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8 青い鷲 - un aigle bleu -

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 この日、アルヴィーゼは早朝から貿易拠点のひとつとなるバイロヌス港へ出掛けた。移動手段として馬車を使うことはほとんど無い。常に機動性を重視して、騎馬で移動する。
 用向きは、トーレ港に次ぐルメオ国内最大級のバイロヌス港を使用するにあたり、新たにバイロヌス領主ブルーノ・フラヴァリとの契約を結ぶことだ。
 大人物と言うほどでもないが、篤実で信頼に足る――というのがアルヴィーゼのブルーノ・フラヴァリに対する人物評となった。
 バイロヌスでの拠点となる建物も完成し、いつでも稼働できる状態になっている。いくつか仕事を片付けた後、現地での仕事を一任している者に後を任せ、招待されていたフラヴァリ邸での晩餐会に参加した後、帰路に就いた。
 ユルクスの屋敷へ戻って来た頃には、既に日付が変わっていた。門前でドミニクに迎えられ、すぐに浴室で旅塵を落とした。
「旦那さま、今日はもうお休みくださいますように」
 浴室から出るなり、ドミニクにぴしゃりと言われてしまった。確かにここの所、仕事にかまけて満足に眠っていない。おまけに、バイロヌスで一泊して来たらどうかというドミニクの提案をにべもなく拒否したばかりである。
 アルヴィーゼは口の左端を上げて笑った。
「嫁みたいな奴だな」
「本物の奥方をお迎えになればわたしの気も軽くなります」
 ドミニクは、この主人の皮肉には慣れている。
「必要性を感じない」
 またか、とドミニクは溜め息をついて、アルヴィーゼに寝衣を渡した。領主としてはまだ若いが、二十七歳ともなればとうに身を固めていても良い年頃だ。
 ところが、アルヴィーゼは個人的な領域に他人を踏み込ませるのを嫌い、色事については一時的な退屈しのぎと割り切っている。宴などで声をかけて来た婦人たちから適当に後腐れなさそうな者を選び、気が向いたときには性欲を満たすだけの行為を済ませ、その後は相手への興味が継続することはない。
 時には相手の熱量を見誤って些末な面倒事が起きることもあるが、全て金で解決できる程度のことだった。
 このままでは生涯遊び人の独身貴族として名を馳せてしまいかねないと、ドミニクは内心で危惧している。
「今日はこのまま寝るから、もう下がっていい」
「それでは、おやすみなさいませ。…執務室には行かれませんように」
 こういうやり取りの後、時々アルヴィーゼが執務室で仕事を続けながら仮眠を取っていることをドミニクは知っている。いつもより強い口調で釘を刺した。
「今日はやめておく」
 本当はこっそり執務室に向かおうとしていたが、一日の半分を馬上で過ごしたせいか、さすがに疲れた。その上、ドミニクが背後で目を光らせている。
 アルヴィーゼが仕事を諦めて執務室を通り過ぎると、ドミニクはようやく階段を降りて行ったようだった。
 寝室へ向かう途中で、三階のバルコニーから灯りが漏れていることに気付いた。
 ガラスの扉越しに、燭台の灯りに照らされた柔らかい髪が波を描いてバルコニーの円卓に零れているのが見える。
 扉を開けて近づくと、思った通り、イオネがテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。長い睫毛が灯りに照らされて、まぶたの下に長い翳を伸ばしている。
 顔の横に力なく置かれている右手の下には、イノイル語の古い本がある。その横に真鍮製のペンが転がり、コルク栓が開いたままの青いインク壺が置かれていた。
 すっかり夜は肌寒いほどの季節なのに、目の前で眠りこけている女はどういうわけか、真夏に着るような薄布の寝衣を身につけている。透けるほど薄い織物のショールが辛うじて肩を隠している程度で、夜風に当たるには薄過ぎる。
 アルヴィーゼは溜め息をつきながらインク壺に蓋をし、「教授」と声を掛けた。反応はない。
「アリアーヌ教授」
