王城のマリナイア

若島まつ

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六十四、岐路と帰路 - i sentieri sulla neve -

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 この日も雪が降った。ひと月前の大雪には到底及ばないが、底冷えするほど寒く、小さな雪の粒が視界を白く染め、道の脇へ退けた雪の山にも新しく真っ白な層を作っていた。
 サゲンは毛皮の外套の襟を立て、頬まで覆って馬を駆った。
 テンチ子爵邸はオアリス城下の南側にあり、そこから数えて七軒先の大屋敷は法務長官バルカ子爵邸――即ちサゲンの生家だ。正直、実家に近寄りたい気分ではないが、世話になっていたテンチ将軍の奥方の葬儀とあっては数々の宴のように無視できない。何より、母親を気遣っていたロザリアの気持ちを思うと胸が痛んだ。
 忌中を意味する黒地に白で染め抜いた家紋の旗が掛けられた鉄柵の門をくぐり、テンチ家の厩番にティティを預けて雪が積もった瓦屋根の豪邸へ足を踏み入れた。
 雪を落とすために敷かれた大きな織り物の絨毯を踏むと、間を置かずにシャツもジャケットも全て黒の喪服に身を包んだ屋敷の使用人が外套を預かりに来た。サゲンは外套を使用人に渡し、シャツも上着もズボンも、全て黒の喪服姿で奥へ進んだ。海軍司令官の礼装は、胸にいくつも金銀の勲章が付けられている。
 高い吹き抜け天井のエントランスは色とりどりの花で飾られ、弔問客を出迎えるように置かれた飾り棚には、髪飾りやネックレス、お気に入りの扇子や子供たちが生まれた時に夫人が編んだ小さな服や帽子など、故人の思い出の品々が置かれていた。それらをしげしげと眺めている弔問客も多くいて、その中の小柄な老婦人はレースのハンカチで真っ赤にした目元を拭っていた。テンチ夫人と旧知なのだろう。みな無言で、挨拶といえば頭を下げるくらいのものだ。大広間の方から楽団の奏でる寂しげな葬送曲が聞こえて来る。
 多くの花で飾られた大広間には、既に黒の礼服に身を包んだ弔問客が大勢座っていた。一番奥には、観音開きの扉の中にいくつもの蝋燭が灯された高さ二メートルほどの祭壇が設置され、その前方にテンチ夫人の眠る白木の棺が置かれて、蓋が外されていた。その両脇を半円状に囲むように遺族が立って並んでいる。向かって左からロザリアの兄夫婦と子供が一人、その隣にロザリア、その右にテンチ夫人の兄弟らしい老紳士とその家族たちがざっと十人ほどいた。喪主であるロザリアの兄は、もともとはくっきりと大きな目が泣き腫らしたせいで何度も殴られた後のようになり、ひどく憔悴して見えた。隣にいる妻は峻険な山の稜線を細く描いたような眉をきりっと上げ、この場では不躾とも言えるほど真っ直ぐに前を見据えている。間に挟まれた十歳くらいの息子は母親にそっくりな顔で、父親と同じくらい目を腫らしていた。
 一方ロザリアは、落ち着いている。サゲンの姿を見つけると静かに目礼し、他の弔問客にも一人一人同じようにしていた。足の悪い客には、多忙な使用人に任せようとせず、自らその場を離れて端の席を案内し、しばらくすると司祭を迎える為にその場を離れて行った。誰が喪主か分からないほどに、ロザリアはよく働いていた。
 サゲンは自由奔放な位置に座った先客の席をかき分けるように進み、後方の中央あたりに見つけた空席に座った。隣にいたのは、右目に眼帯をした旧友だった。
(失敗した)
 と、サゲンは後悔した。顎までの長さの黒髪に眼帯が隠れていたから、隣に座るまでそこにいるのが友人だと気付かなかったのだ。気付いていたら、ここは選ばなかった。
「よう。酒の誘いを無視したな」
 こうやっていちいち詮索が始まるからだ。
 サゲンは小声で話しかけてきた黒い眼帯の男を横目で一瞥した。
「葬儀の場だぞ」
