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七十六、女神の祝福 - beneficum -
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柔らかな春の陽射しが辺りをキラキラと照らし、崖に打ち付ける波の音が潮の香りと連れだって空気中に響く中、婚礼が始まった。
ロベルタとドナやバロー一家の他、色とりどりの衣装を身に纏ったアレブロの町の人々が五十人ほど集まって参列席を埋め、新たに正式なトーレ地方アレブロ市民となるリンド夫妻を待っている。普段礼拝堂の中に安置されている女神オスイアの像は、この日は祭壇とともに外に出されて開け放たれた礼拝堂の扉の前に祀られ、柔らかい陽光を受けて微笑みをたたえている。
やがてマルグレーテとジュードが神殿に現れた。二人ともオスタ教で神聖な色とされている深いエメラルドグリーンの衣装を着ていて、マルグレーテの茶色い髪は銀糸で波模様の刺繍が施されたベールが覆われている。夫婦となる二人が婚儀のための白い法衣を纏った司祭の待つ祭壇へゆっくりと歩み寄り、介添人を務めるアルテミシアとサーシャは絹仕立てのリングピローを持って一メートルほど後方を付き従う。ドレスも動き方も、前日の予行演習と全く同じだ。唯一違うのは、アルテミシアの結い髪が下ろされていることだった。
昨日はドナによってキッチリ隙なく結われて後頭部にまとめられていたが、今日は両脇に細い三つ編みを作ってふんわりと後ろで束ね、残りの髪は下ろして首を隠している。サゲンの狼藉の痕跡を隠すためだ。髪を結おうとしたドナがこれを見つけ、ワナワナと口元を震わせて信じがたい悪態を小さく吐いたのをアルテミシアは確かに聞いた。が、恥ずかしかったので鏡越しにもドナの顔を見ることができず、髪を結い直すドナの皺の多い手ばかりを見つめていた。
「…はあ、なんか変な感じ。母さまと父さまの婚礼って」
アルテミシアがぽそりと呟くと、「シッ」とサーシャが窘めた。
「あの司祭助手に怒られるぞ」
祭壇の脇では、昨日の司祭助手が肘の曲げ方や足を開く角度まで隙なく正確に佇んでいる。が、アルテミシアは気にせず続けた。
「大丈夫、大丈夫。肘の角度覚えてる?」
「僕はそれよりお祈りが心配だよ。練習できなかったし」
「あー、ゴメン」
そのことについてはアルテミシアに責任がある。サーシャの練習に付き合うはずだった時間は、すべてサゲンに捧げてしまったのだ。正直なところ、サゲンとベッドにもつれ込んだ後は練習のことなど思い出しもしなかった。それだけに、罪悪感がある。
「本当、ごめん。サーシャ」
「いいって。仕方ないさ」
ちょうど二列目を通り過ぎようとしたとき、息子夫婦や孫たちと一緒に座っているドナが二人の介添人に向かって厳しい視線を投げつけた。二人の間でしか聞こえないほどの小声なのに、ドナには通用しないようだ。アルテミシアとサーシャは顔を見合わせて背筋を伸ばした。
「司祭助手よりドナの方が手強いや」
サーシャがほとんど口を動かさずに言った。アルテミシアは神妙な顔を取り繕いながら、唇がむずむずと動くのを止められなかった。更にその前列に差し掛かると、親族の座る最前列に列席を許されたサゲンがアルテミシアに向かって目を細めた。ロベルタがジンガレリ氏のお古の礼服を仕立て直した葡萄色のジャケットは、サゲンによく似合っている。いつもは厳格な印象の黒や青が多いが、赤みの強い華やかな色合いは端正な顔立ちがよく映えて男ぶりが上がる。
(格好いい)
