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四十九、男の葛藤 - les hommes en conflit -
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軍議はアルテミシアが報告書を作った場所と同じく、エマンシュナ軍の元高官の屋敷で行われた。部屋の中央に南国風の円卓が設えられた三階の客間が用意され、屋敷の主人の指示で部屋の周囲はおろか、屋敷の中から関係者以外の人間がいなくなった。バスケはこの心遣いに、「さすがは戦友」と誇らしげに喜んだ。
ナヴァレからはランスロット・バスケ元帥といつも困ったような眉をしている若い副官、それぞれの船を率いる隊長が三名、イノイル海軍からはサゲン・バルカ将軍を筆頭に、副官ゴラン・イキ、イグリ・ソノ、リコ・オレステ、レイ・シロトら隊長が顔を揃え、最後に後ろ髪に寝癖をつけた通詞アルテミシア・リンドが定刻を十分ほど過ぎてからバタバタと現れた。
「すみません!遅くなりました。あ、報告書――」
と末席についたところで報告書を書斎から持って来ていないことに気付いたが、チラリと前方を見ると、既にサゲンの手にある。
「…は、もうご覧になっているようですね。一冊しかないので、皆さんで回してください」
この時、サゲンが一瞬唖然として手から報告書を取り落としそうになった。
アルテミシアが起こしてくれなかったのを咎めるような恨みがましい視線を投げたからでも、バスケ元帥が二人を意味ありげな目つきで見たからでもない。
イノイルの軍医が骨の検分の報告のために軍議の場に現れ、続いてその手伝いとして入って来た人物が、オアリス郊外の屋敷で主人たちの帰りを待っているはずのエラだったのだ。
彼女がよく着ている淡いグリーンやクリーム色のシンプルなドレスではなく、アルテミシアとは色違いの空色をした軍衣の上にエプロンといった出で立ちだったから、もしやそっくりさんかと思ったが、簪とバレッタを使った髪の結い方もいつもと同じだし、淡いブルーの目も全く同じだ。その上、その淡いブルーの目で謝罪するように二人を交互にチラチラと見たから、本人であることに間違いはない。アルテミシアも口を半開きにしたまま固まってしまった。
エラはその場の一同に向かって控えめに目礼し、サゲンの近くで検分結果を話し始めた軍医の後ろに何枚かの紙を持って立っている。
アルテミシアが意外に思ったのは、イグリの態度があからさまに悪くなったことだった。人前で、しかも女性を相手に不機嫌な表情で首を横に振り、相手と目も合わせようとしないのは、まったくイグリらしくない。
庭から出た骨が骨盤の形状から見て少なく見積もっても三十七人の女性のものだったという検分結果と、軍医がエサドから直に聞いたヒディンゲルのこれまでの症状と今の状態から推測される病気の詳細の報告を受けた。
原因は、老いだと言う。
数十年前から痛風や臓器に関わる持病があったらしいことが認められ、それに老いによる身体の衰えが追い討ちをかけるようにヒディンゲルの病状を著しく悪化させたのであろう、というのが、医師としての結論だった。既に脳の一部といくつかの臓器は機能しておらず、十分な世話をしたとしてもあと一か月生きるか判らない。
意識のある間は複数の臓器の損傷のために至る所で激痛があり、ひどく苦しんだはずだと軍医は言ったが、そんなことはこの老人を追ってきた者たちにとっては何の気休めにもならない。
この回復不能な病状によって送金を装う手段を断たれたために、海賊に直に接触するための手段を講じる必要がある。
「注目すべきは」
と、ゴランが立ち上がった。今、報告書はその手にある。
「金の他に海賊の元へ辿り着くものです」
ゴランは一同をぐるりと見回して最後にサゲンの顔を凝視し、相手の出方を待つように言葉を切った。
サゲンはひどく不機嫌な様子で手を組み、眉間に深々と皺を刻んだ。
「――女か」
この先の展開は、読めている。
「ええ。ミーシャの報告書にあるエサドの証言が有効な策を示しています」
ゴランは報告書の数枚目をめくり、バスケ元帥へと手渡した。
エサドの仕事は、屋敷にやって来た少女たちを地下室へ案内するだけではなかった。少女たちを大きな荷箱に入れて最寄りの貿易港からヒディンゲルの船に乗せ、沖合いのだいたい決まった場所で海賊船と落ち合い、引き渡すというものだ。この際、海賊からは引き渡し料として金が支払われる。
ヒディンゲルは、造船業者への出資として顧客から受け取った金から決して安くはない手数料を引き抜いて活動資金を海賊に送り、更に少女たちを売る事で莫大な利益を得ていたのだ。双方が歯車として機能する、恐るべき共依存だった。
ヒディンゲルがエサドにのみマルス語を習得させた最大の理由は、これだったのだ。様々な場所から連れて来られる少女たちよりも、むしろ雑多な国籍の者が入り混じる海賊と意思を疎通させなければならない。彼らは用心深く、顔を知った者でなければ取り引きしない。ヒディンゲルの船の乗組員でさえ、全員がいつもと同じ顔でなければ接触しない。だから、唯一無二の引き渡し役であるエサドがマルス語を話す必要があったのだ。このことに関しては、サゲンの読んだ通りだった。マルス語を話すエサドが何らかの形で海賊と接触している事は確実だと踏んだ上で、アルテミシアに尋問させた。が、今となっては些細な真実に過ぎない。
この海賊との取り引きに関するエサドの証言が、更に大きな収穫をもたらしたのである。
曰く、彼らが乗っているのはボートとも言うべきかなり規模の小さい帆船で、船員は概ね三人しかおらず、積荷も持たない。機動性を保つためだろう。
用心深い彼らは、必ず一人がヒディンゲルの船に上がって荷箱に不審な点がないか中身を確認してから取り引きを始める。安全だと判断すると、荷箱から少女たちを連れ出して小船に乗せ、エサドに直接金を渡す。そして、一連の作業が終わると物凄い速さでいつも同じ方角に去って行く。
「このことが示すのは、近くに母船、それも恐らくカノーナスの乗る船が存在するということです。ヒディンゲルに売られた少女たちはカノーナスの船へ直接運ばれる」
とゴランが説いた。
「しかし、近くに母船があったとして、それがカノーナスの船とは限らないのでは?」
報告書に目を通すバスケの隣で、若い副官が下がった眉尻をもっと下げて言った。
「カノーナスだ」
そう断言したのは、サゲンだ。
「沖合いに少人数の小船を派遣し取り引きをするのは、下っ端の海賊のやり方じゃない。金の管理も他の船には任せないだろう。奴らに大金を持たせたらどうなるかわかったものではないからな」
カノーナスの元へ導くものは、今の時点では、この小船をおいて他にない。
「じゃ、わたしやります」
と、市場へ買い物に行くような気軽さでアルテミシアが言ったので、サゲンとゴランを除く全員が一瞬何を言っているか分からず、困惑した。
サゲンは言葉にこそしなかったが、内心でひどく怒っているのが顔に表れている。このまま眉間の皺が一生取れなくなるのではないかと心配になるほどだ。
「…どう展開する」
怒りを押し殺すように、サゲンが言った。冷たい色の目が刃の切っ先のようにアルテミシアを突き刺したが、アルテミシアは毅然としてそれを受け止めた。
アルテミシアの発案は、こうだ。
まず、アルテミシアが商品としてエサドと共にヒディンゲルの船に乗り、通常の取り引きと同じように沖合いの引き渡し場所へ向かう。この時、海賊に違和感を持たせないよう、軍の者は誰一人同乗させることはできない。海賊が取り引きせずに去ってしまう可能性があるからだ。
