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4 氷山の気位 - son entêtement -
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アルヴィーゼはイオネ・クレテの顔色が青から赤に変わる様を心から愉しんでいる。
気分がすぐに表情に出る女だ。屋敷の解体を延期するよう願い出る立場のはずなのに、媚びようとする気配が微塵もない。
大体の女は権力も財力も容姿も至上のものを持ったルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールに科を作り、自分を売り込みに来るものだが、目の前の女は違う。
意志の強そうな眉は不愉快そうに吊り上がり、目元が煙るような長いまつ毛の下で、大きなスミレ色の虹彩が対峙する相手への挑戦で爛と光っている。
背は高過ぎず、面立ちも美しいのに、今纏っているスクエアネックのドレスはいかにも教師らしい地味な紺の単色で、宝飾品も身に付けず、髪は流行の形に結うこともなく波打つまま下ろしていて、化粧もほとんどしていない。が、アルヴィーゼの見るところ、厚化粧のせいで官能的な左頬の黒子が隠れてしまう不幸を免れていることは僥倖だ。
アルヴィーゼは意地の悪い笑みになるのを堪えきれなかった。この態度はイオネ嬢の怒りに拍車をかけることになるだろうが、それでいい。
「本当にあなたが元凶だったなんてね」
イオネは不快げに息をついて本を棚に戻し、貴婦人の最低限の礼儀として膝を曲げ、挨拶の礼をした。目線は下げず、無遠慮にアルヴィーゼを見たままだ。
「ごきげんよう、公爵閣下。わたしが誰かは元からご存じのようだから紹介はいらないわね」
「いかにも。イオネ・アリアーヌ・クレテ嬢。いや、ルメオの発音では‘アリアネ’か?」
「エマンシュナ人の母がつけた名だから‘アリアーヌ’が正しいわ。ルメオの人はみんな‘アリアネ’と呼ぶけれど」
声に抑揚がない。このツンとした態度にアルヴィーゼは内心で可笑しくなりながら、イオネの挑むような顔を眺め、真新しい執務机へ闊歩し、対面のソファを手で示した。
「掛けてくれ」
「いいえ、結構よ」
「これからお前の嘆願を聞くというのに、落ち着いて話をする気がないということか」
冷淡な口調だ。イオネはムッとして唇を引き結んだ。
(なんて不遜なの)
「わたしが嘆願に来たと思っているなら、間違いよ。わたしは交渉をしに来たの」
「盗賊相手に交渉とは健気なことだ」
アルヴィーゼが意地悪く言うと、イオネは右の眉を吊り上げて、白々と唇を開いた。陰で叩いた悪口が本人に露見してなお、慌てる様子もなく堂々としている。
「あなたを盗賊呼ばわりしたことなら、訂正するわ。金も権力も持っているくせに盗賊まがいのことをするなんて、盗賊より質が悪い」
「随分な言い草だ。もともと屋敷はクレテ家の所有で、お前のものではない。法的な手続きはすべて済んでいる。事前に通達もした。こちらに手落ちはない」
「通達ですって」
イオネは眉尻を上げた。
「目に触れなければ報されたことにはならないわ。住人がいると分かっていながら人を遣ることもせず、意志確認を怠ったのはあなたがたよ。こんなに大事な報せを受け取ったか確認もしないなんて、ルドヴァン公爵ともあろう方が随分と粗雑な仕事をなさるのね」
(随分と嫌われたものだ)
アルヴィーゼには、その利かん気が可笑しかった。
アルヴィーゼがイオネ・クレテの名を知ったのは、首都ユルクスに土地を探していた時のことだった。これが、難航していた。
ルメオ共和国とエマンシュナ王国の関係は、やや複雑だ。
かつてルメオ共和国はエマンシュナ王国の一部だったが、この土地は古来より海上貿易で栄えたために功利主義的な商人気質が強く、封建的な気風を嫌って常に王国に反発していた。そして七十年前、とうとうクーデタにより共和国として独立したのだ。
