王城のマリナイア

若島まつ

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四十七、スペクトル - le Spectre -

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 男の尋問が始まった。
 場所は既に兵による検分が終わった二階の隅の客間で、白い扉を隔てた続き部屋は衣装部屋になっており、ここにサゲンとイグリが控えている。
 扉は完全に閉めず僅かな隙間を開け、細く伸びる光の間から僅かながら中の様子を窺い知ることができる。それほど広い部屋でもないから隣室の話を聞くことは容易だが、生憎サゲンもイグリも挨拶以外のエル・ミエルド語を理解することはできない。不測の事態が起きた時のために、二人とも腰には短剣を差し、扉の横に立ったまま耳に神経を集中させた。
「…いいんですか?一人でやらせて」
 小声でイグリが囁いた。ちょっとサゲンを非難している風でもある。サゲンは目だけ動かしてイグリを一瞥した後、すぐに扉の向こうへ視線を戻した。
「あれは攻撃者向きじゃない」
 サゲンがイグリよりも一層低く静かな声で答えた。
「確かにひょろひょろした奴ですけど、ミーシャの不意を突いて急に暴れ出すってことも…」
「その時はあいつがアルテミシアに触れる前に制圧する」
 上官の言葉は簡潔だった。
(まったく、簡単に言ってくれるよな)
 イグリは身震いがした。この緊張感こそ、この上官の下でしか味わえないだろうとイグリは思っている。が、今はそれを愉しめる余裕など皆無だ。
「俺たちが同席するよりも、彼女一人の方が多くのことを聞き出せるだろう」
 それは間違いない。イグリはそれ以上は何も言わずに再び扉の向こうへ意識を戻した。
 
 アルテミシアは客間の中央でローテーブルを挟み、自らを「奴隷」と呼んだ男と向き合っている。
 アルテミシアは脚を組んでソファの背もたれに背を預けているが、男はどことなく落ち着かない様子だった。不自然な程にまっすぐ背を伸ばしていて、なるべく身体がソファに触れる面を少なくしているようにも見える。
「わたしはここに座ることができません」
 男が強いアミラ訛りのマルス語で言った。まるで今にも主人が現れて叱責されることを恐れているようだった。
「心配しないで。わたしたちがあなたにここに座ってもらうよう頼んだのだから、誰も咎めないよ」
 アルテミシアはエル・ミエルド語でゆっくりと諭すように言った。男は相変わらず後ろに棒でも入っているのかと疑いたくなるくらい背をピンと伸ばしていたが、僅かに肩の力を抜いたようだった。
「…アンラドゥムわかりました
 男もエル・ミエルド語で返事をした。
「わたしはミーシャ。あなたの名前を聞いてもいい?」
 アルテミシアが尋ねると、男は黙ったまま目を見開いた。驚いているようにも、躊躇しているようにも見える。もしかしたらこれまで名前を聞かれたことがないのかも知れない――と、アルテミシアは直感的に思った。
「名前は?」
 アルテミシアが重ねて聞くと、男はようやく口を開いた。
「奴隷は名乗ることを許されません」
「許されないって、誰に?あなたがご主人様と呼んでいた老人は、ここにはいない。ルールを決めるのはあの人じゃないよ。それに、あなたは奴隷なんかじゃない」
「しかし、わたしは奴隷の子です。奴隷の血を受けた者は奴隷にしかなれません」
 アルテミシアは深く息をついてやり場のない怒りを逃がそうとした。冷静にならなければならないのに、今にも爆発してしまいそうだ。
