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3 ルドヴァン公爵 - le Duc du Loudeven -

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 ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールは、執事のドミニクが報告した内容を完成したばかりの執務室で聞き、唇を吊り上げた。
「イオネ嬢の怒りは相当深いらしいな」
 愉快で仕方がない。自分の顔が意地悪く歪んでいることは自覚しているが、執事の手前だからと隠すつもりもない。
「アルヴィーゼさま」
 案の定、ドミニクは苦々しげに唇を結んだ。
「競合相手ならまだしも、アリアーヌ・クレテ教授は無害な年若い貴婦人です。確かにお怒りでしたが、どうやら伯父のクレテ閣下に屋敷を売却されたことを本当にご存知なかったらしく、ひどく不安そうにもされていました。せめて取り壊しは彼女が新しいお住まいを決めるまで延ばしてもよいのではないですか。もしくは、近くに滞在場所をご用意するなどしてはいかがでしょう」
「フン」
 アルヴィーゼは鼻で笑った。
 無害な貴婦人だなどと、よく言ったものだ。
 愚弄されたと知った時の、憤怒と挑戦に満ちた、烈火のようなあのスミレ色の瞳。――あれを見たら、無害な小娘などと思えなくなるはずだ。が、ドミニクはアルヴィーゼが既に大学でイオネ・クレテに出くわしていることも、彼女の気性の峻烈さも知らない。
(おもしろいものを見つけた)
 陸上貿易で栄えたコルネール家にとって海上貿易はそれほど馴染みがないから、隣国まで来てどれほどの利益があるのか未知数ではあったが、ユルクスに拠点を新設して正解だった。
 アルヴィーゼは真新しい執務机の隅に転がっていた真鍮のペンを手に取り、機嫌良く眺めた。
「それから今ひとつ、ご報告が」
「なんだ」
「実は…わたしの勘違いのせいでクレテ教授の怒りに拍車を掛けてしまいまして、本日お見えになる際も恐らくご機嫌はよろしくないかと思います。丁重にご対応ください」
「お前の失態のために主人の俺が気を遣わなければならないのか」
 アルヴィーゼは気まずそうに佇むドミニクを一瞥して不愉快げに言った。が、内心は声色ほど不愉快ではない。むしろ、あの気の強い女のいっそう不機嫌な顔を拝めるなら、間違いなく愉快というものだ。
「で、何を言ったらそうなった」
「ええと…」
 珍しく歯切れが悪い。
「あまりの剣幕だったもので…彼女が、よくあるアルヴィーゼさまの夜遊びのお相手だと思い、お引き取り願った次第でして――」
 これを聞いたアルヴィーゼは、弾けるように声を上げて笑い出した。
 驚いたのは、ドミニクだ。
 あの冷徹で石棺の中に生の感情を隠したようなルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールが少年のように声を上げて笑う姿など、何年ぶりに見るだろうか。
(今日は嵐が起きるんじゃないか)
 と、ドミニクは内心で震え上がった。
「それはいい。見たかった」
「ええ。ですから、いくら美人だからと言って、くれぐれも教授を一晩のお相手として誘惑しようなどとは思わぬことです。あなたを盗賊とお呼びになって、ひどく嫌っておいでのようですから」
「ハハ」
 アルヴィーゼはもう一度ひとしきり笑った後、真鍮のペンを持ち上げて目を細め、独り言のようにつぶやいた。
「確かにあれとは、一晩の遊びはできないだろうな」
 それどころか、面罵した男がルドヴァン公爵だと彼女が知ったときには、もっと楽しい遊びができる。
「午後三時が楽しみだ」
 アルヴィーゼは深い緑の目を愉悦で昏くし、指先で真鍮のペンをくるくると弄びながら、細い軸に刻印された「IAK」の文字を親指でなぞった。