「相変わらず堅物だな。だから女にも逃げられるんだ」
「つぎ無駄口を叩いたら残った目も潰してやる」
「おお、こわ」
 サゲンの氷のような視線を別段気に留めるでもなく、旧友は含み笑いをしていた。
 テンチ家は多くのイノイル人がそうであるように、海の女神オスイアを主神とするオスタ教徒だ。海の色を表す青緑色の長いローブと聖職者の丸い帽子を身に付けた長い白髭の司祭がロザリアに伴われて大広間へ現れ、恭しく髪の長い女神の像を祭壇の中央に置くと、朗々とした声で経を唱え始めた。内容は、故人の生涯を経典の言葉に直したものと「この死者の魂を女神のご加護により安らかなる冥府の旅へ導いてください」というようなものだ。
 経が終わると司祭が地酒と魚介の供物を祭壇に捧げ、大広間での儀式は終わる。
 オスタ教では死者の魂は海へ還るとされているため、遺体を火葬して骨灰の半分を海へ撒き、残った半分を、国内の聖地で採れる土を焼いた小さな骨壺に入れて一族の墓へ安置するという習わしがある。
 テンチ夫人も例に漏れず、海辺の神殿の近くにある火葬場で焼かれ、遺灰の半分は海へと散り、残りは海の見える墓地へと安置された。
 この一連の儀式にサゲンも立ち会った。バルカ家とテンチ家の縁が三代前のオーレン王の時代から続いているため、最前列で故人を見送る親族のすぐ後ろの列にいる。
 無論、その場には両親もいた。父の愛想の無さは今に始まったことではないが、母は年末の親族の集まりに顔を見せなかったことを怒っているらしい。離れた場所に立つ息子の顔を見ても、声を掛けるどころか目も合わせようとしない。
 これは寧ろサゲンにとっては都合が良かった。病院に閉じ込められていた時のようにあれこれと言われなくて済む。が、この状態が長く続かないことは分かっていた。
 案の定、痺れを切らせた母親がワインを片手に近付いて来たのは、葬儀の後にテンチ子爵邸で開かれた宴でのことだ。弔問客の足労をねぎらうための気兼ねのない立食パーティーで、年寄りのためにいくつかの丸テーブルやソファが用意されている他は、中央の大きなテーブルに用意された何種類もの料理を好きに楽しむことができる。
「お前ときたら」
 と、息子に詰め寄った母のミクラ・カテリナは、平素は穏やかな一重の目をキッと吊り上げていた。こういう時の母の顔は、ちょっといやになるほど自分とよく似ている。サゲンは自然と渋面になった。
 共に酒を飲んでいた眼帯の旧友は横目で不機嫌なサゲンを面白そうにチラリと見てバルカ子爵夫人に挨拶した後、「俺はあっちの旨そうなタルティーネを取ってくる」などと言いながら白々しく離れて行った。
 サゲンが最初の一文字も言い終わらないうちに、母親が憤然と口を開いた。
「忙しかったなどという言い訳は結構です」
「では何も言うことはありません。失礼しても?」
「お待ちなさい、サゲン・エメレンス」
 サゲンは父親がその妻を回収しに来ることを期待してそれとなく辺りを見回したが、望みは薄そうだ。灰色の髪をした父親の後ろ姿が、遥か後方にあった。顔見知りの弔問客と話し込んでいるらしい。
 サゲンは観念して母親に向き合った。不機嫌なサゲン・バルカ将軍の威圧感に怯まないどころかそれ以上の威圧感で応戦しようとしてくる女性は、間違いなくミクラ・カテリナ・バルカ子爵夫人ただ一人だ。
 それもそのはず、身の丈が一・九メートル以上もあるサゲンの母親だけあって、ミクラ・カテリナ自身も女性にしては大柄で肩も広い。迫力は十分だ。
 ミクラ・カテリナは口をへの字にして不機嫌に息子の顔をじっと見たかと思うと、息子よりも薄い灰色の瞳を気遣わしげに細めた。
 子供の頃と同じような調子でいろいろと口煩く言われると思っていたサゲンには、拍子抜けだった。
「ひどい顔。お前、病院にいた時よりも痩せてるんじゃないの。ちゃんと食べてるの?ローザから聞いたわよ、彼女の話…」
