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七十七、金の波の環 - la bague des vagues d'or -
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祝い客が全員家に帰ったのは、真夜中のことだった。彼らが明日の仕事を始める時間は、昼頃になるだろう。何しろ、ほとんどの者がヴィンチェンゾやその父親と同じように肩を組み合い歌いながらフラフラと帰って行ったのだ。彼らが朝からまともな仕事ができるとは思えない。
庭のテーブルや食器、更には誰かが落としていった靴や上着などの後片付けは無論主催者とその家族の仕事だが、みな踊り疲れ、或いは飲み疲れている。片付けを明日の仕事にして寝室へ引き上げることを咎める者は誰もいなかった。
この祝宴の最後にアルテミシアが発見したことは、クロードとジュードが二人ともかなりの酒豪だということだった。見たところ誰よりも多く飲んでいたようだったが、顔色も変わらず少しも酔った様子がない。主役の一人であるジュードが酔い過ぎた者の介抱役に回っていたほどだ。アルテミシアも十七の時に初めて酒を飲んで以来、一度を除けばどんなに飲んでもひどく酔っ払った経験がなかった。せいぜい気持ちが高揚して上機嫌になるくらいのものだ。そのことを告げると、ジュードとクロードは顔を見合わせて同時に笑い出し、「リンド家の血だよ」と文字通り口を揃えた。
「疲れたぁ」
家族の中で最後に寝室に戻ってきたアルテミシアは、身体を支えるサゲンの腕から離れると花嫁の介添人のドレスのままベッドに身体を投げ出し、ごろりと仰向けになった。
「飲み過ぎだ」
サゲンが苦々しげに言いながら葡萄色の上衣を脱いできちんと椅子の背に掛け、空の暖炉の上に置かれた瓶からグラスに水を注いだ。
アルテミシアは上衣と同じ色のベストを着ているサゲンの背中をぼんやりと見上げた。逞しい背を覆う筋肉が、身体に沿うように作られたベストの外からでもよく分かる。
「へへ」
アルテミシアがへにゃっと笑った。さすがのアルテミシアも普段よりずいぶん酔いが回っている。
「だってアリアネ先生のシードルがあんまり美味しいから」
「それだけじゃないだろう。叔父貴どのと飲み比べているのを見たぞ」
まったく軍医のくせに、とでも言いたそうにサゲンが厳しい上官の目つきをすると、アルテミシアは腹をひくひくさせて笑い出した。
「ばれてた?負けちゃったから黙っていようと思ったんだけど」
「仕方のないやつだ」
サゲンはヤレヤレと溜め息を吐き、水の入ったグラスを持ってベッドに腰掛け、アルテミシアの顔を上から覗き込んだ。
「サゲンもみんなと楽しそうにしてたじゃない。ヴィンスとも、いつの間に仲良くなったの?」
「仲良くなってはいない。シャロンから君の話を聞いていたら、横から入ってきたんだ」
「わたしの話?」
サゲンが揶揄うように唇を吊り上げた。
「聞いたぞ。彼女に毎日泣き言を漏らしていたと」
「シャロンのやつ」
アルテミシアは頬を膨らませた。
「君に求婚して振られたヴィンチェンゾ・ジンガレリと三人でよく出かけていたことも」
今度はちょっと険のある調子で言った。アルテミシアはサゲンの目を見上げた。
「ヴィンスはもうわたしのことはそんなふうに思ってないよ。最近は…」
ふふ、とアルテミシアが笑った。シャロンの長年の恋が成就する日も近そうだと思ったからだ。
「あいつとも楽しい思い出ができたようで、結構なことだ」
サゲンはちょっと不愉快そうに眉を寄せて口に水を含み、アルテミシアに覆い被さって重ねた唇から水を流し込んだ。アルテミシアが控えめに喉を鳴らして嚥下した後、唇からこぼれた水を指で拭ってやると、アルテミシアが恥ずかしそうに目を伏せ、ハシバミ色の瞳を暗く翳らせた。――灯った欲望の炎を隠すように。
「ヴィンスの弟のダンともね。…もしかして嫉妬してる?」
「ああ、そうだ」
アルテミシアはカッと顔を赤らめた。嬉しいなどと思っていることが知れたら、サゲンは気分を害するだろうか。
「ついでに言うと君があいつを親しげにヴィンスと呼ぶのも気に入らない」
「だって長いんだもん。大体、そんなこと言ったら」
と、アルテミシアが唇を尖らせた。
「わたしはあなたのことをエメレンスって呼ぶ元婚約者がいるのも気に入らないけど?」
サゲンは今まで細めていた目を丸くした。
「気にしていたのか」
アルテミシアは挑戦的に片眉を上げて唇を結んだ。
「小さい子供の頃からの友人はみな俺をエメレンスと呼ぶ」
