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四十二、 悪手 - Pessima mossa -
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エラは遥か遠くの聖堂から聞こえる四時の鐘で目を覚ました。
オアリス城で働いている使用人たちは日の出とともに一斉に仕事を始め、門番や宿直の番の者たちは交代して使用人のアパルトマンへ帰って行くが、バルカ邸では勝手が違う。
主人であるサゲン・バルカ将軍の方針で宿直番は設けず、早朝から夕刻の当番と昼から夜までの当番を置き、九時には全ての使用人が仕事を終えて彼らの暮らす離れへ帰ることになっている。
朝番に当たった時は宿直がいない分早く起きなければならないが、時には城に出入りする要人や賓客の都合で朝から真夜中まで仕事をさせられることがあった王城での勤務よりは、ある程度規則が整っていて合理的だ。と、エラは思っている。ケイナには、もう一つの利点の方が重要であるらしい。曰く、朝番なら明るいうちに仕事が終わるからオアリスの街へ繰り出すことができる、というのだ。
「ケイナ、仕事の時間よ」
エラはかつて妹たちにしていたように、隣の部屋の同僚に声を掛けた。相部屋ではなくなったのも、オアリス城で働いていた時と違う点だ。使用人の数が少ない分、使用人の住居として用意された大きな離れには、一人につき一つずつ十分な広さの部屋が用意されている。ケイナとの相部屋は好きだったが、時折お菓子を持って隣の部屋へ遊びに行ったり互いの部屋に泊まったりするのも新鮮な楽しみの一つだ。
エラはすっかり慣れた手つきで身体の線に沿うイノイルのドレスを着、さらさらしていてまとまりにくい自分の髪を器用に一本のかんざしとバレッタでくるくると一つにまとめ、他の身支度もさっさと済ませて長い渡り廊下を歩き、母屋の食堂へ向かった。燭台に火を灯し、竈に火を入れ、昨夜料理番のマキベが主人たちの朝食のために作り置いたひよこ豆と鶏肉のトマトスープを温め始めたところで、一足遅れてケイナが現れた。赤毛を後ろで縛り、お団子にしている。
「おはよ、エラ」
「おはよう、お寝坊さん」
エラがいつもの調子で軽口を叩くと、ケイナが八重歯をチラリと見せて悪戯っぽく笑った。
「昨日は昼番だったんだもん。知ってるでしょ」
「知ってるわよ。九時に仕事が終わった後、離れに帰って来ないで兵舎の近くで誰かと会っていたこともね」
と、エラが澄まして言った。
「うそっ!どうして知ってるの!?」
ケイナは仰天した。その時間にはエラはすっかり眠っていたと思っていたのだ。
「わたしって耳がいいの。知らなかった?兵舎の方から誰かと楽しそうに馬で帰ってくるのを聞いたわよ」
エラが木のレードルを持ったまま、肘でケイナの脇をちょこちょこと小突いた。そこへ、執事のシオジが食堂の入り口からしかめ面を覗かせた。
「こら。あなたたち。旦那様方はまだお休みなのですよ」
シオジ・ネロ・ミネイは、バルカ邸の使用人の人選を任されたロハクが真っ先に任命を決めた人物だった。
ミネイ一族は代々バルカ家に仕える家柄で、シオジの父親もサゲンの父親が若い頃から本家の執事として仕えていた縁がある。シオジ本人も生まれてから十代でオアリス城へ奉公に出るまで五つ年下のサゲンと同じ屋敷で暮らしていたから、サゲンとは主従でありながら旧友のような間柄だった。
そういう理由で、ロハクはシオジがバルカ邸の使用人を取り仕切る立場に相応しいと考えたのだ。シオジはこの時オアリス城の装飾品や備品を管理する部門の責任者だったが、ロハクがシオジに打診すると、シオジは給金を始め休日や城下の自宅へ帰れる日数などの細かい条件を交渉した後、
「シオジ・ネロ・ミネイ、喜んでサゲン・エメレンス様に誠心誠意お仕え致します」
と改まって深く頭を下げた。
「失礼しました」
叱責されたエラとケイナはピッと背筋を伸ばし、シオジの顔をそろそろと見上げた。‘ネロ’の名に相応しく、深い黒の目がこちらを見返してくる。茶色っぽい黒髪がきっちりと後ろへ撫でつけられているために、広い額の下の太い眉と眼光の鋭さが際立ち、もともと顎の大きな武者面が更に強面に見える。
が、エラが一番この男を威圧的に見せていると感じているのは、顔よりも寧ろがっしりと頑健な広い肩だった。背丈がそれほど高くないにも関わらず、肩の広さは主人のサゲン・バルカ将軍とそう変わらないのだ。今着ているような皺ひとつない黒の上衣とグレーの細身のズボンなどではなく軍服に身を包んでいれば、百戦錬磨の軍人に見えることだろう。