 サゲンは宴の前に旧友の誘いを振り払ってさっさと帰らなかったことを後悔した。よりにもよって母親にまでそんな事を言われると思わなかった。アルテミシアとのことがロザリアの耳にまで入っていたとは、我ながら滑稽な事だ。
 近頃はあまり周囲のことに気を配っていなかったから疑いもしなかったが、王宮でもこの調子で腫れ物扱いされているのではないか。と、この時ようやく気付いた。
「彼女が実在したのは分かったけれど、破談になったのなら観念して次のお見合いにいらっしゃいな。北部の、ハノエ地方の名家のお嬢さんで…」
「不要です。話は進めないでください」
 サゲンはにべもないが、母親もそう簡単には引き下がらない。
「じゃあ、ローザはどう?」
 一番強いカードを出したかのようなしたり顔の母親を見て、サゲンは呆れてものも言えなくなった。
「お前が入院している間もずっと世話をしに来てくれていたじゃないの。お前を大切に思っている証拠だわ。名前も知らない、いるんだかいないんだかもよく分からない恋人とやらよりもずっとね」
 サゲンは怒りが表に出ないよう、一度ゆっくりと息を吐いてから口を開いた。
「彼女は幼馴染みとして気遣ってくれただけです。それに、エマンシュナの伯爵夫人ですよ」
「でも未亡人じゃない。お子さんもいないのだし、まだ若いのにこのまま独り身というのもね。先日それとなくお兄様のテンチ子爵にお話ししてみたら、乗り気でいらっしゃってね」
「勝手なことを――」
 サゲンが怒気を発した。
 母親を気遣って出来る限り穏便に済ませようと思ったが、無駄な努力だった。愛に溢れた温かい母であることは間違い無いが、どうもこういう所はいただけない。自分の子供たちにまだ親の世話が必要だと思っている。
「あなたはもう十五の息子の母親ではないんですよ」
 ミクラ・カテリナが初めて眉尻を下げた。
「あなたがしていることは、ロザリアと俺の誇りを傷付ける行為だ。自分の息子が自分のことを何も決められない男だと思っているなら、二度と実家には帰りません。それから――」
 と、サゲンは語気を強めた。
「彼女の名前はアルテミシア・ジュディット・リンドです。彼女以外は考えていません」
「そのくらいにしておきなさい」
 ざらざらと深い声で二人の間に割って入ったのは、父親だった。丈の長い黒のジャケットにサゲンと同じような勲章をいくつも付けているが、胸の紋章は違う。海軍司令官のサゲンが波と鷲の紋章を胸に付けているのに対して、陸海軍の司法部門を総括する法務長官である父エンジ・リアンデル・バルカ子爵の胸には、天秤の中央に鷲が羽を広げて留まっている模様が金糸で刺繍されている。
「ミクラ、トガ伯爵夫人がお前を探していた。挨拶をしたいそうだ。あとモモだか何かのレシピがどうとか言っていたぞ」
「まあ、コケモモのコンポスタだわ。それは早く伺わなければね」
 そう言ってミクラは眉を開き、息子の顔を見た。
 サゲンは眉を寄せた。母親が豊かな頬をつやつやさせてニコニコと機嫌良く笑って見せたからだ。まったく予想に反している。
「お前ったら、オホホ。わかりました。聞きたいことは聞けましたから、母への無礼は、今回は許して差し上げます」
 足を弾ませて意気揚々とその場を後にした母親の背中を見送った後、サゲンはニコリともせずに父親を見た。
「策に嵌まったようです」
「あれは手強い女だ。お前の友人も騙されたらしいな。助けてやれと言われた」
 と、エンジが顎でしゃくった先に、タルティーネを頬張る眼帯の男がいた。こちらに気付いてわざとらしく頭を下げて来る。サゲンは肩の力を抜いた。
「あまり煙たがってやるな。心配しているんだ」
「わかっていますが、度が過ぎます」
「母親の性だな。お前の考えていることが分からないから、ああやって回りくどい手を使う。お前たちにはもう少し親子らしい会話が必要だ」