「どうしてサゲンじゃないの?」
サゲンの顎関節が頬の下で動いた。
「なに?」
ついさっきまで不愉快そうに細まっていた目が、今は純粋な興味で満ちている。サゲンはちょっときまり悪そうに口を開いた。
「…幼いときは舌足らずで、自分の名前がうまく言えなかったんだ。小さすぎて記憶はないが、母が言うには友達に揶揄われたのにひどく腹を立ててから二つ目の名だけ名乗っていたらしい」
アルテミシアは目をぱちくりさせた。
「‘しゃげん’って言ってたの?」
サゲンは仏頂面で小さく頷いた。アルテミシアは弾けるように笑い出した。
「かわいい!」
ひとしきり腹を捩って笑い転げたあと、アルテミシアは目を細めてこちらを眺めているサゲンの栗色の髪に手を伸ばした。
「君のそんな笑顔が見られるなら恥を忍んだ甲斐があった」
「もっと教えて。子供の時のこと」
「さあ――」
サゲンは髪を撫でるアルテミシアの手を握ると、自分の口元へ持ってきて柔らかい手のひらに口付けした。
「どうしようかな。そんな余裕があればいいが…」
「あ」
唇が手のひらから手首へ、手首から腕へと這ってくる。アルテミシアの肌を小さな快楽の炎が走り始めた。
「そういうのは、ずるい」
「君こそ、俺がずっと美しく着飾った君に触れたかったのを知りながら、家族と他の招待客にベッタリだったじゃないか。まるで生殺しだ」
「こっ、子供みたいなこと言わないでよ…」
びく、とアルテミシアの身体が跳ねた。いつの間にかサゲンの手が腰に伸びている。
「せっかくのドレスが皺だらけになっては忍びない。早いところ脱いだ方がいいな」
「笑った仕返し?」
「まさか」
サゲンが唇に淫靡な弧を描かせ、アルテミシアの耳朶に齧り付いた。アルテミシアが反応して身体を浮かせた隙間からサゲンの手が入り込んで、背中のボタンを外し始めた。
「介添役の大任を立派に果たした婚約者に奉仕をしようとしているんだ」
「もう…」
アルテミシアは折り重なってきたサゲンの背に腕を回すと、その肌の匂いを吸い込んで首筋に唇を付け、シャツを引っ張り上げてボタンを外し、逞しい身体を暴いた。
「君も欲しかったか」
サゲンの声が掠れている。暴かれた素肌に触れる指がアルテミシアの感覚をますます鋭くさせた。
「うん、ずっと…」
燭台の灯りを映したハシバミ色の瞳が燃えるように揺れた。サゲンは堪り兼ねたように唇を重ねて露わになった乳房に触れ、火を吐くような熱い吐息を飲み込んだ。
「満たしてやる」
サゲンが熱に浮かされたように言った。
身体の奥までサゲンの熱で満たされた時には、アルテミシアの思考はとうに白い霧の中に溶けていた。
朝、アルテミシアが目覚めて最初に見つけたものは、涼やかな目元に睫毛の影を落として穏やかに眠るサゲンの端正な顔と、手のひらに触れるサゲンの精悍な胸板、それから自分の左手の薬指に嵌められている金の環だった。アルテミシアは目蓋を半ば開けた状態でぼんやりとその指輪に見入った。全体が細密な透かし彫りでできていて、波模様になっている。小さいながらも見事な円形のオパールが中央に置かれ、カーテンの隙間から射す朝陽にキラキラと美しい光が反射して、見れば見るほど目の覚めるような素晴らしい作品だ。
アルテミシアが裸のまま跳ね起きて隣のサゲンを見た。サゲンは相変わらず目を閉じたまま枕に頬を預け、寝息を立てている。驚きと寝起きのせいで声が出せず、しばらく無言のまま剥き出しの硬い肩をぽんぽんと叩いた。
「ねえ、これ」
何度か肩を叩いた後で、やっと声が出た。サゲンは唸りながらゆっくりと目を開き、ぼんやりとアルテミシアの肢体を眺めていつもより気の抜けた笑顔を見せた。
「ああ、いい眺めだ」
アルテミシアはサゲンの視線の先に無防備な白い乳房があることに気付いてワタワタと毛布で隠し、真っ赤な顔で左手を差し出して、「これ」ともう一度言った。サゲンは穏やかに笑っている。
「結婚の申し込みをしたのに指輪がないと格好が付かないだろう」
「そうじゃなくて、いつの間に…」
言い終わる前にアルテミシアの顔が綻んでいた。アルテミシアはくたびれたくしゃくしゃの髪のまま肘をついて寝そべるサゲンに抱き付くと、顔中にキスをした。
「すっごく素敵!ありがとう!でも起きてる時に付けてくれたらよかったんじゃない?」
「それは結婚指輪に取っておいてくれ」
サゲンは笑った。これが見たかったのだ。驚きから喜びに変わる、アルテミシアの表情の変化が。サゲンはアルテミシアの腰を引き寄せて膝に抱き寄せると、胸を隠している毛布を剥ぎ取り、腰から上へ手を這わせて柔らかい肌と胸の感触を愉しみながら甘い吐息を漏らし始めたアルテミシアの唇を塞いだ。指の下で乳房の先端が硬くなり、アルテミシアの指がサゲンの髪の中に入ってくる。