しかし、エラもケイナもその容貌に怯えたりはしない。オアリス城で働いていた頃に何度か顔を合わせたことがあるからでなければ、そのいかにも膂力の強そうな外見から考えれば驚くべきことに従軍経験はおろか木刀すら振ってみたことがないという事実を知っているからでもない。この新しい上司がその厳つい容貌に似合わず無類の甘党で小さく可愛いものに目がなく、この屋敷の誰よりも心優しい人物であることを知っているからだ。現に今しがたの叱責の仕方も、まるで幼児に言い聞かせるように優しげな口調だった。彼女たちは、シオジが怒ったのを凡そ見たことがない。
「今の時間は虫さんの声でお話しなさい」
という今の一言にも、この執事の人間性が表れている。
ロハクが厳格なバルカ将軍と跳ねっ返りの通詞の住む屋敷にこの虫も殺さない男を執事として置いたのには、ひとつにはこの気立てのまろやかさに目を付けたという理由がある。時に二人が暴発寸前の銃のように殺伐としていても、この男の気質が屋敷の空気に調和をもたらすことを期待したのだ。
エラやケイナはロハクの意図など知る由もないが、少なくともその効果が使用人たちの間で発揮されていることを肌身で感じている。
二人は「はい、シオジさん」とにこにこしながら小さな声で返事をした。
「昨日はご自宅に帰られたのですよね?奥さんとお子さんのご様子はいかがでしたか」
とエラが尋ねると、シオジは相好を崩した。
「娘は日に日に妻に似て可愛くなるし、妻はお腹が大きくなるにつれてますます美しく輝いて見えます。次に自宅へ帰るのが待ち遠しいですね」
「旦那様なら、週三日と言わず毎日自宅へ帰ってもいいと仰るんじゃありません?」
ケイナが言うと、シオジは生真面目な顔に戻って首を振った。
「それはできません。ただでさえ帰宅した翌日は遅出にしていただいているのに、これ以上はわたしが執事としての仕事をこなすのに差し支えます。旦那様の好意に甘えて職務を疎かにするようでは、執事は務まりません」
シオジはシワひとつないシャツの襟をビシッと正し、誇らしげに胸を張った。
「あら。でも結局今日も早くいらっしゃったじゃないですか」
「今日は旦那様が早く出られるご予定ですから」
「シオジさんたら、度が過ぎるくらい仕事熱心なんだから。旦那様やミーシャ様といい勝負ですよ」
ケイナが目を大きく開け、ぐるりと回して見せた。エラもゆっくりと鍋をかき混ぜながら苦笑している。
「でもお産の報せがあった時は、あたしたちが無理矢理にでも馬に乗せますからね」
「そうですよ。ああ、勘違いしないでくださいね。シオジさんじゃなくて、奥さんやお子さんのためですから」
シオジは口やかましい娘たちに辟易とした父親のように苦笑し、手を振って仕事を続けさせた。
エラはスープと軽く網で焼いたバゲット、ゆで卵、リンゴとオレンジ、カップ一杯の牛乳を盆に乗せ終えると、サゲンの寝室へ運んで行った。早朝から屋敷を出る日は、食堂ではなく寝室で朝食を取るのが通例になっている。扉を叩こうとしたところで、向こうからガラリと引き戸が開き、きちんと濃紺の軍装に身を包んだサゲンと鉢合わせた。毎朝の起床時と同じく、今朝も一重まぶたが薄っすら二重になっているが、既にきちんと髭は剃られ、髪も整っている。
「おはようございます、旦那様。朝食を…」
「ああ。俺は食堂で食べる」
「では、食堂にお持ちいたしますわ」
盆を持って引き返そうとしたエラを、サゲンが止めた。
「それは部屋に置いておいてくれ」
エラは勘がいい。わざわざ聞かなくてもすぐに事情を察した。眠りを邪魔したくないのだろう。
無駄なものが一切置かれていない主人の寝室へ入り、広いベッドの上で膨らんでいるフワフワの掛け布団を視界の端に捉えながら、ベッドのサイドテーブルに朝食を置いた。布団の膨らみがゆっくりと静かな寝息を立てながら上下している。
寝室の中央に置かれたソファの背もたれにアルテミシアの寝衣が掛けられているから、恐らく布団の下は下着だけか、或いは何も着ていないだろう。着替えを準備する必要がある。
エラがアルテミシアの寝衣を取り上げて部屋を出ようとした時、ガバッ!と布団を跳ね上げてアルテミシアが飛び起きた。
「わっ、びっくりした…。おはよう、ミーシャ」
エラの予想通り、アルテミシアは何も着ていなかった。白い乳房が露わになり、首から胸元まで至るところに付けられた赤い痕までよく見える。多分、布団で隠れている部分にも同じものがいくつも付いているはずだ。
「おはよう、エラ」
アルテミシアは自分のあられもない姿など気にもせずにひどく掠れた声でいつも通りの挨拶をしながらサッと辺りを見渡し、寝室にサゲンがいないことを知ると、
「くそっ!やられた」
と珍しくルメオの強い方言で悪態をついた。
エラはわけが分からず顔をしかめて見せたが、この後やることははっきりしている。
「着替えを持ってくるわ」
「時間が勿体無いから、わたしの部屋で着る」
言いながらアルテミシアは何やら布団の中でもぞもぞし、素肌が透けるほど薄い絹のシュミーズ一枚を身につけただけでベッドを降りた。肩と二の腕どころか、白くしなやかな腿が剥き出しになっている。