アルテミシアは前方の両親ではなく参列席の恋人に見蕩れていたために、サーシャと同じ位置で立ち止まるのを忘れて一歩前へ出てしまった。
(何してんだよ)
とサーシャがギョロ目で咎めたが、アルテミシアは知らぬふりをしてスッと一歩後ろへ下がった。祭壇の女神像が視界に入った瞬間、たちまち昨日の荒っぽい情事を思い出した。顔色を変える前に女神像から両親の後ろ姿に視線を移したのは良い判断だ。と、ちょっと熱くなった頬を持て余しながらアルテミシアは内心で自讃した。
マルグレーテとジュードが新しく夫婦になるという旨の言葉を古代の言語で女神に奏上して両脇へ退いた後、前日の予行演習通り二人の介添人が祭壇の前へ進んで新しい夫婦の紹介をする。
練習相手を急な客人に奪われたサーシャは夜更けまで一人で猛練習した甲斐あって、一語一句違えることなく女神に伯父を紹介して見せた。内容は、サーシャがジュードと過ごした幼い頃の思い出と、もう一人の父親だと思っていること、そして医師としての功績を称えることも忘れなかった。本人は覚えた内容を口にするだけで精一杯だったから言葉の意味など考える余裕もなかったが、隣で聞いているアルテミシアは違う。前日に司祭助手から教わった言葉の意味を思い出し、目の奥が熱くなった。
「僕が医学の師でありもう一人の父と仰ぐこの男は、意志が強く善良で優れた人物ですが、ずっと求め与えられるべきであったはずのものを持っていませんでした。でも、今は違います。今こそ本物の夫として、そして父親としての幸福を手に入れたのです。女神の導きによって」
なんとか奏上を終えたサーシャはひどい顔で涙を堪える従姉を見てぎょっとしたが、すぐに笑い出さないよう奥歯を噛み、アルテミシアに向かってちょっと肩を竦めた。
アルテミシアは喉を震わせながら息を吸い、祈りの言葉を捧げ始めた。サーシャとジュードのように、幼い頃に共に過ごした思い出などはほとんど無いから、アルテミシアが母親について語れることは多くない。それでも、多くの思いが胸に詰まって言葉が思い通りに出てこなかった。
「わたしの母マルグレーテは、運命と戦い、一方で運命を愛することをやめませんでした」
と言葉にした時、とうとう堪えきれなくなって涙が溢れた。古代の言葉を知る参列者はいないはずなのに、一定数の涙脆い人たちが参列席から鼻を啜る音を響かせた。その中に、シャロンの姿もある。何を言っているか分からなくても、雰囲気と想像で人は感涙に噎ぶことができるらしい。
「む、娘のわたしを深く愛し、例え想いの届かない場所からでも愛し、守ろうとし続けました」
涙の向こうで左側にいる母と目が合ったような気がしたが、ぼやけて何も分からなかった。アルテミシアは二度呼吸をした後、続けた。
「誇り高く、強い人です。女神の祝福を受け、至上の幸福を手にするに値します。…わたしもそうありたい。母のように」
最後の一文は、昨日はなかったものだ。今感じたことを、習ったばかりの古代語で口にした。これに気付いたのは祭壇の後方で進行を見守る司祭助手だけだった。
しかし、マルグレーテには何か通じたらしい。アルテミシアが奏上を終えて手の甲で涙を拭くと、左脇に立つマルグレーテが目の化粧が崩れるのも構わず、涙をこぼしているのが見えた。アルテミシアの拭ったばかりの頬にまた涙が落ちた。
司祭の合図で二人の介添人は後方へ二歩下がり、夫妻が再び祭壇の前へ進み出た。ここで司祭から女神の祝福の証であるワインと祝いの言葉を与えられて儀式は終了するはずだったが、予定とは違うことが起きた。