ルメオ共和国は、そういう土地だ。エマンシュナ王国でどれだけの地位があろうが、権力や財力がどれほどのものであろうが、ここルメオ共和国では人脈と実績のある商人として信頼されなければ、確かな相手と手堅い商売はできない。
だからこそ、その準備として何度もルメオ国内の領主たちに会うため方々へ出向き、港の使用権や最大手の造船所との契約、主要な港町の拠点の新設などに奔走していた。
そして、最も土地を手に入れるのに苦労したのが、物流の中心である首都ユルクスの本拠だった。
ユルクスの中心地にコルネールの拠点として相応しい売り物件はなかったが、商談相手からトーレのクレテ家が所有する古い邸宅が使われていないらしいという情報を得た。
クレテ家は、古くから続く名族だ。七十年前に件のクーデタの中心人物となり、共和国の父と称された英雄が、現当主エリオスの祖父に当たるイシドロス・クレテ公だった。そのクレテ家が代々所有している土地であれば、歴史的価値から考えても申し分ない。
すぐさまトーレ領主と周辺の土地の所有者に書簡を出し、相場の倍以上の値で買収の提案をしたところ、全員から許諾の返事が来た。
邸宅には既に誰も住んでいないという話だったが、下見に行かせた部下が持ち帰ってきた情報は違っていた。
クレテ家前当主の娘たちは嫁ぎ、その母親も既に別の場所へ移ったが、唯一長女のイオネ・アリアーヌだけが残り、大学へ通っているという。それも、学生ではなく、教授として。
エリオスの話と食い違っていることは、それほど問題ではなかった。事前に通達し、言い値で金を積んでやれば簡単に立ち退くだろうと思っていたからだ。
視察に赴いた大学で彼女に会ったのは、偶然だった。
姿を見てすぐに分かった。新学期が始まる前に古代建築学の講義に出る物好きな女など、この狭いユルクスでは異色の経歴を持つクレテ家の令嬢ただ一人だろう。
イオネ・アリアーヌ――見た目通りくそ真面目で変わり者の女に似つかわしい名前だ。
我ながら随分な悪癖だとは思うが、真っ直ぐに伸びた背筋とあのしかつめらしい表情が崩れるところを見たいという悪戯心だけで、わざと喧嘩を売ってみたのだ。
その結果、目の前にいるのは、家格も財力も比較にならない公爵を相手に啖呵を切る、意地の塊のような女だ。おまけに気位は北限の氷山のように高い。
「それで、希望は?」
「え…」
これほどすんなり話ができると思っていなかったのだろう。意地の塊が大きなスミレ色の瞳を大きくしてこちらの顔を見ている。アルヴィーゼは、その様子が可笑しくて唇の端が吊り上がるのを堪えた。
「交渉をしに来たんだろう。希望を言え」
「…新しく住む場所を見つけるまで、屋敷を取り壊さないで欲しいだけよ。そちらの落ち度でもあるのだから、勿論要求は通してくださるわよね」
「くっ」
今度は笑いを堪えきれなかった。
「何が可笑しいの?」
意地の塊の不機嫌に拍車を掛けたらしい。
が、これは不可抗力だ。頼んでいる立場にもかかわらず、これほどの強弁を押し通そうなど、並の胆力ではない。
「いや。悪いが解体は延ばせても一週間だ。行く当てはあるんだろうな」
「あるわ。大学の寮に入る手続きをする」
アルヴィーゼは眉を寄せた。冗談で言っているのかと疑ったが、どうやらこの女は本気だ。
「ユルクス大学の寮は男子学生専用だと聞いている」
また表情が変わった。痛いところを突いたらしい。が、イオネ嬢は気丈にも顎を上げた。
「こう見えてもわたしは大学にとって貴重な人材なの。大学長に話せば特例として一部屋くらいは融通してくれるはずよ。過去に女学生が入寮した事例もあるのだし」
アルヴィーゼは、自信あり気に眉を上げて無謀な事を言ってのける目の前の女を、不思議な思いで見た。
若くして名門ユルクス大学の教授になれる程の能力を持ちながら、根本的な事を理解していないらしい。仮に許可が降りたとして、若い男だけの寮で女一人が無事に生活できるとでも思っているのだろうか。あまりに無防備だ。