「えっ」
エラが仰天する間もなく、アルテミシアは裸足のままサゲンの寝室の引き戸をガラリと開け、さっさと廊下へ出て行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待っ…、おま、お待ちくだ…、ああもう!ミーシャったら!」
混乱したエラが呼び止めるも、遅かった。既にアルテミシアは廊下の角でサゲンのブーツを運んで来たシオジと出くわしている。
「あっ。ごめん、シオジさん」
とアルテミシアが気軽に謝罪するのが聞こえたが、シオジは普段の厳しい顔つきのまま固まっている。そんなシオジの様子に気を留めることもなく、アルテミシアは足早に自分の部屋へと向かって行った。
「あ、シオジさん、旦那様は食堂で朝食を召し上がります」
と、エラは慌てて後を追いながらも上司への引き継ぎを忘れなかった。シオジがハッと我に返り、「承知しました」と返事をした時には、エラは前方のアルテミシアをバタバタと追って目の前から姿を消していた。
エラがアルテミシアの部屋に入った時、アルテミシアは控えめな装飾が施された薄い色のワードローブからドレスを出していた。いつもの登城用の小綺麗なドレスではなく、女王が作らせた女性用の軍服だった。
「手伝うわ」
エラは何も訊かず、アルテミシアをシワひとつない軍装に整えた。
それが終わると、エラは間を置かずに朝食をサゲンの寝室からアルテミシアの部屋の仕事用の机の上に移動させ、アルテミシアが大きく口を開けていつもの倍の速さで食事をする間、エラはうがい用に常備してあるミントを漬けたハーブ水を自分の手に付けて、寝癖でぴょんぴょん跳ねたアルテミシアの髪を湿らせ、櫛を入れた。湯や髪用の香油を用意する余裕はとてもなさそうだから、仕方ない。いつもなら女性らしく前髪を目に掛からない位置に落とし、後ろはふんわりとふくらみを持たせてシニョンに結うところだが、今日は全てを後頭部できつく一つに縛り、やや短めのポニーテールにした。エラにとって別段大きな理由があったわけではなく、単にこちらのほうが軍装に合うと感じたからだが、エラの勘の良さはこういうところでも役立っている。
アルテミシアはものの五分で食事を終えてカップの牛乳を飲み干し、馬毛のブラシでさっさと歯を磨いてハーブ水でうがいをし、首尾良くエラが差し出した盥にぺっと吐き出すと、布をハーブ水で濡らして顔を拭いた。
「ちょっと待って。すぐ済むから」
エラは扉へ向かおうとしたアルテミシアを呼び止め、アルテミシアが歯磨きをしている間に用意しておいた白粉をポンポンと顔に叩いてやった。いつもの化粧よりは随分簡単だ。エラとしては物足りないが、これも仕方ない。それに、これもただの勘だが、今日はどうも化粧っ気のないほうが好ましいような気がした。
「ありがと。すごく助かった。エラって最高」
アルテミシアは両手の親指を立ててエラにそう告げるなり、脱兎の如く部屋を出て行ってしまった。
これだけ急いでいる割に身だしなみをきちんとしていくあたりがアルテミシアらしいといえばアルテミシアらしいが、エラには未だに事態が掴めていない。
エラは嵐が去った後の庭を眺めるような思いで片付けを始めた。間もなく馬のいななきと地を蹴る音が聞こえた。アルテミシアの起床から、二十分と経っていない。
そこへ、ケイナがひょっこり顔を出した。
「旦那様は朝食を召し上がるなりさっさと出て行っちゃったけど…、ミーシャ様も?いったい何事?」
「さあ…」
「シオジさんも知らないって言うのよ。そういえばシオジさんの挙動がなんだかおかしかったけど、関係あるのかな?何か隠してると思う?」
「それは、ないと思う…」
エラはシオジを不憫に思った。忠実なシオジのことだから、女性の――あまつさえ、主人の恋人の下着姿を目撃してしまっては、しばらく罪悪感に悩まされるに違いない。
「あなたは軍の彼氏から何か聞いていないの?」
エラが訊くと、ケイナはそばかすの浮いた頬をちょっと赤らめて「ううん」と首を振った。
「訊いても教えてくれないと思うわ。彼って外では軍に関する話は絶対にしないの。信頼関係を大切にする人だから。それってすごく大事なことでしょ?真面目な人って素敵じゃない?それに、あたしがこんなにおしゃべりでも嫌な顔ひとつしないで、ちゃんと聴いてくれるの。この間なんか…」
「はいはい」
途中から話の趣旨が全く変わってしまった。エラは半ば呆れながら、親友の惚気話に耳を傾けてやった。
サゲンは後方から迫ってくる馬蹄の音を聞き、短く溜め息をついた。
「出し抜けると思った?」
背後から刺すような声が飛んでくる。サゲンは愛馬ティティの黒い腹に踵を軽く押しつけて速度を緩めさせ、苦々しい気分で隣に並んだアルテミシアの顔を見た。髪がきつく後ろでひっつめられ、いつもよりきりりと怜悧に見える。
「…侍女ができ過ぎるのも考えものだ」
サゲンの眉が物憂げに影を落としている。アルテミシアはキッと眉尻を上げた。
