高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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1 夏の終わり - Julkus ; à la fin de l’été -

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 イオネ・アリアーヌ・クレテ教授が夏の旅行を終えて首都ユルクスへ戻ってきたのは、八月末日のことだった。
 貿易大国であるルメオ共和国の中心らしく雑多な人々が活気に満ちて入り交じるユルクスの大通りには、盆地特有の湿気を帯びた晩夏の空気が名残惜しげに漂い、馬車から降りたイオネの肌を湿らせた。イオネの好きな涼しい季節が来るまでには、まだ少し時間がかかりそうだ。
 装飾の少ない勿忘草色のドレスのポケットから真鍮の懐中時計を取り出して開くと、既に午後三時を二分過ぎていた。
「いけない。急がなくちゃ」
 イオネは時計をポケットに戻し、三か月の休暇に出ていたとは思えないほど小さなトランクを手に、胡桃色の髪を風に遊ばせながら石畳を足速に歩き出した。
 目の前には、古代の神殿を思わせる荘厳な石の建造物がある。
 これこそ、イオネの世界の中心――ユルクス大学だ。

 国内最大の貿易港を擁する大貿易都市トーレ地方の領主令嬢として生まれ育ったイオネが、故郷を離れてこの名門ユルクス大学の言語学教授となった経緯の端緒には、八年前の父の死がある。
 母はこれを機に本家と絶縁し、イオネとその三人の妹たちを連れて、古くから学問の都と誉れ高い首都ユルクスへ移ってきた。
 イオネが故郷よりもこのユルクスを愛する理由は、十四歳のイオネを学生としてユルクス大学が招いてくれたことだ。
 それも、過去に例を見ない厚遇だった。本来であれば男子のみが許される専門的な各分野の授業への参加を許され、在学と同時に複数の教授の下で助手として働くことも認められた。
 そして四年前、十八歳の若さで、イオネはユルクス大学の教授となった。
 この異例の抜擢は、彼女の並々ならぬ才覚と努力がもたらしたことは間違いないが、そのマルス語学を専門とする高い能力が、この貿易と学問で栄えた小さな共和国において非常に重要な役割を担っているということも理由のひとつだ。
 この広大なマルス大陸には、いくつもの言語が存在する。それらの多くは方言ほどの違いではあるものの、こと学問や貿易、外交の場においては、文法や発音を統一した大陸共通のマルス語を正確かつ美しく使うことが重要視されている。謂わば、その国の教養や文化、経済水準を図る指標になっているのだ。
 誇り高き才媛イオネ・アリアーヌ・クレテ教授は、この国においてそういう役割を担う人々の筆頭にいると自負している。
 そのため、妹たちがそれぞれ嫁ぎ、母が一番目の妹の裕福な嫁ぎ先へ移って一人暮らしとなった今も、ユルクス唯一の欠点である夏を避けてひと月早く休暇に出るのを除けば、イオネは年がら年中仕事に没頭している。
 とは言え、休暇のあいだも研究をやめるわけではない。
 幼くして北部の領主へ養子に出された弟に会いに行き、一番目の妹の嫁ぎ先へ他の妹たちと合流してしばらく滞在した後は、親族ぐるみで懇意にしているノンノ・ヴェッキオという老爺の邸宅で彼が専門とする薬草学の研究を手伝ったり、趣味の演奏会にピアノ奏者として参加したりと、とにかく一瞬たりとものんびりしていられない。そういう性分なのだ。

 そして休暇の最終日にも、イオネは屋敷に帰るよりも先に大学へ赴いた。
 高名な古代建築学の教授を招いて行われる、研究員向けの特別講義に出席するためだ。
 大学の柱廊を抜けていった先にある古代様式の円形の講堂には、既に一足早く休暇を終えた研究者たちが百名ほど集まり、中心の講壇に立つ長い白髪の老教授の話に聞き入っていた。
 イオネが講堂へ入っていくと、彼らの視線が一斉にそちらに集まった。しかし、イオネは気に留めず、恭しく黙礼して講義を続けるよう促した。
 大学制度についてイオネが苦々しく思っていることは、これだ。
 女は女学級にいて当たり前という化石のような概念が、社会の進歩を妨げている。男女で能力に差はないと言うのに、優れた学者を多く輩出している名門ユルクス大学がこの為体ていたらくとは、全く勿体ないことだ。
 が、イオネの今の関心は、使い古された腹立たしい大学制度よりも、古代建築学に向いている。
 老教授の手にある神殿の模型を頭に思い浮かべながら、自分がその中に立ち、建築士や技師たちが梁を組み立て、モルタルで壁を固め、設計士の計算通りに石を積み上げていく様子を詳細に想像した。
 イオネはトランクを開けて薄地のドレスや分厚い本の下から皮表紙の日記帳と真鍮でできた携帯用の筆記用具箱を引っ張り出し、箱についている小さなインク壺のコルク栓を開けて、細いペン先にインクを吸わせ、日記帳に講義のメモを記した。
 長い髪が肩から落ちて視界を邪魔すると、イオネは銀の箱からもう一本細軸のペンを取り出してくるくると髪に巻き付け、それらを捻って、髪の束の中心に挿してまとめた。
 こうして再び講義に意識を向けたイオネの集中を断ち切ったのは、背後から聞こえた男の声だった。