後ろに控えたアルテミシアを振り返り、ジュードとマルグレーテがにこにこしながら手招きしている。アルテミシアがちょっと困惑して隣のサーシャを見ると、サーシャは笑いながら目で「行けよ」と言った。最前列の親族席に座るサゲンも柔らかい笑みを浮かべている。アルテミシアは腕を伸ばして彼女を待つ両親の方へソロソロと歩み寄った。マルグレーテとジュードがアルテミシアの腕を取り、自分たちの真ん中へ導いた。
「今日の婚礼は、僕とグレタが夫婦になるだけじゃないんだ」
ジュードが真っ青な目をキラキラさせて言った。司祭は皺の多い顔に笑みを広げ、ゆっくりと深く頷いた。
「リンド夫妻とその令嬢に、女神の祝福があらんことを」
司祭がそう言って女神に祈りの言葉を唱え、祭壇に置かれた三つの銀の盃にワインを注ぎ、新たな三人の家族に供した。アルテミシアは左右に立つ両親を交互に見て笑い出した。嬉しくて、ちょっと照れくさい。どうもこれは自分をびっくりさせるために両親が用意した筋書きらしい。その証拠に、夫婦の誓いの杯があらかじめ三つ用意されていたのだ。
三人が盃を恭しく受け取って喫した直後、参列席の後方から割れるような拍手が起き、白い花吹雪が舞った。最初にピィッと口笛を吹いたのは、ジンガレリ氏だった。それを皮切りにシャロンの父であるアレブロの副町長やヴィンチェンゾと弟妹たちやドナの家族たちも喝采を送り、ダンを始めとする町の子供たちは白い花びらを宙に撒き上げて新たな夫婦と娘を祝った。カミーユとイヴも大きく拍手をしていたが、クロードは涙を拭くので一生懸命だった。
ジュードは妻と娘の肩を抱き寄せ、スンスンと赤い鼻を鳴らして言った。
「僕たちは家族だ、アルテミシア。どこにいても、何があっても。これからはずっと」
「いつもここでお前のことを想っているわ。ジュードと一緒に」
マルグレーテが自分よりも高い位置にある娘の頭をそっと撫で、涙を茶色い目に溜めながら微笑んだ。
「うん」
としか、アルテミシアは応えることができなかった。胸がいっぱいで他の言葉が思い浮かばない。
「うん…」
もう一度言った。今度はうまく声が出なかった。
「わかっているよ」
ジュードがアルテミシアの頬を指で拭った。再び涙が溢れていたことに、この時初めて気が付いた。
アルテミシアは両親に飛び上がるようにして抱き付いた。
「わたしも二人のことをいつも想ってるよ。最高の家族だもの」
アルテミシアは父親と母親に向かって、顔中で笑った。
神殿での婚礼が終わった後は、リンド家での大宴会が始まった。トーレの民は揃って祭好きだが、中でもアレブロ市民は特にその性質が強い。町内で婚礼があれば、町中の人々がその家を祝福に訪れるのが通例になっている。新たなアレブロ市民となったリンド夫妻の婚礼も例に漏れなかった。
たくさんの花で飾られたリンド家の広い庭に、近所の家からテーブルをいくつも借りてきて席を設け、楽器の得意な人たちがヴァイオリンや笛を持ってきて演奏を始めた。これらを取り仕切ったのは、ドナと息子夫妻だった。ドナの一家を始め、近隣の人々が持ち寄った様々な料理が祝宴のテーブルに添えられ、リンド夫妻が数日前に港で買い込んだワインの大樽がいくつも並べられた。
「本当に町ぐるみだな」
サゲンがアルテミシアに真っ赤なワインの入ったグラスを手渡して言った。
「大変そう」