「わたしが軍議に出ると何か不都合があるわけ?あんな――」
と、アルテミシアはここで不覚にも顔色を変えてしまった。サゲンが片方の眉を上げ、こちらを揶揄うような視線を投げてくる。
「あんな、…姑息な手まで使って」
「ほう。俺がどんな姑息な手を使ったと言うんだ」
サゲンの唇が弧を描いたのを見て、アルテミシアの頬がじわじわと熱くなった。自分では怒っているからだと思いたかったが、実際は違う。あの形の良い唇が昨夜自分にどんなことをしたのか思い出したからだ。
――昨日のことだ。
アルテミシアがいつもの机仕事を一通り終えた後、長らく中断していたイノイル史の講義を白いもじゃもじゃした口髭の老臣から受けていると、サロンの外からエマンシュナ訛りのマルス語が聞こえてきた。たまたま耳に入ったのか、無意識のうちにエマンシュナに関するものを拾おうとしていたのかは自分でも分からない。
エマンシュナの貴人が賓客として城内に出入りしているなどは別段珍しくもないが、たまたまここは四階だ。サゲン・バルカ将軍はじめ、上級将校ら軍関係者の執務室や来客用の応接間が並んでいる。それに加えて、アミラ国内で所在が確認できないヒディンゲルが南エマンシュナにいる可能性が濃くなっていることは、無論アルテミシアの耳にも入っている。おまけに、ユルクスのミルコ・フラヴァリからも既にベルージの供述した情報がサゲンのもとへ入って来ている。これらの条件を勘定に入れれば、
(エマンシュナから情報が入ったんだ)
とアルテミシアが考えたのも自然なことだった。
その夜、使用人たちが全員辞去した後にサゲンの寝室を訪ねて例の件を問い質すと、サゲンは一言
「そうだ」
と認めた。
「それなら、明日白髭さんやイキさんたちと軍議があるんでしょう?」
「…ああ」
「わたしも行く」
アルテミシアは当然自分にもその権利があると思った。造船所の正体を突き止め、ヒディンゲルの足取りを追うことができたのは、アルテミシアの功績によるところが大きい。これは単なる自負ではない。だから、
「だめだ」
というサゲンのにべない返事に自分の耳を疑った。
「どうして?」
「前回の海賊討伐の時、君は通詞兼交渉役だった。パタロアでは標的をよく知る案内役だ。今回は一から十まで軍の作戦になる。通詞も交渉役も、案内役も必要ない」
「でも――」
「だめだ。認めない」
サゲンはこの上なく厳格な司令官らしく、表情を消している。アルテミシアは美しい瞳に剣呑な光を躍らせ、天敵を目の前にした獣のように鼻に皺を寄せた。サゲンがこの顔を向けられたのは久しぶりだ。前は確か、アルテミシアを初めて抱く直前のことだった。
「じゃあ、イキさんに頼むからいい」
アルテミシアはそう言って踵を返したが、サゲンに強く腕を掴まれ、引き戻された。先程よりも近い位置にサゲンの身体がある。顔を見上げなくても分かる。こういう仕草は、サゲンが怒りや苛立ちを抑え込むのに失敗した時にするものだ。
「君はいつからゴラン・イキを親しげに呼ぶようになった」
アルテミシアはじわりと身体が熱くなったのを無視して、高い位置にあるサゲンの顔を睨めつけた。思った通り、眉間には深く皺が刻まれている。
「あなたこそ、いつからわたしの上官になったの?バルカ将軍」
「よせ、アルテミシア。今は議論をする気分じゃない」
「そうだろうね。わたしに分があるもの。わたしには前回作戦の発案者って立場があるし、それもちゃんと成功した。あなたが認めなくたって、わたしは軍議に出られるよ」
サゲンの暗い瞳がギラリと危うく光ったと思った瞬間、アルテミシアの身体は軽々と担ぎ上げられ、ベッドに投げ下ろされた。
「ちょっと!――」
アルテミシアは唸って身体を起こそうとしたが、既にサゲンの膝が脚の間に陣取ってそれを阻んでいる。雷雲のように覆い被さって肩を押さえつけてくるサゲンの顔は、苛立ちと欲望に燃え、同時に憂鬱そうに翳って見えた。
「サゲン…」
アルテミシアがその違和感に疑問を持つ前に、サゲンは彼女の顎を掴んで唇を塞いだ。
目の前の大きな身体を突き放そうと上げた手は、サゲンの舌が口の中を侵し始め、大きな手が寝衣の前を割って胸に触れてくると同時に抵抗力を失い、代わりにサゲンの寝衣のシャツの上を背中へ向けて這い始めた。しかし、サゲンはその両手首を掴んでベッドへ縫い付け、再びアルテミシアの自由を奪い、皮肉気に唇を吊り上げた。
「賭けるか?君が明日軍議に出られるか」
サゲンはアルテミシアに返答する余裕を与えなかった。
アルテミシアは激しく乱された。
サゲンの舌と唇が全身を這い、手で触れられたところから炎のように快感が燃え上がり、優しく激しい愛撫に翻弄され、何度も絶頂へ押し上げられて、鉄のように硬くなったサゲンが身体の奥へ入って来た時には、もう何も考えられなくなった。