「なんだ、女がいるのか」
 夜霧の立つ海の上を吹く風を思わせる声だ。それも、抑揚の少ない隣国エマンシュナ王国の言葉を話している。
 それが、イオネの精神に灯った小さな苛立ちの火種を燃え立たせた。
(いやな言い方)
 ほとんど反射的にイオネが振り返って視線を巡らせると、声の主は開け放たれた講堂の扉の外に立っていた。
 この大陸には珍しい黒髪の男だ。それも、鼻梁がよく通って切れ長の目をした、稀に見る美男。――背は高く、精悍な体躯に皺のない雪のように真っ白なシャツと、一見して最高級と分かる絹織物のベストを纏い、長い脚は目の細かい織物のズボンと細やかな縫い目の美しい黒いブーツで覆われている。クラバットも、光沢と刺繍の繊細さから見て並の高級品ではない。相当の富豪かつ、上流貴族の中でも最高位の家格だろうと思われた。
 男は冷たいエメラルドグリーンの瞳で品定めをするようにイオネを眺めている。貌立ちが端正な分、余計にその嫌みったらしさが際立っていた。
 相手がどんな身分の人間であろうが、イオネは喧嘩を売られて黙っていられる気性ではない。音もなく席を立つと、扉の外に出、挑戦に満ちた眼差しで男に対峙した。
「聞き捨てならないわ。女が講義を聴いているとあなたに何か不都合があるのかしら」
「女学生は別棟の女学級にしかいないと聞いていたから、意外に思っただけのことだ」
 男は特に悪びれる様子もなく、白々と言った。
 この時イオネは、この男の不遜な態度に腹を立てるべきだった。ところが、それよりも遙かに彼女の神経を逆撫でしたのは、学生と間違われたことだ。
 ユルクス大学の教師陣の中では飛び抜けて年若い彼女だが、受け持った学生はみな素晴らしい成績を修めているし、知識や資質も他の教授たちに引けを取らないという自負がある。教本として使用される学術本も何冊も刊行し、翻訳した書物も高い評価を受けている。
 若い女だからと舐められるのは、大嫌いだ。
「わたしは、教授よ」
 つい、声が荒くなった。
「それは失礼した。この名門にまさか女の教授がいるとは、驚いた」
(愚弄された)
 と、はっきり感じた瞬間、カッと顔が熱くなった。
「学問が男性の特権だと考えているなら、あなたはこの場に相応しくないわ」
「俺に相応しい場所は俺が決める」
 男は冷淡な表情を変えることなく、傲慢に言った。
「あなたがどんなに高貴な方か存じませんけど、学堂は常に学びを必要とする者の味方よ」
 則ちここにあなたの主導権はないと言いたいのだ。が、それ以上の言葉が出てこなくなった。もっと激しい怒りのためだ。
 男は目を細め、形の良い唇の左端だけ吊り上げて、笑っていた。愉快で仕方ないというふうに。
(この、男…)
 怒りで身体が震えるなんて、初めての経験だ。
 幼少の頃から才媛と讃えられてきたイオネには、こんなふうに面と向かって愚弄されたことは、今までに一度もない。
 イオネは無意識のうちに拳を硬く握り締めて、男を睨めつけた。
「あなた、一体――」
 と食ってかかろうとしたイオネの頭に、無造作に男の手が伸びてきた。何をされたのか知ったのは、絹の袖が髪を掠めた直後に、纏めていた髪がはらりと肩に落ちた時だ。
 男の長い指には、真鍮のペンが挟まっている。
「インクが美しい髪を汚しそうだ」
 男は愉快そうに黒い睫毛を目元に伸ばした。
 あまりの出来事にイオネは再び言葉をなくし、悠然と笑む男の顔を呆気に取られて眺めることしかできなかった。
「では、また近いうちに。イオネ・クレテ嬢」
 そう言って愉快そうに唇の左端を吊り上げると、男はイオネに背を向け、講堂を去った。
 一瞬の後イオネが我に返った時、その背中を追いかけるように、言葉が口を突いた。
「無礼者に二度会わせる顔は無い!」
 我ながら貴婦人らしからぬ言動だと思ったが、どちらにせよあれは部外者だ。実際に二度と顔を合わせることは無いだろう。
 イオネは相手が自分の名前を知っていたのを疑問に思うことさえすっかり忘れて、トゲトゲした気分のまま講義に戻った。
(最悪の気分だわ)
 講堂の男性諸君からはチラチラと好奇の視線が飛んでくるし、髪に挿していたペンもどさくさに紛れて盗まれてしまった。
 イオネは波打つ髪がさらさらと視界を邪魔することに殊更苛立ちを覚えながら、特別講義を終えた。走り書きのメモがいつもより多いのは、あの男の憎たらしい笑みが頭の中に浮かぶせいで、見聞きした内容を普段通りに記憶しておけないからだ。
(本当に、最悪)
 イオネは心の中で悪態をついた。満ち足りた休暇で空に浮かんでいた気分が、途端に真っ逆さまに地上へ墜落してしまった。
 しかし、イオネの不運はこれだけでは終わらなかった。