「…ねえ、聞いて。そんなの、ヒディンゲルがあなたたちを縛り付けるために嘘を教え込んだだけ。生まれつき奴隷なんて、そんなのいないんだよ。誰にだって自由に生きて幸せに暮らす権利がある。でもヒディンゲルはあなたたちからそれを奪ったの。誰にもそんなことする権利はないのに、あいつは歪んだ価値観をあなたたちに押し付けて信じ込ませて、自由だけじゃなく母親まで奪った。そんなことを許してはだめ」
 この時、表情を変えない男の目に何かが浮かんだような気がした。サゲンの狙いは、これだ。アルテミシアはサゲンが意図したことを理解した。
 この男の母語がアミラ語の他にエル・ミエルド語であるならば、母親はエル・ミエルド人と見ていい。母親の話題で感情を揺さぶられるということは、感情が乏しいように見えてもこの男はその奥に人間らしい感情を持っているはずだ。ヒディンゲルなどとは違う。
 アルテミシアは質問の仕方を変えることにした。
「お母さんは、あなたを何て呼んでいた?」
 男がこの問い掛けを聞いて初めて質問の意味を理解したかのように見えた。
「…エサド――母はわたしをエサドと呼んでいました」
「エサド、その意味を知ってる?」
「いいえ」
「‘至上の幸福’」
 アルテミシアは男――エサドの目を見た。表情は変わらない。しかし、呼吸は変わった。苦痛に苛まれるように、胸が大きく上下している。
「素敵な名前だね。お母さんの願いが込められてる」
 本心でそう思った。そして、引き離された母親を思い、胸が裂けるように痛んだ。
「エサド、お母さんのことは覚えてる?」
「はい。奴隷でしたが、美しく優しい人でした」
「奴隷じゃないよ、エサド。あなたのお母さんはヒディンゲルの被害者で、あなたはきれいで優しいお母さんの息子のエサド。奴隷なんかじゃないんだよ」
 アルテミシアは黙っているエサドの目を覗き込んだ。自分が今にも泣き出しそうな顔をしているのは自覚しているが、構ってなどいられない。母と引き離された子供、なす術なく売られていった女性――どちらも自分の過去と完全に切り離して考えることはできなかった。
「エサド、わたしは…ラウル・ヒディンゲルに売られる予定だった。あなたのお母さんと同じように」
「同じではありません。あなたは売られませんでした。幸運です」
 エサドのこの一言は大きな希望をもたらした。ヒディンゲルに売られるのを免れたアルテミシアを、エサドは幸運だと言った。これは、彼が売られてきた女たちに対して憐れみを感じている証だと考えていい。ヒディンゲルに感情までは支配されていないことを示している。
「そうだね。でも、従妹が身代わりになったの。まだ十三歳だった。…名前はマリエラ。彼女を知ってる?」
 エサドが薄い目蓋を伏せ、頷いた。この次に発せられた言葉が、アルテミシアを激しく動揺させた。
「ご主人様の花嫁は全員記憶しています。マリエラ・ベルージ、彼女はここにいました。この部屋に。理由は分かりませんが、ご主人様がひどく腹を立てるまで。とても短い間でした」
 ドッ――、と身体の内側から大きな音が響いた。アルテミシアの心臓が暴れるように動き出し、指先までが脈を強く打ち始め、冷たく不快な汗を身体中に吹き出させた。今すぐにここから走って出て行きたかった。
(だめ。集中)
 アルテミシアはギュッと目を瞑り、ぶるぶると震える左手で自分の右腕を思い切り掴んで爪を食い込ませた。エサドは明らかに感情を表し始めている。ヒディンゲルの人身売買に関する情報を手に入れるなら、ここで喋らせなければならない。そのためには、今アルテミシアが自分の感情に負けるわけにはいかないのだ。それなのに、ただ息を吸って吐くだけの行為がひどく苦しく、困難なものになった。
 その時、不意に、続き部屋にいるサゲンの存在を強く感じた。
(――サゲンが見てる)
 こちらから姿が見えなくても、確かに分かる。不思議と呼吸が落ち着き、割れそうなほど脈打っていた心臓が穏やかさを取り戻し始めた。右腕を掴む力を緩め、そっと左手を下ろした。