「要はすぐに住む場所を見つけられないということだな」
これは面白くなった。アルヴィーゼは意地悪く目を細めて手を組み、図星をつかれて顔を赤くしたイオネ嬢の顔を観察した。
「では、こうしよう」
アルヴィーゼは革張りの椅子の背もたれにゆったりと背を預け、長い脚を組んで、鷹揚に言った。
「俺の屋敷に置いてやる」
案の定、イオネは眉を顰めて言葉を失った。何の冗談だとでも言いたそうだが、突飛すぎる提案を理解するのに時間を要しているのだろう。未婚の女性が男の屋敷にその身を置けば、世間からどう見られるかは明白だ。
アルヴィーゼは彼女の口から怒声が飛んでくるのを期待した。が、反応がない。
イオネの目は、アルヴィーゼを見ていなかった。頭の中で様々な構想を練り、目まぐるしく頭を回転させて、この後のことを計算しているのだ。
考えごとをするときの癖なのか、細く白い右手の指が、左手の小指に嵌められたアメシストの指輪をくるくると弄んでいる。
アルヴィーゼは長い指で口元を覆いながら、その様子をじっくりと眺めた。
「言っておくが、俺は施しはしない。対価をもらう」
「家賃なら払うわ」
スミレ色の瞳がアルヴィーゼを見た。
「金は必要ない」
「じゃあ、何?」
目からは先程までの怒りは消えている。表情は不機嫌なままだが、この交渉に本気で乗り出したようだ。アルヴィーゼは薄く笑った。
「対価はお前の時間と身体だ」
スミレ色の目の奥に再び激怒の炎が燃えた。今にも殴り掛かってきそうだ。またしても危うく笑い出すところだった。本当にこの女は、こちらを退屈させない。
「恥知らず!」
今度は期待通りの怒声だ。
「何を想像した」
アルヴィーゼはいかにも心外だと言わんばかりに眉を寄せ、白々と言った。イオネが唇を引き結んで頬を赤くする姿は、愉快この上ない。
「お前には大学の仕事の傍ら、俺の新規事業を手伝ってもらう。翻訳、文書作成、貿易に関する情報収拾くらいは、かのトーレの才媛にはお手の物だろう」
明らかにイオネ・クレテは揺れている。同じ屋敷に暮らすことにはひどく抵抗があるが、他に行く当てもない。それも交換条件として自分の才覚を使うというのであれば、同居の大義名分は成る。あとは意地の問題だ。あれほどの啖呵を切っておいて、憎たらしい「盗賊」の屋敷で世話になることを強情でくそ真面目な矜持が許さないのだろう。
「どうする?イオネ・クレテ嬢」
アルヴィーゼは真新しい執務机に肘をついて、両手の長い指を組み、他の令嬢ならすぐに虜になってしまう貴公子の笑みを浮かべた。しかし、イオネ嬢の反応は冷淡なものだ。
「アリアーヌ・クレテ教授よ。イオネは親しい人しか使わない名なの」
イオネ嬢は波打つ胡桃色の長い髪を権高に背へ払い、腕を組んだ。
ただアルヴィーゼに私的な名前を呼ばれるのが嫌だという理由もあるだろうが、公私をはっきりと分けたいという意思表示でもあるのだろう。屋敷に置く対価として仕事を手伝うのであれば、この屋敷にいる間も自分の立場は「公」であり、私的な関係は一切無いと明示したことになる。
つまり、彼女の決断は近い。
「アリアーヌ・クレテ教授」
アルヴィーゼはわざとゆっくりその名を発音した。
「このまま宿無しになるか、意地を捨てて俺の世話になるか、今選べ」
この時、イオネがふっくらした珊瑚色の唇を噛むのを見た。身体の奥がゾクリと奮えたのは、彼女が氷山のように硬い意地を捨てる瞬間が巡ってきたことに対する、子供じみた一種の感動が湧いたからだ。
次の一手で落ちる。そういう確信があった。
「仕事に必要なら、書庫を使っても構わない。別棟にユルクス図書館がひとつ収まるぐらいの蔵書は揃えてある」
「…コルネール家の蔵書?」
声色が変わった。目は既に怒りを放棄し、好奇心に満ちている。予想した通りだ。この女は財力や性的な魅力に惑わされる感性を一切持ち合わせていないのに、どういうわけか、書物を積めば釣れる。
アルヴィーゼは声を上げて笑い出しそうになるのを堪え、畳み掛けた。