味方の貿易船数隻を港や沖合いの怪しまれない程度に離れた位置に配しておき、アルテミシアが海賊に引き渡された後、機を見計らって海賊を縛り上げ、火薬を打ち上げて合図を出す。味方を乗せた貿易船は合図を頼りにアルテミシアの乗る小船の方へ集まり、合流ののち小船がカノーナスの元へ先導する。
「海賊三人を一人で縛り上げるつもりか」
「うん」
アルテミシアの表情は決然としている。もう肚は決まっているらしい。
サゲンは親指と人差し指で目頭を押さえ、深く息を吐いた。こうなることは、報告書を読んだ時点で予想していた。アルテミシアが報告書を書きながらこの筋書きを考えていたことも、分かっている。自分の感情はどうあれ、この作戦が有効である事は間違いない。しかし――
「…危険すぎる」
約束をしたはずだ。無茶な事はしないと。
(それを、この場で反故にする気か)
サゲンの感情はアルテミシアにも分かっている。本当ならこの場で手を合わせて許しを請いたかった。しかし、これが女王に雇われたアルテミシア・リンドの本分だ。
「君は、兵士ではない」
「わかってる。兵士じゃ商品としてあいつらの船に乗れないこともね」
サゲンの口から怒りの声が飛び出す前に、ゴランが片手を挙げた。
「僕は賛成です。ミーシャと同じように囮を使う手を考えていました。僕の方は小柄な兵に女の振りをさせるというものでしたが、ミーシャがやった方が効果的でしょう」
ゴランはさすがにバルカ将軍の副官だけあって、物怖じしない。サゲンの相手を射殺すような視線にも怯まなかった。
「これは好機です。カノーナスの船に近付ける可能性が非常に高い。我々は最大限の安全策を講じましょう」
「例え相手が三人でも、敵の船に乗ったら最後、俺たちの手は届かない。一体何をどう対策するつもりだ」
「前回の作戦では、大人しく捕縛された者はほとんど傷付けられませんでした。血気盛んな海賊たちを服従させる統率力も然ることながら、これまでの行動を考えるとカノーナスは極めて慎重で合理的な男です。無闇に高値で売れる女性に手を出すようには思えません。最悪な言い方ですが…、ミーシャは明らかに良い値で売れる。僕が売り主なら大切に扱いますね。ですからその分、隙を狙いやすい。――ごめんよ、ミーシャ」
ゴランは複雑そうにアルテミシアの方を見た。
「どうも。むしろ光栄だよ」
アルテミシアはゴランに向かって両方の手のひらを見せた。
「道理だ。カノーナスの船に近付く策が他にない以上、…わたしとしては女性を危険な目に合わせるのは非常に不本意だが、やる価値はある」
バスケが腕組みをしながら渋面で言うと、隣に座る若い副官が頷いて同意した。
イグリは「それでも」と首を振った。
「俺は反対です。三か月後に海賊が銀行へ現れるのを待ったらどうです?その時でも充分追跡できる」
「アガタ、それはだめです。その間に海賊の犠牲になり得る人々の命を守るため、我々は最善を尽くすべきです。その上、海賊がどうやって金を回収に来るか情報がない以上、十分な準備ができません。商品よりも金の受け取りの方に警備のための戦闘要員を割くはずです。その分、失敗のリスクが高い。人身売買の現場を利用するほうが確実です」
「ミーシャの命はどうでもいいって言うんですか!」
「そうではありません。海賊がこちらの動きを知らない以上、我々が有利です。彼女はそれを考慮して志願した。バルカ将軍やアガタの心配はもちろん分かりますが、決して無謀な策ではありませんよ」
「でも途中で不審に思われたら?間違いなく殺される。この作戦には穴がありますよ、ダリオス副官。ミーシャのまとめた報告書では、海賊船に引き渡される少女は最低でも二人以上、概ね十七歳以下だ。ミーシャは一人、おまけにもう二十一」
「まだ、だよ」
アルテミシアは「心外な」とでも言わんばかりに、イグリに向かってぴしゃりと言った。
「話の腰を折るなよ。俺だって君と同い年なんだ。重要なのは、ヒディンゲルから売られたのが少女だってことさ」
イグリは腕を組んで肩を怒らせたアルテミシアに手のひらを見せ、続けた。
「まあ、とにかく、条件が合わない。荷箱を確認した時点で不信感を持てば、奴らはこちらの船に乗った仲間を置き去りにしてでも逃げ帰るに違いない。船の機動性を比較して考える限り、追跡は困難だ。そして二度とヒディンゲルとは取り引きしない。そうなれば、また振り出しに戻る。でしょ?」
「四つ年齢を偽るぐらいなら問題ないよ。大人っぽい十七歳もいるでしょ。六年間ずっと‘少年’で通してきたんだし」
「それとこれとは状況が違う」
サゲンが厳しい語調で言った時、末席のアルテミシアの更に後ろでそろそろと手を挙げた者がいる。その場にいた全員が目を点にした。アルテミシアも自分を通り抜けていく皆の視線を追いかけ、後ろを振り返った。
「あのう…」
軍医の資料持ちとして控えていたエラだった。
まさか骨の検分結果を伝えに来た軍医の手伝いのために立ち入っただけの助手が発言を求めるとは、さすがにサゲンも驚いてエラの恐縮したような顔を見たまま立ち尽くした。ともあれ、この場合最も度肝を抜かれてしまったのは、軍医だろう。哀れにも白い襟を濡らすほどの冷や汗をかきはじめている。
「わたしなら条件が合います。実際、商品として海賊に囚われていた身ですし、何となく勝手は分かります。ミーシャと一緒に海賊の船に乗ります。その方が、自然でしょう?ミーシャが十七歳にしては大人っぽくても、わたしが年相応なら違和感はなくなるわ」
誰もが言葉を失った。
この気詰まりな沈黙を破ったのは、バスケ元帥の引きつった笑い声だった。隣の副官もバスケに調子を合わせて無理矢理笑い声を上げている。
「ハハ、これはなかなか、あー、場を和ませる冗談が上手なお嬢さんだ」
「まさか。彼女、本気ですよ」
と厳しい声色で言ったのは、意外にもイグリだった。アルテミシアはちょっと驚いてイグリの方を見た。いつも陽気で深刻な状況にも笑顔を絶やさない男が周囲に向かってこれほど怒りを露わにするのは珍しい。しかし、奥の席に座るサゲンの顔はもっと怒りに燃えている。ついさっきまでこの身体を抱き締め、優しい微笑で愛を語っていた男と同一人物とは、とても信じられない。鬼を再び目覚めさせてしまったようだ。丁度その真向かいにいるアルテミシアは、やっとのことでその視線を受け止めた。顔を逸らしたかったが、譲れない。真っ直ぐ視線を射返した。
「冗談ではこのようなことは申し上げません。それから、わたしにも海賊に一矢報いる権利があります」
エラはいみじくも老練なバスケ元帥と怒りの形相を崩さないサゲンに向かって言ってのけた。緊張のせいか、声がいつもより低く震えていたが、それがむしろ説得力を持った。
「わたしは家族を病で亡くした後、親しくなった人をみんな海賊に殺されました。わたし自身も――ひどい仕打ちを受けて…、地獄の日々でした。大切なものを差し出して、彼らに従っていくうちに、自分が自分じゃなくなっていくような。でもミーシャは、わたしを救い出してくれた。わたしがわたしでいていいんだって、教えてくれました。だから、従軍したんです。何かやり返してやらないと、腹の虫が治まりません」
アルテミシアは目を丸くしてエラを見た。エラはキラキラと輝く可憐な淡いブルーの瞳の奥に、ずっと海賊への怒りを抱えていたのだ。胸が痛くなり、同時にエラの強さに喉がちくちくするほど心を揺さぶられた。本来なら危険だからと止めるべきなのだろうが、自分の立場も彼女と変わらない。
エラの発言を受けて、真っ先に言葉を発したのはバスケ元帥だった。