と、木陰に佇むアルテミシアが苦笑しながら見ているのは、大勢の客に挨拶をして回る両親の姿だ。今は家の中にいる祝い客に挨拶を済ませ、庭へ出てきたところだった。ジュードはトーレへ来て日が浅いから、初対面の者も多かった。が、これに一役も二役も買っているのがヴィンチェンゾの父親だ。顔が広い上にこういう集まりの場では中心的な存在だから、この人物の紹介のおかげで地元民はジュードとマルグレーテをすんなり受け入れたとも言える。今日もジンガレリ氏お得意の大仰な芝居口調に笑い出しそうになったが、ジンガレリ一家の存在が両親の近くにあるのは心強く、ありがたいことだ。
「俺たちもすぐにあれをやることになるぞ」
サゲンが形の良い唇にゆっくりと弧を描かせ、アルテミシアの髪にそっとキスをした。アルテミシアは頬を染めて笑った。
「イサ・アンナさまが張り切ってド派手にしちゃうかもよ」
「それもいい」
サゲンはアルテミシアが口に運ぼうとしたグラスを横から取り上げると、木漏れ日を遮ってアルテミシアの頭上に影を落とし、腰を抱き寄せて唇を塞いだ。
「国中に君が俺のものだと誇示できる」
アルテミシアは熱に潤んだ瞳でサゲンの青灰色の瞳を見上げた。
「じゃあ、その逆もできるよね」
「逆?」
「サゲンが、わたしのだって」
アルテミシアがサゲンを見上げ、葡萄色の上衣の胸に誘うように手のひらを滑らせると、サゲンは先程よりも性急な動作でアルテミシアに口付けた。
――その時。
「あっ、またいちゃついてる!」
と二人に水を差したのはイヴだ。その隣で顔を赤くしたサーシャが居心地悪そうに佇んでいる。
「お前、やめろよ…」
と弟を窘めながら、サーシャは従姉とその婚約者を直視しようとしない。一方でイヴは二人の方へズカズカ近付いて呆れたように腕を組んだ。
「僕らの従姉を独り占めしないでよね。ミーシャも今日の主役の一人なんだから」
「いいだろう」
と、サゲンはアルテミシアにグラスを返し、すんなり離れた。
「ここにいる間はリンド家の娘だ。仕方ない」
アルテミシアはサゲンに向かって可笑しそうに笑いかけ、イヴと一緒に祝い客の間を通り抜けて両親の方へ向かって行った。同じくらいの背丈で同じ髪の色をした二人が並ぶと、本当に姉弟のように見える。イヴがアルテミシアのドレスと同じ白い生地に青の刺繍の入ったジャケットを着ているから、尚更だ。後に残ったサーシャはちょっと胡乱げにサゲンを一瞥した。
「バルカさん、ちょっと独占欲が強すぎるんじゃないですか?」
サーシャはたった今サゲンが言外に「ここを離れれば俺だけのものだ」と言ったことに気付いているのだ。サゲンは自嘲するように唇を吊り上げた。
「早合点で君を投げ飛ばしたことは本当に悪かったと思っているが、俺はもう我慢を諦めた」
「うわぁ、あなたも惚気?」
と、呆れた様子を隠しもせずにシャロンが横から口を挟んだ。サーシャはシャロンの姿を見るとピシッと背筋を伸ばして咳払いをし、眉をキリッと上げていつもよりちょっと低い声で言った。
「そうなんだよ。困っちゃうよね。まったく従姉が心配だよ」
「ふふ」
シャロンがおかしそうに喉を鳴らした。
「あなたがいない間、ミーシャがどんなふうだったか教えてあげましょうか」
サゲンは興を引かれてにやりと笑った。
「是非お願いしたい」
祝宴は陽が落ちても終わらなかった。通常であれば料理と酒がなくなればみな自然と家に帰っていくのだが、今回は事情が違っていた。
料理と酒樽が空になった頃、どこからか荷馬車がやって来て新しい酒樽が五つも持ち込まれたのだ。
誰もこの酒樽を注文した者に心当たりがなかったが、樽に押された焼き印を見たアルテミシアは驚いて声を上げた。
向かい合う獅子と鷲の間に月と星、その下には「C」の文字が刻まれている。――コルネール公爵家の家紋だ。
「アリアネ先生…」
「さすがの情報網だな。粋な計らいだ」