唇を離したサゲンは、アルテミシアの蜜色と茶色と緑が入り交じったハシバミ色の瞳を覗き込んだ。
「ずっと考えていたんだ。君の右手に真珠の指輪を嵌めたときから、左側にはどんなものがよいかと」
アルテミシアはその時のことを覚えている。パタロアのベルージ邸からオアリスへ帰る途上のことだった。あの時、アルテミシアが母親から受け継いだ真珠の指輪をサゲンが最初に嵌めようとしたのは左手だったが、すぐに右手に替えた。あの時考えもしなかったその真意が、今なら分かる。
アルテミシアの左手の薬指に初めて嵌める指輪は、サゲンが自ら用意したかったのだ。
「…もしかして、ずっと前から?」
サゲンは答えずに唇を緩く吊り上げてアルテミシアにもう一度キスをした。頬が濡れている。
「出来上がったのは君がオアリスを離れている間だったが――」
サゲンはアルテミシアの頬に落ちた涙を指で拭ってやった。
「そうだな。少し時間は掛かったが、こうなることは決まっていた」
多分、最初から。この指輪のように波が金色に輝く海の上でアルテミシアがサゲンの前に現れた日からだ。
「五日後、ティグラ港に向かう船が出る。君をオアリスへ連れ帰っていいか」
サゲンは指輪の上からアルテミシアの指を撫で、髪の匂いを嗅ぎながら囁いた。
「いいよ」
アルテミシアは迷わず答えた。
「きっとエラが怒ってるから、早く帰って許してもらわなくちゃ。イサ・アンナ様にも…」
「エラとロハクはともかく、陛下は気にされていないさ」
「ああ~、そうだった。ミシナさん…」
いちばん口うるさい人物のことを失念していた。アルテミシアがうんざりしたように言うと、アルテミシアの首筋に顔を埋めたままサゲンがくっくと腹を上下させた。
「大丈夫だ。小言を食らわされるのは君だけじゃない」
「一緒に絞られるわけね」
アルテミシアも笑い声をあげた。
「帰ろう。あなたの家に。ご機嫌取りのお土産もいっぱい買って」
「俺たちの家だ。もう君は正式にあの家の女主人なんだから」
アルテミシアは官能的な熱を帯び始めたサゲンの身体を抱きしめ、優しい笑みを浮かべた唇にもう何度目か知れない口付けをした。サゲンはちょっと身体を引いてアルテミシアの腰を支えると、奥歯を噛んだ。
「…それ以上すると止まらなくなる」
「知ってる」
アルテミシアは熱い体温を素肌で感じながらくすくす笑い、サゲンが身体を倒すのに任せてその精悍な胸の上に折り重なった。
それからの日々はあっという間に過ぎていった。
婚礼の二日後にはバロー一家が帰国の途に就いた。港に立ったサーシャが結局シャロンとどうにもならなかったことに肩を落としていたのは想定内だが、意外にもマルグレーテがカミーユとの別れに落涙した。クロードがサゲンに言った通り、二人はすっかり親友になっていのだ。特に娘の身の安全と元夫への復讐のために身を潜めるように生きてきたマルグレーテにはこれまでカミーユのような同年代の友人と呼べる存在がなかったから、尚更寂しいのだろうとアルテミシアは思った。そう言う気持ちは誰よりも理解できる。自分も同じだったからだ。
「離れてもわたしたちは姉妹よ、グレタ。また会いに来るわ」
カミーユがマルグレーテの肩に手を置いた。
「ええ。次はわたしが行くわ、きっとすぐに。グリュ・ブランのお義父さまやお義母さまにもご挨拶に行かなくちゃいけないもの」
マルグレーテが茶色の瞳を涙で光らせながら言うと、カミーユも淡いブルーのハンカチを涙で濡らした。その後ろでクロードと二人の子供たちが何とも言えない表情で顔を見合わせたのは、カミーユが涙を見せるのがそれほどに珍しいからだろう。
それに比べれば、ジュードとクロードの別れはあっさりしたものだった。
「じゃあな、兄弟」
とがっしり抱き合い、互いに笑い合うだけだ。それだけの挨拶なのに、アルテミシアには二人がもっと多くのことを語り合っているように見えた。その後クロードはアルテミシアとサゲンに向かって人差し指を立て、
「無茶しないように、互いを見張るんだ。いいね?」
と医師らしく訓戒を述べた。サゲンとアルテミシアは互いにチラリと顔を見合わせ、クロードに向かって苦笑しながら首を縦に振った。
そこへ、一足遅れてシャロンとヴィンチェンゾが馬に相乗りして港に駆けつけた。憧れの女性にもう会えないと思っていたサーシャはぱあっと顔を輝かせたが、その時アルテミシアはヴィンチェンゾがちょっとおもしろくなさそうに唇を結んだのを見逃さなかった。