「…マリエラは、馬車で実家に帰って来た時、身体中に酷い怪我を負わされて、死んでしまっていたの。他にも同じような目に遭った女性がたくさんいるのは知ってる。あなたのお母さんもそう。わたしはヒディンゲルを許さない。このままここでただの老人として安らかに死なせたりしない。あいつを裁かなくちゃいけない」
 エサドは動揺している。顎の筋肉が強張り、真一文字に結んだ口の奥で歯を食いしばっているのが見て取れた。生まれてこのかたずっと刷り込まれ続けたヒディンゲルへの忠誠を棄てることは、容易ではないだろう。敬虔な信者が棄教するようなものだ。しかし、サゲンが睨んだ通り、母親の存在がエサドの奥に沈められた感情的な部分を空気に触れさせようとしている。
「エサド、あなたがお母さんを大切に思っているなら、お願い。ヒディンゲルが何をしていたのか、…あなたたちに何をさせていたのか、全部教えて」
 
 扉の後ろで客間の様子を窺いながら、サゲンとイグリは息を殺していた。内容は理解できないから、母音の発音が特徴的な異言語で交わされる会話を聞き、その語調から二人の感情を推し測ることしかできない。
「…ミーシャが感情的になってます」
 イグリが心配そうに隙間を覗き込んだ。
「大丈夫だ。よく耐えている」
 サゲンは腕を組み、隙間を覗く角度を変えてアルテミシアからエサドへと視点を移した。
「さっきから名前を重ねて呼び、自分が誰か思い出させている。効果的だ。相手の呼吸が変わった」
 イグリもエサドを見た。遠目からは相変わらず背筋をまっすぐ伸ばし、表情も変わらないように見える。
「あいつ、吐くかな?生まれた時からヒディンゲルの犬として躾けられたなら、何を言っても寝返らないんじゃないですか?」
「俺は彼女の力量を信じている」
 イグリは扉の向こうから聞こえてくる二人の会話に耳を傾けた。先程まで語調を荒げていたアルテミシアの声色は既に落ち着き、男の声が多く聞こえてくるようになった。
「…何故、エル・ミエルド語なんですか」
 サゲンは扉の向こうに神経を集中させたまま、イグリの問いに答えてやった。
「あの男の母親はエル・ミエルド人だ。顔は完璧なマルス人だが、賭けてもいい。母親は高貴な生まれだろう。それをヒディンゲルがお得意の違法な取り引きか何かで自分のものにしたはずだ」
「なんで高貴な生まれだと思うんです?」
「あの男はエル・ミエルド人の外見的な特徴が薄い。エル・ミエルドの貴族階級は交易のための政略結婚を繰り返しているから、マルス人との混血が多いんだ」
 当然、外見もマルス人の特徴を受け継ぐ身分の高いエル・ミエルド人が多くなる。この男もその血を継いでいるというのだ。多くの言葉を交わすこともなく、短時間のうちにサゲンはこれらのことを推理した。
 イグリは改めて上官の洞察力に舌を巻いた。しかし、疑問が残る。
「でも…ヒディンゲルは血統主義なんですよね?それなら、高貴なエル・ミエルドの女性を奴隷の身分に落とすのは矛盾しませんか」
「…あのイカれた男の価値観では矛盾しないのかもしれないぞ」
「どういう意味です?」
「さあな。少なくとも、ヒディンゲルが自分の口から話すことはもうないだろう」
 扉の向こうでは、アルテミシアよりも男の口数の方が多くなっている。男が話す内容にアルテミシアが短く相槌を打ち、時折質問を挟んでその先を促している。
「さすが、貿易船で交渉役をやっていただけのことはあるな」
 イグリは感心して独り言のように呟いた。
「可愛いだけじゃなくて、すごく頭もいい。それに――」
 扉の隙間からエル・ミエルド語で尋問を続けるアルテミシアの横顔に夢中になっていたイグリは、隣に立つサゲンの厳しい眉がピクリと上がったことに気付かなかった。
「なんて色っぽいんだろう…」