サゲンが笑った。
樽の中はワインではなく、リンゴで造ったシードルだった。以前コルネール公爵夫人が研究者たちとルドヴァン産のシードルを造ったと言っていたのを、サゲンは覚えていた。コルネール邸での夜会の時にアルテミシアも気に入りそうだと言ったのを、公爵夫人は知っているのだろう。
ロベルタとドナやバロー一家の他、色とりどりの衣装を身に纏ったアレブロの町の人々が五十人ほど集まって参列席を埋め、新たに正式なトーレ地方アレブロ市民となるリンド夫妻を待っている。普段礼拝堂の中に安置されている女神オスイアの像は、この日は祭壇とともに外に出されて開け放たれた礼拝堂の扉の前に祀られ、柔らかい陽光を受けて微笑みをたたえている。
やがてマルグレーテとジュードが神殿に現れた。二人ともオスタ教で神聖な色とされている深いエメラルドグリーンの衣装を着ていて、マルグレーテの茶色い髪は銀糸で波模様の刺繍が施されたベールが覆われている。夫婦となる二人が婚儀のための白い法衣を纏った司祭の待つ祭壇へゆっくりと歩み寄り、介添人を務めるアルテミシアとサーシャは絹仕立てのリングピローを持って一メートルほど後方を付き従う。ドレスも動き方も、前日の予行演習と全く同じだ。唯一違うのは、アルテミシアの結い髪が下ろされていることだった。
昨日はドナによってキッチリ隙なく結われて後頭部にまとめられていたが、今日は両脇に細い三つ編みを作ってふんわりと後ろで束ね、残りの髪は下ろして首を隠している。サゲンの狼藉の痕跡を隠すためだ。髪を結おうとしたドナがこれを見つけ、ワナワナと口元を震わせて信じがたい悪態を小さく吐いたのをアルテミシアは確かに聞いた。が、恥ずかしかったので鏡越しにもドナの顔を見ることができず、髪を結い直すドナの皺の多い手ばかりを見つめていた。
「…はあ、なんか変な感じ。母さまと父さまの婚礼って」
アルテミシアがぽそりと呟くと、「シッ」とサーシャが窘めた。
「あの司祭助手に怒られるぞ」
祭壇の脇では、昨日の司祭助手が肘の曲げ方や足を開く角度まで隙なく正確に佇んでいる。が、アルテミシアは気にせず続けた。
「大丈夫、大丈夫。肘の角度覚えてる?」
「僕はそれよりお祈りが心配だよ。練習できなかったし」
「あー、ゴメン」
そのことについてはアルテミシアに責任がある。サーシャの練習に付き合うはずだった時間は、すべてサゲンに捧げてしまったのだ。正直なところ、サゲンとベッドにもつれ込んだ後は練習のことなど思い出しもしなかった。それだけに、罪悪感がある。
「本当、ごめん。サーシャ」
「いいって。仕方ないさ」
ちょうど二列目を通り過ぎようとしたとき、息子夫婦や孫たちと一緒に座っているドナが二人の介添人に向かって厳しい視線を投げつけた。二人の間でしか聞こえないほどの小声なのに、ドナには通用しないようだ。アルテミシアとサーシャは顔を見合わせて背筋を伸ばした。
「司祭助手よりドナの方が手強いや」
サーシャがほとんど口を動かさずに言った。アルテミシアは神妙な顔を取り繕いながら、唇がむずむずと動くのを止められなかった。更にその前列に差し掛かると、親族の座る最前列に列席を許されたサゲンがアルテミシアに向かって目を細めた。ロベルタがジンガレリ氏のお古の礼服を仕立て直した葡萄色のジャケットは、サゲンによく似合っている。いつもは厳格な印象の黒や青が多いが、赤みの強い華やかな色合いは端正な顔立ちがよく映えて男ぶりが上がる。
(格好いい)
アルテミシアは前方の両親ではなく参列席の恋人に見蕩れていたために、サーシャと同じ位置で立ち止まるのを忘れて一歩前へ出てしまった。