サゲンは懇願するアルテミシアを休ませることなく欲望に任せて彼女の最深部を強く穿ち続けた。そして、嵐の大海原に小さなヨットで放り出されたように大きな衝撃と暴力的なまでの歓喜に満ちた行為が終わる頃には、アルテミシアは既に意識を失っていた。
これがサゲンの苦肉の策であることを理解したのは、つい先刻、ベッドにサゲンがいないことに気付いた時だ。
(もう少しで策に嵌まるところだった)
じろりとサゲンの端整な横顔を睨んだ。こちらは眠気に加えて股関節や腰の痛みと戦いながらやっとの思いで馬に跨っているというのに、相手は疲れた様子など微塵も見せずに余裕綽々で馬を駆っている。結果的にサゲンの仕掛けた賭けには勝ったはずなのに、どうしてもそう思えない。
「あなたにしては、まずい手だったね」
アルテミシアがそう言ったのは、負け惜しみだ。
「この上なく疲れさせたつもりだったが、君の寝起きの良さには感服した。多少は有効だったようだがな」
サゲンはアルテミシアの目の下をチラリと見た。化粧で多少隠れてはいるが、青い隈になっている。赤く染まった頬とは対照的だ。
「最悪」
不機嫌にそう吐き捨てたアルテミシアに向かって、サゲンは目を細めて見せた。
「そんなはずはない。君もずいぶん愉しんでいたぞ」
アルテミシアは熟れたコケモモのように赤い頬を膨らませて押し黙った。
否定はできない。
もし昨夜策略に気付いていたとしても、この男の愛欲の誘惑には打ち勝てなかっただろう。それを拒むには、サゲンの肉体から繰り出される快楽と恍惚を知りすぎてしまった。――が、それはいい。問題は、正当な理由もなく、あまつさえ愚にもつかぬ策を弄してまでサゲンがアルテミシアを軍議に参加させたくない理由だ。
「そうまでして、どうしてわたしを軍議に出したくないのか教えて。わたし何かした?」
サゲンは物憂げにアルテミシアを一瞥した。顎関節が硬く動いたのが傍目にも分かる。
「…俺の問題だ。君がいると任務に集中できない」
「何それ。そんなことでわたしの邪魔をしたって言うの?」
「‘そんなこと’じゃない、アルテミシア。俺は司令官だ。任務に当たっては一切の私情を挟むべきではない。だが君の存在は、俺の判断を曇らせる。君はしばしば躊躇なく自分を危険に晒す。俺はその恐怖と戦いながら連合軍を総括しなければならないんだ」
アルテミシアの憤りは驚きに呑み込まれてしまった。サゲンの口からこれほど弱気な言葉が零れてくるなど、どうして考え付くことができただろう。
「…軍議に出るだけだよ」
「まさか。それだけでは済まないだろう。軍議に出れば、君のことだ。当然作戦にも参加するだろう。前回よりももっと危険な目に遭うかもしれない」
サゲンが眉の下に影を落とした。アルテミシアが昨夜持った違和感の正体は、これだ。欲望と苛立ちに隠れて、不安がサゲンの目を暗く見せていたのだ。申し訳無さとは裏腹に、アルテミシアは胸が熱くなるのを堪え切れなかった。
「…今すごくあなたを抱きしめたいんだけど、お互い馬上じゃちょっと無理があるから我慢する」
サゲンは失笑した。どうやらアルテミシアは大真面目だ。白み始めた空の仄かな光を受けたハシバミ色の瞳が真っすぐこちらを見つめている。
「関わるなって言うのは聞いてあげられない。だって、ヒディンゲルの件は他の誰よりもわたしに関係があるんだもの。それに、役にも立てるよ。確かに、前はちょっと…無茶したかもしれないけど、今は違う。わたしが傷付いたらあなたも傷付くってちゃんと理解してるから。あなたを大事に思うみたいに、自分のことも大事にする。わたしのこと、信じてくれる?」
「君になら命も預けられる」
サゲンは頷いた。本心だ。アルテミシアが安堵したように口元を緩めた。
「しかし、これは信頼とは別の問題だ。極めて個人的で、感情的なものだ」
「じゃあ、質問を変えるけど――」
と、アルテミシアは人差し指を上げた。
「軍議に出るのは、個人としてのサゲン?それとも海軍司令官のバルカ将軍?」
「無論、後者だ」
サゲンは苦々しげに言った。
「前回作戦を採用した者を軍議に参加させるのは、とっても理に適っているでしょう?バルカ将軍」
「――ああ」
サゲンが奥歯を噛みながら唸るように答えると、アルテミシアは「ほらね」とでも言わんばかりに唇を吊り上げて見せた。
「くそ」
サゲンが小さく悪態をついたのは、押し問答に負けたからではない。
「君にキスしたい」
アルテミシアは熱波を正面から受けたように目をぱちくりさせた。
「で、でも馬上じゃちょっと――」
言い終わる前にティティの黒い馬体がアルテミシアの乗る栗毛のデメトラに接近し、両足を鐙に掛けたまま身を乗り出したサゲンの腕に肩を掴まれていとも簡単に唇を奪われた。
サゲンは何秒か後に唇を離し、ぶるりと不満げに鼻を震わせたティティに真っ直ぐ座り直すと、頬を染めて唇を結んだアルテミシアにニヤリと笑って見せた。
「できないと思ったのか?」
「…やられた」