 サゲンはおかしくなった。家族の中で自分の次に口数の少ない父親が「会話が必要だ」とは。なかなか皮肉が効いている。
「年末の集まりを無視したことは謝ります」
 思い返せば初めてのことだった。これまでは、いくら忙しくても、毎年十二月の親族の集まりだけは出席していた。普段会うことが適わない弟妹やそのその子供たちとも一年で唯一顔を合わせる機会だ。
「ミウミの怒りはミクラの比ではないぞ。三人目の子の顔も見に来ないと言って、ひどく腹を立てていた」
「ああ…」
 と、サゲンは今まで忘れていた大切なことをようやく思い出した。
「そうでした。謝罪の手紙と、何か贈り物を用意します」
「子供たちの分も用意することだ」
 サゲンは父親の助言を素直に聞くことにした。
 遠方に住んでいる妹が三人目の子を産んだのは、つい半年前のことだ。海賊の討伐作戦が始まった時期のことだったから、祝いの手紙と贈り物を送った後は、妹とその子供たちのことは意識の外に放り出してしまったのだ。
(いや、違うな)
 最も大きな原因は、アルテミシアだ。任務よりも、彼女が頭を占めていた割合の方が大きい。
「オアリスに収監している罪人の件だが――」
 と、エンジが声を低くして話を変えた。「海賊」と言わなかったことから、そこに人身売買に関わった権力者たちも含まれていることをサゲンは暗に理解した。
「全員揃って北方の離島に移されることが昨日決まった。一か月後だ」
 イノイル国内で最も過酷な環境の牢獄だ。サゲンは自分よりも厳格な法務長官の顔を見た。軍部と法務部はそれぞれ独立しているから、罪人に対する法的措置が決定した直後に共有されることは稀だ。大抵は法務部内で周知し、移送手段や行程などが全て決まってから軍部へ伝達される。
「まだ機密では?」
「海軍司令官が知る程度なら漏洩にならない。まだ聞きたいことがあるなら尋問を急ぐことだ」
 厳密には、この時点では情報漏洩になるはずだが、エンジ・リアンデル・バルカ法務長官は表情も変えずに白々と言ってのけた。
「感謝します、法務長官」
「まあ、しっかりやることだ。‘アルテミシア・ジュディット・リンド’のこともな」
 滅多に笑わないエンジが深い青の目を細めてニヤリと息子に笑いかけた。
「健闘を祈る、サゲン」
「どうも、父上」
 サゲンもつられて唇を吊り上げた。

 サゲンは大広間から庭へ出た。外は既に陽が落ちている。雪は上がり、空に半月が昇っているが、足首が埋まるほどの高さまで雪が積もり、肌が凍りつくほどに寒い。
 空気中に吐き出された息が白く色付くと共に背後から射す広間の灯りを含んで金色に輝き、やがて冷気の中に消えた。
 寒ければ寒いほどいい。その分、頭が冴える。
「まだ人を殺したい気分?」
 後ろを振り返ると、ガラスの戸口を背にして全身黒のドレス姿のロザリアが湯気の立ったワインのグラスを両手に持って立っていた。
「なんだそれは」
「みんな言ってるわ」
 ロザリアは長いドレスの裾が濡れるのも構わず屋根の外へ出て雪を踏み、サゲンの隣に立って温かいワインのグラスを一つ渡した。サゲンは受け取ったワインを一口で半分ほど飲み、スパイスやハーブを含んだワインが胃を温めるのを感じた。
「ずっと怖い顔をしてるって。彼女…アルテミシアが出て行ってから」
「周知の事実か」
 サゲンは苦々しげに言った。
「そうでもないわ。子供とか、犬や猫は知らないもの」
 呆れたように目を細めたサゲンを見て、ロザリアは少女の頃と同じように屈託ない笑い声を上げた。
「君こそもっと笑った方がいい」
「これからはそうするわ」
 ロザリアはサクサクと雪の上に足跡を付けて歩きながら、湯気の立つワインを両手で支えてふうふうと冷まして飲んだ。
「お母上のこと、残念だったな。お悔やみを言う」
「ありがとう」
「杏子のパイが最高だった」
 ロザリアがふふ、と嬉しそうに目を細めた。
「夫も好きだったわ。母に習って、わたしもよく作っていたの」