 イオネ・アリアーヌ・クレテ教授の一日は、朝から忙しない。
 昨日バシルが置いていってくれたパンの残りと蜂蜜入りのカモミールティーを朝食にし、塩やミントなどを練り込んだペーストと豚毛のブラシで歯を磨いた後、波打つ胡桃色の髪を広がらない程度に梳いて体裁を整え、大人の女性らしく最低限の化粧をさっさと済ませて、イニシャルとスミレの紋章が刻印された小さな革のトランクを手に屋敷を出た。教授職を得た四年前に誂えたものだ。
 この日、イオネの女学級を希望する新入生向けの軽い授業を三時限分おこない、明日からも来たいという学生のために休暇前に用意していた課題を出した。どれも短い論文形式で、基礎的なマルス語を使って書かなければならない。ここでイオネが注目するのは、難しい文法や語彙力ではなく、簡単な言葉でどれほど整理された論理的表現ができるかだ。
 毎年のようにイオネが新入生へ向けて言う言葉がある。
「わたしの授業は誰かのお嫁さんになるためのものではありません。自らの才能を自ら見出し、引き出し、研磨し、自分自身が世に飛躍するためのものです。みなさんがそう願うならば、わたしはあらゆる手段を尽くしてその手助けをします」
 女学生のほとんどは、概ね十二歳から十四歳頃に入学し、三年ほどの課程を経て卒業する。女学生向けの主な科目は基礎的なマルス語の他、ダンス、社交マナー、文学、詩、刺繍、音楽などの貴婦人が身に付けるべき教養だ。貴賤や貧富は全く関係なく厳しい試験に合格しなければ入学を許されない名門ユルクス大学を出ているとなれば、本人のみならず家門にも箔がつき、彼女たちの嫁ぎ先の家格も変わってくる。事実、そういった一種の花嫁修業を目的にユルクス大学へ集まってくる女学生がほとんどだ。
 イオネの口上は、そういう学生を選別するためのものでもある。
 授業の内容も評価基準も厳しいクレテ教授の学級には、学問への探究心と自らの知識欲に忠実な学生しか残らない。
 決して多い数ではないが、イオネは自分の学生たちが残した功績に満足している。教え子の中には、法律家になった者や、起業した者、特に珍しい例では、航海士になった者もいる。みな男性主体の社会において闘争にその身を投じる戦士たちだ。
 そしてイオネもまた、終わりなき闘争にその身を投じている。
 ただし、彼女が目下闘わなくてはならないのは、忌々しいルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールである。

 初日の授業を終えた後イオネは、暗い海の底を歩くような気分で大学を後にした。
 法的にあの屋敷はアルヴィーゼ・コルネールのものだ。正式な取り交わしが完了してしまった以上、公爵に頭を下げて解体工事を引き延ばしてもらうほか打つ手がない。
 貯金もほとんど夏の休暇で使ってしまったから宿屋には長く滞在できないし、何より赤の他人がわらわら集まってくるような場所は好きではない。新しい家を探すにしても、独り身の女に家を売ってくれる不動産屋は、残念ながら多くない。他の教授や知り合いに助けを求めることは、論外だ。個人でも重要文書や機密事項などに関わる翻訳業を請け負っている身としては、信用に関わる。
 どう考えても不利だ。
 その上、イオネはあまり処世術に長けている方ではない。気分がすぐに顔に出るし、楽しくもないのに愛想笑いなどできない。男子学生たちから「氷の花」などと陰で呼ばれていることも知っている。不名誉ではあるが、的を射た表現だ。
 住人に断りもなく屋敷を売却してしまった伯父にも、何の前触れもなく――いや、前もって書簡は届いていたが、それにしてもあまりに一方的な言い分で独り身の女を追い出そうとする公爵にも、腹が立って仕方がない。
(無理にでもこちらの要求を押し通さなければ気が済まないわ)
 イオネは商人や授業を終えた学生たちで賑わうユルクスの大通りを一直線に進んだ。