いつの間にか前方にあるティティの黒々とした尻尾を眺めながら、アルテミシアは頬を膨らませた。
オアリス城で働いている使用人たちは日の出とともに一斉に仕事を始め、門番や宿直の番の者たちは交代して使用人のアパルトマンへ帰って行くが、バルカ邸では勝手が違う。
主人であるサゲン・バルカ将軍の方針で宿直番は設けず、早朝から夕刻の当番と昼から夜までの当番を置き、九時には全ての使用人が仕事を終えて彼らの暮らす離れへ帰ることになっている。
朝番に当たった時は宿直がいない分早く起きなければならないが、時には城に出入りする要人や賓客の都合で朝から真夜中まで仕事をさせられることがあった王城での勤務よりは、ある程度規則が整っていて合理的だ。と、エラは思っている。ケイナには、もう一つの利点の方が重要であるらしい。曰く、朝番なら明るいうちに仕事が終わるからオアリスの街へ繰り出すことができる、というのだ。
「ケイナ、仕事の時間よ」
エラはかつて妹たちにしていたように、隣の部屋の同僚に声を掛けた。相部屋ではなくなったのも、オアリス城で働いていた時と違う点だ。使用人の数が少ない分、使用人の住居として用意された大きな離れには、一人につき一つずつ十分な広さの部屋が用意されている。ケイナとの相部屋は好きだったが、時折お菓子を持って隣の部屋へ遊びに行ったり互いの部屋に泊まったりするのも新鮮な楽しみの一つだ。
エラはすっかり慣れた手つきで身体の線に沿うイノイルのドレスを着、さらさらしていてまとまりにくい自分の髪を器用に一本のかんざしとバレッタでくるくると一つにまとめ、他の身支度もさっさと済ませて長い渡り廊下を歩き、母屋の食堂へ向かった。燭台に火を灯し、竈に火を入れ、昨夜料理番のマキベが主人たちの朝食のために作り置いたひよこ豆と鶏肉のトマトスープを温め始めたところで、一足遅れてケイナが現れた。赤毛を後ろで縛り、お団子にしている。
「おはよ、エラ」
「おはよう、お寝坊さん」
エラがいつもの調子で軽口を叩くと、ケイナが八重歯をチラリと見せて悪戯っぽく笑った。
「昨日は昼番だったんだもん。知ってるでしょ」
「知ってるわよ。九時に仕事が終わった後、離れに帰って来ないで兵舎の近くで誰かと会っていたこともね」
と、エラが澄まして言った。
「うそっ!どうして知ってるの!?」
ケイナは仰天した。その時間にはエラはすっかり眠っていたと思っていたのだ。
「わたしって耳がいいの。知らなかった?兵舎の方から誰かと楽しそうに馬で帰ってくるのを聞いたわよ」
エラが木のレードルを持ったまま、肘でケイナの脇をちょこちょこと小突いた。そこへ、執事のシオジが食堂の入り口からしかめ面を覗かせた。
「こら。あなたたち。旦那様方はまだお休みなのですよ」
シオジ・ネロ・ミネイは、バルカ邸の使用人の人選を任されたロハクが真っ先に任命を決めた人物だった。
ミネイ一族は代々バルカ家に仕える家柄で、シオジの父親もサゲンの父親が若い頃から本家の執事として仕えていた縁がある。シオジ本人も生まれてから十代でオアリス城へ奉公に出るまで五つ年下のサゲンと同じ屋敷で暮らしていたから、サゲンとは主従でありながら旧友のような間柄だった。
そういう理由で、ロハクはシオジがバルカ邸の使用人を取り仕切る立場に相応しいと考えたのだ。シオジはこの時オアリス城の装飾品や備品を管理する部門の責任者だったが、ロハクがシオジに打診すると、シオジは給金を始め休日や城下の自宅へ帰れる日数などの細かい条件を交渉した後、
「シオジ・ネロ・ミネイ、喜んでサゲン・エメレンス様に誠心誠意お仕え致します」
と改まって深く頭を下げた。
「失礼しました」
叱責されたエラとケイナはピッと背筋を伸ばし、シオジの顔をそろそろと見上げた。‘ネロ’の名に相応しく、深い黒の目がこちらを見返してくる。茶色っぽい黒髪がきっちりと後ろへ撫でつけられているために、広い額の下の太い眉と眼光の鋭さが際立ち、もともと顎の大きな武者面が更に強面に見える。
が、エラが一番この男を威圧的に見せていると感じているのは、顔よりも寧ろがっしりと頑健な広い肩だった。背丈がそれほど高くないにも関わらず、肩の広さは主人のサゲン・バルカ将軍とそう変わらないのだ。今着ているような皺ひとつない黒の上衣とグレーの細身のズボンなどではなく軍服に身を包んでいれば、百戦錬磨の軍人に見えることだろう。
しかし、エラもケイナもその容貌に怯えたりはしない。オアリス城で働いていた頃に何度か顔を合わせたことがあるからでなければ、そのいかにも膂力の強そうな外見から考えれば驚くべきことに従軍経験はおろか木刀すら振ってみたことがないという事実を知っているからでもない。この新しい上司がその厳つい容貌に似合わず無類の甘党で小さく可愛いものに目がなく、この屋敷の誰よりも心優しい人物であることを知っているからだ。現に今しがたの叱責の仕方も、まるで幼児に言い聞かせるように優しげな口調だった。彼女たちは、シオジが怒ったのを凡そ見たことがない。