「研究には最適な環境だ。部外者の出入りもない。古今東西の書物が独り占めできる」
この後の沈黙は、短いものだった。
「いいわ。提案に乗ります」
落ちた。
アルヴィーゼは目の前の気位の高い女が自分の手の内に転がってきたことに、自分でも不可思議なほどの愉悦を覚えた。
その後イオネが剛腹にも「条件」として提示した浴室の移築など、本人にすれば意地を捨ててやる代わりにちょっと困らせてやろうという程度の可愛い報復だったに違いないが、コルネール家の人脈と財力からすればそんなことは造作も無い。
それよりも、この女が設計した浴室となれば、個人的に所有しておくのも悪くないと思った。
アルヴィーゼは簡単に承諾されてひどく不満そうなイオネがまたしても小指の指輪を弄ぶのを凝視し、椅子から腰を上げた。
「では、これで決まりだな」
イオネの強い視線が返ってくる。
これほど明け透けに「お前が嫌いだ」とものを言う目を向けてくる女は、初めてだ。
「アリアーヌ・クレテ教授は俺の仕事の手伝いを、俺は教授に屋敷と書庫を提供する」
「同意するわ。ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネール閣下」
アルヴィーゼが右手を差し出すと、イオネは愛想笑いなど一切見せずにその手を握った。が、アルヴィーゼの意図は違う。手を引き寄せて、その白く滑らかな甲に唇で触れた。
別段珍しい挨拶ではないというのに、イオネは驚いた様子で固まってしまった。あまりこういう挨拶には慣れていないらしいと分かると、またしても愉悦が顔に滲んだ。
「これからよろしく。イオネ・クレテ嬢」
「アリアーヌ・クレテ教授よ。ムシュ・アルヴィーゼ・コルネール」
また小さな報復だ。自分を教授としての敬意なくただの私人として扱うのであれば、公爵に対する敬意も払わないという意思表示だろう。
なんとも、イオネ・アリアーヌ・クレテとは面白い生き物だ。
気分がすぐに表情に出る女だ。屋敷の解体を延期するよう願い出る立場のはずなのに、媚びようとする気配が微塵もない。
大体の女は権力も財力も容姿も至上のものを持ったルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールに科を作り、自分を売り込みに来るものだが、目の前の女は違う。
意志の強そうな眉は不愉快そうに吊り上がり、目元が煙るような長いまつ毛の下で、大きなスミレ色の虹彩が対峙する相手への挑戦で爛と光っている。
背は高過ぎず、面立ちも美しいのに、今纏っているスクエアネックのドレスはいかにも教師らしい地味な紺の単色で、宝飾品も身に付けず、髪は流行の形に結うこともなく波打つまま下ろしていて、化粧もほとんどしていない。が、アルヴィーゼの見るところ、厚化粧のせいで官能的な左頬の黒子が隠れてしまう不幸を免れていることは僥倖だ。
アルヴィーゼは意地の悪い笑みになるのを堪えきれなかった。この態度はイオネ嬢の怒りに拍車をかけることになるだろうが、それでいい。
「本当にあなたが元凶だったなんてね」
イオネは不快げに息をついて本を棚に戻し、貴婦人の最低限の礼儀として膝を曲げ、挨拶の礼をした。目線は下げず、無遠慮にアルヴィーゼを見たままだ。
「ごきげんよう、公爵閣下。わたしが誰かは元からご存じのようだから紹介はいらないわね」
「いかにも。イオネ・アリアーヌ・クレテ嬢。いや、ルメオの発音では‘アリアネ’か?」
「エマンシュナ人の母がつけた名だから‘アリアーヌ’が正しいわ。ルメオの人はみんな‘アリアネ’と呼ぶけれど」
声に抑揚がない。このツンとした態度にアルヴィーゼは内心で可笑しくなりながら、イオネの挑むような顔を眺め、真新しい執務机へ闊歩し、対面のソファを手で示した。
「掛けてくれ」
「いいえ、結構よ」
「これからお前の嘆願を聞くというのに、落ち着いて話をする気がないということか」
冷淡な口調だ。イオネはムッとして唇を引き結んだ。