 と、全て言い終わったところで声に出ていたことを知り、氷河に晒されたように背筋が凍った。多分、自分を睨みつける上官の視線のせいだ。
「集中しろ、イグリ・ソノ」
 低く静かな声までもが巨大な氷柱で突き刺すような鋭さを持っていた。
「うわ、すみません」
 慌てて居住まいを正し、再び扉の向こうへ意識を戻そうとしたが、無理だった。
「でも、正直――」
 サゲンの氷のような視線から逃げることもなく、果敢にもイグリは続けた。
「異国語を流暢に話す女性って、たまらなく色っぽくないですか?」
 イグリがあまりにうっとりした言い方をしたので、サゲンは呆れ果てて思わず失笑した。
「アルテミシアに限っては、そうだな。同意する」
 ほらね、とでも言わんばかりに得意そうな顔をしたイグリに、サゲンは「だが」と鋭い眼光で釘を刺した。
「次俺の恋人を不埒な目で見たらただではおかないぞ」
 まさか、上官からこんな血気盛んな若者のような言葉が飛び出してくるとは思いもしなかった。イグリは今度こそ口を閉じることにした。が、
「大目に見てくださいよ。もうミーシャとどうにかなろうなんて考えていませんから」
 と、一言付け加えるのも忘れなかった。
「当たり前だ。アルテミシアが惚れるのは後にも先にも俺だけだからな」
「のろけてくれますね」
 イグリがやれやれと首を振ると同時にサゲンが機敏に姿勢を変え、直後に勢いよく扉が開いた。目の前には幽霊でも見たかのように顔を強張らせたアルテミシアがいる。
「どうした」
 サゲンはアルテミシアの肩に手を置いた。僅かに震えている。
「地下室を探して。少女たちがそこにいた証拠が出るはず。エサド――あの人が案内する」
「行け」
 とサゲンが命じる前にイグリは衣装部屋を出て行った。
「…あいつは人間じゃない」
 アルテミシアはそのまま倒れ込むようにサゲンの胸に縋り付いた。
 サゲンは背中に腕を回し、落ち着くように撫でてやった。どれほど悍ましい話を聞いたかは、地下室が語ってくれるだろう。
 アルテミシアは頭をサゲンの胸に押し付け、息を深くついた。報告しなければならないことは、これだけではない。
「…送金手段はヒディンゲル本人だった。あいつが年に二回、銀行から金を引き出して、決まった日に直接海賊の船に持って行くの。それ以外は一切認められない」
「後継も無しか」
「そう。病気や死亡で本人が出向けなくなったら、送金が滞ってから半年で海賊の代表者が銀行に出向いてヒディンゲル名義の金庫を空にする。しかも、きちんと法的な手続きが取れるように、カノーナスは契約書と銀行向けのヒディンゲルの署名が書かれた証書を持ってる。それで、永遠に手切れ。海賊は上客の中から新しいヒディンゲルを探すか、もういるのかも。それはエサドには分からなかった」
「或いは、ヒディンゲルの手が必要ないほどに海賊が成長しているか」
 そうなれば恐ろしい話だ。これまで海賊と大陸の架け橋となっていたヒディンゲルという存在がなくても海賊が大規模な人身売買ビジネスを続けられるほどに成長したとなれば、今後の被害は更に大きくなり、取り締まりも困難を極める。まるで疫病のように、大陸の国々の更に奥深くまで進出するだろう。
「最後の送金は衰弱が始まる直前だった。海賊が財産を回収に来るまではまだ三か月あるから、とても待てない」
「となれば、送金を装う手は使えないな」
「でも、まだ望みはある」
「なんだ」
「…みんなが揃ってるところで話す。少し情報を整理したいから」
 アルテミシアはサゲンの胸に顔を寄せ、大きく息を吸って匂いを嗅いだ。身体の震えはマシになったが、それでも立っているだけでぎりぎりだった。
「この部屋…」
 声が震える。サゲンの大きな手が頭を撫でた。