(何してんだよ)
とサーシャがギョロ目で咎めたが、アルテミシアは知らぬふりをしてスッと一歩後ろへ下がった。祭壇の女神像が視界に入った瞬間、たちまち昨日の荒っぽい情事を思い出した。顔色を変える前に女神像から両親の後ろ姿に視線を移したのは良い判断だ。と、ちょっと熱くなった頬を持て余しながらアルテミシアは内心で自讃した。
マルグレーテとジュードが新しく夫婦になるという旨の言葉を古代の言語で女神に奏上して両脇へ退いた後、前日の予行演習通り二人の介添人が祭壇の前へ進んで新しい夫婦の紹介をする。
練習相手を急な客人に奪われたサーシャは夜更けまで一人で猛練習した甲斐あって、一語一句違えることなく女神に伯父を紹介して見せた。内容は、サーシャがジュードと過ごした幼い頃の思い出と、もう一人の父親だと思っていること、そして医師としての功績を称えることも忘れなかった。本人は覚えた内容を口にするだけで精一杯だったから言葉の意味など考える余裕もなかったが、隣で聞いているアルテミシアは違う。前日に司祭助手から教わった言葉の意味を思い出し、目の奥が熱くなった。
「僕が医学の師でありもう一人の父と仰ぐこの男は、意志が強く善良で優れた人物ですが、ずっと求め与えられるべきであったはずのものを持っていませんでした。でも、今は違います。今こそ本物の夫として、そして父親としての幸福を手に入れたのです。女神の導きによって」
なんとか奏上を終えたサーシャはひどい顔で涙を堪える従姉を見てぎょっとしたが、すぐに笑い出さないよう奥歯を噛み、アルテミシアに向かってちょっと肩を竦めた。
アルテミシアは喉を震わせながら息を吸い、祈りの言葉を捧げ始めた。サーシャとジュードのように、幼い頃に共に過ごした思い出などはほとんど無いから、アルテミシアが母親について語れることは多くない。それでも、多くの思いが胸に詰まって言葉が思い通りに出てこなかった。
「わたしの母マルグレーテは、運命と戦い、一方で運命を愛することをやめませんでした」
と言葉にした時、とうとう堪えきれなくなって涙が溢れた。古代の言葉を知る参列者はいないはずなのに、一定数の涙脆い人たちが参列席から鼻を啜る音を響かせた。その中に、シャロンの姿もある。何を言っているか分からなくても、雰囲気と想像で人は感涙に噎ぶことができるらしい。
「む、娘のわたしを深く愛し、例え想いの届かない場所からでも愛し、守ろうとし続けました」
涙の向こうで左側にいる母と目が合ったような気がしたが、ぼやけて何も分からなかった。アルテミシアは二度呼吸をした後、続けた。
「誇り高く、強い人です。女神の祝福を受け、至上の幸福を手にするに値します。…わたしもそうありたい。母のように」
最後の一文は、昨日はなかったものだ。今感じたことを、習ったばかりの古代語で口にした。これに気付いたのは祭壇の後方で進行を見守る司祭助手だけだった。
しかし、マルグレーテには何か通じたらしい。アルテミシアが奏上を終えて手の甲で涙を拭くと、左脇に立つマルグレーテが目の化粧が崩れるのも構わず、涙をこぼしているのが見えた。アルテミシアの拭ったばかりの頬にまた涙が落ちた。
司祭の合図で二人の介添人は後方へ二歩下がり、夫妻が再び祭壇の前へ進み出た。ここで司祭から女神の祝福の証であるワインと祝いの言葉を与えられて儀式は終了するはずだったが、予定とは違うことが起きた。
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「今日の婚礼は、僕とグレタが夫婦になるだけじゃないんだ」