「何をニヤついてる」
サゲンが不思議そうにアルテミシアを見たが、アルテミシアは「べつに」としらばっくれた。
シャロンは馬の尻にくくりつけてあった子供が一人すっぽりと入りそうなほどの大きさの麻袋をヴィンチェンゾに下ろさせ、両手に抱えてサーシャに渡した。サーシャがずっしりとした麻袋の口を開けてみると、まだ土のついたニンジンとじゃがいもと玉ねぎがたんまり詰まっている。
「これ、みんなで食べて。あたしが庭で育てたの」
感激屋のサーシャは袋を弟に押し付けるなり、ヘーゼルの瞳をうるうるさせながらシャロンに抱きついた。
「大事にするよ!」
シャロンはちょっとびっくりした様子で固まっていたが、すぐにくすくす笑い出してサーシャの背をぽんぽんと叩いてやった。
「大事に取っておかないで、ちゃんと食べてよね。おいしく育てたんだから」
「そうだ。ぜぇんぶなくなるまできれいに食べるんだぜ」
ヴィンチェンゾがサーシャをシャロンから引き剥がしながら言った。アルテミシアにはその言葉に含みがあるように思えたが、サーシャはそうではなかったらしい。ヴィンチェンゾにも熱烈に抱きついて礼を言った。
アルテミシアは彼らの様子を見て笑うバロー一家に近付き、ニヤリとして声を潜めた。
「わたしはサーシャがあのニンジンのヘタから葉っぱを大事に育てるのに銀貨一枚賭ける」
「じゃあ僕は玉ねぎの芽」
イヴが乗った。マルグレーテとカミーユは呆れたように目を大きくしたが、双子の父たちは笑って
「じゃ、僕らは‘庭に畑を作る’に銀三枚」
と同時に言った。
「次に会う時が楽しみだね」
アルテミシアは声を上げて笑った。
一家が船に乗り込んだ時、最後まで港に残っていたイヴがゴソゴソとトランクから紐で結ばれた革表紙のスケッチブックを引っ張り出し、アルテミシアに手渡した。
「僕らのうちには、こういうのがいっぱいあるんだ。だから、ジュードおじさんとグレタのとこと、ミーシャとバルカさんのとこにも、あったらいいかなって。…あっ、まだ開けないでよね。開けるのは僕が船に乗ったらだよ」
イヴは表紙を開こうとしたアルテミシアに向かって父親そっくりの仕草で人差し指を立て、ほんのり顔を赤くして、「じゃ」とちょっと素っ気なく手を振り船に乗り込んだ。
見送りに来た全員が船が小さくなるまで笑って手を振った後、アルテミシアの持っているスケッチブックを覗き込んだ。
開くと、柔らかい色彩で描かれたアレブロの町を始めとしたトーレの風景画や海の絵が何枚か続いている。イヴらしい、繊細な筆致だ。細いながらも迷いのない線が紙の上に現実感を生み出し、木々の葉ずれが聞こえそうなほどの立体感と透明感を生み出している。そして数枚目からは、ほとんど全てが家族や友人たちの絵だった。
一人一人の肖像画のようなものではなく、日常の風景に人々が溶け込んでいる。両手にミトンをつけて焼き立てのパイを運ぶマルグレーテとその横で紅茶を入れるジュード、それに皿を並べるアルテミシアと、部屋の隅で編み物をするロベルタとドナが描かれた絵、夕暮れの迫る青空の下で牧羊犬と羊たちを眺めながらカップとナッツを手に笑い合うアルテミシアとシャロンの絵、観劇に出かけるマルグレーテとカミーユと、互いの妻たちを見送るジュードとクロードの絵、それに、婚礼のときの絵もあった。リンド夫妻から招待客の衣装まで、正確に描かれている。アルテミシアには、どれを見てもいつのことか鮮明に思い出せた。
「イヴがこんなに素晴らしい画家だったとは、知らなかった」
「緻密な描写が巧いんだ。地元の工房でも、いちばんの有望株だよ」
サゲンが感心すると、ジュードは誇らしげに笑って見せた。
「宝物にする。父さまと母さまが描いてあるやつ、わたしが持っていってもいい?」
アルテミシアが目を潤ませながらマルグレーテに言った。マルグレーテはにっこり笑って頷き、「じゃあわたしたちはお前の…」
と一枚めくった時、ハタと手を止めた。
「アラ」
「あ!」
アルテミシアが慌ててスケッチブックを閉じようとした時には、既にヴィンチェンゾの手にあった。
ひゅー、とヴィンチェンゾがにやにやしながら口笛を吹き、絵をサゲンに手渡した。
「あいつ」
サゲンが苦笑した。開いたページには木陰で口付けを交わす男女が描かれていた。葡萄色の衣装を着た男は片手に飲みかけのワイングラスを持ち、もう片方の手で女の腰を抱き、女は裾に青とオレンジの刺繍が施された白いドレスを纏っている。
誰がどう見ても婚礼の日のサゲンとアルテミシアだ。