 秋を迎えようとする太陽が名残惜しく夕闇迫る空に緋色の光を滲ませる時分、屋敷へ戻ったイオネは、我が目を疑った。
(嘘でしょ…)
 信じがたいことに、自分が立っている場所は間違えようがない。
 あまりの衝撃に、指が力を失い、トランクがゴトッ、と地面に落ちる音が響いた。
 三か月前まで悠々自適のひとりの生活を送っていたはずのささやかな我が家は、非情にも鉄柵の門を全て取り外され、扉を冷たい鉄の鎖で封じられ、[売却済み・九月一日から取り壊し予定]と、無感情な看板を取り付けられていた。
(明日から、取り壊し…?)
 混乱と恐慌の渦巻く頭の中に、黒髪の男の尊大な顔がちらついた。が、イオネが家を失ったこととあのエマンシュナ人に因果関係はない。
 しかし、今日という日の不運の発端には、その男がいる。そのために、イオネにはその男が今日降りかかった全ての不幸を運んできたように思えて仕方がなかった。
(全部あの男のせいよ)
 そうでなければ、こんな非現実的かつ理不尽な事象が起きるはずがない。とさえ思った。
 普段は理論的なイオネも、この異常事態にはさすがに冷静さを欠いた。
 しばらくのあいだ茫然と立ち尽くした後でイオネが周囲を見回すと、大きな石材や木材、荷車などが敷地の外に置かれ、休暇に出る前は小さな物置小屋や古びた礼拝堂があった隣地は土が剥き出しの更地になっていた。
 そして次に、この最悪の日で最も驚くべき光景を、イオネはその目に映した。
 屋敷の後方、十数メートルほどの位置に、巨大な屋敷が建っている。
 いや、屋敷というよりも寧ろ、宮殿と呼んだ方が似つかわしい。勾配の急な青灰色の屋根を持つ石と漆喰の建物に小さな尖塔が四基立ち、正面二階にある大きなアーチ型の扉から階段が馬蹄型に広がっている。これが正面玄関だろう。
 夏の休暇に出る前には、なかったものだ。三か月の間にこれほどのものが建ってしまったという事実には、驚きを超えて恐怖さえ感じる。まるで自分の屋敷が、何か大がかりな奇術にでも巻き込まれてしまったかのようだ。
 イオネが恐る恐る宮殿の方へ向かって行くと、休暇の前までその後方一帯にあったはずの他の屋敷も跡形もなくなり、周囲の様相が一変してしまっていた。
 空から地面へ墜落したような――というより、深海へ真っ逆さまに突っ込んでしまったような気分だ。とても事態が飲み込めない。

 しかし、イオネはこの逆境に泣き寝入りするような小娘ではない。混乱と恐慌の後は、全身を燃やすほどの激しい怒りが襲ってきた。
 住人に断りもなく家を売買するとは、一体どういう料簡なのか。
(取り戻さなくちゃ)
 イオネは宮殿へ向かって猛然と歩き出した。
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