ジュードが真っ青な目をキラキラさせて言った。司祭は皺の多い顔に笑みを広げ、ゆっくりと深く頷いた。
「リンド夫妻とその令嬢に、女神の祝福があらんことを」
司祭がそう言って女神に祈りの言葉を唱え、祭壇に置かれた三つの銀の盃にワインを注ぎ、新たな三人の家族に供した。アルテミシアは左右に立つ両親を交互に見て笑い出した。嬉しくて、ちょっと照れくさい。どうもこれは自分をびっくりさせるために両親が用意した筋書きらしい。その証拠に、夫婦の誓いの杯があらかじめ三つ用意されていたのだ。
三人が盃を恭しく受け取って喫した直後、参列席の後方から割れるような拍手が起き、白い花吹雪が舞った。最初にピィッと口笛を吹いたのは、ジンガレリ氏だった。それを皮切りにシャロンの父であるアレブロの副町長やヴィンチェンゾと弟妹たちやドナの家族たちも喝采を送り、ダンを始めとする町の子供たちは白い花びらを宙に撒き上げて新たな夫婦と娘を祝った。カミーユとイヴも大きく拍手をしていたが、クロードは涙を拭くので一生懸命だった。
ジュードは妻と娘の肩を抱き寄せ、スンスンと赤い鼻を鳴らして言った。
「僕たちは家族だ、アルテミシア。どこにいても、何があっても。これからはずっと」
「いつもここでお前のことを想っているわ。ジュードと一緒に」
マルグレーテが自分よりも高い位置にある娘の頭をそっと撫で、涙を茶色い目に溜めながら微笑んだ。
「うん」
としか、アルテミシアは応えることができなかった。胸がいっぱいで他の言葉が思い浮かばない。
「うん…」
もう一度言った。今度はうまく声が出なかった。
「わかっているよ」
ジュードがアルテミシアの頬を指で拭った。再び涙が溢れていたことに、この時初めて気が付いた。
アルテミシアは両親に飛び上がるようにして抱き付いた。
「わたしも二人のことをいつも想ってるよ。最高の家族だもの」
アルテミシアは父親と母親に向かって、顔中で笑った。
神殿での婚礼が終わった後は、リンド家での大宴会が始まった。トーレの民は揃って祭好きだが、中でもアレブロ市民は特にその性質が強い。町内で婚礼があれば、町中の人々がその家を祝福に訪れるのが通例になっている。新たなアレブロ市民となったリンド夫妻の婚礼も例に漏れなかった。
たくさんの花で飾られたリンド家の広い庭に、近所の家からテーブルをいくつも借りてきて席を設け、楽器の得意な人たちがヴァイオリンや笛を持ってきて演奏を始めた。これらを取り仕切ったのは、ドナと息子夫妻だった。ドナの一家を始め、近隣の人々が持ち寄った様々な料理が祝宴のテーブルに添えられ、リンド夫妻が数日前に港で買い込んだワインの大樽がいくつも並べられた。
「本当に町ぐるみだな」
サゲンがアルテミシアに真っ赤なワインの入ったグラスを手渡して言った。
「大変そう」
と、木陰に佇むアルテミシアが苦笑しながら見ているのは、大勢の客に挨拶をして回る両親の姿だ。今は家の中にいる祝い客に挨拶を済ませ、庭へ出てきたところだった。ジュードはトーレへ来て日が浅いから、初対面の者も多かった。が、これに一役も二役も買っているのがヴィンチェンゾの父親だ。顔が広い上にこういう集まりの場では中心的な存在だから、この人物の紹介のおかげで地元民はジュードとマルグレーテをすんなり受け入れたとも言える。今日もジンガレリ氏お得意の大仰な芝居口調に笑い出しそうになったが、ジンガレリ一家の存在が両親の近くにあるのは心強く、ありがたいことだ。
「俺たちもすぐにあれをやることになるぞ」