(なんて不遜なの)
「わたしが嘆願に来たと思っているなら、間違いよ。わたしは交渉をしに来たの」
「盗賊相手に交渉とは健気なことだ」
アルヴィーゼが意地悪く言うと、イオネは右の眉を吊り上げて、白々と唇を開いた。陰で叩いた悪口が本人に露見してなお、慌てる様子もなく堂々としている。
「あなたを盗賊呼ばわりしたことなら、訂正するわ。金も権力も持っているくせに盗賊まがいのことをするなんて、盗賊より質が悪い」
「随分な言い草だ。もともと屋敷はクレテ家の所有で、お前のものではない。法的な手続きはすべて済んでいる。事前に通達もした。こちらに手落ちはない」
「通達ですって」
イオネは眉尻を上げた。
「目に触れなければ報されたことにはならないわ。住人がいると分かっていながら人を遣ることもせず、意志確認を怠ったのはあなたがたよ。こんなに大事な報せを受け取ったか確認もしないなんて、ルドヴァン公爵ともあろう方が随分と粗雑な仕事をなさるのね」
(随分と嫌われたものだ)
アルヴィーゼには、その利かん気が可笑しかった。
アルヴィーゼがイオネ・クレテの名を知ったのは、首都ユルクスに土地を探していた時のことだった。これが、難航していた。
ルメオ共和国とエマンシュナ王国の関係は、やや複雑だ。
かつてルメオ共和国はエマンシュナ王国の一部だったが、この土地は古来より海上貿易で栄えたために功利主義的な商人気質が強く、封建的な気風を嫌って常に王国に反発していた。そして七十年前、とうとうクーデタにより共和国として独立したのだ。
ルメオ共和国は、そういう土地だ。エマンシュナ王国でどれだけの地位があろうが、権力や財力がどれほどのものであろうが、ここルメオ共和国では人脈と実績のある商人として信頼されなければ、確かな相手と手堅い商売はできない。
だからこそ、その準備として何度もルメオ国内の領主たちに会うため方々へ出向き、港の使用権や最大手の造船所との契約、主要な港町の拠点の新設などに奔走していた。
そして、最も土地を手に入れるのに苦労したのが、物流の中心である首都ユルクスの本拠だった。
ユルクスの中心地にコルネールの拠点として相応しい売り物件はなかったが、商談相手からトーレのクレテ家が所有する古い邸宅が使われていないらしいという情報を得た。
クレテ家は、古くから続く名族だ。七十年前に件のクーデタの中心人物となり、共和国の父と称された英雄が、現当主エリオスの祖父に当たるイシドロス・クレテ公だった。そのクレテ家が代々所有している土地であれば、歴史的価値から考えても申し分ない。
すぐさまトーレ領主と周辺の土地の所有者に書簡を出し、相場の倍以上の値で買収の提案をしたところ、全員から許諾の返事が来た。
邸宅には既に誰も住んでいないという話だったが、下見に行かせた部下が持ち帰ってきた情報は違っていた。
クレテ家前当主の娘たちは嫁ぎ、その母親も既に別の場所へ移ったが、唯一長女のイオネ・アリアーヌだけが残り、大学へ通っているという。それも、学生ではなく、教授として。
エリオスの話と食い違っていることは、それほど問題ではなかった。事前に通達し、言い値で金を積んでやれば簡単に立ち退くだろうと思っていたからだ。
視察に赴いた大学で彼女に会ったのは、偶然だった。
姿を見てすぐに分かった。新学期が始まる前に古代建築学の講義に出る物好きな女など、この狭いユルクスでは異色の経歴を持つクレテ家の令嬢ただ一人だろう。
イオネ・アリアーヌ――見た目通りくそ真面目で変わり者の女に似つかわしい名前だ。
我ながら随分な悪癖だとは思うが、真っ直ぐに伸びた背筋とあのしかつめらしい表情が崩れるところを見たいという悪戯心だけで、わざと喧嘩を売ってみたのだ。
その結果、目の前にいるのは、家格も財力も比較にならない公爵を相手に啖呵を切る、意地の塊のような女だ。おまけに気位は北限の氷山のように高い。
「それで、希望は?」
「え…」