「医療班の女性に至るまでこれほどの胆力を持ち合わせているとは、さすがはバルカ将軍麾下のイノイル海軍ですな。まったく、豪胆な女性たちだ!いや、素晴らしい」
と、豪快に笑い声を上げた。
「面白いじゃないか。わたしは乗ろう。が、あくまで指揮権は貴公にある。決めるのは、バルカ将軍、貴公だ」
「バルカ将軍」
アルテミシアがサゲンを見た。
「わたしたちを信じてくれる?」
夜半、サゲンはカラヴェラ船の船長室の椅子に座り、机に広げた海図を睨みながら、ひどく憂鬱な気分で思案していた。
(ほんとうにあれで正しかったのか)
と、考えずにはいられない。何しろ、戦闘要員ではない恋人をその侍女と共に敵陣へ送り込む判断を下したのだ。
こうなることはイノイルを発つ前に予感していた。そして司令官としての立場を棄てられない以上、自分が彼女を敵地に送り出すことになるというのも、分かっていた。アルテミシアが軍議に出ないよう画策したのも、その為だ。いくら彼女が剣術や体術に長けていても、大の男、しかも荒くれ者の海賊三人がかりで襲われたら、間違いなく無事では済まない。味方の船が遠くに待機しなければならない以上、幸いにも事態の急変を素早く察知できたとして、救助は確実に遅れてしまうだろう。三十二年の人生で初めて、冷たく底の無い恐怖がサゲンを襲った。
これまでいくつもの死線を切り抜けてきた。目の前で同僚が敵の船から砲撃を受けて命を失ったことも、自分自身が敵の捕虜となり、一か月後に救助されるまで拷問を受け続けていたことも、あと一ミリで致命傷となったであろう傷を受けて生死の境を彷徨ったこともある。
それでも、これほどの恐怖を感じたことはなかった。
アルテミシアを永遠に失うことになるかもしれないなど、考えるだけで耐えられない。
――バン!と大きな打撃音でサゲンは我に返った。目の前には固く握った拳があり、硬い樫の机に窪みを作っていた。
(俺も焼きが回ったものだ)
サゲンは立ち上がって丈の短い黒の上衣を羽織ると、壁に掛かっているいくつもの刀剣や弓の中から長剣を選んで取り上げ、船を降りた。狭い船中では使い勝手が悪いが、浜で鬱憤を晴らすのにはこれが丁度いい。
「あれっ、鍛錬に行くの?」
と、カラヴェラ船の上から伸びやかな声を掛けて来たのは、アルテミシアだ。髪を後ろでまとめ、手に燭台を持って膝丈の軍衣のベルトに短剣を二本差し、機嫌よく足を弾ませながら船を降りてくるところだった。
「気が合うね」
サゲンは溜め息をついた。この女は、こちらの気も知らないでケロリとしている。
「明後日の作戦決行に向けて訓練がしたいんだ。付き合ってくれる?」
「ああ、丁度いい」
サゲンは酷薄な笑みを浮かべた。
船室の扉の向こうから微かな音がした。イグリはベッドというよりも木箱と呼んだ方が適切な寝台から身を起こして足音もなく扉へ近付き、そっと開けた。
目の前の薄暗いデッキでは、アルテミシアの軍衣に似た膝下丈のドレスに医療班の腕章を付けたエラがこそこそ背を向けて立ち去ろうとしていた。
「君の船は隣だろ」
わざと大きな声で言うと、狙い通りエラが短い悲鳴を上げて跳び上がったので、イグリは思わずニヤリとした。
エラはイグリを振り返り、ちょっとバツの悪そうな顔をすると、小さく咳払いをした。
「お菓子をと思って」
イグリはエラが指差した自分の足元の方に視線を落とし、そこに細い麻紐で巾着型に口を縛った小さな紙包みが置いてあるのを見つけた。
「あまり元気じゃなさそうだったから」
「気遣いはありがたいけど」
と、イグリは包みを拾い上げながら言った。
「あれは怒ってたんだ。今も怒ってる」
実際、イグリだけは最後まで作戦に反対していた。サゲンがいくつかの変更を加えた上でアルテミシアの作戦を採用した後も、この男には珍しいことにずっと不機嫌でいた。散会の後で「公私を分けろ」とサゲンに叱責されたほどだ。
「そういう時にこそ、甘いものが必要でしょう?」
そう微笑むエラの声は、二日後に危険な任務に就くとは思えないほど伸びやかだ。
「あの時君が医療班のことを気にしていたのは、自分が志願するためだったんだな。海賊に一矢報いたいから。俺を利用して、必要な情報を聞き出したわけだ」
「ええ、ごめんなさい」
「君にはすっかり騙された。他にはどんな嘘をついてるんだ?」
この言い様には、エラも憤慨した。
「あら。わたし、嘘なんてついてないわ」
大人しく平謝りでもしてくると思っていたイグリはなるべく驚いた様子を見せないようにエラを見た。これが、エラには非難がましい視線のように感じられた。
「ただ目的を黙っていただけよ。あなたを利用したのは確かよ。だって、いちばん喋ってくれそうだったから。普段からお喋りだもの。それは本当に悪いと思ってるから謝ったの。でもわたしがあなたに喋らせるためにみんなのことが心配な振りをしたと思っているなら、大きな間違いだわ。医療班に志願したのは、みんなのそばで何か力になりたかったからよ。お城で働いていた時に医学の講義を何回も受けたから、何か役に立てると思ったの。それに、他にも医療班の手伝いとして従軍している女性はたくさんいるわ。何も珍しいことじゃない。ただ、みんなには反対されると思ったから、言わなかっただけ」
エラが一気にまくし立てた。
「そりゃ、当たり前だよ。心配するに決まってるだろ。君は、――」
「…わたしが海賊船でどんな目に遭わされたか思い出して辛い思いをするから?」
逡巡したイグリの先を、エラが引き取った。
「ああ」
イグリはひどく気が塞いだ。あまりに無神経だったと思った。しかし、エラが腹を立てたのは、別のことだった。
「正直もう、うんざりなの。腫れ物みたいに扱われるのは。わたしを被害者じゃなくて、みんなを守ったんだって言ってくれたのは、ミーシャだけ。わたしは、わたしなりに乗り越えようとしてるのよ」
「君を心配するのはそんなに悪いことか?君は自分がもう大丈夫だって示すために、ミーシャと一緒に危険な任務に就こうとしてるのか?俺には、過去の悪夢と憎悪に囚われて自暴自棄になってるんじゃないかって思えるよ」
「違うわ!わたしだって作戦に参加するなんて思ってなかった。でも、海賊を信用させるためには必要でしょう?あれが最善だと思ったわ。だから採用されたんだもの。あなたこそ、もっと大人になったらどう?」
「なんだって?」
さすがのイグリも驚きと怒りの感情を隠せなかった。まだ十七歳の少女に向かって、年長者が取る態度ではないとは分かっているが、聞き捨てならない。
「軍議での態度は大人気なかったと思うわ。旦那様…バルカ将軍だってミーシャに行って欲しくなかったのに必死で耐えたのよ。あなたこそ、部下を率いる立場なら耐えるべき時は耐えるべきだと思うわ」
「君に何が分かるっていうんだ」
イグリは声を荒げた。アムの海上で助けたエラという少女は、こんなにズケズケとものを言う女性だったか?あの時どうしてその少女を無力で弱い存在だと感じたのか、今では分からない。
「わたくしのような者には人の上に立つお方のお気持ちは分かりかねますわ、イグリ・ソノさま」
エラはわざとバルカ邸でするように丁寧な口調で言った。明らかに挑発だ。エラを何も知らないと決めつけたイグリの言葉を当てこすっている。
「でも、未練がましく振られた女性の気を引こうとしたり、敵わない相手と張り合おうとしたりする気の毒な男性の気持ちはよく分かるわ。今まで持ったお客の中にもそういう人はたくさんいたもの。軍議でのあなたは、まさにそんな感じだった。すごく子供っぽかったわ。もう少し客観的な立場になって、ミーシャのことを信じても――」