サゲンが形の良い唇にゆっくりと弧を描かせ、アルテミシアの髪にそっとキスをした。アルテミシアは頬を染めて笑った。
「イサ・アンナさまが張り切ってド派手にしちゃうかもよ」
「それもいい」
サゲンはアルテミシアが口に運ぼうとしたグラスを横から取り上げると、木漏れ日を遮ってアルテミシアの頭上に影を落とし、腰を抱き寄せて唇を塞いだ。
「国中に君が俺のものだと誇示できる」
アルテミシアは熱に潤んだ瞳でサゲンの青灰色の瞳を見上げた。
「じゃあ、その逆もできるよね」
「逆?」
「サゲンが、わたしのだって」
アルテミシアがサゲンを見上げ、葡萄色の上衣の胸に誘うように手のひらを滑らせると、サゲンは先程よりも性急な動作でアルテミシアに口付けた。
――その時。
「あっ、またいちゃついてる!」
と二人に水を差したのはイヴだ。その隣で顔を赤くしたサーシャが居心地悪そうに佇んでいる。
「お前、やめろよ…」
と弟を窘めながら、サーシャは従姉とその婚約者を直視しようとしない。一方でイヴは二人の方へズカズカ近付いて呆れたように腕を組んだ。
「僕らの従姉を独り占めしないでよね。ミーシャも今日の主役の一人なんだから」
「いいだろう」
と、サゲンはアルテミシアにグラスを返し、すんなり離れた。
「ここにいる間はリンド家の娘だ。仕方ない」
アルテミシアはサゲンに向かって可笑しそうに笑いかけ、イヴと一緒に祝い客の間を通り抜けて両親の方へ向かって行った。同じくらいの背丈で同じ髪の色をした二人が並ぶと、本当に姉弟のように見える。イヴがアルテミシアのドレスと同じ白い生地に青の刺繍の入ったジャケットを着ているから、尚更だ。後に残ったサーシャはちょっと胡乱げにサゲンを一瞥した。
「バルカさん、ちょっと独占欲が強すぎるんじゃないですか?」
サーシャはたった今サゲンが言外に「ここを離れれば俺だけのものだ」と言ったことに気付いているのだ。サゲンは自嘲するように唇を吊り上げた。
「早合点で君を投げ飛ばしたことは本当に悪かったと思っているが、俺はもう我慢を諦めた」
「うわぁ、あなたも惚気?」
と、呆れた様子を隠しもせずにシャロンが横から口を挟んだ。サーシャはシャロンの姿を見るとピシッと背筋を伸ばして咳払いをし、眉をキリッと上げていつもよりちょっと低い声で言った。
「そうなんだよ。困っちゃうよね。まったく従姉が心配だよ」
「ふふ」
シャロンがおかしそうに喉を鳴らした。
「あなたがいない間、ミーシャがどんなふうだったか教えてあげましょうか」
サゲンは興を引かれてにやりと笑った。
「是非お願いしたい」
祝宴は陽が落ちても終わらなかった。通常であれば料理と酒がなくなればみな自然と家に帰っていくのだが、今回は事情が違っていた。
料理と酒樽が空になった頃、どこからか荷馬車がやって来て新しい酒樽が五つも持ち込まれたのだ。
誰もこの酒樽を注文した者に心当たりがなかったが、樽に押された焼き印を見たアルテミシアは驚いて声を上げた。
向かい合う獅子と鷲の間に月と星、その下には「C」の文字が刻まれている。――コルネール公爵家の家紋だ。
「アリアネ先生…」
「さすがの情報網だな。粋な計らいだ」
サゲンが笑った。
樽の中はワインではなく、リンゴで造ったシードルだった。以前コルネール公爵夫人が研究者たちとルドヴァン産のシードルを造ったと言っていたのを、サゲンは覚えていた。コルネール邸での夜会の時にアルテミシアも気に入りそうだと言ったのを、公爵夫人は知っているのだろう。
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