高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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2 不吉な手紙 - une lettre de malheur -

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 イオネは宮殿の扉を開けるなり、声を張り上げた。
「この屋敷の主を呼んで!」
 中は外観ほど完成していないらしく、壁や床は石が剥き出したまま、調度品も運び込まれていない。
 広いエントランスホールで立ち働いていた数人の人夫たちが一斉にイオネの方を向き、ひどく困惑している。
 果たしてこの状態で屋敷の主がいるのか疑問に思ったが、少なくとも外よりも中に人夫が多くいることからして、誰かしら責任者と話すことができるはずだ。
「この屋敷の主を、出しなさい!今すぐ!」
 イオネは自分よりもずっと背が高く筋骨隆々とした働き盛りの男たちに向かって、もう一度言った。
 ざわざわと互いの顔を見合わせる人夫たちの中から唯一貴族らしいなりをした若い男が進み出て、憤然と腕を組んで立つイオネに向かって、折り目正しく貴婦人に対する礼をした。
 明るい栗色の髪を後ろで一つに縛り、虹彩は鳶色をしていて、柔和な顔立ちだ。ひと目見てこの男が屋敷の主人でないことはわかった。これほどの屋敷の主人であれば、もっと高価で偉そうな服を着ているはずだ。この男は恐らく家令といったところだろう。
「誠に恐れ入りますが、お嬢さま…」
 何か腫れ物でも触るような調子で男は言った。
 全く気に入らないことに、この男もエマンシュナ王国の言葉を話している。しかも、この非常事態への対応の仕方に慣れているように、滑らかな口調だ。
「我が主は一夜を共にしたからと言って、特定のご婦人に継続的な関係を望むことはありません。勿論、あなたほどのお美しい方であっても、例外ではありません。もし不服があれば、僣越ながら必要に応じて金や宝石をわたくしめからお贈りいたします。しかしながら、それ以上のご対応は一切いたしかねますので――」
「あなた、何を言っているの?」
 イオネは男の妄言をピシャリと遮った。
「わたしが、誰と、何ですって?」
 これ以上ないと思っていた怒りが更に膨れ上がった。
 間違いなく、今日は人生で最も怒りを覚えた――いや、怒りを通り越してもはや憤怒を覚えた日だ。まさか、主人の火遊びの相手が怒鳴り込んできたと勘違いされるなんて、あまりにも不名誉だ。不愉快極まりない。
「無礼にも程があるわ!あなたの主がどこの誰か知りませんけど、少なくとも住人に断りもなく家を壊そうなんて盗賊みたいな輩と親しくなるつもりなんて毛の先ほどもないわ!料簡違いもいいところよ!今すぐあの忌々しい鎖を扉から外して、壊した門を元通りにしてちょうだい!」
 男は自らの失言とイオネの剣幕に顔面を蒼白にしていたが、イオネの言葉を聞いてようやく事態を飲み込んだようだった。
「…あなたは、イオネ・クレテお嬢さまでいらっしゃいますね」
「アリアーヌ・クレテ教授よ」
 刺すような口調で言った。「イオネ」は家族や数少ない友人だけが呼ぶ、極めて私的な名前だ。親しくもない他人にその名で呼ばれることも好きではないし、この秋で二十二歳にもなるのにお嬢さまマドモアゼルなどと呼ばれることはもっと気に入らない。
 男は畏まった様子でもう一度頭を低くし、イオネに対していっそう慇懃に言葉を続けた。
「どうかご無礼をお許しください、アリアーヌ・クレテ教授。申し遅れました。わたくしはコルネール家の家令ドミニク・ファビウスと申します。三か月ほど前に書面でお知らせ致しました通り、あなたの屋敷は伯父上のエリオス・クレテ閣下により売却され――」
「何ですって?」
 イオネは目を見開き、眉を寄せた。
「…ご存じなかったようですね。書面はお受け取りに?」