エラの言葉は、突然重なってきたイグリの唇に阻まれた。何が起きたのか分からずに呆然としていたが、イグリの舌が下唇を這い始めた途端に我に返り、イグリの身体を思い切り押しのけた。
「ハッ、やっと黙った」
イグリの勝ち誇った顔を見た瞬間、エラの中に生まれて初めての衝動が湧き起こった。その正体に気付いたのは、バシッ!と乾いた音を立てて目の前の男の頬を平手打ちした後のことだ。手のひらがじんじんと痛い。
「最低!」
エラはイグリの手からお菓子の入った紙包みを取り上げ、猛然と背を向けた。
「もう二度とあなたにお菓子をあげようなんて思わないわ。いつまでも子供みたいに拗ねていればいいのよ!」
デッキの中を遠ざかるエラの背中をイライラした気分で見送ると、イグリは自室へ入って扉を力任せに閉めた。多分、このイライラが治まる頃には今までにないほどの激しい自己嫌悪に陥っているだろう。おまけに、同じ船に乗る数十人の部下のうち誰もこの騒ぎを聞いていないはずがない。イグリは寝台に仰向けに寝転がり、目を閉じた。こういう時は不貞寝に限る。
アルテミシアは砂の上に倒れ込み、身体中で呼吸をした。海岸の砂が火照った頬を冷やし、波の音と潮の匂いが意識を冴え冴えとさせる。
「終わりか」
厳しい指揮官の声が落ちてくる。
サゲンはアルテミシア相手にも容赦しなかった。二人で船を降りて浜に出、「俺が君の動きを封じる前に武器を奪え」と気軽に言い放った後は、まるで約束を破った報復でもしているかのように攻勢に出た。アルテミシアは目にも留まらぬ速さで伸びてきたサゲンの手を既で躱し、隙を突いて腰に差した剣を奪おうとしたが、サゲンはいとも簡単にその手を捻り上げ、ひょいと足を払って地へ倒した。アルテミシアが手法を変えて何度挑んでも、サゲンの剣に触れる前に浜に倒されてしまう。
(これは、絶対に意趣返しだ)
「ごめんってば」
一時間以上も休みなく続けて一度も成功していない。さすがにへとへとになったアルテミシアは息を荒くしながらごろりと仰向けになり、月明かりを背に受けて息も乱さずに立つサゲンの顔を見上げた。
「何か謝ることがあるのか?」
サゲンは不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、アルテミシアを冷たく見下ろした。
「わたしが敵の船に乗るって申し出たから、怒ってるんでしょう?」
「いいや」
サゲンはアルテミシアの顔の横にしゃがみ込み、陰鬱な顔でアルテミシアを覗き込んだ。
「行かせる決断をした自分に怒っている」
「…間違ってないよ」
「分かっているさ。だから、尚更腹が立つんだ」
アルテミシアは上体を起こしてサゲンの頬に両手を伸ばし、その憂いを帯びた端正な顔を引き寄せた。
「わたしは大丈夫。三人熨すぐらい平気だよ。自分を大切にするって約束は、ちゃんと守るから。ねえ…」
アルテミシアが額を合わせ、鼻を擦り寄せると、サゲンが細く長い息を吐き、アルテミシアの細い髪に手を挿し入れて髪を解いた。
「信じてくれたんでしょ。ありがとう」
サゲンは弧を描いた花びらのような唇に啄むようなキスをし、アルテミシアの背を支えながら再びその身体を砂浜へ倒した。
アルテミシアの手が上衣の裾から中へ入り込み、ズボンからシャツを引っ張り出して腰から背中へと直に触れてきた。柔らかい手のひらから伝わる熱がサゲンの鬱屈した苛立ちを溶かし、欲望へと変質させ、衝動を起こさせた。
貪るように唇を重ね、くぐもった喘ぎ声を聞きながらアルテミシアのスカートの裾に手を入れ、もどかしい気持ちでその肌を覆うズボンの隠しボタンを外し始めた――その時。
「チッ」
と舌を打って身を起こした。
(やられた)
目の前には、長剣を差したままのベルトを手に持ち、得意気に目を細めたアルテミシアの顔がある。サゲンは苦り切って頭を掻いた。
「降参するなんて、一言も言ってないもん」
アルテミシアはますます口を引き伸ばして笑った。
「…いい手だ」
サゲンは己の迂闊さに半ば呆れ、半ば可笑しくなった。これが惚れた弱みというやつか。
「だが、誰にでも通用すると思うな」
そう釘を刺すと、アルテミシアがくすくすと声を上げて笑い始めたので、サゲンは思わず眉をひそめた。まさか本当にこの手を他の男相手に使うつもりだろうか。チラとでも想像するだけで腸が煮えくり返るようだ。
「おい、真面目な話だ」
「海賊相手だったらとっくに短剣を使ってるよ」
これにはサゲンも苦笑した。
「君という女は」
サゲンは戦利品のベルトと剣を左右の肩に掛けて笑うアルテミシアにゆったりと近付き、手を差し出した。
アルテミシアはこれで満足とばかりに素直にベルトと剣を差し出したが、次の瞬間には再び足を払われて浜に倒れ込み、腕を掴まれ、背中からサゲンにのしかかられて身体を起こせなくなった。
「ちょっと!ずるくない?」
サゲンはアルテミシアの抗議に低く笑った。
「まさか。俺は負けたままでは終わらない」
「そ、そんなの――、あ…!」
ボタンを外されたままだったズボンは簡単に下着ごと足元へ下ろされ、サゲンの手が露わになった腿から臀部へと這い上がってくる。
「仕置きをしてやる」
サゲンの低く官能的な声がアルテミシアの背をぞくぞくと震わせた。
「腰を上げろ、じゃじゃ馬」
アルテミシアはあんまりな扱われ方だと思って文句の一つも言ってやろうかと思ったが、だめだった。一度サゲンに誘惑されたら最後まで許したくなってしまうのだから、無駄なことだ。ついに可笑しくなって腹をひくひくさせ始めると、遂にサゲンも可笑しくなったらしい。背後で「ふっ」と低い笑い声を漏らした。
「すぐに音を上げるなよ」
サゲンの指が中心をなぞった瞬間、アルテミシアが身体をビクリと跳ねさせ、呻き声を漏らした。内部は既に濡れている。
「んっ、んん…」
サゲンの指が中を解すように深いところと浅いところを繰り返しつつき、アルテミシアに歓喜の叫びを上げせようと試みてくる。固く結んだアルテミシアの唇をこじ開けようとしているようだった。
もう片方の手がアルテミシアの脇腹を通って胸へと伸び、軍衣のボタンを外して肌に直に触れ、胸の頂をくるくると愛撫し始めると、狂おしいほど体温が一気に上がった。
(だめ。こんな、外なのに…)
必死で声を殺したが、その行為が更に身体の中の欲望を燻らせる。サゲンの手から与えられる快感が、アルテミシアをどこにいるのか忘れさせてしまう。
「アルテミシア…」
サゲンの熱い息が首筋にかかった。声は興奮に掠れ、内部に埋めた指は淫らな音が耳に響くほど激しくアルテミシアを攻め立てている。
「んん!」
はっ、とサゲンが大きく息を吐いて細い首にかぶりつき、舌を這わせて吸い付いた。アルテミシアは背後でベルトを外す音を聞いた。同時に、ビク!と背を反らせた。身体の中心から湧き上がってくる快楽の奔流が、アルテミシアを絶頂に導こうとしている。
「あっ!ちょ、ちょっと待って…」
いつの間にか砂を掴んでいた。声を抑えようと唇を噛んだところで、胸を愛撫していたサゲンの手が伸びてきて、アルテミシアの口を塞いだ。
「待たない。言っただろう、仕置きだと」
サゲンが獣のように背後からアルテミシアを貫き、その一番奥を突いた時、アルテミシアはサゲンの手の中で高い悲鳴を上げ、身体を激しくしならせて絶頂に達した。サゲンは首をふるふると横に振るアルテミシアに構わず、彼女を休みなく奥を突き続け、もう一度絶頂に導いた。
大きく肩で呼吸しているアルテミシアの頬を後ろへ引き寄せ、その甘美な唇を味わった。中に埋めたものが軟らかく締め付けられ、サゲンの口から呻き声が漏れた。