 屋敷の門がなくなったことも腹立たしいが、怒りに任せて壊したくなる衝動が起きないという利点もある。
 イオネは自分の屋敷を素通りし、後方に建つ「コルネール宮殿」へと真っ直ぐ向かった。
馬蹄型の階段の下で、昨日のドミニク・ファビウスという執事が待機していた。
「ようこそいらっしゃいました、アリアーヌ・クレテ教授」
 昨日と同じ、柔和な顔だ。
「どうも、ファビウスさん」
 イオネはツンと短い挨拶をして、ドミニクの案内に従った。
 真新しい木材の匂いが漂う屋敷の中では、十数人の人夫が立ち働いていた。大理石造りの広いエントランスの中央には幅の広い階段があり、吹き抜けの天井を円形に囲うように造られた二階、三階へと続いている。昨日は夕暮れ時だったから気付かなかったが、天窓から射す陽光が来訪者を歓迎するように照らし、ステンドグラスの透き通った花の影を足下に映す様は、美しいと思った。
 イオネが驚いたのは、その様子の変わりようだ。昨日の夕方に石壁が剥き出しだった部分はすっかり上質な織物で覆われ、優美ながら落ち着きのある金と深緑の葉綱模様がエントランスを囲んでいる。
 半日でこれほど内装を完成に近付けてしまうとは、並大抵の技術では不可能だ。
 そもそも、三か月という短期間でここまでの大普請を進めてしまうことこそ現実離れしている。相当数の経験豊かな技術者や人夫が必要だし、気が遠くなるほどの資材を集め、運搬しなければならない。それらをあっという間にやってのける公爵家の財力と権力を、改めて目の当たりにした気がした。
 執事ドミニク・ファビウスに通された二階の広い部屋は、公爵の執務室のようだった。暗い色の本棚が壁を囲い、透き通ったガラス張りのキャビネットには異国の銀細工の時計や無数の金剛石があしらわれた指輪や大粒の真珠の首飾り、水晶の燭台や、陶磁器などが飾られていた。
 一目見て分かる。このキャビネットの中身で貴族の豪邸が一軒建ってしまうだろう。
 無造作に飾られた装飾品で、その富の大きさを誇示しているのだ。
「公爵は間も無く見えます。しばしお待ちください」
 ドミニクがおっとりした顔つきの女中に茶を用意させて辞去した後、ひとり執務室に残されたイオネは、苛立ちながら茶を飲んだ。茶の温度は丁度よく、芳醇な香りが鼻に抜ける、渋みの少ない高級品だ。
 が、茶が半分まで減っても公爵は現れない。
 売り払えば一財産は稼げるであろう宝飾品と一緒に見ず知らずの人間を一人置き去りにするなんて、警戒心がないのだろうか。それとも天下のルドヴァン公爵から盗みを働こうなどと大それた考えを持つものなどいないと高を括っているのか、あるいはすぐに犯人を捕まえて取り戻すことなど造作もないという自信の表れかもしれない。
(それにしても、こんなに待たせるなんて、どれほど人を見下せば気が済むのかしら)
 イオネはひどく不快に思ったが、こちらもソファの上でじっと待っている理由はない。
 立ち上がったイオネが向かったのは、豪邸が建つキャビネットではなく、本棚だ。自分の背よりも高い棚に、書物がズラリと並んでいる。どれも美しい装丁で、エマンシュナ語から複数の言語を調べられる辞書や辞典のほか、数学、経営学、造船に関するものや、航海術に関するものなど、様々だ。本棚の空いた場所には、精巧な船の模型がいくつか飾られている。
「カラヴェラ船ね。懐かしい…」
 イオネは細い船体と三角の帆をもつ模型をまじまじと見て呟いた。小さく細い木の棒で構成されているのに、船室の内部の構造までよく再現されている。昔、船が好きだった父が個人的に所有していた船が、これだ。
 次にイオネは、蔵書の中から最新の貿易情勢に関する本を手に取った。黒い皮の表紙には、何度も開いた痕がある。腹の立つ男であることには変わりないが、少なくとも公爵は勉強熱心らしい。
 内容は、ルメオ国内のどの家や業者がどの地域に向けて航路を拓いているかや、取り扱いの商品についてだ。[保有船流通番付]の筆頭に、[トーレ地方:クレテ家]と記されているのを見つけ、なんとも複雑な気持ちになった。
 父が生きていれば、きっと自分もトーレで経営の手伝いをしていただろう。それが本望とは思わないものの、かつての自分の居場所を、他人事のように文字として目にしているこの状況は、なんだか皮肉めいているように思えた。
 だが、本の内容は間違いなくルメオ共和国と周辺における貿易業界の最新情報に富んでいる。きっと半年も経てばまた最新のものが刊行されるだろう。

「俺の蔵書をずいぶん気に入ったようだな」
 背後から聞こえた男の声で、イオネは我に返った。いつの間にか本に夢中になって、時間が経つのを忘れていた。
 そして同時に、ざわざわと身体の内側に怒りの火花が散り、一瞬にして大学での不愉快極まりない出来事を思い出した。
 理由は、背後を振り返った時に確信した。
「二度会わせる顔は無いんじゃなかったか」
 大学で会った不遜極まりない男がそこにいたのだ。
 今日も艶やかな黒髪を隙なく整え、あの夜霧の海を吹く風を思わせる声で愉快げに言いながら、人を食ったような笑みを浮かべている。
「…あなたが、ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネール?」
 イオネは表情を取り繕おうともせず、眉間に深々と皺を刻んだ。
「また近いうちにと言っただろう。イオネ・クレテ嬢」
 アルヴィーゼ・コルネールは唇の左端を吊り上げ、エメラルドグリーンの目を優艶に細めた。
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