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7 海底の花 - une fleur au fond de l'océan -

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 イオネ・クレテという女の生態がだんだん分かってきた。
 アルヴィーゼは食後酒のリモンチェッロを気に入った様子で飲むイオネを眺めながら、自らも細長いグラスを取った。
 彼女を屋敷に置くことを決めてすぐに、アルヴィーゼはクレテ一族に関する簡単な調査を行っている。自らの生活領域に他人を踏み込ませるのだから、アルヴィーゼにとっては通常の手順だ。
 先代当主イシドール・クレテの四人の娘たちは、ルメオ共和国の社交界では有名な存在だった。みな容貌麗しく気品があり、教養が深い。
 父親が没し本家と疎遠になった後も、母親はよくユルクスで開かれる夜宴に娘たちを連れて行っては顔を広げていたが、長女のイオネはほとんどそういう集まりに関心を示さなかった。無論、縁談もいくつかあったし、求婚者もいた。相手は錚々たる家柄の若者たちで、条件もよく、普通なら二つ返事で嫁に行くところだ。
 しかし、全て破談になっている。
 最初は強すぎるその利かん気が原因だろうと予想していたが、今夜の会話でもっと根本的な理由があることを知った。
「必要がない」
 と一蹴するほどに、そもそも関心がないのだ。イオネ・クレテは興味の向かないものには一切目を向けない。生活における最優先事項は学問と研究であり、そのための自由であり、その障害になり得る家や男の庇護を一切必要とせず、自分ひとりでその世界を回している。周囲から如何に勧められようと、自分の意志に反するものは頑として受け入れない気質だ。
 そういう感性は、嫌いではない。
「同感だ」
 アルヴィーゼが口元を綻ばせると、イオネが「あら」と眉をひらいた。
「初めて気が合ったわね」
 この時、アルヴィーゼは海の底に咲く花を見つけたような気分になった。
 イオネが微かに目元を和らげたのだ。しかし、すぐにいつもの冷淡な表情に戻り、口を開いた。
「でも、公爵。これ以上余計な世話を焼かないでちょうだい。あの子…ソニアの面目を立てるつもりで侍女のことは受け入れるけど、わたしが借りるのはこの屋敷での最低限の生活よ。その対価として能力をお貸しするわ。書面にも記したとおり、それだけの契約。わざわざ食事の時間を合わせる必要もないわ」
「一切干渉するなと?」
「その方が他人同士過ごしやすいでしょう。あなたも他人に関心を持たれるのは嫌いなように見える」
 アルヴィーゼはおかしくなった。存外、この女との共通点は少なくないかもしれない。
 契約の条件をさっそく文書としてしたためてくる抜かり無さも、なかなか共感できるところだ。内容には互いの日常生活に干渉しないことや、仕事上必要な場合を除いて共に行動する義務がないこと、食事は各々の都合のよい時間に摂ること、イオネの職務における優先事項は大学の仕事であることなどが明記されている。
(しかし、詰めが甘いな)
 とも思った。
 イオネ・クレテは自分が関心を持たれている場合を想定していない。
「…まあ、いいだろう」
 今のところは。とまでは言わなかった。
 アルヴィーゼは片手を挙げて給仕にデザートの用意を命じ、桃のコンポートの乗った白いプディングに目を輝かせるイオネの顔を観察した。美食も書物の次に有効な釣り餌になり得るかもしれない。

 食事を終えたイオネは、三階のバルコニーで好物の蜂蜜酒を混ぜたカモミールティーを呑みながら、煌々と明るい燭台を傍らに置き、先日新たに翻訳を頼まれた本に目を通していた。
 エマンシュナの東隣に位置するイノイル王国からやって来た古い本で、マルス語とは起源の全く異なる古イノイル語と現代イノイル語の二つの言語で書かれたものだ。これを、大陸共通のマルス語に翻訳しなければならない。
 内容は、異民族の侵攻によって住処を追われた流亡の民が、新大陸へ流れ着き王国を築くという、イノイル王国の伝説である。
 イオネは物語にざっと目を通し、青いインクで注釈を入れる作業に没頭した。イオネの悪い癖だ。一度作業に意識を向けると、なかなかそこから抜け出せない。
 どれほど時間が経ったのか、燭台の火がユラリと揺れて本に影を躍らせた時、イオネは初めて顔を上げた。バルコニーの入り口に、シャツとゆったりしたズボンだけを身に付けたアルヴィーゼが上体を扉に預けて気怠げに立っている。髪が湿っているから、入浴したばかりなのだろう。湯上がりの公爵は、どことなく淫蕩な雰囲気を醸している。
「侍女が困っているぞ。声を掛けても反応がないと」
「あ…」
(やってしまった)