離したくない。本当ならばこのまま腕の中にずっと仕舞い込んでおきたい。
「俺のアルテミシア…」
これでは、どちらが負けかわからない。いや、最初からそんなものはなかったのだ。
サゲンは考えるのをやめ、身体が悲鳴をあげるまでアルテミシアとの行為に没頭した。
ナヴァレからはランスロット・バスケ元帥といつも困ったような眉をしている若い副官、それぞれの船を率いる隊長が三名、イノイル海軍からはサゲン・バルカ将軍を筆頭に、副官ゴラン・イキ、イグリ・ソノ、リコ・オレステ、レイ・シロトら隊長が顔を揃え、最後に後ろ髪に寝癖をつけた通詞アルテミシア・リンドが定刻を十分ほど過ぎてからバタバタと現れた。
「すみません!遅くなりました。あ、報告書――」
と末席についたところで報告書を書斎から持って来ていないことに気付いたが、チラリと前方を見ると、既にサゲンの手にある。
「…は、もうご覧になっているようですね。一冊しかないので、皆さんで回してください」
この時、サゲンが一瞬唖然として手から報告書を取り落としそうになった。
アルテミシアが起こしてくれなかったのを咎めるような恨みがましい視線を投げたからでも、バスケ元帥が二人を意味ありげな目つきで見たからでもない。
イノイルの軍医が骨の検分の報告のために軍議の場に現れ、続いてその手伝いとして入って来た人物が、オアリス郊外の屋敷で主人たちの帰りを待っているはずのエラだったのだ。
彼女がよく着ている淡いグリーンやクリーム色のシンプルなドレスではなく、アルテミシアとは色違いの空色をした軍衣の上にエプロンといった出で立ちだったから、もしやそっくりさんかと思ったが、簪とバレッタを使った髪の結い方もいつもと同じだし、淡いブルーの目も全く同じだ。その上、その淡いブルーの目で謝罪するように二人を交互にチラチラと見たから、本人であることに間違いはない。アルテミシアも口を半開きにしたまま固まってしまった。
エラはその場の一同に向かって控えめに目礼し、サゲンの近くで検分結果を話し始めた軍医の後ろに何枚かの紙を持って立っている。
アルテミシアが意外に思ったのは、イグリの態度があからさまに悪くなったことだった。人前で、しかも女性を相手に不機嫌な表情で首を横に振り、相手と目も合わせようとしないのは、まったくイグリらしくない。
庭から出た骨が骨盤の形状から見て少なく見積もっても三十七人の女性のものだったという検分結果と、軍医がエサドから直に聞いたヒディンゲルのこれまでの症状と今の状態から推測される病気の詳細の報告を受けた。
原因は、老いだと言う。
数十年前から痛風や臓器に関わる持病があったらしいことが認められ、それに老いによる身体の衰えが追い討ちをかけるようにヒディンゲルの病状を著しく悪化させたのであろう、というのが、医師としての結論だった。既に脳の一部といくつかの臓器は機能しておらず、十分な世話をしたとしてもあと一か月生きるか判らない。
意識のある間は複数の臓器の損傷のために至る所で激痛があり、ひどく苦しんだはずだと軍医は言ったが、そんなことはこの老人を追ってきた者たちにとっては何の気休めにもならない。
この回復不能な病状によって送金を装う手段を断たれたために、海賊に直に接触するための手段を講じる必要がある。
「注目すべきは」
と、ゴランが立ち上がった。今、報告書はその手にある。
「金の他に海賊の元へ辿り着くものです」
ゴランは一同をぐるりと見回して最後にサゲンの顔を凝視し、相手の出方を待つように言葉を切った。
サゲンはひどく不機嫌な様子で手を組み、眉間に深々と皺を刻んだ。
「――女か」
この先の展開は、読めている。
「ええ。ミーシャの報告書にあるエサドの証言が有効な策を示しています」
ゴランは報告書の数枚目をめくり、バスケ元帥へと手渡した。
エサドの仕事は、屋敷にやって来た少女たちを地下室へ案内するだけではなかった。少女たちを大きな荷箱に入れて最寄りの貿易港からヒディンゲルの船に乗せ、沖合いのだいたい決まった場所で海賊船と落ち合い、引き渡すというものだ。この際、海賊からは引き渡し料として金が支払われる。
ヒディンゲルは、造船業者への出資として顧客から受け取った金から決して安くはない手数料を引き抜いて活動資金を海賊に送り、更に少女たちを売る事で莫大な利益を得ていたのだ。双方が歯車として機能する、恐るべき共依存だった。
ヒディンゲルがエサドにのみマルス語を習得させた最大の理由は、これだったのだ。様々な場所から連れて来られる少女たちよりも、むしろ雑多な国籍の者が入り混じる海賊と意思を疎通させなければならない。彼らは用心深く、顔を知った者でなければ取り引きしない。ヒディンゲルの船の乗組員でさえ、全員がいつもと同じ顔でなければ接触しない。だから、唯一無二の引き渡し役であるエサドがマルス語を話す必要があったのだ。このことに関しては、サゲンの読んだ通りだった。マルス語を話すエサドが何らかの形で海賊と接触している事は確実だと踏んだ上で、アルテミシアに尋問させた。が、今となっては些細な真実に過ぎない。
この海賊との取り引きに関するエサドの証言が、更に大きな収穫をもたらしたのである。
曰く、彼らが乗っているのはボートとも言うべきかなり規模の小さい帆船で、船員は概ね三人しかおらず、積荷も持たない。機動性を保つためだろう。
用心深い彼らは、必ず一人がヒディンゲルの船に上がって荷箱に不審な点がないか中身を確認してから取り引きを始める。安全だと判断すると、荷箱から少女たちを連れ出して小船に乗せ、エサドに直接金を渡す。そして、一連の作業が終わると物凄い速さでいつも同じ方角に去って行く。
「このことが示すのは、近くに母船、それも恐らくカノーナスの乗る船が存在するということです。ヒディンゲルに売られた少女たちはカノーナスの船へ直接運ばれる」
とゴランが説いた。
「しかし、近くに母船があったとして、それがカノーナスの船とは限らないのでは?」
報告書に目を通すバスケの隣で、若い副官が下がった眉尻をもっと下げて言った。
「カノーナスだ」
そう断言したのは、サゲンだ。
「沖合いに少人数の小船を派遣し取り引きをするのは、下っ端の海賊のやり方じゃない。金の管理も他の船には任せないだろう。奴らに大金を持たせたらどうなるかわかったものではないからな」
カノーナスの元へ導くものは、今の時点では、この小船をおいて他にない。
「じゃ、わたしやります」
と、市場へ買い物に行くような気軽さでアルテミシアが言ったので、サゲンとゴランを除く全員が一瞬何を言っているか分からず、困惑した。
サゲンは言葉にこそしなかったが、内心でひどく怒っているのが顔に表れている。このまま眉間の皺が一生取れなくなるのではないかと心配になるほどだ。
「…どう展開する」
怒りを押し殺すように、サゲンが言った。冷たい色の目が刃の切っ先のようにアルテミシアを突き刺したが、アルテミシアは毅然としてそれを受け止めた。
アルテミシアの発案は、こうだ。
まず、アルテミシアが商品としてエサドと共にヒディンゲルの船に乗り、通常の取り引きと同じように沖合いの引き渡し場所へ向かう。この時、海賊に違和感を持たせないよう、軍の者は誰一人同乗させることはできない。海賊が取り引きせずに去ってしまう可能性があるからだ。
味方の貿易船数隻を港や沖合いの怪しまれない程度に離れた位置に配しておき、アルテミシアが海賊に引き渡された後、機を見計らって海賊を縛り上げ、火薬を打ち上げて合図を出す。味方を乗せた貿易船は合図を頼りにアルテミシアの乗る小船の方へ集まり、合流ののち小船がカノーナスの元へ先導する。