これほどすんなり話ができると思っていなかったのだろう。意地の塊が大きなスミレ色の瞳を大きくしてこちらの顔を見ている。アルヴィーゼは、その様子が可笑しくて唇の端が吊り上がるのを堪えた。
「交渉をしに来たんだろう。希望を言え」
「…新しく住む場所を見つけるまで、屋敷を取り壊さないで欲しいだけよ。そちらの落ち度でもあるのだから、勿論要求は通してくださるわよね」
「くっ」
今度は笑いを堪えきれなかった。
「何が可笑しいの?」
意地の塊の不機嫌に拍車を掛けたらしい。
が、これは不可抗力だ。頼んでいる立場にもかかわらず、これほどの強弁を押し通そうなど、並の胆力ではない。
「いや。悪いが解体は延ばせても一週間だ。行く当てはあるんだろうな」
「あるわ。大学の寮に入る手続きをする」
アルヴィーゼは眉を寄せた。冗談で言っているのかと疑ったが、どうやらこの女は本気だ。
「ユルクス大学の寮は男子学生専用だと聞いている」
また表情が変わった。痛いところを突いたらしい。が、イオネ嬢は気丈にも顎を上げた。
「こう見えてもわたしは大学にとって貴重な人材なの。大学長に話せば特例として一部屋くらいは融通してくれるはずよ。過去に女学生が入寮した事例もあるのだし」
アルヴィーゼは、自信あり気に眉を上げて無謀な事を言ってのける目の前の女を、不思議な思いで見た。
若くして名門ユルクス大学の教授になれる程の能力を持ちながら、根本的な事を理解していないらしい。仮に許可が降りたとして、若い男だけの寮で女一人が無事に生活できるとでも思っているのだろうか。あまりに無防備だ。
「要はすぐに住む場所を見つけられないということだな」
これは面白くなった。アルヴィーゼは意地悪く目を細めて手を組み、図星をつかれて顔を赤くしたイオネ嬢の顔を観察した。
「では、こうしよう」
アルヴィーゼは革張りの椅子の背もたれにゆったりと背を預け、長い脚を組んで、鷹揚に言った。
「俺の屋敷に置いてやる」
案の定、イオネは眉を顰めて言葉を失った。何の冗談だとでも言いたそうだが、突飛すぎる提案を理解するのに時間を要しているのだろう。未婚の女性が男の屋敷にその身を置けば、世間からどう見られるかは明白だ。
アルヴィーゼは彼女の口から怒声が飛んでくるのを期待した。が、反応がない。
イオネの目は、アルヴィーゼを見ていなかった。頭の中で様々な構想を練り、目まぐるしく頭を回転させて、この後のことを計算しているのだ。
考えごとをするときの癖なのか、細く白い右手の指が、左手の小指に嵌められたアメシストの指輪をくるくると弄んでいる。
アルヴィーゼは長い指で口元を覆いながら、その様子をじっくりと眺めた。
「言っておくが、俺は施しはしない。対価をもらう」
「家賃なら払うわ」
スミレ色の瞳がアルヴィーゼを見た。
「金は必要ない」
「じゃあ、何?」
目からは先程までの怒りは消えている。表情は不機嫌なままだが、この交渉に本気で乗り出したようだ。アルヴィーゼは薄く笑った。
「対価はお前の時間と身体だ」
スミレ色の目の奥に再び激怒の炎が燃えた。今にも殴り掛かってきそうだ。またしても危うく笑い出すところだった。本当にこの女は、こちらを退屈させない。
「恥知らず!」
今度は期待通りの怒声だ。
「何を想像した」
アルヴィーゼはいかにも心外だと言わんばかりに眉を寄せ、白々と言った。イオネが唇を引き結んで頬を赤くする姿は、愉快この上ない。
「お前には大学の仕事の傍ら、俺の新規事業を手伝ってもらう。翻訳、文書作成、貿易に関する情報収拾くらいは、かのトーレの才媛にはお手の物だろう」
明らかにイオネ・クレテは揺れている。同じ屋敷に暮らすことにはひどく抵抗があるが、他に行く当てもない。それも交換条件として自分の才覚を使うというのであれば、同居の大義名分は成る。あとは意地の問題だ。あれほどの啖呵を切っておいて、憎たらしい「盗賊」の屋敷で世話になることを強情でくそ真面目な矜持が許さないのだろう。
「どうする?イオネ・クレテ嬢」