「この部屋に従妹が、マリエラがいたって…。アミラに嫁いだんじゃなくて、ここに閉じ込められた。その後、地下室に…」
 いつの間にかサゲンの軍服を涙で濡らしていた。
「マリエラだけじゃない。あいつは大金で買った貴族の女の子たちを、拷問してた。何人も…」
「もういい。よくやった」
 サゲンがアルテミシアを抱く腕に力を込めると、アルテミシアもサゲンの背に腕を回してきつく抱き締めた。
 やがて腕の中でアルテミシアが穏やかな呼吸を取り戻すと、サゲンは涙に濡れる頬に唇で触れ、目元を親指で拭ってやった。
「行けるか」
「うん」
 目を赤くしながら凛と顔を上げて見せたアルテミシアの額に、サゲンは優しく口付けした。
 
 エサドがイグリとその下士官たちを導いた先は、一階の書斎だった。彼らの持つランプが辺りの本棚や机を照らし、喪服のような黒装束を乱れなく身につけたエサドが手燭を持って奥へと進んで行く。向かう先には、壁一面に並べられた大きな本棚しかなく、本棚にはよく分からない異国の本や事典などが整然と並べられているのみだった。
「ここは全て調べましたが、特に不審なものは見つかりませんでした」
 一人の兵が言ったが、エサドは書斎の一番奥の細長い本棚までさっさと歩いて行った。
「全てではありません」
 エサドはそう言って本棚の中央を両手で強く押し、見かけからは想像もできないほどの物凄い膂力で軽々と本棚を後ろへずらした――ように見えた。イグリと下士官たちは驚いたが、よく見ると床には溝が掘り込まれ、実際はそこだけが隠し扉として造られていたに過ぎなかった。
 本棚を奥まで押し込むと、その後ろにもう一つの空間が現れた。幅一メートルほどの狭く細長い空間で、冷たい石の床に真鍮の取っ手が付いた鉄扉が備え付けられている。エサドが膝をついて真鍮の取っ手を引き上げると、湿った石特有のカビ臭さを放ちながら、地下へと続く真っ暗な階段が姿を現した。三段下は全くの闇で、何も見えない。
 イグリと下士官たちは鼻白んだが、エサドは手燭の灯りのみを頼りにさっさと降りて行く。誰の足音もないことに気付いたエサドは三段目で止まって後ろを振り返り、無表情のまま小首を傾げた。これが、イグリの目にはまるで死出の旅路を導く死神のように思えた。
「気味が悪いってこういうことだな」
 イグリはポツリと呟き、後ろでウンウンと同意する部下たちと共にエサドの後をついて行った。岩をくりぬいたような狭く暗い階段は、一段降りるごとに湿気を含んだ空気は冷たくなり、カビの臭いの中に何かもっと不快なものが混じり始めた。
 
 何段降りたか定かではない。実際にはそれほどの長さではなかったかもしれないが、この無機質で嫌な空気を放つ石段が永遠に続くのではないかと思われた。イグリが後ろの下士官たちを振り返りたい衝動に駆られ始めた時、先頭を行くエサドが立ち止まり、目の前にまたしても鉄の扉が現れた。今度は床ではなく、石の壁に埋め込まれるように備えられている。
 エサドが扉を開けた時、ギイ、と蝶番が不気味な悲鳴を上げた。暗闇の中へ溶け込んでいくように黒装束のエサドが中へ進んだが、そのすぐ後ろにいるイグリは扉の手前で躊躇した。とてつもなく嫌な感じがする。
 暫くしてぽつぽつと部屋の中に火が灯り始め、手燭から部屋の燭台へと火を移して回る死神のようなエサドの姿を浮かび上がらせた。
(うっ)
 と、イグリが呻き声を上げそうになったのは、死神のせいでも、この部屋に漂う香か何かの甘ったるい残り香や、それに混ざって臭ってくる腐臭にも似た不快なもののせいでもない。
 この部屋の異様さのせいだ。
