応しくないバシルの気遣いに苦笑しておでこをちょいとつつき、課題の本と料紙を渡した。
「明後日までに持ってきてね」
「ちゃっかりしてるよな、先生。課題はちゃんとやるから、先生こそしっかり休みなよ」
「生意気。でもありがとう」
そう言って目を細めたイオネに手を振った後、バシルは書庫を出る間際にソニアの袖を引いた。
「要注意だよ。イオネ先生、具合悪いのに意地でも仕事しようとするから、そうなったら仕事道具を取り上げた方がいい」
「心得ました」
ソニアは神妙に頷いた。
会話を聞いていたイオネは目をぎょろりとさせて肩を怒らせ、ヒラリと手を振って出て行くバシルに凄んで見せた。が、あそこまで言われてしまっては今日の仕事は終いにするしかない。
朝から食事にあまり手を付けなかったイオネのために、夕食のテーブルには温かい生姜のスープや消化に良い米料理が並べられた。
まったくこの屋敷の使用人は揃いも揃って出来が良い。
アルヴィーゼ・コルネールには勿体無いと以前は思っていたが、今の感想は少し違う。
ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールは、間違いなく出色だ。決して地位と金だけの男ではない。
振る舞いは一見して傲慢だが、主人としてよく家のことを細かく見ている。主に、使用人の配置や体制、日々の食材や日用品、常備薬に至るまで不足と余剰のないようドミニクに報告をさせていることには驚いた。
その上、仕事の上でも無駄がない。
遠地へ赴くときは、必ず効率的かつ確実な経路を定め、複数の目的地を設定して、遠方で済ませなければならない用事を一度にまとめて片付けてくる。
付添人も、その土地に明るい者、造船関係なら船や航海術の知識がある者、交易関係なら金融や地理に詳しい者と言った具合に、立ち寄る場所や商談相手によって担当を変えている。
そういう合理的な思考の元に屋敷の運営を行っているのだから、その男に仕える者たちが揃って優秀なのも頷ける。
だからこそ、理解できない。
子供ができる行為を、ただの戯れで、婚約者でも恋人でもない相手にするなんて、非合理的というほかない。
(やめた)
天文学よりも複雑な問題にいつまでも思考をすり減らすくらいなら、何も考えない方がましだ。現に今、重大な心配事は回避できたのだから、過ぎたことを悶々と考え続けるのはまったくの無駄だ。
イオネはキノコと鮭のリゾットに舌鼓を打ちながら、アルヴィーゼの不遜な笑みを無理矢理頭の中から追い出した。
この夜は、仕事はおろか読書も諦めた。それほど腹の奥から響く鈍痛がひどかったのだ。
寝台に腰掛けてソニアに温かい茶を所望しようかと思ったちょうどその時、寝室の扉を叩く音がした。
(ソニアだわ)
イオネが内心でソニアの心遣いに感激してノックに応じると、扉が開いた。奥から現れたのは、ソニアではなかった。
黒い前髪を気怠げに下ろしたアルヴィーゼが、茶器を載せた盆を持って寝室へ足を踏み入れた。
「どうしてあなたが入ってくるのよ」
イオネは野生の猛獣が行儀良くグラスから水を飲んでいるようなちぐはぐさに呆気に取られてしまった。
「入れと言ったろ」
アルヴィーゼは表情も変えず、サイドテーブルに盆を置いた。
「ソニアだと思ったのよ。いつも勝手に入ってくる人が今日に限って戸を叩くなんて思わないじゃない」
「では次から勝手に入ることにしよう」
「いいえ、次から名乗って戸を叩いて」
「面倒臭い」
イオネは思わずイーと歯を見せた。アルヴィーゼがおかしそうに笑い声を上げたのは、見なかったことにした。また奇妙な不整脈が起き始めている。
「何しにきたの?」
イオネはサイドテーブルの茶器をチラリと見た。
まさか、身勝手なこの男が気を利かせて茶を持ってくるなどということがあり得るのだろうか。
「確認だ」
アルヴィーゼが寝台に腰を下ろした。イオネは無様に逃げ出したくなるのを堪え、床に爪先を押し付けた。
「わたしがきちんと仕事をしているかどうか?」
「逆だ。しているようなら仕事道具を取り上げに来た」
「ソニアね」
きっとバシルの忠告がソニアを通してアルヴィーゼの耳にも入ったのだ。
「体調が優れないと頭が鈍って生産性が下がる。茶だけ飲んで寝ろ」
アルヴィーゼがイオネの頬に触れた。途端に血流が激しくなり、皮膚の内側から身体が熱くなる。