「海賊三人を一人で縛り上げるつもりか」
「うん」
アルテミシアの表情は決然としている。もう肚は決まっているらしい。
サゲンは親指と人差し指で目頭を押さえ、深く息を吐いた。こうなることは、報告書を読んだ時点で予想していた。アルテミシアが報告書を書きながらこの筋書きを考えていたことも、分かっている。自分の感情はどうあれ、この作戦が有効である事は間違いない。しかし――
「…危険すぎる」
約束をしたはずだ。無茶な事はしないと。
(それを、この場で反故にする気か)
サゲンの感情はアルテミシアにも分かっている。本当ならこの場で手を合わせて許しを請いたかった。しかし、これが女王に雇われたアルテミシア・リンドの本分だ。
「君は、兵士ではない」
「わかってる。兵士じゃ商品としてあいつらの船に乗れないこともね」
サゲンの口から怒りの声が飛び出す前に、ゴランが片手を挙げた。
「僕は賛成です。ミーシャと同じように囮を使う手を考えていました。僕の方は小柄な兵に女の振りをさせるというものでしたが、ミーシャがやった方が効果的でしょう」
ゴランはさすがにバルカ将軍の副官だけあって、物怖じしない。サゲンの相手を射殺すような視線にも怯まなかった。
「これは好機です。カノーナスの船に近付ける可能性が非常に高い。我々は最大限の安全策を講じましょう」
「例え相手が三人でも、敵の船に乗ったら最後、俺たちの手は届かない。一体何をどう対策するつもりだ」
「前回の作戦では、大人しく捕縛された者はほとんど傷付けられませんでした。血気盛んな海賊たちを服従させる統率力も然ることながら、これまでの行動を考えるとカノーナスは極めて慎重で合理的な男です。無闇に高値で売れる女性に手を出すようには思えません。最悪な言い方ですが…、ミーシャは明らかに良い値で売れる。僕が売り主なら大切に扱いますね。ですからその分、隙を狙いやすい。――ごめんよ、ミーシャ」
ゴランは複雑そうにアルテミシアの方を見た。
「どうも。むしろ光栄だよ」
アルテミシアはゴランに向かって両方の手のひらを見せた。
「道理だ。カノーナスの船に近付く策が他にない以上、…わたしとしては女性を危険な目に合わせるのは非常に不本意だが、やる価値はある」
バスケが腕組みをしながら渋面で言うと、隣に座る若い副官が頷いて同意した。
イグリは「それでも」と首を振った。
「俺は反対です。三か月後に海賊が銀行へ現れるのを待ったらどうです?その時でも充分追跡できる」
「アガタ、それはだめです。その間に海賊の犠牲になり得る人々の命を守るため、我々は最善を尽くすべきです。その上、海賊がどうやって金を回収に来るか情報がない以上、十分な準備ができません。商品よりも金の受け取りの方に警備のための戦闘要員を割くはずです。その分、失敗のリスクが高い。人身売買の現場を利用するほうが確実です」
「ミーシャの命はどうでもいいって言うんですか!」
「そうではありません。海賊がこちらの動きを知らない以上、我々が有利です。彼女はそれを考慮して志願した。バルカ将軍やアガタの心配はもちろん分かりますが、決して無謀な策ではありませんよ」
「でも途中で不審に思われたら?間違いなく殺される。この作戦には穴がありますよ、ダリオス副官。ミーシャのまとめた報告書では、海賊船に引き渡される少女は最低でも二人以上、概ね十七歳以下だ。ミーシャは一人、おまけにもう二十一」
「まだ、だよ」
アルテミシアは「心外な」とでも言わんばかりに、イグリに向かってぴしゃりと言った。
「話の腰を折るなよ。俺だって君と同い年なんだ。重要なのは、ヒディンゲルから売られたのが少女だってことさ」
イグリは腕を組んで肩を怒らせたアルテミシアに手のひらを見せ、続けた。
「まあ、とにかく、条件が合わない。荷箱を確認した時点で不信感を持てば、奴らはこちらの船に乗った仲間を置き去りにしてでも逃げ帰るに違いない。船の機動性を比較して考える限り、追跡は困難だ。そして二度とヒディンゲルとは取り引きしない。そうなれば、また振り出しに戻る。でしょ?」
「四つ年齢を偽るぐらいなら問題ないよ。大人っぽい十七歳もいるでしょ。六年間ずっと‘少年’で通してきたんだし」
「それとこれとは状況が違う」
サゲンが厳しい語調で言った時、末席のアルテミシアの更に後ろでそろそろと手を挙げた者がいる。その場にいた全員が目を点にした。アルテミシアも自分を通り抜けていく皆の視線を追いかけ、後ろを振り返った。
「あのう…」
軍医の資料持ちとして控えていたエラだった。
まさか骨の検分結果を伝えに来た軍医の手伝いのために立ち入っただけの助手が発言を求めるとは、さすがにサゲンも驚いてエラの恐縮したような顔を見たまま立ち尽くした。ともあれ、この場合最も度肝を抜かれてしまったのは、軍医だろう。哀れにも白い襟を濡らすほどの冷や汗をかきはじめている。
「わたしなら条件が合います。実際、商品として海賊に囚われていた身ですし、何となく勝手は分かります。ミーシャと一緒に海賊の船に乗ります。その方が、自然でしょう?ミーシャが十七歳にしては大人っぽくても、わたしが年相応なら違和感はなくなるわ」
誰もが言葉を失った。
この気詰まりな沈黙を破ったのは、バスケ元帥の引きつった笑い声だった。隣の副官もバスケに調子を合わせて無理矢理笑い声を上げている。
「ハハ、これはなかなか、あー、場を和ませる冗談が上手なお嬢さんだ」
「まさか。彼女、本気ですよ」
と厳しい声色で言ったのは、意外にもイグリだった。アルテミシアはちょっと驚いてイグリの方を見た。いつも陽気で深刻な状況にも笑顔を絶やさない男が周囲に向かってこれほど怒りを露わにするのは珍しい。しかし、奥の席に座るサゲンの顔はもっと怒りに燃えている。ついさっきまでこの身体を抱き締め、優しい微笑で愛を語っていた男と同一人物とは、とても信じられない。鬼を再び目覚めさせてしまったようだ。丁度その真向かいにいるアルテミシアは、やっとのことでその視線を受け止めた。顔を逸らしたかったが、譲れない。真っ直ぐ視線を射返した。
「冗談ではこのようなことは申し上げません。それから、わたしにも海賊に一矢報いる権利があります」
エラはいみじくも老練なバスケ元帥と怒りの形相を崩さないサゲンに向かって言ってのけた。緊張のせいか、声がいつもより低く震えていたが、それがむしろ説得力を持った。
「わたしは家族を病で亡くした後、親しくなった人をみんな海賊に殺されました。わたし自身も――ひどい仕打ちを受けて…、地獄の日々でした。大切なものを差し出して、彼らに従っていくうちに、自分が自分じゃなくなっていくような。でもミーシャは、わたしを救い出してくれた。わたしがわたしでいていいんだって、教えてくれました。だから、従軍したんです。何かやり返してやらないと、腹の虫が治まりません」
アルテミシアは目を丸くしてエラを見た。エラはキラキラと輝く可憐な淡いブルーの瞳の奥に、ずっと海賊への怒りを抱えていたのだ。胸が痛くなり、同時にエラの強さに喉がちくちくするほど心を揺さぶられた。本来なら危険だからと止めるべきなのだろうが、自分の立場も彼女と変わらない。
エラの発言を受けて、真っ先に言葉を発したのはバスケ元帥だった。
「医療班の女性に至るまでこれほどの胆力を持ち合わせているとは、さすがはバルカ将軍麾下のイノイル海軍ですな。まったく、豪胆な女性たちだ!いや、素晴らしい」
と、豪快に笑い声を上げた。
「面白いじゃないか。わたしは乗ろう。が、あくまで指揮権は貴公にある。決めるのは、バルカ将軍、貴公だ」
「バルカ将軍」
アルテミシアがサゲンを見た。