 もう一度声を掛けても、寝息を乱しもしない。放っておいたら朝までこのまま寝てしまいそうだ。
 アルヴィーゼは可笑しくなった。仕事に取り憑かれた人間がこの屋敷にもう一人いると知ったら、ドミニクの心労が増えるに違いない。
「何をされても知らないぞ、イオネ嬢」
 アルヴィーゼは身を屈め、ふわふわと波打つ胡桃色の髪から覗く薄い耳に囁いて、その身体を抱き上げた。想像していたよりもずいぶん軽い。薄布の下からやわらかな体温が伝わってくる。
 強気で権高な女の寝顔は、不思議なほどあどけなく見えた。
 
 イオネは船に乗っていた。
 視界に広がる大海原は、どことなく生まれ育ったトーレの海に似ている。
 何か恐ろしいものから逃れ、新天地を求めて、ずいぶん長い航海をしてきたのだ。なぜかわからないが、そう確信できる。
 船には大勢の人が乗っていて、中には見慣れた顔がいくつかあった。まだ若い両親と幼い妹たち、赤ん坊の弟に、五人の兄弟と毛布に包まる幼児のバシル、そして教え子たちだ。みな一様に不安そうな顔をしている。
 水も食糧も少なくなり、周りには海が広がるばかりで島ひとつ見つからない。暗い絶望が船を覆った。
 そこへ、どこからともなく青い鷲が舞い降りて、舳先にとまった。その瞬間、何故かイオネの胸に安堵と期待が湧き上がった。
 
「青い鷲…」
 誰かが発した声で、イオネは意識を取り戻した。船の上にいるみたいにゆらゆらと身体が揺れているせいで、あれが夢だったと気付くのに暫くの時間が必要だった。
(この匂いはなんだろう…)
 ローズマリーと月桂樹の混ざった馴染みのある匂いの中に、糸杉に似た匂いが混在している。嗅ぎ慣れない匂いなのに、頬に当たる温かいものと相俟って不思議なほど心地よかった。この心地よさに違和感を覚えてぼんやり薄目を開けると、視界に白いシャツが映り込んできた。次に、首だ。首の筋が精悍な胸へ続いて、肌の上に隆起する肉体の影を落としている。
「父さま…?」
 いや、違う。記憶にある父はこんなに背が高くなかったし、いい匂いもしなかった。
「寝ぼけているのか」
 ずいぶん近い所から聞こえる声に、ハッと意識を取り戻した。視線を上げると、不敵な笑みを浮かべたアルヴィーゼの顔がある。
「ひゃ、なっ…なに!?」
 離れようとしても脚が浮いている。イオネはようやく自分が抱き上げられていることに気付いた。ローズマリーと月桂樹の匂いは、浴室で使う石鹸の香りだ。糸杉に似た匂いの正体は、考えないことにした。
「暴れるな」
「おろして!」
「こんな夜更けにバルコニーで居眠りとはいい趣味だな。侍女はどうした」
「暑かったから涼みながら仕事を進めてすぐに部屋に帰るつもりだったのよ。ソニアにはとっくに下がってもらったわ。ねえ、おろして」
「どちらにせよ、その格好なら充分涼しいだろう。風邪をひくぞ」
「わたしは、暑いの!」
 一向に降ろされる気配がない。アルヴィーゼはイオネの抗議を無視して薄暗い廊下を進んでいる。
「イノイルの伝説か」
 イオネが次の文句を言うより先に、アルヴィーゼが口を開いた。
「え?」
「青い鷲と寝言を言ってただろう。新天地を求める流亡の民になった夢でも見たか」
 アルヴィーゼがニヤリと笑ってイオネを見下ろした時、イオネは夢の終わりに聞こえた声が自分のものだったことを悟った。荷物のように抱きかかえられて運ばれているのも恥ずかしいのに、あまつさえ寝言を聞かれていたなんて、身体中から火が噴きそうだ。
「そっ…そうよ!もういいから、おろして!」
 ようやく足が地面に着いた。目の前には自分の寝室の扉がある。
「…イノイルの伝説を知ってるの?」
 ふと気になったことを聞いてみた。
 イオネがバルコニーで読んでいたのは、先日から翻訳作業を進めているイノイル王国の建国神話だ。
 太古の昔、蛮族に故郷を追われたイノイル人の祖が大海原を放浪していると、空から舞い降りた青い鷲が新大陸――即ちマルス大陸へ彼らを導いて行くという伝説が元になっている。
 イノイル王国でこそ有名な物語だが、ルメオ共和国やエマンシュナ王国でこの伝説に親しんでいる者は少ない。
 が、アルヴィーゼは例外らしかった。
「俺にもイノイルの王族の血が流れている」