「テンチ子爵夫人に」
 サゲンがグラスを掲げると、ロザリアもそれに倣った。
「お料理上手で最高に素敵なお母様に」
 二人でワインを一口飲んだ後、ロザリアがぽつりと口を開いた。
「実はね、もうずっと前から患っていて、一年ほど前からもう長くないと言われていたの。イノイルへ戻ったのも、母を看取るためだったのよ。不幸は重なるって言うけど、本当ね」
 ロザリアはふーと長く白い溜め息をついた。
「そうか」
 サゲンはロザリアの吐息が空気中に霧散していくのを眺めながら、彼女のこの一年を思った。幼い頃は毎日のように一緒にいたというのに、最早彼女のことを何も知らない自分が何だかひどく薄情に思えた。
 しかし、ロザリアは顔を上げてサゲンに微笑んだ。オアリス城の宴で会った時よりも、晴れやかな顔だ。
「でも、悪いことばかりじゃないわ。あなたにまた会えたし、兄にも言いたいことを言えたし」
「言いたいこと?」
「もう援助はしないって、きっぱり言ったわ。昨日。そうしたら兄がわたしに何て言ったと思う?‘何のためにお前をエマンシュナに嫁がせたと思ってる’って言ったのよ。失礼しちゃうわ。だから言ってやったの。’わたしはわたしの意思で嫁いだのだし、わたしの意思で仕送りも止められるわ’って。今までは母のためにしていたけど、もうこれ以上兄夫婦の散財に付き合わされてボーヴィル家の財産を削るようなことはしないわ。うちだって今は当主がいなくて大変なんだから」
 悲しみのうちにいるはずのロザリアの瞳には、陽気でよく笑う少女の輝きが戻っていた。サゲンのよく知るローザの顔だ。
「君は強い女性だ。亡きご主人もご両親も、君を誇りに思っているよ」
「ありがとう、エメレンス。あなたのおかげよ」
 サゲンは顔をしかめた。
「俺は何もしていない」
「いいえ。初恋の男の子が最後にくれたぎこちないキスの思い出をずっと心の拠り所にしていたわたしの目を、前に向けてくれたわ」
 ロザリアはサゲンに向かって控えめに微笑んで見せた。
「あなたは覚えていないでしょうけど…」
「覚えているさ」
「本当?」
「ああ。初めての長期任務の前の日だった。ちょうどこの屋敷の、門の前で」
 あの頃は任務から戻ったら、正式に結婚するつもりでいた。が、既に過去のことだ。
「…母が君の兄上にまた勝手なことを口走ったらしい。迷惑をかけた」
「いいのよ。兄に何か言われても、もう聞くつもりはないのだから。でも、そうね、…もしあの時――ああ、分かっているわよ。過去の例え話は嫌いなのよね」
 ロザリアが無表情のまま何か言いたそうなサゲンを見て付け足した。
「でも、もしもよ。もしもあのまま結婚していたら、わたしたちいい夫婦になれたと思う?」
「…互いに善き友人として、いい関係を築けただろう。夫婦としても」
 サゲンはロザリアの問いに答えてやった。実際に、善良で心優しい彼女とならば穏やかで模範的な家庭を持てただろう。が、この仮説には穴がある。
「アルテミシアが現れても?」
 と、ロザリアがサゲンの考えを見抜いたように訊いた。サゲンは自嘲するように鼻を鳴らした。
 問題はそれだ。例えばサゲンが誰かと結婚していたとしても、アルテミシアに惹かれず、狂おしいほどに愛せずにいられる気がしない。そして立場上彼女に手を出せずにいるジレンマに身を滅ぼすのだ。既婚者のくせに彼女に近付く男を片っ端から抹殺してしまうことも厭わないほどに。彼女を手に入れるためなら、どんな罪も犯してしまえるだろう。
「無理だな」
 サゲンはきっぱりと言った。
 その言い方が可笑しかったらしい。ロザリアはくすくすと笑い出した。
「彼女が大好きなのね」
 サゲンはおもむろにワインを口に含んだ。少々ばつが悪い。
「…正直言って、今回のことで思い知った。俺がどれだけ周囲や自分の感情に鈍感に生きていたか。大切なものをなくさないために自ら手を離した君の気持ちが、ようやく分かった気がするよ」