「わたしたちを信じてくれる?」
夜半、サゲンはカラヴェラ船の船長室の椅子に座り、机に広げた海図を睨みながら、ひどく憂鬱な気分で思案していた。
(ほんとうにあれで正しかったのか)
と、考えずにはいられない。何しろ、戦闘要員ではない恋人をその侍女と共に敵陣へ送り込む判断を下したのだ。
こうなることはイノイルを発つ前に予感していた。そして司令官としての立場を棄てられない以上、自分が彼女を敵地に送り出すことになるというのも、分かっていた。アルテミシアが軍議に出ないよう画策したのも、その為だ。いくら彼女が剣術や体術に長けていても、大の男、しかも荒くれ者の海賊三人がかりで襲われたら、間違いなく無事では済まない。味方の船が遠くに待機しなければならない以上、幸いにも事態の急変を素早く察知できたとして、救助は確実に遅れてしまうだろう。三十二年の人生で初めて、冷たく底の無い恐怖がサゲンを襲った。
これまでいくつもの死線を切り抜けてきた。目の前で同僚が敵の船から砲撃を受けて命を失ったことも、自分自身が敵の捕虜となり、一か月後に救助されるまで拷問を受け続けていたことも、あと一ミリで致命傷となったであろう傷を受けて生死の境を彷徨ったこともある。
それでも、これほどの恐怖を感じたことはなかった。
アルテミシアを永遠に失うことになるかもしれないなど、考えるだけで耐えられない。
――バン!と大きな打撃音でサゲンは我に返った。目の前には固く握った拳があり、硬い樫の机に窪みを作っていた。
(俺も焼きが回ったものだ)
サゲンは立ち上がって丈の短い黒の上衣を羽織ると、壁に掛かっているいくつもの刀剣や弓の中から長剣を選んで取り上げ、船を降りた。狭い船中では使い勝手が悪いが、浜で鬱憤を晴らすのにはこれが丁度いい。
「あれっ、鍛錬に行くの?」
と、カラヴェラ船の上から伸びやかな声を掛けて来たのは、アルテミシアだ。髪を後ろでまとめ、手に燭台を持って膝丈の軍衣のベルトに短剣を二本差し、機嫌よく足を弾ませながら船を降りてくるところだった。
「気が合うね」
サゲンは溜め息をついた。この女は、こちらの気も知らないでケロリとしている。
「明後日の作戦決行に向けて訓練がしたいんだ。付き合ってくれる?」
「ああ、丁度いい」
サゲンは酷薄な笑みを浮かべた。
船室の扉の向こうから微かな音がした。イグリはベッドというよりも木箱と呼んだ方が適切な寝台から身を起こして足音もなく扉へ近付き、そっと開けた。
目の前の薄暗いデッキでは、アルテミシアの軍衣に似た膝下丈のドレスに医療班の腕章を付けたエラがこそこそ背を向けて立ち去ろうとしていた。
「君の船は隣だろ」
わざと大きな声で言うと、狙い通りエラが短い悲鳴を上げて跳び上がったので、イグリは思わずニヤリとした。
エラはイグリを振り返り、ちょっとバツの悪そうな顔をすると、小さく咳払いをした。
「お菓子をと思って」
イグリはエラが指差した自分の足元の方に視線を落とし、そこに細い麻紐で巾着型に口を縛った小さな紙包みが置いてあるのを見つけた。
「あまり元気じゃなさそうだったから」
「気遣いはありがたいけど」
と、イグリは包みを拾い上げながら言った。
「あれは怒ってたんだ。今も怒ってる」
実際、イグリだけは最後まで作戦に反対していた。サゲンがいくつかの変更を加えた上でアルテミシアの作戦を採用した後も、この男には珍しいことにずっと不機嫌でいた。散会の後で「公私を分けろ」とサゲンに叱責されたほどだ。
「そういう時にこそ、甘いものが必要でしょう?」
そう微笑むエラの声は、二日後に危険な任務に就くとは思えないほど伸びやかだ。
「あの時君が医療班のことを気にしていたのは、自分が志願するためだったんだな。海賊に一矢報いたいから。俺を利用して、必要な情報を聞き出したわけだ」
「ええ、ごめんなさい」
「君にはすっかり騙された。他にはどんな嘘をついてるんだ?」
この言い様には、エラも憤慨した。
「あら。わたし、嘘なんてついてないわ」
大人しく平謝りでもしてくると思っていたイグリはなるべく驚いた様子を見せないようにエラを見た。これが、エラには非難がましい視線のように感じられた。
「ただ目的を黙っていただけよ。あなたを利用したのは確かよ。だって、いちばん喋ってくれそうだったから。普段からお喋りだもの。それは本当に悪いと思ってるから謝ったの。でもわたしがあなたに喋らせるためにみんなのことが心配な振りをしたと思っているなら、大きな間違いだわ。医療班に志願したのは、みんなのそばで何か力になりたかったからよ。お城で働いていた時に医学の講義を何回も受けたから、何か役に立てると思ったの。それに、他にも医療班の手伝いとして従軍している女性はたくさんいるわ。何も珍しいことじゃない。ただ、みんなには反対されると思ったから、言わなかっただけ」
エラが一気にまくし立てた。
「そりゃ、当たり前だよ。心配するに決まってるだろ。君は、――」
「…わたしが海賊船でどんな目に遭わされたか思い出して辛い思いをするから?」
逡巡したイグリの先を、エラが引き取った。
「ああ」
イグリはひどく気が塞いだ。あまりに無神経だったと思った。しかし、エラが腹を立てたのは、別のことだった。
「正直もう、うんざりなの。腫れ物みたいに扱われるのは。わたしを被害者じゃなくて、みんなを守ったんだって言ってくれたのは、ミーシャだけ。わたしは、わたしなりに乗り越えようとしてるのよ」
「君を心配するのはそんなに悪いことか?君は自分がもう大丈夫だって示すために、ミーシャと一緒に危険な任務に就こうとしてるのか?俺には、過去の悪夢と憎悪に囚われて自暴自棄になってるんじゃないかって思えるよ」
「違うわ!わたしだって作戦に参加するなんて思ってなかった。でも、海賊を信用させるためには必要でしょう?あれが最善だと思ったわ。だから採用されたんだもの。あなたこそ、もっと大人になったらどう?」
「なんだって?」
さすがのイグリも驚きと怒りの感情を隠せなかった。まだ十七歳の少女に向かって、年長者が取る態度ではないとは分かっているが、聞き捨てならない。
「軍議での態度は大人気なかったと思うわ。旦那様…バルカ将軍だってミーシャに行って欲しくなかったのに必死で耐えたのよ。あなたこそ、部下を率いる立場なら耐えるべき時は耐えるべきだと思うわ」
「君に何が分かるっていうんだ」
イグリは声を荒げた。アムの海上で助けたエラという少女は、こんなにズケズケとものを言う女性だったか?あの時どうしてその少女を無力で弱い存在だと感じたのか、今では分からない。
「わたくしのような者には人の上に立つお方のお気持ちは分かりかねますわ、イグリ・ソノさま」
エラはわざとバルカ邸でするように丁寧な口調で言った。明らかに挑発だ。エラを何も知らないと決めつけたイグリの言葉を当てこすっている。
「でも、未練がましく振られた女性の気を引こうとしたり、敵わない相手と張り合おうとしたりする気の毒な男性の気持ちはよく分かるわ。今まで持ったお客の中にもそういう人はたくさんいたもの。軍議でのあなたは、まさにそんな感じだった。すごく子供っぽかったわ。もう少し客観的な立場になって、ミーシャのことを信じても――」
エラの言葉は、突然重なってきたイグリの唇に阻まれた。何が起きたのか分からずに呆然としていたが、イグリの舌が下唇を這い始めた途端に我に返り、イグリの身体を思い切り押しのけた。
「ハッ、やっと黙った」
イグリの勝ち誇った顔を見た瞬間、エラの中に生まれて初めての衝動が湧き起こった。その正体に気付いたのは、バシッ!と乾いた音を立てて目の前の男の頬を平手打ちした後のことだ。手のひらがじんじんと痛い。