「ああ」
 腑に落ちた。
「そう言われてみれば、そうね」
 イオネは大真面目に頷いて、頭の中に歴史書で学んだ隣国の王家の系図を描いた。
 百年ほど前、当時のエマンシュナ王レオネは、長年の敵同士だったイノイル王国と和平を結ぶため、その王女ルミエッタを妻に迎えた。このルミエッタ王女が、イノイル人特有の漆黒の髪と瞳を持ち、ひときわ異彩を放つ美女であったと伝えられている。
 この夫妻の間に生まれたミネルヴ王女が、長じてコルネール家に嫁いだのである。即ち、アルヴィーゼの祖母であり、現エマンシュナ国王の叔母に当たる。
 アルヴィーゼの髪は、マルス大陸の人間には珍しく、闇夜のような漆黒だ。曾祖母から続く血の証しなのだろう。憧憬にも似た感情がイオネの胸の内に湧き、アルヴィーゼの黒髪に神話と歴史の深淵を垣間見た気がした。
「じゃあこれに、青い鷲の伝説が受け継がれているのね」
 イオネは手を伸ばし、白い指で黒い鬢にそっと触れた。
 間を置かず、眉間に皺を寄せたアルヴィーゼがイオネの手首を掴んだ。
「おい」
「えっ、あ…」
 イオネは、自分が何をしているのか初めて気付いた。無意識のうちの行動だったのだ。
 何かに集中すると周りが見えなくなる悪癖は自覚しているが、許可もなく相手の髪に触れるという無作法には、さすがに自分でも呆れてしまう。慌てて手を引っ込めた。
「無遠慮だったわね。気を悪くしたのなら謝るわ」
 この時、イオネはアルヴィーゼの緑色の目が暗く翳り、唇が官能的な弧を描くのを見た。
「俺を誘うなら、もっと巧くやれ」
 イオネはまたしても顔が熱くなった。今度は怒りのせいだ。せっかく謝ったのに侮辱された。そう思った。
「違うわ!馬鹿にしないで」
 アルヴィーゼの手を振りほどくと、そのまま寝室へ入って勢いよく扉を閉めた。
「おやすみ、アリアーヌ教授」
 扉の向こうで笑みを含んだアルヴィーゼの声が聞こえたが、イオネは返事もせずに布団に潜り込んだ。
(本当にいやな男)
 さっさと眠ってしまおうと目を閉じた時、バルコニーに本と筆記具を置いて来たことを思い出した。インクも蓋を開けたままかもしれない。が、さすがにもう寝室を出る気にもなれず、そのまま目を閉じた。
 暫くすると、イオネの意識はまたしても大海原を進んで行った。
 
 翌朝、イオネはソニアに声を掛けられて目を覚ました。
 サイドテーブルには、イオネが昨夜バルコニーに置いて来た本と筆記具が置かれている。
「ああ、ソニア。取ってきてくれたのね。ありがとう」
 しかし、ソニアは怪訝そうに首を傾げた。
「何のことでしょう?」
「昨日の夜、そこの本をと筆記具をバルコニーに忘れてきてしまったの。あなたが持ってきてくれたのよね?」
「さあ…わたくしが参りました時には、もうそちらにございましたよ」
 イオネの脳裏に別の人間が思い浮かんだ。
「どの者がお持ちしたか訊いておきましょうか」
 カーテンを開きながらソニアがにこやかに言うと、イオネは慌てて応えた。
「いいの。それならわたしの勘違いだと思うわ」
 忘れ物を届けてもらったのはありがたいが、正直複雑な気分だ。予想が当たっていれば――というか、ほぼ確実にアルヴィーゼが勝手に寝室に入ってきたことになる。
 イオネが本を開くと、明らかに自分のものではない注釈が書き込まれていた。流亡の民が乗ってきた船を「船」とするか「ボート」とするか決められずに両方の単語を書き込んだ箇所で、「船」にバツ印が付けられている。
 イオネが身支度もそこそこに済ませて食堂へ赴くと、珍しくアルヴィーゼの姿があった。相変わらず夜の闇のような髪をきちんと整え、どこか機嫌良さげにカップを片手に持っている。
(しまった)
 一方イオネは、くせ毛の髪に枕の跡がついたままだ。
 初日の晩餐以降、多忙なアルヴィーゼとは一度も食事を共にしなかったので、今朝も人前に出る身繕いなどせずにのこのこ寝室から出てきてしまったのだ。
「おはよう、教授」
「…おはよう、公爵」
 イオネはバツが悪そうに挨拶をした。礼を言うべきか、文句を言うべきか、それとも何もなかったように振る舞うべきなのか、どうにも取るべき行動を決められず、目が泳ぐ。
