高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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5 むすめ時代に別れを告げて - les Adieux au temps des filles -

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 イオネがコルネール宮殿を出た時にはもう日が暮れていた。灯りの漏れる屋敷からは、ふんわり美味しそうな匂いが漂ってくる。今夜の夕食はバシルの得意なカボチャのスープらしい。
 匂いに誘われて食堂に入っていくと、バシルが本を読みながら寛いでいた。昨日バシルには帰りを待つなと言っておいたのだが、どうやら言いつけは守られなかったようだ。
「おかえりなさい、先生」
「夕飯をありがとう、バシル。でも約束を破ったわね」
 厳しい声で言うと、バシルは肩を竦めて弁解を始めた。
「イオネ先生を待ってたんじゃなくて、本を読んでたらすっかり日が暮れちゃったんだ。本当だよ」
「わたしは‘待つな’だけじゃなくて、‘日没までに帰れ’とも言ったはずよ」
「でも本を読むなとは言わなかったよ」
「屁理屈言わないの。いくら近所だからって、暗い夜道を子供一人で歩かせるわけにはいかないでしょう」
「イオネ先生!」
 バシルは目をぎょろりとさせた。
「俺もう十三だよ。背だってもうすぐ先生と同じくらいになるし、万が一夜盗と鉢合わせたって、自分の身を守るぐらいできるんだ。いつまでも子供扱いされちゃ、男のコケンに関わるよ」
 イオネは思わず目をくりくりさせてしまった。
(男の沽券ですって)
 バシルを五歳の時から知っているイオネに、子供扱いするなとは無理な話だ。ところが、まだあどけない顔をしたこの少年は、自分では一丁前の男のつもりでいる。そういう年頃の少年に、面と向かって「子供」と言うのは、なるほど失言かもしれない。
「それに先生、料理番の俺にも話しておきたいことがあるんじゃないかと思ってさ」
 イオネはちょっと呆れ顔で、悪戯っぽく笑うバシルを見た。まったく弁が立つ子だ。洞察力の鋭い少年を料理番に雇うのも、なかなか考えものかもしれない。
 イオネは食事をしながら、封書を三か月放置していた所から、アルヴィーゼ・コルネールとの話し合いの内容まで――浴室の件は省略して――バシルに話してやった。
「じゃあ、料理番はクビ?」
「そういうことになるわね」
 バシルは肩を落とした。
 料理番は自分で自由にできるお金を貯める唯一の手段だったし、両親と兄がやっているパン屋の手伝いをしなくていい口実だった。何より、周りの友達は誰もしていない数学やマルス語を、誰あろう歴代最年少で名門ユルクス大学の教授となったアリアーヌ・クレテ女史に教えてもらえるまたとない機会だったのだ。
「…バシル、勉強は好き?」
 不意にイオネが尋ねた。
「うん。すごく好きだよ」
 しかし料理番をクビになれば、ただでさえ多忙なイオネに勉強を教えてもらう時間などなくなってしまう。バシルはますます暗い気分になった。
 が、イオネの考えは違う。屋敷を手放すことになったのはまったく不幸としか言えないが、見方を変えれば、密かな計画を実行段階へ移行するきっかけが巡ってきたとも言える。則ち、優秀なバシルに経験を積ませてユルクス大学に入れる準備だ。
「料理番じゃなくて、今度は助手を探そうと思ってるの。今後は公爵の新規事業の手伝いもすることになるし、この間みたいに大事な手紙を放ったらかしにしたら大変だから。それには今までわたしの仕事を横で見ていてくれた人が最適なんだけど、どう思う?」
  バシルの眉が、雲が晴れるように開いた。
「そんなの、俺しかいないじゃん!」
 バシルは八重歯を覗かせ、きらきらと笑顔を向けて言った。
 
 イオネはそれから三日かけて、荷物をコルネール邸に移した。
 大学の授業で昼間は不在にしているから、本の整理はバシルに任せた。本は食堂のテーブルだけではなく、寝室や客間の本棚など、家中に散らかっている。
 いつも何処からともなく本を見つけては興味深げに読んでいるバシルは、ある意味イオネよりも適任だった。
 荷物の運び込みは、ドミニクが他の使用人たちにあれこれ指示を出してくれたお陰で、あっという間に終わった。助手となったバシルの出入りを自由にしてくれる約束も取り付けた。
 そして、四日目の日曜日。屋敷に残っているものは、古い家具だけになった。明日から取り壊しが始まるから、かつて四姉妹と母親が生活した屋敷をこの目にできるのはこれで最後だ。今夜からコルネール邸で起居することになる。