「あなたに頼まれている目録の翻訳作業なら順調に進んでいるから安心してくださって構わないわ」
イオネはツンと言ってそっぽを向き、アルヴィーゼの手から逃れた。まだ触れられたところが熱い。
「それは心配していない。それより、来月のことだ」
と、アルヴィーゼは話題を変えた。
「落成した屋敷の披露を兼ねて夜宴を開く。お前も出ろ」
「いやよ」
イオネは眉尻を上げた。
「拒否権はないぞ。お前は俺に借りがある立場だ」
「借りは仕事で返しているわ。宴は好きじゃないし、あなたと出たら妙な噂がもっと広まるもの。そんなの御免よ」
「噂など、今更だろ。それに誤解とも言えない」
アルヴィーゼが艶美な笑みを浮かべてイオネの顎をつまみ、親指で唇に触れた。
火が吹くかと思うほどに身体が熱くなり、同時にひどく腹が立った。
腹立たしいのは、人を食ったようなこの男の態度よりもむしろ、その言動にいちいち顔色を変えてしまう自分だ。
「あんな屈辱的で危険なこと、絶対に三度目はないわ」
「危険?」
「そうよ!幸い取り返しのつかないことには――」
と、イオネは顔を真っ赤にした。勢いで口に出すには、際どく生々しい話題だ。
「…ならなかったけれど、命に関わることよ。わたしは、あなたみたいに色事を軽く考えられる種類の人間じゃないの。あなたとはもう寝ない」
「どうかな」
アルヴィーゼはニヤリと笑って身を屈めた。高い鼻先が付きそうなほどにその貌が近くにある。心臓がばくばくと騒いでいるのがばれてしまいそうだ。
「そう言う割にはずいぶん気に入っていたようだが」
「あっ、あれは、あなたが無理矢理――」
最後まで言い終わらないうちに、唇を塞がれた。
いとも簡単に舌が中へ入ってくる。イオネはアルヴィーゼの温かい舌が這う快感に思わず甘い呻き声を漏らした。舌を吸われ、唇を啄まれると、自分が何をしているか自覚もないまま舌が動いてしまう。
「無理矢理?俺は殺す気で拒めと言ったぞ」
アルヴィーゼが唇を触れ合わせながら低く笑った。密やかな囁きが肌を這い、背がぞくりと震える。
「…あなた、いつも見境なくこんなことしてるの?非嫡出子が何人もいると相続に問題が起きるわよ」
嫌味で応酬してやったつもりだ。が、アルヴィーゼは白々と笑った。
「俺は見境なく女を抱いたりしないし、今まで子ができるようなやり方をしたことはない」
「じゃあ、一体わたしは――」
もう一度アルヴィーゼの口がイオネの唇を覆い、抗議はアルヴィーゼに呑み込まれた。イオネは拳を振り上げたが、寝衣の上から腰に優しく触れられると、手が力を失ってしまう。
唇を解放された後、今度は深い緑色の目に囚われた。燃えるような熱を孕んで、イオネの目をまっすぐに見つめている。
「わからないか。本当に?」
鳩尾がぎゅう、と痛くなった。
「考えても無駄なことに時間を費やすのは、やめたの」
「それで俺たちの間に起きたことがなかったことになるとでも?」
腰に触れる手が、熱い。イオネは激しく騒ぎ始めた心臓を無視した。
「社会勉強とでも思うことにするわ。わたしたちの貸し借りもこの屋敷を出て行くまでの間のことなのだし、そう長くはかからないもの」
「フン」
アルヴィーゼが立ち上がった。面白くなさそうに眉を寄せた割に、唇は薄く弧を描いている。
「…まあ、いい」
イオネは離れていく温もりを身体が恋しがる前に小指の指輪に触れ、ささやかな動揺をやり過ごした。
「夜宴は仕事のうちだから、決定事項だ。役に立って俺に借りを返せ、アリアーヌ・クレテ教授」
要は、トーレの領主一族としての顔を有効活用させろということだ。
イオネはイライラと溜め息を吐いた。
「わかったわ。ただし、わたしがそれまでに新しい家を決めたら、その話は無効よ」
「せいぜい頑張るんだな」
意地悪く言いながら、アルヴィーゼは身を屈めてイオネの頬に羽が触れるような口付けをした。
「おやすみ、教授。身体を冷やすなよ」
イオネは呆気に取られて部屋を出て行くアルヴィーゼの背を見送った。サイドテーブルに置かれた茶器を開けると、よく温められたカモミールとフランボワーズの葉の茶が入っていた。月経痛に効くものだ。
(なんなのよ…)
イオネは茶をカップに注ぎ、ゆっくりと嚥下して茶が身体の中を温めていくのを感じた。寝衣の下がじわりと汗ばむほどに熱いのは、茶が効いているからだ。
(それだけのことよ)
イオネは毛布に包まり、目を閉じた。あの腹の立つ男のことなんて考えたくないのに、身体に残った糸杉の香りが、そうさせてくれない。