「今の時間は虫さんの声でお話しなさい」
という今の一言にも、この執事の人間性が表れている。
ロハクが厳格なバルカ将軍と跳ねっ返りの通詞の住む屋敷にこの虫も殺さない男を執事として置いたのには、ひとつにはこの気立てのまろやかさに目を付けたという理由がある。時に二人が暴発寸前の銃のように殺伐としていても、この男の気質が屋敷の空気に調和をもたらすことを期待したのだ。
エラやケイナはロハクの意図など知る由もないが、少なくともその効果が使用人たちの間で発揮されていることを肌身で感じている。
二人は「はい、シオジさん」とにこにこしながら小さな声で返事をした。
「昨日はご自宅に帰られたのですよね?奥さんとお子さんのご様子はいかがでしたか」
とエラが尋ねると、シオジは相好を崩した。
「娘は日に日に妻に似て可愛くなるし、妻はお腹が大きくなるにつれてますます美しく輝いて見えます。次に自宅へ帰るのが待ち遠しいですね」
「旦那様なら、週三日と言わず毎日自宅へ帰ってもいいと仰るんじゃありません?」
ケイナが言うと、シオジは生真面目な顔に戻って首を振った。
「それはできません。ただでさえ帰宅した翌日は遅出にしていただいているのに、これ以上はわたしが執事としての仕事をこなすのに差し支えます。旦那様の好意に甘えて職務を疎かにするようでは、執事は務まりません」
シオジはシワひとつないシャツの襟をビシッと正し、誇らしげに胸を張った。
「あら。でも結局今日も早くいらっしゃったじゃないですか」
「今日は旦那様が早く出られるご予定ですから」
「シオジさんたら、度が過ぎるくらい仕事熱心なんだから。旦那様やミーシャ様といい勝負ですよ」
ケイナが目を大きく開け、ぐるりと回して見せた。エラもゆっくりと鍋をかき混ぜながら苦笑している。
「でもお産の報せがあった時は、あたしたちが無理矢理にでも馬に乗せますからね」
「そうですよ。ああ、勘違いしないでくださいね。シオジさんじゃなくて、奥さんやお子さんのためですから」
シオジは口やかましい娘たちに辟易とした父親のように苦笑し、手を振って仕事を続けさせた。
エラはスープと軽く網で焼いたバゲット、ゆで卵、リンゴとオレンジ、カップ一杯の牛乳を盆に乗せ終えると、サゲンの寝室へ運んで行った。早朝から屋敷を出る日は、食堂ではなく寝室で朝食を取るのが通例になっている。扉を叩こうとしたところで、向こうからガラリと引き戸が開き、きちんと濃紺の軍装に身を包んだサゲンと鉢合わせた。毎朝の起床時と同じく、今朝も一重まぶたが薄っすら二重になっているが、既にきちんと髭は剃られ、髪も整っている。
「おはようございます、旦那様。朝食を…」
「ああ。俺は食堂で食べる」
「では、食堂にお持ちいたしますわ」
盆を持って引き返そうとしたエラを、サゲンが止めた。
「それは部屋に置いておいてくれ」
エラは勘がいい。わざわざ聞かなくてもすぐに事情を察した。眠りを邪魔したくないのだろう。
無駄なものが一切置かれていない主人の寝室へ入り、広いベッドの上で膨らんでいるフワフワの掛け布団を視界の端に捉えながら、ベッドのサイドテーブルに朝食を置いた。布団の膨らみがゆっくりと静かな寝息を立てながら上下している。
寝室の中央に置かれたソファの背もたれにアルテミシアの寝衣が掛けられているから、恐らく布団の下は下着だけか、或いは何も着ていないだろう。着替えを準備する必要がある。
エラがアルテミシアの寝衣を取り上げて部屋を出ようとした時、ガバッ!と布団を跳ね上げてアルテミシアが飛び起きた。
「わっ、びっくりした…。おはよう、ミーシャ」
エラの予想通り、アルテミシアは何も着ていなかった。白い乳房が露わになり、首から胸元まで至るところに付けられた赤い痕までよく見える。多分、布団で隠れている部分にも同じものがいくつも付いているはずだ。
「おはよう、エラ」
アルテミシアは自分のあられもない姿など気にもせずにひどく掠れた声でいつも通りの挨拶をしながらサッと辺りを見渡し、寝室にサゲンがいないことを知ると、
「くそっ!やられた」
と珍しくルメオの強い方言で悪態をついた。
エラはわけが分からず顔をしかめて見せたが、この後やることははっきりしている。
「着替えを持ってくるわ」
「時間が勿体無いから、わたしの部屋で着る」
言いながらアルテミシアは何やら布団の中でもぞもぞし、素肌が透けるほど薄い絹のシュミーズ一枚を身につけただけでベッドを降りた。肩と二の腕どころか、白くしなやかな腿が剥き出しになっている。
「えっ」
エラが仰天する間もなく、アルテミシアは裸足のままサゲンの寝室の引き戸をガラリと開け、さっさと廊下へ出て行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待っ…、おま、お待ちくだ…、ああもう!ミーシャったら!」