「進歩ね。お互い」
 ロザリアは苦笑するように眉を下げた後、口元から笑みを消した。
「実は、あなたに話していないことがあるの」
「なんだ」
「アルテミシア、来ていたわ。あなたの病室に」
 初耳だ。サゲンは眉を上げた。
「みんなが集まって、あなたのお母様がオレンジをたくさん持ってきた日、みんなのお茶を用意するためにわたし病室を出たでしょう。その時、あなたの屋敷から使いが来て着替えを受け取ったと言ったけれど、本当はアルテミシアが持って来ていたのよ。声を掛けたのだけど、あなたによろしくとだけ言って入ろうとしないから、わたし――」
 と、ロザリアはサゲンの表情を探るように言葉を切った。サゲンは表情を変えず、首を少し傾けて先を促した。
「ひどいことを言ってしまったわ。相応しくないとか、あなたを大切に想う人たちからは祝福されないとか、いろいろ…。わたしはそんなこと言える立場じゃないのに」
「そうだな」
 サゲンは硬い声で言った。
「悔しかったのよ。あの子はわたしが欲しくても手に入れられなかったものを手に入れたのに、大切にしていないように感じたから。…でも、違うのよね。誰がどうやって大切なものを愛し守っているかなんて、他人の目からは見えないことの方が多いって、分かっていたはずなのに。とても身勝手だったわ。ごめんなさい。彼女にも言えたらよかったわ。今更謝っても、遅いかもしれないけれど…」
「いや…」
 サゲンは首を振った。
「君が謝る必要は無い。どのみち、アルテミシアはここを去っていただろう。ずっと兆候はあったのに、俺が見過ごしていた」
「でも、取り戻すのでしょう?」
「当然だ」
 サゲンは笑った。
「あなたらしいわ、サゲン・エメレンス」
 ロザリアはワインを最後まで飲み干すと、自分の付けた足跡を辿って広間の扉へと戻り始めた。
「わたしも領地へ帰ってするべきことをするわ。ボーヴィルの親戚筋から養子を貰って、当主として養育するの。その子が後を継ぐまでは、わたしが女伯としてボーヴィル家と領地を宰領しなければならないのよ。忙しくなるわ」
「君なら大丈夫さ。幼馴染みの俺が保証する」
 ロザリアはにっこりと微笑んだ。
「あなたの幸せも、幼馴染みのわたしが保証するわ。あなたほど素敵な人は、なかなかいないもの」
 ひと月ほど経って街道の雪が概ね溶けた頃、ロザリア・ボーヴィル伯爵夫人はオアリスを発った。快晴の日のことだった。

 程なくして、サゲンの元へ鳩が舞い戻った。
 密会場所は、城下の大衆酒場だ。周囲の客が大皿に盛られた肉料理や酒を飲み食いして大騒ぎする中、平服のサゲンは隅のテーブルで中産階級の身なりをした男と対面している。相変わらず、実際に会うまで思い出せない類の顔だ。
 男はこれといって特徴の無い顔に人の良さそうな笑みを浮かべて、
「いやあ、陸路を取って正解でした。海は大荒れで、とても船を出せそうにありませんでしたからね」
 などと言いながらエールの入ったグラスをサゲンに向けて掲げた。
「報告の前に――」
 と、エールを飲みながら鳩が言った。愚痴をこぼすような口ぶりだ。
「旦那の言う通り接触しないようにしてましたけどね、町で行商しながら様子を窺ってたら’オアリスから来たの?’って、向こうから話しかけてきましたよ。ちょっとした訛りで分かるんだそうで。気を付けてるんだけどなあ」
 鳩は自尊心を傷付けられたらしい。頭をガシガシと掻いて口を尖らせた。
「一体、あの子は何者なんですか?なんだか隙がなくて、家にも近付けませんでしたよ」
 サゲンは鳩の問いには答えず、
「そうだろうな」
 と、それだけ言った。
「本当に遠くから様子を見るだけでしたけど、こんな依頼でよろしかったんで?」
「いい。報告を」
 鳩は不満そうにグラスを置いた。もっと難しいこともできるのに、とでも言いたそうだったが、素直にサゲンの欲しい情報を話してやった。内容は、どこで誰と暮らしているかや、そこでの交友関係などだ。