イオネにとっては好都合この上ないが、どういうわけか気分が晴れない。それもこれも、あの男の身勝手な言動のせいだ。
(子供ができたら、どうするつもりよ)
遊び慣れているなら避妊薬の準備など当然しているだろうに、アルヴィーゼはあろうことか何の用意もしていなかった。イオネもイオネで、これまで誰かとこんな関係になることを全く想定していなかったから、そもそも自分が子供を妊娠する可能性があるという発想すらなかった。なんとも迂闊なことだ。
が、今更何を思ったところで後の祭りだ。アルヴィーゼは何度もイオネの中に自分のものを放っている。
ダンスの後、そしてあの夜、全身が燃えてしまいそうなほどの熱で――
はっ。と、イオネは熱くなった顔を上げた。今は授業を終えた後の講堂で、回収した学生の短い論文を読んでいるところだった。
(仕事中に思い出すなんて)
ここのところ、調子を乱されてばかりだ。
イオネが仕事の続行を諦めて大学を出ると、門前にコルネール家の仰々しい馬車が停まっていた。公爵家の御者と、ソニアが待機している。
「迎えはいらないって言っているでしょう」
イオネが眉を寄せると、ソニアは困ったように眉尻を下げた。
「旦那さまからきつく仰せつかっているので、お迎えには毎日参ります。わたくしもイオネさまがお一人で出歩かれるのは心配ですから」
ソニアは控えめなようでいて、決めたことを断固として曲げない芯の強さがある。そういうところはとても好ましいと思っているが、妹と同い年のソニアにまで帰り道の心配をされてしまっては、教育者としての威厳が失われるというものだ。
「子供じゃないのよ」
「旦那さまはああ見えて、イオネさまをとても気遣っておいでですよ」
ソニアの言葉は、決してその場凌ぎの方便ではない。アルヴィーゼ・コルネールが女性を屋敷に置いたり、迎えを命じたり、ねだられてもいないものを――あまつさえ自ら注文して贈るなど、今までに一度もなかったことだ。
イオネがアルヴィーゼの言動をどう受け取っているかは見ての通りだが、少なくとも、コルネール家の使用人たちは主人のこの変化を喜んでいる。
「ただの居候に、ずいぶんとご親切なことね」
イオネは皮肉を言って馬車に乗り込んだ。なんだかとんでもなく腹が立ってきた。同じ屋敷に住まわせて、自分の家の女中を侍女につけ、あれこれ世話を焼かせた挙句に貞操まで奪うとは、まるで愛人のような扱いではないか。
数日前もそうだ。事が終わってから、身体中に吸い付かれた痕跡があることに気付いた。知らぬ間にあの男の所有印を刻まれていたのだ。
こんなことが世間や遠く暮らす家族に露見でもしたら、本当に公爵の愛人として囲われていると思われる。
(冗談じゃないわ)
あんな傲慢な男の遊び道具になどなるつもりはない。
腹がちくちくと痛んで、石畳を蹴りつけるような馬車の振動が次第に眠気を誘った。
この腹痛と眠気が月の障りのせいだと知ったのは、コルネール邸へ帰って間もなくのことだ。
このところ急激に変化した環境下で慌ただしく過ごしていたせいか、ことのほか痛みがひどい。が、一方で安堵もした。少なくとも、子はできていない。
いつものように助手としてコルネール邸の書庫へやって来たバシルは、イオネの顔色を見て何事かを察した。
「今日は帰るよ」
六人兄弟の末っ子であるバシルは、姉が三人もいるせいか、なんとなく女の事情を心得ている。顔色と機嫌が悪いときの女性に何もさせてはいけないということは、十三年の人生経験で得た知見だ。
イオネは年齢に相応しくないバシルの気遣いに苦笑しておでこをちょいとつつき、課題の本と料紙を渡した。
「明後日までに持ってきてね」
「ちゃっかりしてるよな、先生。課題はちゃんとやるから、先生こそしっかり休みなよ」
「生意気。でもありがとう」
そう言って目を細めたイオネに手を振った後、バシルは書庫を出る間際にソニアの袖を引いた。
「要注意だよ。イオネ先生、具合悪いのに意地でも仕事しようとするから、そうなったら仕事道具を取り上げた方がいい」
「心得ました」
ソニアは神妙に頷いた。
会話を聞いていたイオネは目をぎょろりとさせて肩を怒らせ、ヒラリと手を振って出て行くバシルに凄んで見せた。が、あそこまで言われてしまっては今日の仕事は終いにするしかない。