「いいじゃない。あんたたちの家に飾りなさいよ」
「飾らないよ!」
シャロンの揶揄にアルテミシアはいきり立った。
「いや、いいんじゃないか。俺は気に入った」
「サゲンまで!」
アルテミシアは顔を赤くしてサゲンからスケッチブックを取り上げた。
庭のテーブルや食器、更には誰かが落としていった靴や上着などの後片付けは無論主催者とその家族の仕事だが、みな踊り疲れ、或いは飲み疲れている。片付けを明日の仕事にして寝室へ引き上げることを咎める者は誰もいなかった。
この祝宴の最後にアルテミシアが発見したことは、クロードとジュードが二人ともかなりの酒豪だということだった。見たところ誰よりも多く飲んでいたようだったが、顔色も変わらず少しも酔った様子がない。主役の一人であるジュードが酔い過ぎた者の介抱役に回っていたほどだ。アルテミシアも十七の時に初めて酒を飲んで以来、一度を除けばどんなに飲んでもひどく酔っ払った経験がなかった。せいぜい気持ちが高揚して上機嫌になるくらいのものだ。そのことを告げると、ジュードとクロードは顔を見合わせて同時に笑い出し、「リンド家の血だよ」と文字通り口を揃えた。
「疲れたぁ」
家族の中で最後に寝室に戻ってきたアルテミシアは、身体を支えるサゲンの腕から離れると花嫁の介添人のドレスのままベッドに身体を投げ出し、ごろりと仰向けになった。
「飲み過ぎだ」
サゲンが苦々しげに言いながら葡萄色の上衣を脱いできちんと椅子の背に掛け、空の暖炉の上に置かれた瓶からグラスに水を注いだ。
アルテミシアは上衣と同じ色のベストを着ているサゲンの背中をぼんやりと見上げた。逞しい背を覆う筋肉が、身体に沿うように作られたベストの外からでもよく分かる。
「へへ」
アルテミシアがへにゃっと笑った。さすがのアルテミシアも普段よりずいぶん酔いが回っている。
「だってアリアネ先生のシードルがあんまり美味しいから」
「それだけじゃないだろう。叔父貴どのと飲み比べているのを見たぞ」
まったく軍医のくせに、とでも言いたそうにサゲンが厳しい上官の目つきをすると、アルテミシアは腹をひくひくさせて笑い出した。
「ばれてた?負けちゃったから黙っていようと思ったんだけど」
「仕方のないやつだ」
サゲンはヤレヤレと溜め息を吐き、水の入ったグラスを持ってベッドに腰掛け、アルテミシアの顔を上から覗き込んだ。
「サゲンもみんなと楽しそうにしてたじゃない。ヴィンスとも、いつの間に仲良くなったの?」
「仲良くなってはいない。シャロンから君の話を聞いていたら、横から入ってきたんだ」
「わたしの話?」
サゲンが揶揄うように唇を吊り上げた。
「聞いたぞ。彼女に毎日泣き言を漏らしていたと」
「シャロンのやつ」
アルテミシアは頬を膨らませた。
「君に求婚して振られたヴィンチェンゾ・ジンガレリと三人でよく出かけていたことも」
今度はちょっと険のある調子で言った。アルテミシアはサゲンの目を見上げた。
「ヴィンスはもうわたしのことはそんなふうに思ってないよ。最近は…」
ふふ、とアルテミシアが笑った。シャロンの長年の恋が成就する日も近そうだと思ったからだ。
「あいつとも楽しい思い出ができたようで、結構なことだ」
サゲンはちょっと不愉快そうに眉を寄せて口に水を含み、アルテミシアに覆い被さって重ねた唇から水を流し込んだ。アルテミシアが控えめに喉を鳴らして嚥下した後、唇からこぼれた水を指で拭ってやると、アルテミシアが恥ずかしそうに目を伏せ、ハシバミ色の瞳を暗く翳らせた。――灯った欲望の炎を隠すように。
「ヴィンスの弟のダンともね。…もしかして嫉妬してる?」
「ああ、そうだ」
アルテミシアはカッと顔を赤らめた。嬉しいなどと思っていることが知れたら、サゲンは気分を害するだろうか。
「ついでに言うと君があいつを親しげにヴィンスと呼ぶのも気に入らない」
「だって長いんだもん。大体、そんなこと言ったら」
と、アルテミシアが唇を尖らせた。
「わたしはあなたのことをエメレンスって呼ぶ元婚約者がいるのも気に入らないけど?」
サゲンは今まで細めていた目を丸くした。
「気にしていたのか」
アルテミシアは挑戦的に片眉を上げて唇を結んだ。
「小さい子供の頃からの友人はみな俺をエメレンスと呼ぶ」
「どうしてサゲンじゃないの?」
サゲンの顎関節が頬の下で動いた。
「なに?」
ついさっきまで不愉快そうに細まっていた目が、今は純粋な興味で満ちている。サゲンはちょっときまり悪そうに口を開いた。
「…幼いときは舌足らずで、自分の名前がうまく言えなかったんだ。小さすぎて記憶はないが、母が言うには友達に揶揄われたのにひどく腹を立ててから二つ目の名だけ名乗っていたらしい」