 貴族の寝室に相応しい広さの部屋の四面は所々神話や農村風景の織り込まれたタペストリーで覆われ、床は暗い色の木の板の上に植物文様の、側面の石壁が剥き出しになっている場所には鉄杭がいくつも打ちつけられて、それぞれに夥しい数の錆びた鎖、手足や首に使う枷、鞭、小型のナイフなどが掛けられていた。中央には真っ黒なシーツの簡素な寝台が置かれ、ヘッドボードとフットボードにはそれぞれ細い鉄柵があり、その四隅には鎖が付けられ、天井には縄の付いた滑車がある。これらが何のためにあるのかなど、考えたくもない。
 その中でも特に異様だったのが、部屋の一番奥に設えられた祭壇だった。この区画だけ剥き出しの石壁ではなく、磨き上げられた暗い色の木で壁が覆われており、その周囲は蔦模様や果実などが彫られて装飾されていて、高さ一・五メートルくらいの若い女の全身の肖像画が信仰対象のように掛けられ、その周りにいくつものすっかり枯れてくしゃくしゃになった無数の花びらが落ち、かつてはそれらが薔薇の花束だったことを示す枯れ枝と乾いたガラスの花瓶が置かれて、溶けて固まった蝋がこびりついた燭台が囲んでいる。
 絵の女は少女にも見えたが、胸の下で右手に軽く重ねた左手の薬指には結婚指輪をしているから、既婚者であるらしい。青白い顔は斜め左を向いているが瞳は正面の鑑賞者をじっと見据え、顔立ちは愛らしいものの表情が無く、レースの飾り襟の付いた豪華な朱色のドレスを着て、裸足の足元まで伸びた長い髪をいくつもの輪で束ねていた。
 イグリがぞっとしたのは、髪のあまりの生々しさだった。金にも茶色にも見えるその髪はまるで本物のように鈍い光を放ち、あたかも風に揺れているように見える。言葉が勝手に口を突いて出て来るような性分のこの男にしては珍しく、イグリは言葉を発することができなかった。
「ここにも灯りが必要ですか」
 エサドが横から声を掛け、手燭から祭壇の燭台へ火を移そうとした。本人からすれば軍に協力しようと思ってしたことだったのだが、イグリはびくっと跳び上がりそうになり、そのことに狼狽して思わず
「いや、ここはいい」
 と断ってしまった。
(しまった)
 と後悔してやはり火を頼もうかと思ったが、正直これでよかったかもしれない。絵のモデルの女性には悪いが、この薄気味悪い肖像画を明るく照らして近くからまじまじ観察する気にはとてもなれない。
「君は、この部屋で何が行われていたか知ってるんだな」
 イグリは言葉の中に責めるような調子が混ざるのを止められなかった。目の前の男が長い間ヒディンゲルという怪物に隷属させられてきたことは、頭では理解している。彼らが本心では女たちを憐れに思ったとしても、主人に逆らうことはできなかったはずだ。それでも、この部屋に連れて来られた女たちの恐怖や絶望を思うと、あれだけ若い男がいてどうして誰も老いぼれのヒディンゲルたった一人に反抗しようとしなかったのかと行き場のない怒りが湧き上がってくる。周りを囲む兵たちも同じ思いをしているのは、顔を見れば一目瞭然だった。それだけに、益々感情を表に出してはいけない。と、イグリは思い直した。今まではサゲンが担ってきた専門分野だが、この場ではイグリが上官の立場なのだ。下士官たちが上官の悪感情に引っ張られて公正な判断ができなくなるようなことがあってはならない。
「…はい、知っています。しかし見たことはありません。ご主人様は花嫁とこの部屋にいるとき、誰も入って欲しくありませんでした。そして、この部屋の片付けはわたしの仕事ではありませんでした」
 きついアミラ訛りのマルス語を聞き取るのに所々苦労したが、イグリはいつものように穏やかな表情でいることに努め、声色に感情が表れないよう、一度大きく息を吐いた。
「…じゃあ、君の仕事は何だったんだ?」
 エサドは僅かな沈黙の後、口を開いた。
「わたしの仕事は花嫁をこの部屋へ案内することでした」
(まさしく死神だ)
 イグリは心の奥でそう思うのみに留めた。この男もヒディンゲルの被害者なのだから、面と向かって非難するわけにいかない。それに、アルテミシアの説得の効果もあってか、こちらに協力的だ。これは評価に値する。