 ドミニクは眉尻を下げ、初めて心から困惑したような顔を見せた。
「そんなもの…」
 受け取ってなどいない。と言い終わらないうちに、イオネはアッ!と思った。
 確か休暇に出かける前に、珍しく何かの封書が届いていたような気がする。荷造りにかまけて封を開けることもせず、読み終えた本と一緒に食堂のテーブルに置いたままになっているはずだ。
「…あの鎖を外してちょうだい」
 イオネの声色には、先程の怒りから一変して不安が滲んでいる。
 ドミニクは温和に顎を引き、腕が常人の三倍はあるのではないかと思しき人夫を連れ立って、貴婦人が自分の屋敷へ戻るのに同行した。
 人夫に鎖を外させた後、イオネが我が家の古びた木の扉を開くと、使い古された木材と古い本の香りが混じった匂いが鼻腔に満ちた。いつもはこの匂いに癒やされるのに、今の最悪な気分を癒やしてくれることはない。
 イオネは青い陶のタイル張りの床を踏みしめて一直線に食堂に向かい、分厚い本が山積みになった古いテーブルの上を探った。植物学の本と貿易経済学の論文の間に、上等な象牙色の封筒が挟まっているのを見つけると、イオネはそれを引っ張り出した。
 宛名にはどことなく情を感じさせない流麗な筆跡で、「Mlleイオネ・ Ioneアリアーヌ・ Arianeクレテ Kreteお嬢さま」と間違いなく自分の名前が記されていた。封筒の隅には向かい合う鷲と有翼の獅子、その下部に月と七芒星の描かれた紋章が印字され、赤い封蝋には「C」の装飾文字が刻まれている。
(ルドヴァン公爵――)
 とイオネが思ったのは、エマンシュナの王家の象徴である月と星を紋章とすることを許された家門が、王家の他はその姻戚に限られており、「C」で始まる唯一の家が、その最高位であるルドヴァン公爵コルネール家だからである。
 コルネール家は、エマンシュナ王国の西北部に位置するルドヴァン地方を代々治める一族だ。
 ルドヴァンはユルクスと国境を接して隣同士に位置し、古くから陸上貿易の要衝として栄え、代々の当主の優れた経営手腕と尽きることのない莫大な資金でもって、その富を増やし続けている。王家よりも金を持っているとさえ言われるほどだ。
 イオネはペーパーナイフを取り出すことも忘れて破るように封を開け、二枚の書簡に目を通すと、みるみるうちに顔色を変えた。
 一枚目の書簡には、こうある。
『拝啓 イオネ・アリアーヌ・クレテ嬢
同封の証明書の通り、わたしルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールがトーレ領主エリオス・クレテ閣下より建物を含むこの土地を買い受けた。
ついては八月末日迄に必要なものを纏めた上、屋敷から立ち退きを願いたい。
普請については執事のドミニク・ファビウスに一任してある。何か不便があれば申し付けられたい。
ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・トリスタン・コルネール』
 二枚目の書簡は、確かに伯父の署名が記された売却証明書だった。
 エマンシュナ王国政府、ルメオ共和国政府の役所で正式に取り交わされた証しの印章が押され、この屋敷と周囲の土地一帯が既にルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールのものになったことが証明されている。
「何てことなの…」
 イオネは力なく椅子に倒れ込み、書簡をくしゃくしゃに握りしめた。これが間違いであることを心のどこかで期待していた。が、間違いでも冗談でもなかった。
 憤怒、絶望、失望、焦燥――何から先に感じ、対処したらよいのか分からない。
 如何に絶縁状態とは言え、一度も気に掛けたことのない首都の屋敷を、あまつさえ姪が住んでいるにもかかわらず勝手に売却してしまう非情な当主がどこにいるだろう。