 もう一人きりの生活ではないのだから、もう少し周囲に気を配る必要がある。
「ソニアに悪いことをしたわ。集中しすぎるといつもこうなの」
 イオネはインク壺にコルクの蓋をして、本を閉じた。
 立ち上がった瞬間、アルヴィーゼが思ったよりも近くに来ていることに気付いた。手には、初めて会った日に持ち去られた真鍮のペンが握られている。
 返却に来たのだと思ってイオネは手を差し出したが、アルヴィーゼはペンを手に持ったままだ。イオネは顔をしかめて咎めるようにアルヴィーゼを見た。「今度は何だ」とその目で文句を言っている。
あれ・・はどうやった」
 アルヴィーゼが無表情のまま訊ねた。
「あれって?」
「どうやってこれで髪を留めたのか見せてみろ」
 予想外の申し出だ。この男がそんなことに興味を持つとは、なんだか可笑しい。イオネは不遜な物言いにやや機嫌を悪くしながらも、アルヴィーゼからペンを受け取って後ろを向き、長い髪を束ねてペンに巻き付け、くるくると捻り上げた髪の束にペンを挿し込んで、髪をまとめて見せた。
「物理の妙なるところよ」
 返事がない。観察されていると思うと、なぜかうなじがちくちくする。
「もういい?」
 イオネが振り返ろうとしたとき、波打つ髪がハラリと肩に落ちた。目の前のアルヴィーゼの手には、またしてもペンがある。
「何なのよ」
 イオネが憤慨すると、アルヴィーゼの唇がフと弧を描いた。どういう笑みなのか皆目見当もつかないが、おもちゃにされているようでひどく不愉快だ。
「使用人が湯殿を整えている。ソニアはお前の入浴が終わらないと今日の仕事を終えられないぞ」
「じゃあこんなことをしていないで最初からそう言ってよ!意地の悪い人ね!」
 イオネはアルヴィーゼの手からペンを引ったくって取り返し、本と筆記用具をまとめてぷりぷりしながらバルコニーを出た。背後から聞こえてくる笑い声は、黙殺した。

 コルネール屋敷での新生活は、予想よりも遙かに快適なものだった。
 この屋敷に移ってから二週間ほど経つが、イオネが契約条項として認めた内容はほぼ守られているし、腹の立つ顔の公爵は相当忙しいらしく、毎日イオネが大学に行く前に出掛けて夜半に帰ってくる。時には泊まりがけで遠方へ赴くこともあるようだ。そういう理由で、初日に食事を共にして以来、ほとんどその姿を見ていない。
 仕事の手伝いについて何も言われないのは借りばかりを作っているような気がして落ち着かないが、顔を合わせなくて済むことは幸いだ。
 その上、別棟の書庫を自由に使えるとなれば、これほど良い仕事場はない。
 書庫は屋敷の一階からまだ普請中の柱廊で繋がっていて、アーチ型の大きな扉が特徴的な白い大理石造りの、一見して聖堂のような建造物だ。
 新しい本棚は新鮮な木材の香りを放ち、紙とインクに混じって製本に使う接着剤の独特な匂いが漂い、イオネの胸を躍らせる。
「ここで寝起きしたいぐらいだわ…」
 イオネが呟くと、助手のバシルが苦々しげに顔をしかめながらイオネの言いつけで探してきた本を差し出した。
「図書館の魔女って呼ばれるからやめた方がいいよ、先生。書物が集まるところには魔力が集まるって信じてる人が多いから」
 ソニアがくすくす笑いながらイオネとバシルに紅茶を運んで来た。毎日のようにイオネの手伝いに来るバシルとソニアは、すっかり顔なじみだ。
「そんなこと気にならないわ。昔の人が魔力だと信じていたものは豊富な知識よ。不思議な未知の力を魔法と捉えるなら、わたしたちはみんな等しく魔法を使えるようになる。素晴らしい場所だと思わない?」
 イオネが瞳を輝かせた。ソニアは会話の邪魔にならないように微笑みながら頷き、バシルが騎士道精神を発揮して引いた椅子にありがたく腰掛けた。
「休暇から帰ってきた日はあんなに死にそうな顔してたのに、先生ってばちゃっかりしてるよな」
 バシルが軽口を叩いて笑うと、イオネは大真面目に目をぎょろりとさせて、首を振った。
「死にそうだなんて誇張が過ぎて正確性に欠けるわね、バシル。先のことをどうしようか思案していただけよ」
「はいはい。強がっちゃって」
「バシル!」
 氷の花ことアリアーヌ・クレテ教授にこんな口をきけるのは、このユルクスではバシル少年くらいのものだ。
 ソニアはイオネの側に仕え始めてから彼女の人付き合いの希薄さを惜しく思うと共に、その反面バシルに対しては家族のように心を開いている様子を驚く思いで見ていた。一見すれば冷たい印象があるこの貴婦人は、一度心を許した相手には特別情深い質なのだろう。

 イオネの一日は、相変わらず忙しない。
 金曜日の午後、午前の授業を終えたイオネの元へ、アカンサス柄の織物のベストを洒脱に纏った中年の紳士が現れた。
「クレテ教授、今学期も順調そうですな」