朝から食事にあまり手を付けなかったイオネのために、夕食のテーブルには温かい生姜のスープや消化に良い米料理が並べられた。
まったくこの屋敷の使用人は揃いも揃って出来が良い。
アルヴィーゼ・コルネールには勿体無いと以前は思っていたが、今の感想は少し違う。
ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールは、間違いなく出色だ。決して地位と金だけの男ではない。
振る舞いは一見して傲慢だが、主人としてよく家のことを細かく見ている。主に、使用人の配置や体制、日々の食材や日用品、常備薬に至るまで不足と余剰のないようドミニクに報告をさせていることには驚いた。
その上、仕事の上でも無駄がない。
遠地へ赴くときは、必ず効率的かつ確実な経路を定め、複数の目的地を設定して、遠方で済ませなければならない用事を一度にまとめて片付けてくる。
付添人も、その土地に明るい者、造船関係なら船や航海術の知識がある者、交易関係なら金融や地理に詳しい者と言った具合に、立ち寄る場所や商談相手によって担当を変えている。
そういう合理的な思考の元に屋敷の運営を行っているのだから、その男に仕える者たちが揃って優秀なのも頷ける。
だからこそ、理解できない。
子供ができる行為を、ただの戯れで、婚約者でも恋人でもない相手にするなんて、非合理的というほかない。
(やめた)
天文学よりも複雑な問題にいつまでも思考をすり減らすくらいなら、何も考えない方がましだ。現に今、重大な心配事は回避できたのだから、過ぎたことを悶々と考え続けるのはまったくの無駄だ。
イオネはキノコと鮭のリゾットに舌鼓を打ちながら、アルヴィーゼの不遜な笑みを無理矢理頭の中から追い出した。
この夜は、仕事はおろか読書も諦めた。それほど腹の奥から響く鈍痛がひどかったのだ。
寝台に腰掛けてソニアに温かい茶を所望しようかと思ったちょうどその時、寝室の扉を叩く音がした。
(ソニアだわ)
イオネが内心でソニアの心遣いに感激してノックに応じると、扉が開いた。奥から現れたのは、ソニアではなかった。
黒い前髪を気怠げに下ろしたアルヴィーゼが、茶器を載せた盆を持って寝室へ足を踏み入れた。
「どうしてあなたが入ってくるのよ」
イオネは野生の猛獣が行儀良くグラスから水を飲んでいるようなちぐはぐさに呆気に取られてしまった。
「入れと言ったろ」
アルヴィーゼは表情も変えず、サイドテーブルに盆を置いた。
「ソニアだと思ったのよ。いつも勝手に入ってくる人が今日に限って戸を叩くなんて思わないじゃない」
「では次から勝手に入ることにしよう」
「いいえ、次から名乗って戸を叩いて」
「面倒臭い」
イオネは思わずイーと歯を見せた。アルヴィーゼがおかしそうに笑い声を上げたのは、見なかったことにした。また奇妙な不整脈が起き始めている。
「何しにきたの?」
イオネはサイドテーブルの茶器をチラリと見た。
まさか、身勝手なこの男が気を利かせて茶を持ってくるなどということがあり得るのだろうか。
「確認だ」
アルヴィーゼが寝台に腰を下ろした。イオネは無様に逃げ出したくなるのを堪え、床に爪先を押し付けた。
「わたしがきちんと仕事をしているかどうか?」
「逆だ。しているようなら仕事道具を取り上げに来た」
「ソニアね」
きっとバシルの忠告がソニアを通してアルヴィーゼの耳にも入ったのだ。
「体調が優れないと頭が鈍って生産性が下がる。茶だけ飲んで寝ろ」
アルヴィーゼがイオネの頬に触れた。途端に血流が激しくなり、皮膚の内側から身体が熱くなる。
「あなたに頼まれている目録の翻訳作業なら順調に進んでいるから安心してくださって構わないわ」
イオネはツンと言ってそっぽを向き、アルヴィーゼの手から逃れた。まだ触れられたところが熱い。
「それは心配していない。それより、来月のことだ」
と、アルヴィーゼは話題を変えた。
「落成した屋敷の披露を兼ねて夜宴を開く。お前も出ろ」
「いやよ」
イオネは眉尻を上げた。
「拒否権はないぞ。お前は俺に借りがある立場だ」
「借りは仕事で返しているわ。宴は好きじゃないし、あなたと出たら妙な噂がもっと広まるもの。そんなの御免よ」
「噂など、今更だろ。それに誤解とも言えない」
アルヴィーゼが艶美な笑みを浮かべてイオネの顎をつまみ、親指で唇に触れた。
火が吹くかと思うほどに身体が熱くなり、同時にひどく腹が立った。