 あの時――父が亡くなったあの冬、周囲の反対を押し切って自分が当主になれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
 イオネの胸はどんよりと暗い気持ちでいっぱいになった。
(いいえ、違うわ)
 イオネはぷるぷると首を振り、自分の両手でパチリと頬を叩いて立ち上がった。気弱になって悔恨の情を発するなんて、自分の主義に反している。
 行く手に立ちはだかるものは、自分で取り除くまでだ。

「ファビウスさん」
 イオネは屋敷を出ると、律儀に屋敷の前で待機していたドミニクを権高に呼ばわった。
「はい、アリアーヌ・クレテ教授」
 柔和な顔だ。三か月前に送った書簡をイオネが今読んだことに気付いても、恨みがましい態度を取ることは一切無い。
「不便があればあなたに言うようにと公爵が書いていたわ」
「存じております」
「であれば、話が早いわね。この屋敷はクレテ家当主の所有だったのだから、売却されてしまったのであればわたしに権利はないわ。けれど、通達は今見たばかりなので明日の立ち退きは不可能です。あなたやあなたの主と同じように、わたしにもやるべき仕事があるの」
 権利はないと自覚している割に、高飛車な物言いだ。
 無論、イオネにもこの論法が強硬過ぎるという自覚はある。だが、どうあっても今日路頭に迷うわけにはいかない。
「あなたではなく公爵と直接話をするわ。ここへ呼んで」
 本来であれば下手に出るべきはイオネの方だ。が、矜持がそれを許さなかった。ここで弱みを見せれば若い女だからとつけ込まれる。
「承知いたしました」
 あと三つほど言い分を考えていたが、意外にもドミニクはあっさりと応じた。
「主人は明日からこちらに滞在する予定ですので、その折に面会の時間を作らせて頂きましょう」
 とは言え、イオネにも仕事がある。相手の都合でこちらの予定を決められてしまうのは、何となく癪に障る。
「では三時に仕事が終わるので、その後伺います」
「結構です。主人にはそのように申し伝えます」
 ドミニクはその顔に穏やかな笑みを浮かべたまま、姿勢正しく屋敷へ入って行くイオネを見送った。
 一人になると、この事を知らせた後の主人の反応を想像して小さく溜め息をつき、屋敷の裏手に繋いだ馬を駆って仮宿への帰路についた。
 
 イオネが帰宅してから一時間程経った頃、戸を叩く音がした。帰宅した時のままの格好で新学年の準備をしていたイオネが階段を降りて玄関へ行くと、扉に付いた小窓から赤い短髪が覗いている。
 近所に住む少年バシルだ。イオネが母や妹たちとユルクスへやって来た時からの付き合いで、料理の苦手なイオネは器用で目端の利くこの少年を一人暮らしとなった去年の春から料理番として雇っている。
「久しぶり、バシル。また背が伸びたのね」
「母さんもそう言うんだ。近頃兄ちゃんのお古が入らなくなってきたからさ。さっき通りかかったらイオネ先生が帰って来てたみたいだったから、昼間に俺が焼いたバゲットとスープを持って来たよ」
 バシルは背が伸びたことを自慢げに話しながら、屈託ない笑顔を向けた。左手に持った籠には、長いバゲットと、可愛らしい花柄の陶器の小さな鍋が入っている。
 イオネは休暇に出る時に食材を使い切ったままだった事を、この時初めて思い出した。バシルが来なければ今夜の夕食は用意できなかっただろう。
 礼を告げながら籠を受け取り、イオネは改めてこの少年を雇ったことに満足した。
「イオネ先生、明日またマルス語を教えてくれる?」
 バシルは期待に満ちた目でイオネを見た。
 料理番としてバシルがやって来る日には、夕食前に一時間程度の個人授業をしているのだ。バシルは地域の学問所でも成績優秀だし、何より意欲がある。家が商売をしているから、将来は自分もマルス語を習得して役立てようとしているのも知っている。