 そう言いながらたっぷり生やした茶色い口髭の下で穏やかに笑う紳士は、大学の理事であり、亡父と旧知の仲でもあったガヴィノ・ブロスキ教授だ。イオネを学生として大学へ招いてくれたのも、教授職に推薦してくれたのも、この人物だ。イオネにとっては大恩人と言える。
「ええ、ブロスキ教授。今年の学生の中には奨学金を得た庶民の子も増えたようで、とても感心しています」
「君らしい所感だ」
 ブロスキはゆったりと笑った。
「それで、翻訳の依頼ですか?」
 イオネが訊ねた。ブロスキがイオネを訪ねて女学級専用の講堂までやって来る用向きは、概ね新しい仕事の依頼だ。
「それもある。あとは、夜宴のお誘いだよ」
 ブロスキは人好きのする顔でウインクし、ベストのポケットから花柄のカードを出して見せた。正式な招待状だ。
「三週間後の土曜日だ」
 イオネにしてみれば恩人の誘いを断るのは避けたいところだが、宴はあまり好きではない。
 頭脳明晰で多言語に明るい彼女が苦手とするものの代表格が、ダンスと上っ面の社交だ。楽しくもない会話にニコニコできるほどの器用さは持ち合わせていないし、相手に合わせるつもりもない。
 ブロスキは、そういうイオネの気性を知っている。が、父親を早くに亡くした彼女のユルクスにおける父代わりであると自認しているから、人付き合いに淡白な質のイオネを何かと放っておけないのだ。
「まあまあ。そんな顔をしないでおくれ、アリアーヌ」
「ブロスキ教授。せっかくだけど、わたし宴は好きじゃないってご存じでしょう」
「もちろんさ。だが、ずっと一人ではいけないよ。たまには君の苦手な俗物の集まりにでも混じってみたら、案外視野が開けるかもしれないじゃないか。若いうちは何事も経験だ。たまにはみんなでワイワイするのも楽しいぞ」
 ブロスキはこういう人間だ。根から人間という生き物に好感を持っているから、交友関係は広ければ広いほど有意義だと思っている。どちらかと言えば個人主義のイオネには、あまり理解できない。
「それに、君も退屈しないと思うよ。貿易関係の集まりだから、東の大陸から渡ってくる希少本も手に入るかもしれない。特に今回は――」
 と、ブロスキは勿体ぶって得意そうに笑んだ。
「異大陸の細密画ミニアチュールを扱う商人も来る。五百年前の装飾写本も市場に出ているそうだよ。祈祷書以外にも、当時の天文学を網羅した学術書も目録に載っていた。天体の並びを詩歌にした遊び歌の、最も古い文献も」
「…‘アストラマリス’の?」
 イオネの目の色が変わった。ブロスキはにっこりと目を細めて、イオネが招待状を受け取るのを眺めている。
 なんだか乗せられた気がしないでもないが、装飾写本のためなら上っ面の社交とダンスぐらいは我慢してみせる。
「仕事の方は、何ですか?」
 ブロスキはちょっと気まずそうに髭を生やした顎を掻いた。
「エル・ミエルド帝国の天文学に関する論文の翻訳なんだがね、実は先に他のマルス語学者に依頼していたんだが、その男が匙を投げてね…」
「ああ」
 イオネは蔑むように言って頷いた。
「それで、わたしのところにお鉢が回ってきたということですね」
 そういう学者を、イオネは知っている。それも、その男が投げ出した仕事の依頼がイオネに回ってきたのは、初めてではない。
「最初から君に依頼しておけば良かったものを、高名な学者と共和国議員が身内にいるというだけで安直に人選を行うからこういうことになるんだ」
 ブロスキはヤレヤレと首を振った。ブロスキ自身も代々続く豪商の出身だが、学界において家名が力を持つことは不義であるという考えを強く持っている。徹底した実力主義なのだ。そういう点は、イオネも共感している。
「ジャシント・カスピオ教授にまだ仕事を頼む人がいるなんて、驚いたわ」
 カスピオはイオネの次に若いユルクス大学の教授として語学を教えていたが、「健康上の問題」により、昨年教壇を去っている。何か表沙汰になっていない――共和国議員の父親が揉み消したであろう不祥事があったことは、容易に想像がつく。今も翻訳の仕事を受けたり論文を発表して学会に顔を出したりしているが、イオネから見ればこの男は家名とコネだけが取り柄の凡庸な男だ。誤訳が多く、仕事が不正確で、論文は裏付けに乏しく、全てにおいて主観的であるという、イオネの嫌いな要素をいくつも備えている。
 が、海を越えてはるばる渡ってきた天文学の論文には罪は無い。
「いいわ。やります」
「そう言ってくれると思っていたよ」
 ブロスキは用意がいい。手に持っていた筒状の書簡をイオネにぽんと機嫌良く渡した。文書の量が多いらしく、予想よりもずっしりと重い。
「期限は?」
「二か月だ。延ばすこともできる」
「いいえ、じゅうぶんです。腕が鳴るわ」
 イオネは書簡を仕事用の鞄に詰め、今夜の夕飯は何だろうかと考えた。
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