「最低!」
エラはイグリの手からお菓子の入った紙包みを取り上げ、猛然と背を向けた。
「もう二度とあなたにお菓子をあげようなんて思わないわ。いつまでも子供みたいに拗ねていればいいのよ!」
デッキの中を遠ざかるエラの背中をイライラした気分で見送ると、イグリは自室へ入って扉を力任せに閉めた。多分、このイライラが治まる頃には今までにないほどの激しい自己嫌悪に陥っているだろう。おまけに、同じ船に乗る数十人の部下のうち誰もこの騒ぎを聞いていないはずがない。イグリは寝台に仰向けに寝転がり、目を閉じた。こういう時は不貞寝に限る。
アルテミシアは砂の上に倒れ込み、身体中で呼吸をした。海岸の砂が火照った頬を冷やし、波の音と潮の匂いが意識を冴え冴えとさせる。
「終わりか」
厳しい指揮官の声が落ちてくる。
サゲンはアルテミシア相手にも容赦しなかった。二人で船を降りて浜に出、「俺が君の動きを封じる前に武器を奪え」と気軽に言い放った後は、まるで約束を破った報復でもしているかのように攻勢に出た。アルテミシアは目にも留まらぬ速さで伸びてきたサゲンの手を既で躱し、隙を突いて腰に差した剣を奪おうとしたが、サゲンはいとも簡単にその手を捻り上げ、ひょいと足を払って地へ倒した。アルテミシアが手法を変えて何度挑んでも、サゲンの剣に触れる前に浜に倒されてしまう。
(これは、絶対に意趣返しだ)
「ごめんってば」
一時間以上も休みなく続けて一度も成功していない。さすがにへとへとになったアルテミシアは息を荒くしながらごろりと仰向けになり、月明かりを背に受けて息も乱さずに立つサゲンの顔を見上げた。
「何か謝ることがあるのか?」
サゲンは不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、アルテミシアを冷たく見下ろした。
「わたしが敵の船に乗るって申し出たから、怒ってるんでしょう?」
「いいや」
サゲンはアルテミシアの顔の横にしゃがみ込み、陰鬱な顔でアルテミシアを覗き込んだ。
「行かせる決断をした自分に怒っている」
「…間違ってないよ」
「分かっているさ。だから、尚更腹が立つんだ」
アルテミシアは上体を起こしてサゲンの頬に両手を伸ばし、その憂いを帯びた端正な顔を引き寄せた。
「わたしは大丈夫。三人熨すぐらい平気だよ。自分を大切にするって約束は、ちゃんと守るから。ねえ…」
アルテミシアが額を合わせ、鼻を擦り寄せると、サゲンが細く長い息を吐き、アルテミシアの細い髪に手を挿し入れて髪を解いた。
「信じてくれたんでしょ。ありがとう」
サゲンは弧を描いた花びらのような唇に啄むようなキスをし、アルテミシアの背を支えながら再びその身体を砂浜へ倒した。
アルテミシアの手が上衣の裾から中へ入り込み、ズボンからシャツを引っ張り出して腰から背中へと直に触れてきた。柔らかい手のひらから伝わる熱がサゲンの鬱屈した苛立ちを溶かし、欲望へと変質させ、衝動を起こさせた。
貪るように唇を重ね、くぐもった喘ぎ声を聞きながらアルテミシアのスカートの裾に手を入れ、もどかしい気持ちでその肌を覆うズボンの隠しボタンを外し始めた――その時。
「チッ」
と舌を打って身を起こした。
(やられた)
目の前には、長剣を差したままのベルトを手に持ち、得意気に目を細めたアルテミシアの顔がある。サゲンは苦り切って頭を掻いた。
「降参するなんて、一言も言ってないもん」
アルテミシアはますます口を引き伸ばして笑った。
「…いい手だ」
サゲンは己の迂闊さに半ば呆れ、半ば可笑しくなった。これが惚れた弱みというやつか。
「だが、誰にでも通用すると思うな」
そう釘を刺すと、アルテミシアがくすくすと声を上げて笑い始めたので、サゲンは思わず眉をひそめた。まさか本当にこの手を他の男相手に使うつもりだろうか。チラとでも想像するだけで腸が煮えくり返るようだ。
「おい、真面目な話だ」
「海賊相手だったらとっくに短剣を使ってるよ」
これにはサゲンも苦笑した。
「君という女は」
サゲンは戦利品のベルトと剣を左右の肩に掛けて笑うアルテミシアにゆったりと近付き、手を差し出した。
アルテミシアはこれで満足とばかりに素直にベルトと剣を差し出したが、次の瞬間には再び足を払われて浜に倒れ込み、腕を掴まれ、背中からサゲンにのしかかられて身体を起こせなくなった。
「ちょっと!ずるくない?」
サゲンはアルテミシアの抗議に低く笑った。
「まさか。俺は負けたままでは終わらない」
「そ、そんなの――、あ…!」
ボタンを外されたままだったズボンは簡単に下着ごと足元へ下ろされ、サゲンの手が露わになった腿から臀部へと這い上がってくる。
「仕置きをしてやる」
サゲンの低く官能的な声がアルテミシアの背をぞくぞくと震わせた。
「腰を上げろ、じゃじゃ馬」
アルテミシアはあんまりな扱われ方だと思って文句の一つも言ってやろうかと思ったが、だめだった。一度サゲンに誘惑されたら最後まで許したくなってしまうのだから、無駄なことだ。ついに可笑しくなって腹をひくひくさせ始めると、遂にサゲンも可笑しくなったらしい。背後で「ふっ」と低い笑い声を漏らした。
「すぐに音を上げるなよ」
サゲンの指が中心をなぞった瞬間、アルテミシアが身体をビクリと跳ねさせ、呻き声を漏らした。内部は既に濡れている。
「んっ、んん…」
サゲンの指が中を解すように深いところと浅いところを繰り返しつつき、アルテミシアに歓喜の叫びを上げせようと試みてくる。固く結んだアルテミシアの唇をこじ開けようとしているようだった。
もう片方の手がアルテミシアの脇腹を通って胸へと伸び、軍衣のボタンを外して肌に直に触れ、胸の頂をくるくると愛撫し始めると、狂おしいほど体温が一気に上がった。
(だめ。こんな、外なのに…)
必死で声を殺したが、その行為が更に身体の中の欲望を燻らせる。サゲンの手から与えられる快感が、アルテミシアをどこにいるのか忘れさせてしまう。
「アルテミシア…」
サゲンの熱い息が首筋にかかった。声は興奮に掠れ、内部に埋めた指は淫らな音が耳に響くほど激しくアルテミシアを攻め立てている。
「んん!」
はっ、とサゲンが大きく息を吐いて細い首にかぶりつき、舌を這わせて吸い付いた。アルテミシアは背後でベルトを外す音を聞いた。同時に、ビク!と背を反らせた。身体の中心から湧き上がってくる快楽の奔流が、アルテミシアを絶頂に導こうとしている。
「あっ!ちょ、ちょっと待って…」
いつの間にか砂を掴んでいた。声を抑えようと唇を噛んだところで、胸を愛撫していたサゲンの手が伸びてきて、アルテミシアの口を塞いだ。
「待たない。言っただろう、仕置きだと」
サゲンが獣のように背後からアルテミシアを貫き、その一番奥を突いた時、アルテミシアはサゲンの手の中で高い悲鳴を上げ、身体を激しくしならせて絶頂に達した。サゲンは首をふるふると横に振るアルテミシアに構わず、彼女を休みなく奥を突き続け、もう一度絶頂に導いた。
大きく肩で呼吸しているアルテミシアの頬を後ろへ引き寄せ、その甘美な唇を味わった。中に埋めたものが軟らかく締め付けられ、サゲンの口から呻き声が漏れた。
離したくない。本当ならばこのまま腕の中にずっと仕舞い込んでおきたい。
「俺のアルテミシア…」
これでは、どちらが負けかわからない。いや、最初からそんなものはなかったのだ。
サゲンは考えるのをやめ、身体が悲鳴をあげるまでアルテミシアとの行為に没頭した。
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