 イオネは気が利くだけでなく、知識欲旺盛で勤勉なバシルをとても好ましく思っているし、滅多に会えない弟と同じ年頃のこの少年を、実の弟と同じくらい可愛がっている。近いうちに、共和国から奨学金を得るための試験を受けさせ、ユルクス大学で思う存分学ばせようという密かな計画もある。勿論、今できる限りの指導や援助は惜しまないつもりだ。
 しかし、今は折が悪い。
「ごめんなさい、バシル。明日は授業が終わったら人と会う約束をしているの。わたしが日没までに戻らなかったら、待たないで家に帰って」
 もしかしたらこの家に戻ってくる事すらできないかもしれない。
「それは、ものすごい勢いでここら辺が様変わりしちゃったのと何か関係あるの?」
 ただでさえ察しが良いこの少年にとっては、当然の疑問だったろう。イオネは小さく息をついて、顎を引いた。
「おかしいと思ったんだよ。先生の家、門も壊されてるしさ。女の人の一人暮らしなのに。…もしかしてこの家、なくなるの?」
 バシルは心底心配そうにイオネを見つめた。この人生最悪な日で、初めて見つけた温かいものだ。それにしてもずっと年下の少年に心配させてしまうとは、我ながら情けない。
「心配ないわ、バシル。あなたに話せることが明確になったら必ず知らせる。今日はもう暗くなるから帰りなさい」
 バシルは望んだ答えが返って来なかった事を不服に思い、アーモンド型の目を不機嫌に細めた。貴族の社会がどんなものか想像できないが、常の事態でないことは解る。
 しかし、何を訊いた所でこの頑固な先生が口を開くとも思えず、渋々扉へ向かった。
「バシル、パンとスープをありがとう。とても助かったわ」
 滅多に笑わないイオネ先生が、不意に微笑を見せた。それだけでバシルは、浮き立つような気分で帰路についた。
 それからというもの、イオネは二階の書斎で使い古した木製の机に向かい、年間の授業計画や教本の内容確認に時間を費やした。全ての準備が終わる頃には、とてつもない空腹感が襲って来た。ふと時計を見ると、九時を過ぎている。
 一階の食堂に降りて、テーブルに乗った本の山を隅に寄せ、バシルがくれたバゲットとスープを食べた。
(バシルは学問の道に進んだら素晴らしい学者になるでしょうけど、料理の道に進んでも最高の料理人になるわね)
 スープにはソーセージの他に人参や玉ねぎ、トマトなどの野菜がたくさん入っていて、栄養を考えてくれているのがわかる。バシルの料理は冷めていても美味しい。バシルの焼いてくれたバゲットも程よい硬さで、スープによく合った。天が二物を与えるとは、きっとこういうことだ。
 
 夕飯の後、裏の井戸から小さな浴槽に水を汲み、竈に火を入れて湯を沸かした。
 富裕層でなければ自宅に浴室などはとても持てないが、まだ母と三人の妹と暮らしていた頃に、父の莫大な遺産の一部を使って浴室を設えた。風呂好きなクレテ家の女たちは、貴族の贅沢な生活にこそ執着しなかったものの、浴室にだけは妥協を許さなかった。
 浴室は、イオネが古い遺跡を参考に設計し、腕利きの職人をやっと探し出して造らせたものだ。
 外の釜から出た熱気が壁や床に張り巡らせた陶製の管を通って浴室へ送り込まれて内部を温め、浴室中央に設えられた陶器の噴出口が浴室全体を熱い蒸気で満たす構造になっている。舶来品の陶磁器で作った浴槽には、外の釜で温められた湯が長い管を通って適温になった頃に落ち、溜まるという仕組みだ。
 別れる前にノンノ・ヴェッキオが持たせてくれたラヴェンダーやレモンバームを布袋に入れて浴槽に浮かべると、爽やかな香りが鼻腔に満ちた。布を敷いた石の台座に腰掛けて熱い蒸気を浴び、オリーブの石鹸で身体を清めた後、ハーブの浮いた熱い湯に浸かった。
 常に頭を回転させていなければ気が済まないイオネが唯一何も考えずにいられる時間は、湯に浸かっている間だけだ。
 とろとろと染み込んでくる至福に身を委ねながら目を閉じると、窓の外から秋虫の声が聞こえた。

 ユルクスの夏が、終わろうとしている。
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