 ふと胸に郷愁が迫った。
 この屋敷を惜しいとは思わない。自分の力で手に入れたものでなければ、イオネにとっては価値がない。執着の対象にならないのだ。しかし、ここには家族との賑やかな思い出がある。
 イオネは軋む階段を上った。クレテ家の女たちが共に過ごした場所の最後の姿を、記憶に残しておくのもよいだろう。
 二階には、寝室が三つある。一番奥の寝室は、イオネと二番目の妹ニッサの相部屋で、その隣は一番目の妹クロリスと末妹リディアの寝室。最後の一つは、母が使っていた。今ではそれぞれの主がいなくなり、もう長い間ひっそりと静まり返っている。
 イオネは母の寝室の板敷を踏んだ。
 幼い弟キリルを養子に出した後、娘たちに知られないように、この部屋で声を殺して泣いていたのを、イオネだけが知っていた。
 その時、母は遠く離れてしまった息子の幸せを祈って、北側の壁に祭壇を作った。かつては祭壇の中央に海の女神の彫像が置かれ、両脇に蝋燭が立てられていた。祭壇も今は空になり、両端に蝋の跡が残されているだけだ。
 クロリスとリディアの寝室はいつも賑やかで、よく些細なことで喧嘩をしていた。中でもリディアの好きな劇場俳優の姿絵をクロリスが誤って捨ててしまったことが一番大きな喧嘩のきっかけとなり、一時的に相部屋の組み合わせを交換したことがある。が、なんだかしっくりこないと言う理由で、たったの三日で元の部屋に戻った。喧嘩ばかりしているようで、あの二人は姉妹の仲で一番馬が合うのだ。
 ニッサとイオネの相部屋は、とても静かだった。イオネはたいてい勉強、ニッサは趣味の針仕事に没頭していて、時折気が向くと机に二人並んで黙々と文字を並べ替える言葉遊びをすることもあった。
 古びた机の隅には、今もメモ代わりに落書きした文字の跡が残っている。イオネの指が無意識のうちにすっかり染み込んだ黒いインクをなぞった。
 その時。――
「屋敷を手放すのが惜しくなったか」
 不意に背後から聞こえた声で、イオネは我に返った。この不遜な物言いは、顔を見なくても分かる。振り返った先には思った通り、アルヴィーゼ・コルネールが涼やかなシャツと紺色のベストを着て、戸口に立っていた。
 感傷に浸っていた姿を見られたかと思うと、無性に気恥ずかしくなった。イオネは殊更不機嫌な表情を取り繕って、眉を上げた。
「他人に充てがわれたものなんて惜しくないわ。それより、人の家に勝手に入って来ないでよ」
「俺の土地だ」
「だからって女性の寝室にずかずか入ってくるなんて、とても紳士の振る舞いとは思えないわね。それともその無作法が公爵閣下の流儀なの?」
「礼儀を弁える相手は選んでいるものでな」
 アルヴィーゼが鼻で笑った。
「いやな人!」
 まるで子供の喧嘩だ。まったく腹が立つことこの上ない。
 しかしもっと腹の立つことは、アルヴィーゼ・コルネールがいかにも愉しそうに目を細めていることだ。その貌の秀麗さが、いっそう憎たらしさを引き立てている。
「荷造りは終わったようだな。本棚も机も新しい寝室に揃っているが、持って行きたい家具があれば運ばせるぞ」
「浴室以外はいらないわ」
 それ以外は元々この屋敷に揃っていたものだから、イオネにとっては執着する価値がない。
「ああ。そういえばあの浴室――」
 と、アルヴィーゼが思い出したように言ったので、イオネは小さな報復の機会が巡ってきたことを期待した。やはり不可能だと言われた時に見せるわざとらしいガッカリ顔を密かに準備しながら、無表情で首を傾げ、その先を促した。
 ところが、期待は外れた。
「明日から移築を始める。使うなら今夜が最後だ。移築の完了まで一か月ほどかかる」
 一か月。イオネの予想よりもずいぶん短い。それも、得意げでもなく、恩着せがましくもない。ごく事務的な言い方だ。
 記念すべきイオネ・クレテ初設計の浴室が間違いなく移築され存続することは喜ばしいことに違いないが、これほど大掛かりなことを散歩に行くような調子で軽々と決めてしまうアルヴィーゼ・コルネールは、やはり癪に障る。
 が、ここは素直に喜ぶべきだろう。イオネは小さな報復に見切りをつけ、儀礼的に膝を曲げた。
「わかったわ。感謝します、公爵」
「どういたしまして、アリアーヌ教授」
 そう言って差し出されたアルヴィーゼの手を、今度は取らなかった。
「握手なら応じるわ。わたし、前回みたいな形式の挨拶は好きじゃないの」
 イオネが毅然として公爵流の挨拶を拒絶すると、アルヴィーゼが左の眉を上げ、面白そうに形の良い唇を吊り上げた。この顔が、イオネには剣呑なかげを帯びて見えた。
「覚えておこう」
 アルヴィーゼがもう一度差し出した手を、今度は握った。自分よりも高い体温が手のひらから伝わり、そっと甲に触れた親指がイオネの肌をざわつかせた。握手など、動揺するほどのことでもない。しかし、奇妙な感覚だ。