腹立たしいのは、人を食ったようなこの男の態度よりもむしろ、その言動にいちいち顔色を変えてしまう自分だ。
「あんな屈辱的で危険なこと、絶対に三度目はないわ」
「危険?」
「そうよ!幸い取り返しのつかないことには――」
と、イオネは顔を真っ赤にした。勢いで口に出すには、際どく生々しい話題だ。
「…ならなかったけれど、命に関わることよ。わたしは、あなたみたいに色事を軽く考えられる種類の人間じゃないの。あなたとはもう寝ない」
「どうかな」
アルヴィーゼはニヤリと笑って身を屈めた。高い鼻先が付きそうなほどにその貌が近くにある。心臓がばくばくと騒いでいるのがばれてしまいそうだ。
「そう言う割にはずいぶん気に入っていたようだが」
「あっ、あれは、あなたが無理矢理――」
最後まで言い終わらないうちに、唇を塞がれた。
いとも簡単に舌が中へ入ってくる。イオネはアルヴィーゼの温かい舌が這う快感に思わず甘い呻き声を漏らした。舌を吸われ、唇を啄まれると、自分が何をしているか自覚もないまま舌が動いてしまう。
「無理矢理?俺は殺す気で拒めと言ったぞ」
アルヴィーゼが唇を触れ合わせながら低く笑った。密やかな囁きが肌を這い、背がぞくりと震える。
「…あなた、いつも見境なくこんなことしてるの?非嫡出子が何人もいると相続に問題が起きるわよ」
嫌味で応酬してやったつもりだ。が、アルヴィーゼは白々と笑った。
「俺は見境なく女を抱いたりしないし、今まで子ができるようなやり方をしたことはない」
「じゃあ、一体わたしは――」
もう一度アルヴィーゼの口がイオネの唇を覆い、抗議はアルヴィーゼに呑み込まれた。イオネは拳を振り上げたが、寝衣の上から腰に優しく触れられると、手が力を失ってしまう。
唇を解放された後、今度は深い緑色の目に囚われた。燃えるような熱を孕んで、イオネの目をまっすぐに見つめている。
「わからないか。本当に?」
鳩尾がぎゅう、と痛くなった。
「考えても無駄なことに時間を費やすのは、やめたの」
「それで俺たちの間に起きたことがなかったことになるとでも?」
腰に触れる手が、熱い。イオネは激しく騒ぎ始めた心臓を無視した。
「社会勉強とでも思うことにするわ。わたしたちの貸し借りもこの屋敷を出て行くまでの間のことなのだし、そう長くはかからないもの」
「フン」
アルヴィーゼが立ち上がった。面白くなさそうに眉を寄せた割に、唇は薄く弧を描いている。
「…まあ、いい」
イオネは離れていく温もりを身体が恋しがる前に小指の指輪に触れ、ささやかな動揺をやり過ごした。
「夜宴は仕事のうちだから、決定事項だ。役に立って俺に借りを返せ、アリアーヌ・クレテ教授」
要は、トーレの領主一族としての顔を有効活用させろということだ。
イオネはイライラと溜め息を吐いた。
「わかったわ。ただし、わたしがそれまでに新しい家を決めたら、その話は無効よ」
「せいぜい頑張るんだな」
意地悪く言いながら、アルヴィーゼは身を屈めてイオネの頬に羽が触れるような口付けをした。
「おやすみ、教授。身体を冷やすなよ」
イオネは呆気に取られて部屋を出て行くアルヴィーゼの背を見送った。サイドテーブルに置かれた茶器を開けると、よく温められたカモミールとフランボワーズの葉の茶が入っていた。月経痛に効くものだ。
(なんなのよ…)
イオネは茶をカップに注ぎ、ゆっくりと嚥下して茶が身体の中を温めていくのを感じた。寝衣の下がじわりと汗ばむほどに熱いのは、茶が効いているからだ。
(それだけのことよ)
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婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
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そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
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◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
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