アルテミシアは目をぱちくりさせた。
「‘しゃげん’って言ってたの?」
サゲンは仏頂面で小さく頷いた。アルテミシアは弾けるように笑い出した。
「かわいい!」
ひとしきり腹を捩って笑い転げたあと、アルテミシアは目を細めてこちらを眺めているサゲンの栗色の髪に手を伸ばした。
「君のそんな笑顔が見られるなら恥を忍んだ甲斐があった」
「もっと教えて。子供の時のこと」
「さあ――」
サゲンは髪を撫でるアルテミシアの手を握ると、自分の口元へ持ってきて柔らかい手のひらに口付けした。
「どうしようかな。そんな余裕があればいいが…」
「あ」
唇が手のひらから手首へ、手首から腕へと這ってくる。アルテミシアの肌を小さな快楽の炎が走り始めた。
「そういうのは、ずるい」
「君こそ、俺がずっと美しく着飾った君に触れたかったのを知りながら、家族と他の招待客にベッタリだったじゃないか。まるで生殺しだ」
「こっ、子供みたいなこと言わないでよ…」
びく、とアルテミシアの身体が跳ねた。いつの間にかサゲンの手が腰に伸びている。
「せっかくのドレスが皺だらけになっては忍びない。早いところ脱いだ方がいいな」
「笑った仕返し?」
「まさか」
サゲンが唇に淫靡な弧を描かせ、アルテミシアの耳朶に齧り付いた。アルテミシアが反応して身体を浮かせた隙間からサゲンの手が入り込んで、背中のボタンを外し始めた。
「介添役の大任を立派に果たした婚約者に奉仕をしようとしているんだ」
「もう…」
アルテミシアは折り重なってきたサゲンの背に腕を回すと、その肌の匂いを吸い込んで首筋に唇を付け、シャツを引っ張り上げてボタンを外し、逞しい身体を暴いた。
「君も欲しかったか」
サゲンの声が掠れている。暴かれた素肌に触れる指がアルテミシアの感覚をますます鋭くさせた。
「うん、ずっと…」
燭台の灯りを映したハシバミ色の瞳が燃えるように揺れた。サゲンは堪り兼ねたように唇を重ねて露わになった乳房に触れ、火を吐くような熱い吐息を飲み込んだ。
「満たしてやる」
サゲンが熱に浮かされたように言った。
身体の奥までサゲンの熱で満たされた時には、アルテミシアの思考はとうに白い霧の中に溶けていた。
朝、アルテミシアが目覚めて最初に見つけたものは、涼やかな目元に睫毛の影を落として穏やかに眠るサゲンの端正な顔と、手のひらに触れるサゲンの精悍な胸板、それから自分の左手の薬指に嵌められている金の環だった。アルテミシアは目蓋を半ば開けた状態でぼんやりとその指輪に見入った。全体が細密な透かし彫りでできていて、波模様になっている。小さいながらも見事な円形のオパールが中央に置かれ、カーテンの隙間から射す朝陽にキラキラと美しい光が反射して、見れば見るほど目の覚めるような素晴らしい作品だ。
アルテミシアが裸のまま跳ね起きて隣のサゲンを見た。サゲンは相変わらず目を閉じたまま枕に頬を預け、寝息を立てている。驚きと寝起きのせいで声が出せず、しばらく無言のまま剥き出しの硬い肩をぽんぽんと叩いた。
「ねえ、これ」
何度か肩を叩いた後で、やっと声が出た。サゲンは唸りながらゆっくりと目を開き、ぼんやりとアルテミシアの肢体を眺めていつもより気の抜けた笑顔を見せた。
「ああ、いい眺めだ」
アルテミシアはサゲンの視線の先に無防備な白い乳房があることに気付いてワタワタと毛布で隠し、真っ赤な顔で左手を差し出して、「これ」ともう一度言った。サゲンは穏やかに笑っている。
「結婚の申し込みをしたのに指輪がないと格好が付かないだろう」
「そうじゃなくて、いつの間に…」
言い終わる前にアルテミシアの顔が綻んでいた。アルテミシアはくたびれたくしゃくしゃの髪のまま肘をついて寝そべるサゲンに抱き付くと、顔中にキスをした。
「すっごく素敵!ありがとう!でも起きてる時に付けてくれたらよかったんじゃない?」
「それは結婚指輪に取っておいてくれ」
サゲンは笑った。これが見たかったのだ。驚きから喜びに変わる、アルテミシアの表情の変化が。サゲンはアルテミシアの腰を引き寄せて膝に抱き寄せると、胸を隠している毛布を剥ぎ取り、腰から上へ手を這わせて柔らかい肌と胸の感触を愉しみながら甘い吐息を漏らし始めたアルテミシアの唇を塞いだ。指の下で乳房の先端が硬くなり、アルテミシアの指がサゲンの髪の中に入ってくる。
唇を離したサゲンは、アルテミシアの蜜色と茶色と緑が入り交じったハシバミ色の瞳を覗き込んだ。
「ずっと考えていたんだ。君の右手に真珠の指輪を嵌めたときから、左側にはどんなものがよいかと」