「夕食は六時からだ。それまでに屋敷へ来い」
 アルヴィーゼはひどく居心地悪そうなイオネの様子を面白そうに横目で観察しながら、部屋を出て行った。
 イオネは内心でベーっと舌を出し、もう一度部屋をぐるりと見回して、部屋を出た。
 あっさりしたものだ。自分の居場所でなくなった途端に、もう別のものに見える。しかし、家族の思い出だけあれば、十分だ。
「あ」
 と、この時、大切なものを思い出した。
 イオネは隣の寝室へ移動し、手前側にあるリディアが使っていた寝台の下の床板を何枚か外した。中には、ほこりっぽい麻布に覆われた長方形のものがある。イオネが包みを両手で取り出し、麻布を広げると、絵画が現れた。
 描かれているのは、赤ん坊を抱く夫妻と、四人の少女――在りし日のクレテ一家だ。
 ドレープの美しい葡萄色のドレスを着てゆったりと椅子に腰掛けた砂色の髪の美女は、母デルフィーヌだ。白い産着に包まれたキリルを抱いて、気高くこちらに視線を向けている。
 四姉妹は揃いの白いドレスを着ていて、そのうち一番小さなふわふわの金髪のリディアが母の膝に縋りながら不満そうに頬を膨らませて顔をこちら側へ向け、その次に小柄な一番目の妹クロリスは、くるくるの栗毛にリボンをつけて結い、母の左側に優しい笑みを湛えて立つ父イシドールの青い上衣の裾を掴んでいる。
 その隣では、二人の姉妹が腕を組んで並んでいる。姉妹の中で一番背が高く、明るい栗毛をまっすぐに伸ばした少女が二番目の妹ニッサで、波打つ胡桃色の髪を背中へ流して表情少なく直立してまっすぐに正面を向いている少女が、イオネだ。
「父さま…久しぶりね」
 イオネは小さく呟いた。
 イオネの珍しい紫色の虹彩はクレテ家の血だと聞いたことがあるが、父親とは外見で似ているところがない。父の髪は暗い栗色で、虹彩は深い青色をしていた。姉妹たちの髪は父譲りの栗色で、リディアとクロリスの青い目は父とそっくりだ。ニッサだけは母と同じ灰色の目をしているが、背が高いところや優しい面立ちが父によく似ている。
 一方でイオネの面立ちは、その虹彩以外はすべて母親から受け継いだものだ。今見ても、若かりし頃の母の鋭い目つきには、どことなく教壇に立つ自分と通じるものを感じる。
 遺伝とは不思議なものだ。
 これほど外見が似ていても、精神構造は母ではなく父から全て受け継いだという確信がある。温厚さや愛情深さは父に遠く及ばないものの、徹底した合理主義であるという一事が、イオネをイシドール・クレテの娘たらしめている。
 イオネが亡き父を特別慕っているのは、その合理主義でもって父親が自分に教訓を与えたからだ。
 幼い頃からイオネの才を見出し、彼女だけに他の姉妹とは違う教育を授けた。貿易の仕事に同行させて多くの言語に触れさせ、港に親しませて人や物の流れを理解させ、トーレで最も高名な学者を家庭教師につけた。これが、今の自分の礎になっている。非合理的で古典的な淑女教育などに才ある娘の時間を浪費させないことこそ、イシドールの教育理念だったのだ。
 その父を肺の病で亡くした瞬間、クレテ家の女たちに不遇の時代がやってきた。
 気丈な母は決して娘たちに涙を見せまいとしたが、彼女が自暴自棄になっているのがイオネには分かっていたし、キリルを養子に出した理由の一つがそれであることも悟っていた。
 未婚の伯父が当主になったとき、キリルを後継として養子に欲しいと求められたが、母は頑なに拒み、遂には本家の意向を無視して北部のロヴィタ地方を治めるアルバロ家に養子にやってしまった。
 これが本家との絶縁の決定打となったが、イオネはその裏に伯父が同性愛者であることが母の好みに合わなかったという事情があることを知っている。
 イオネが床から取り出した家族の絵は、そういう時期に母が捨ててしまったものだ。リディアがあまりに悲しんで泣くので、姉たちがこっそり持ち帰ってきた。しかし、こうでもしないと失った家族への哀惜に耐えられなかった母の感情も理解していたから、姉妹は相談してこれを隠しておこうと決めたのだ。
 しかし、どれほど意のままにならないことが続こうが、時は流れる。
 妹たちはそれぞれ幸せな結婚をして家を離れ、母も自分の新しい人生を歩むため家を出た。クレテ家のおんなたちの不遇の時代は、とうに終わったのだ。この屋敷の外に、新しい道が拓かれている。
 例えそれが望んだものでなかったとしても、新しいということは、悪いことではない。
(次は、わたしの番ね)
 イオネは絵を抱え、古い屋敷を出た。
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