 アルヴィーゼはといえば、特に何を気にする様子もなく、海を渡ってきた香りの良いコーヒーを飲みながら何かの書類に目を通している。隣では、ソニアがいつものようにイオネのための紅茶を淹れてくれていた。
 もしかしたら、実は布団に入るまで無意識のうちに本を持っていたのかも知れない。むしろ、バルコニーで読書をしていたのが夢だったのではないか、と僅かなりとも信憑性のありそうな仮説を思い浮かべ、カップに口をつけた。
「それで、新天地は見つけられたか?」
 不意にアルヴィーゼが訊ねた。
 イオネは紅茶を危うく吹き出しそうになりながら、口元を抑えてアルヴィーゼを睨みつけた。目の前の男は意地の悪そうな顔で笑っている。
「お前、寝台に入った後も嵐が晴れたとか何とか言っていたぞ」
「うそ!」
 全身の血液が沸騰するかと思った。
 側で給仕をしていたソニアとドミニクが、目を見開いて互いに視線を交わしている。
「寝室に勝手に入るなんて!」
「本を届けてやっただけだ。それに――」
 と、アルヴィーゼは唇の左端を吊り上げた。
「家主は俺だぞ」
 なるほど道理だが、女性の寝室に勝手に入るというのはさすがに紳士たる者の取るべき行動ではない。
「それはわたしの寝室に立ち入っていい理由にならないわ。あなたって公爵の名を誇る割には、言動に品性が伴っていないわね」
 イオネはピシャリと言った。が、すぐに公爵の応酬が始まった。
「お前こそ、女学生に立ち振る舞いを教えるべき立場の割に人前に出るには身支度が雑じゃないのか」
「人前に出るつもりはなかったもの。いつもいない人が今日に限っているなんて思わないわよ」
「たまたま仕事が立て込んでいただけだ。普段なら食事はここで摂る」
 アルヴィーゼは白々と言った。
 イオネは、あからさまに嫌な顔をしていることに自分では気付いていない。
「ふ」
 アルヴィーゼの口から思わず笑みが漏れた。
「なによ」
 眉間の皺を深くして対面の席に座ったイオネの姿を、アルヴィーゼは舐めるように観察した。
 起きぬけで化粧もせず、髪も整えられていないのに、その貌には気品があり、背筋も真っ直ぐに伸びていて、美しい。性格に難はあるものの、この容姿に家柄も才能も備わっているとなれば、周囲の男たちや学生たちにとってこの女がどんな存在であるかは想像がつく。
 女にとっては憧れと嫉妬の的、男にとっては高嶺の花といったところだろう。身の程を知らない上流階級の青年たちには、難攻不落の城に攻め込むような、ある種の熱狂を与えるに違いない。
 しかし、当の本人はそんなものには全く関心を示さない。周囲からどう見られているかなど、気にもかけない。
 そして、不本意ながら、そういう彼女の感性に共感を持っている自分がいる。
「模範となるはずの教授がこれでは、師事する女学生たちの婚期が遅れそうだ。親たちに恨まれないようにしろよ」
 アルヴィーゼは、イオネの機嫌をまたひどく損ねることを期待した。が、彼女の目に怒りはない。それどころか、ふっくらした珊瑚色の唇に弧を描かせ、どこか悪巧みを愉しむように目を細めた。
「公爵。わたしの仕事は、少女たちの内なる欲望を刺激することよ」
「…教育者にしては背徳的な言い回しだ」
 アルヴィーゼは唇を吊り上げた。このしかつめらしい女の唇が「欲望」という言葉を紡ぐと、何だか淫靡な含みを持って聞こえる。
「ある意味では、そうかもしれないわね。けれど、何を以て道徳的と定義するかは、彼女たちが判断すべきことだわ。若い女の子たちも、自分の才能を見つけ、磨き、自分の道を自ら築いていくべきよ。わたしはそのための欲望――知識欲や探究心を刺激し、物理的に行動し、発見し、彼女たち自身を満たす手伝いをする。それこそがわたしの仕事。わたしの誇りなの。家や男性のための花嫁修業じゃない」
 イオネは射抜くような強い視線をアルヴィーゼに向けた。
「自分のための欲望は、自分で満たすのよ。自分で自分を完成させるの」
 スミレ色の瞳は、アルヴィーゼの背筋をぞくりとさせるほどの、燃えるような情熱を映していた。
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