アルテミシアはその時のことを覚えている。パタロアのベルージ邸からオアリスへ帰る途上のことだった。あの時、アルテミシアが母親から受け継いだ真珠の指輪をサゲンが最初に嵌めようとしたのは左手だったが、すぐに右手に替えた。あの時考えもしなかったその真意が、今なら分かる。
アルテミシアの左手の薬指に初めて嵌める指輪は、サゲンが自ら用意したかったのだ。
「…もしかして、ずっと前から?」
サゲンは答えずに唇を緩く吊り上げてアルテミシアにもう一度キスをした。頬が濡れている。
「出来上がったのは君がオアリスを離れている間だったが――」
サゲンはアルテミシアの頬に落ちた涙を指で拭ってやった。
「そうだな。少し時間は掛かったが、こうなることは決まっていた」
多分、最初から。この指輪のように波が金色に輝く海の上でアルテミシアがサゲンの前に現れた日からだ。
「五日後、ティグラ港に向かう船が出る。君をオアリスへ連れ帰っていいか」
サゲンは指輪の上からアルテミシアの指を撫で、髪の匂いを嗅ぎながら囁いた。
「いいよ」
アルテミシアは迷わず答えた。
「きっとエラが怒ってるから、早く帰って許してもらわなくちゃ。イサ・アンナ様にも…」
「エラとロハクはともかく、陛下は気にされていないさ」
「ああ~、そうだった。ミシナさん…」
いちばん口うるさい人物のことを失念していた。アルテミシアがうんざりしたように言うと、アルテミシアの首筋に顔を埋めたままサゲンがくっくと腹を上下させた。
「大丈夫だ。小言を食らわされるのは君だけじゃない」
「一緒に絞られるわけね」
アルテミシアも笑い声をあげた。
「帰ろう。あなたの家に。ご機嫌取りのお土産もいっぱい買って」
「俺たちの家だ。もう君は正式にあの家の女主人なんだから」
アルテミシアは官能的な熱を帯び始めたサゲンの身体を抱きしめ、優しい笑みを浮かべた唇にもう何度目か知れない口付けをした。サゲンはちょっと身体を引いてアルテミシアの腰を支えると、奥歯を噛んだ。
「…それ以上すると止まらなくなる」
「知ってる」
アルテミシアは熱い体温を素肌で感じながらくすくす笑い、サゲンが身体を倒すのに任せてその精悍な胸の上に折り重なった。
それからの日々はあっという間に過ぎていった。
婚礼の二日後にはバロー一家が帰国の途に就いた。港に立ったサーシャが結局シャロンとどうにもならなかったことに肩を落としていたのは想定内だが、意外にもマルグレーテがカミーユとの別れに落涙した。クロードがサゲンに言った通り、二人はすっかり親友になっていのだ。特に娘の身の安全と元夫への復讐のために身を潜めるように生きてきたマルグレーテにはこれまでカミーユのような同年代の友人と呼べる存在がなかったから、尚更寂しいのだろうとアルテミシアは思った。そう言う気持ちは誰よりも理解できる。自分も同じだったからだ。
「離れてもわたしたちは姉妹よ、グレタ。また会いに来るわ」
カミーユがマルグレーテの肩に手を置いた。
「ええ。次はわたしが行くわ、きっとすぐに。グリュ・ブランのお義父さまやお義母さまにもご挨拶に行かなくちゃいけないもの」
マルグレーテが茶色の瞳を涙で光らせながら言うと、カミーユも淡いブルーのハンカチを涙で濡らした。その後ろでクロードと二人の子供たちが何とも言えない表情で顔を見合わせたのは、カミーユが涙を見せるのがそれほどに珍しいからだろう。
それに比べれば、ジュードとクロードの別れはあっさりしたものだった。
「じゃあな、兄弟」
とがっしり抱き合い、互いに笑い合うだけだ。それだけの挨拶なのに、アルテミシアには二人がもっと多くのことを語り合っているように見えた。その後クロードはアルテミシアとサゲンに向かって人差し指を立て、
「無茶しないように、互いを見張るんだ。いいね?」
と医師らしく訓戒を述べた。サゲンとアルテミシアは互いにチラリと顔を見合わせ、クロードに向かって苦笑しながら首を縦に振った。
そこへ、一足遅れてシャロンとヴィンチェンゾが馬に相乗りして港に駆けつけた。憧れの女性にもう会えないと思っていたサーシャはぱあっと顔を輝かせたが、その時アルテミシアはヴィンチェンゾがちょっとおもしろくなさそうに唇を結んだのを見逃さなかった。
「何をニヤついてる」
サゲンが不思議そうにアルテミシアを見たが、アルテミシアは「べつに」としらばっくれた。
シャロンは馬の尻にくくりつけてあった子供が一人すっぽりと入りそうなほどの大きさの麻袋をヴィンチェンゾに下ろさせ、両手に抱えてサーシャに渡した。サーシャがずっしりとした麻袋の口を開けてみると、まだ土のついたニンジンとじゃがいもと玉ねぎがたんまり詰まっている。