 基本的な情報を一通り話し終えると、鳩はちょっと非難がましくサゲンを見た。
「彼女、いい子ですよ。朝は暗いうちから起きて一日中羊たちの世話、近所でオオカミの被害があれば男たちと一緒に森に入っていって女だてらに猟も手伝ってるみたいだし、町の集まりにもよく出掛けていってます。一体彼女が何をして監視対象になってるか知りませんけどね、気立てが良くて働き者だって、地元の評判は上々です。嫁に欲しいって言ってる奴が何人もいるくらいで、実際に結婚を申し込んだ男が既に三人もいますよ。まずはパウロ・ポリニ。二十五歳の鍛冶職人で、彼女の馬に蹄鉄を作って打ってやってました。一目惚れだったみたいですね。次に、ジャンニ・トンマジ。こいつは役人で、年は二十八。彼女が役所に行ったときは必ずこいつが対応してました。それから、ヴィンチェンゾ・ジンガレリ。近所に住んでる二十三歳の猟師です。オオカミ狩りで出会ったみたいですね。この中じゃ、こいつがいちばん脈がありましたよ。毎日家を訪ねて牧場を手伝っていました。家族ぐるみで付き合っているようだったし、新年の宴でも仲良く踊ってまし――」
 鳩はギョッとした。目の前の雇い主が今にも人を殺しそうな目をしていたからだ。額に青筋が浮いて見える。
「続けろ」
 サゲンは硬い声で命じた。
「は、はあ…。まあ、話は落ち着いたみたいですけどね」
「どういう意味だ」
「だから、話が落ち着いたって」
「何の話だ」
 鳩は困惑した。返答によってはこの場で殺されそうな勢いだ。
「え、縁談ですよ、旦那。あたしが発つ前に、結婚式のための神殿を選んでました。海辺のオスイア・エランドラ神殿ってとこで、花婿の親族も彼女の家に集まって準備をしていましたよ。えらく幸せそうで――旦那?」
「もういい。とっておけ」
 サゲンは報酬が丸々と入った革袋を男の方へ押しやり、エールもまだグラスにほとんど残ったまま席を立った。
 脇に雪の残った街道をティティに乗って疾駆しながら、サゲンは怒りに燃えた。
(許すものか。――)
 今まで閉じ込めていた感情が、堰を切って溢れたようだった。

「シオジ!シオジ・ネロ!」
 使用人の寮で三か月前に生まれた末息子の靴下を編んでいたシオジは、地響きを起こすのではないかという主人の声を聞いて部屋を飛び出し、簡素なシャツに羊毛のローブを羽織った姿のまま母屋へ向かった。時間に厳しい主人が既に終業時刻を過ぎている使用人を呼び出すなど、今まで例がない。これは只事ではない、とシオジは肝を冷やした。エラやとケイナを始め、料理番のマキベたちも部屋から顔を覗かせてそれとなく外の様子を窺っている。
「旦那様、一体――」
 シオジが灯りのついたサゲンの自室へ赴くと、サゲンは服や書類の束を乱雑にトランクに詰めて旅支度を始めていた。
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「承知しました」
 シオジの行動は迅速だった。特に理由を聞くことも行き先を尋ねることもしない。それだけこの主人に信頼を置いているからだ。シオジは厩番を呼ぶよりも先に自分でデメトラに鞍を付け、水と飼い葉をやった。
「旦那様を頼みますよ、デメトラ」
 シオジが言うと、デメトラが鼻を鳴らした。事態の異常さを感じ取っているのだろう。サゲンが今まで乗っていたティティではなくデメトラを選んだのには、デメトラの方が長距離の移動に向いているという理由があることを、シオジも暗に理解している。
 十分もしないうちに身支度を終えたサゲンが毛皮の外套を着て現れ、少ない荷物を鞍の後ろに付けてデメトラに跨がり、シオジから松明を受け取って、無言でデメトラの腹を蹴った。
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