 イグリと下士官たちが地下室の検分を始めてしばらくすると、サゲンとアルテミシアが部下の案内で降りてきた。
「ミーシャ!ここはちょっと、見ない方が…」
 イグリがアルテミシアの姿を認めるなり慌てて止めようとしたが、その隣でサゲンが静かに首を振った。「好きにさせろ」ということらしい。
「わたしなら大丈夫だから」
 狼狽するイグリをさっさと通り越して、アルテミシアは中央の黒いシーツが掛けられたベッドへ近付いた。眉を不快そうに歪めてそれを眺めた後、アルテミシアは何を思ったのかシーツをめくり上げた。剥き出しになったマットレスを見て、その場にいた全員が凍りついた。
 白いはずのマットレスは黒と茶色の染みが幾重にも重なってひどく汚れていた。――血の痕だ。
 恐らく何度か洗浄を試みたであろう場所は薄い茶色の染みになっているが、とても落とせるものではない。それを隠すために黒いシーツを掛けていたのだ。染みはマットレス中央の上部、仰向けに横たわった時に丁度背中が当たる場所に集中している。
「背中を鞭打ったか、切りつけたのか」
 サゲンの声は怒りを押し殺しているようだった。
 アルテミシアは吐き気を堪えながら、奥の祭壇に目を留めた。
「エサド」
 部屋の奥の石壁に溶け込むように両手を揃えて直立するエサドに向かってアルテミシアが呼びかけると、エサドは首だけをアルテミシアの方へ向けた。
あの人は誰オ キム?」
 アルテミシアは尋問の時と同じようにエル・ミエルド語で問いかけた。
「わかりません。ご主人様は‘ザイネ・スクラーフィン’と呼んでいました」
 エサドの返事はエル・ミエルド語だったが、一つだけアミラの言葉が混じっていた。
「‘ザイネ・スクラーフィン’、‘彼の奴隷’…。彼って?」
「わかりません。ご主人様はどちらの名前も言いませんでした」
 アルテミシアは無言で肖像画を見た。広い額の、無感情な顔の女性。――
 この時アルテミシアが発想したことは、自らに怖気を震わせた。
「――母親?」
 まじまじとその青白い貌を見た。祭壇から伸びてくるその無機質な視線は、ちょうど血塗れの寝台に届くようになっている。
「母親に、見せてた…」
「うわ、まじか」
 イグリは寝台のすぐそばにいたが、これ以上気味悪いものはないというような調子で吐き捨て、その場から跳び退くようにして後ろへ下がった。
「イカれてる」
「‘彼’というのが父親なら、妻を奴隷と呼んでいたことになる。化け物を手本に育ったということか」
 サゲンも眉をひそめ、拷問に使われていたらしい道具を証拠品として集める作業をしていた下士官たちに指で合図をして絵の前へ集まらせ、絵を取り外すように命じた。
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 叫んだのは、絵を外そうと額縁に手を掛けた若い兵士だった。幽霊でも見たような表情だった。
「将軍、隊長、これ…」
 サゲンとイグリとアルテミシアが乾いた蝋を踏んで祭壇に足を踏み入れ、それに近付いた。
 この日、アルテミシアを何よりも恐怖させたのは、この屋敷に漂う冷たい空気よりも、落ち窪んだ目をした屍のようなヒディンゲルよりも、この瞬間だった。
 肖像画の髪は、人の髪だったのだ。
 それも、長さや色が少しずつ違うものを一束ずつ絵に重ねて丁寧に縫い付け、或いは貼り付け、肖像画の母親が本物の髪をまとっているように見せている。
 これが誰の髪であるかは、想像に難くない。
「化け物――」
 アルテミシアの全身を氷の膜が張っていくようだった。
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