アルヴィーゼは真新しい執務机に肘をついて、両手の長い指を組み、他の令嬢ならすぐに虜になってしまう貴公子の笑みを浮かべた。しかし、イオネ嬢の反応は冷淡なものだ。
「アリアーヌ・クレテ教授よ。イオネは親しい人しか使わない名なの」
イオネ嬢は波打つ胡桃色の長い髪を権高に背へ払い、腕を組んだ。
ただアルヴィーゼに私的な名前を呼ばれるのが嫌だという理由もあるだろうが、公私をはっきりと分けたいという意思表示でもあるのだろう。屋敷に置く対価として仕事を手伝うのであれば、この屋敷にいる間も自分の立場は「公」であり、私的な関係は一切無いと明示したことになる。
つまり、彼女の決断は近い。
「アリアーヌ・クレテ教授」
アルヴィーゼはわざとゆっくりその名を発音した。
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この時、イオネがふっくらした珊瑚色の唇を噛むのを見た。身体の奥がゾクリと奮えたのは、彼女が氷山のように硬い意地を捨てる瞬間が巡ってきたことに対する、子供じみた一種の感動が湧いたからだ。
次の一手で落ちる。そういう確信があった。
「仕事に必要なら、書庫を使っても構わない。別棟にユルクス図書館がひとつ収まるぐらいの蔵書は揃えてある」
「…コルネール家の蔵書?」
声色が変わった。目は既に怒りを放棄し、好奇心に満ちている。予想した通りだ。この女は財力や性的な魅力に惑わされる感性を一切持ち合わせていないのに、どういうわけか、書物を積めば釣れる。
アルヴィーゼは声を上げて笑い出しそうになるのを堪え、畳み掛けた。
「研究には最適な環境だ。部外者の出入りもない。古今東西の書物が独り占めできる」
この後の沈黙は、短いものだった。
「いいわ。提案に乗ります」
落ちた。
アルヴィーゼは目の前の気位の高い女が自分の手の内に転がってきたことに、自分でも不可思議なほどの愉悦を覚えた。
その後イオネが剛腹にも「条件」として提示した浴室の移築など、本人にすれば意地を捨ててやる代わりにちょっと困らせてやろうという程度の可愛い報復だったに違いないが、コルネール家の人脈と財力からすればそんなことは造作も無い。
それよりも、この女が設計した浴室となれば、個人的に所有しておくのも悪くないと思った。
アルヴィーゼは簡単に承諾されてひどく不満そうなイオネがまたしても小指の指輪を弄ぶのを凝視し、椅子から腰を上げた。
「では、これで決まりだな」
イオネの強い視線が返ってくる。
これほど明け透けに「お前が嫌いだ」とものを言う目を向けてくる女は、初めてだ。
「アリアーヌ・クレテ教授は俺の仕事の手伝いを、俺は教授に屋敷と書庫を提供する」
「同意するわ。ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネール閣下」
アルヴィーゼが右手を差し出すと、イオネは愛想笑いなど一切見せずにその手を握った。が、アルヴィーゼの意図は違う。手を引き寄せて、その白く滑らかな甲に唇で触れた。
別段珍しい挨拶ではないというのに、イオネは驚いた様子で固まってしまった。あまりこういう挨拶には慣れていないらしいと分かると、またしても愉悦が顔に滲んだ。
「これからよろしく。イオネ・クレテ嬢」
「アリアーヌ・クレテ教授よ。ムシュ・アルヴィーゼ・コルネール」
また小さな報復だ。自分を教授としての敬意なくただの私人として扱うのであれば、公爵に対する敬意も払わないという意思表示だろう。
なんとも、イオネ・アリアーヌ・クレテとは面白い生き物だ。
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「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
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