「これ、みんなで食べて。あたしが庭で育てたの」
感激屋のサーシャは袋を弟に押し付けるなり、ヘーゼルの瞳をうるうるさせながらシャロンに抱きついた。
「大事にするよ!」
シャロンはちょっとびっくりした様子で固まっていたが、すぐにくすくす笑い出してサーシャの背をぽんぽんと叩いてやった。
「大事に取っておかないで、ちゃんと食べてよね。おいしく育てたんだから」
「そうだ。ぜぇんぶなくなるまできれいに食べるんだぜ」
ヴィンチェンゾがサーシャをシャロンから引き剥がしながら言った。アルテミシアにはその言葉に含みがあるように思えたが、サーシャはそうではなかったらしい。ヴィンチェンゾにも熱烈に抱きついて礼を言った。
アルテミシアは彼らの様子を見て笑うバロー一家に近付き、ニヤリとして声を潜めた。
「わたしはサーシャがあのニンジンのヘタから葉っぱを大事に育てるのに銀貨一枚賭ける」
「じゃあ僕は玉ねぎの芽」
イヴが乗った。マルグレーテとカミーユは呆れたように目を大きくしたが、双子の父たちは笑って
「じゃ、僕らは‘庭に畑を作る’に銀三枚」
と同時に言った。
「次に会う時が楽しみだね」
アルテミシアは声を上げて笑った。
一家が船に乗り込んだ時、最後まで港に残っていたイヴがゴソゴソとトランクから紐で結ばれた革表紙のスケッチブックを引っ張り出し、アルテミシアに手渡した。
「僕らのうちには、こういうのがいっぱいあるんだ。だから、ジュードおじさんとグレタのとこと、ミーシャとバルカさんのとこにも、あったらいいかなって。…あっ、まだ開けないでよね。開けるのは僕が船に乗ったらだよ」
イヴは表紙を開こうとしたアルテミシアに向かって父親そっくりの仕草で人差し指を立て、ほんのり顔を赤くして、「じゃ」とちょっと素っ気なく手を振り船に乗り込んだ。
見送りに来た全員が船が小さくなるまで笑って手を振った後、アルテミシアの持っているスケッチブックを覗き込んだ。
開くと、柔らかい色彩で描かれたアレブロの町を始めとしたトーレの風景画や海の絵が何枚か続いている。イヴらしい、繊細な筆致だ。細いながらも迷いのない線が紙の上に現実感を生み出し、木々の葉ずれが聞こえそうなほどの立体感と透明感を生み出している。そして数枚目からは、ほとんど全てが家族や友人たちの絵だった。
一人一人の肖像画のようなものではなく、日常の風景に人々が溶け込んでいる。両手にミトンをつけて焼き立てのパイを運ぶマルグレーテとその横で紅茶を入れるジュード、それに皿を並べるアルテミシアと、部屋の隅で編み物をするロベルタとドナが描かれた絵、夕暮れの迫る青空の下で牧羊犬と羊たちを眺めながらカップとナッツを手に笑い合うアルテミシアとシャロンの絵、観劇に出かけるマルグレーテとカミーユと、互いの妻たちを見送るジュードとクロードの絵、それに、婚礼のときの絵もあった。リンド夫妻から招待客の衣装まで、正確に描かれている。アルテミシアには、どれを見てもいつのことか鮮明に思い出せた。
「イヴがこんなに素晴らしい画家だったとは、知らなかった」
「緻密な描写が巧いんだ。地元の工房でも、いちばんの有望株だよ」
サゲンが感心すると、ジュードは誇らしげに笑って見せた。
「宝物にする。父さまと母さまが描いてあるやつ、わたしが持っていってもいい?」
アルテミシアが目を潤ませながらマルグレーテに言った。マルグレーテはにっこり笑って頷き、「じゃあわたしたちはお前の…」
と一枚めくった時、ハタと手を止めた。
「アラ」
「あ!」
アルテミシアが慌ててスケッチブックを閉じようとした時には、既にヴィンチェンゾの手にあった。
ひゅー、とヴィンチェンゾがにやにやしながら口笛を吹き、絵をサゲンに手渡した。
「あいつ」
サゲンが苦笑した。開いたページには木陰で口付けを交わす男女が描かれていた。葡萄色の衣装を着た男は片手に飲みかけのワイングラスを持ち、もう片方の手で女の腰を抱き、女は裾に青とオレンジの刺繍が施された白いドレスを纏っている。
誰がどう見ても婚礼の日のサゲンとアルテミシアだ。
「いいじゃない。あんたたちの家に飾りなさいよ」
「飾らないよ!」
シャロンの揶揄にアルテミシアはいきり立った。
「いや、いいんじゃないか。俺は気に入った」
「サゲンまで!」
アルテミシアは顔を赤くしてサゲンからスケッチブックを取り上げた。
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