混乱したエラが呼び止めるも、遅かった。既にアルテミシアは廊下の角でサゲンのブーツを運んで来たシオジと出くわしている。
「あっ。ごめん、シオジさん」
とアルテミシアが気軽に謝罪するのが聞こえたが、シオジは普段の厳しい顔つきのまま固まっている。そんなシオジの様子に気を留めることもなく、アルテミシアは足早に自分の部屋へと向かって行った。
「あ、シオジさん、旦那様は食堂で朝食を召し上がります」
と、エラは慌てて後を追いながらも上司への引き継ぎを忘れなかった。シオジがハッと我に返り、「承知しました」と返事をした時には、エラは前方のアルテミシアをバタバタと追って目の前から姿を消していた。
エラがアルテミシアの部屋に入った時、アルテミシアは控えめな装飾が施された薄い色のワードローブからドレスを出していた。いつもの登城用の小綺麗なドレスではなく、女王が作らせた女性用の軍服だった。
「手伝うわ」
エラは何も訊かず、アルテミシアをシワひとつない軍装に整えた。
それが終わると、エラは間を置かずに朝食をサゲンの寝室からアルテミシアの部屋の仕事用の机の上に移動させ、アルテミシアが大きく口を開けていつもの倍の速さで食事をする間、エラはうがい用に常備してあるミントを漬けたハーブ水を自分の手に付けて、寝癖でぴょんぴょん跳ねたアルテミシアの髪を湿らせ、櫛を入れた。湯や髪用の香油を用意する余裕はとてもなさそうだから、仕方ない。いつもなら女性らしく前髪を目に掛からない位置に落とし、後ろはふんわりとふくらみを持たせてシニョンに結うところだが、今日は全てを後頭部できつく一つに縛り、やや短めのポニーテールにした。エラにとって別段大きな理由があったわけではなく、単にこちらのほうが軍装に合うと感じたからだが、エラの勘の良さはこういうところでも役立っている。
アルテミシアはものの五分で食事を終えてカップの牛乳を飲み干し、馬毛のブラシでさっさと歯を磨いてハーブ水でうがいをし、首尾良くエラが差し出した盥にぺっと吐き出すと、布をハーブ水で濡らして顔を拭いた。
「ちょっと待って。すぐ済むから」
エラは扉へ向かおうとしたアルテミシアを呼び止め、アルテミシアが歯磨きをしている間に用意しておいた白粉をポンポンと顔に叩いてやった。いつもの化粧よりは随分簡単だ。エラとしては物足りないが、これも仕方ない。それに、これもただの勘だが、今日はどうも化粧っ気のないほうが好ましいような気がした。
「ありがと。すごく助かった。エラって最高」
アルテミシアは両手の親指を立ててエラにそう告げるなり、脱兎の如く部屋を出て行ってしまった。
これだけ急いでいる割に身だしなみをきちんとしていくあたりがアルテミシアらしいといえばアルテミシアらしいが、エラには未だに事態が掴めていない。
エラは嵐が去った後の庭を眺めるような思いで片付けを始めた。間もなく馬のいななきと地を蹴る音が聞こえた。アルテミシアの起床から、二十分と経っていない。
そこへ、ケイナがひょっこり顔を出した。
「旦那様は朝食を召し上がるなりさっさと出て行っちゃったけど…、ミーシャ様も?いったい何事?」
「さあ…」
「シオジさんも知らないって言うのよ。そういえばシオジさんの挙動がなんだかおかしかったけど、関係あるのかな?何か隠してると思う?」
「それは、ないと思う…」
エラはシオジを不憫に思った。忠実なシオジのことだから、女性の――あまつさえ、主人の恋人の下着姿を目撃してしまっては、しばらく罪悪感に悩まされるに違いない。
「あなたは軍の彼氏から何か聞いていないの?」
エラが訊くと、ケイナはそばかすの浮いた頬をちょっと赤らめて「ううん」と首を振った。
「訊いても教えてくれないと思うわ。彼って外では軍に関する話は絶対にしないの。信頼関係を大切にする人だから。それってすごく大事なことでしょ?真面目な人って素敵じゃない?それに、あたしがこんなにおしゃべりでも嫌な顔ひとつしないで、ちゃんと聴いてくれるの。この間なんか…」
「はいはい」
途中から話の趣旨が全く変わってしまった。エラは半ば呆れながら、親友の惚気話に耳を傾けてやった。
サゲンは後方から迫ってくる馬蹄の音を聞き、短く溜め息をついた。
「出し抜けると思った?」
背後から刺すような声が飛んでくる。サゲンは愛馬ティティの黒い腹に踵を軽く押しつけて速度を緩めさせ、苦々しい気分で隣に並んだアルテミシアの顔を見た。髪がきつく後ろでひっつめられ、いつもよりきりりと怜悧に見える。
「…侍女ができ過ぎるのも考えものだ」
サゲンの眉が物憂げに影を落としている。アルテミシアはキッと眉尻を上げた。
「わたしが軍議に出ると何か不都合があるわけ?あんな――」
と、アルテミシアはここで不覚にも顔色を変えてしまった。サゲンが片方の眉を上げ、こちらを揶揄うような視線を投げてくる。
「あんな、…姑息な手まで使って」
「ほう。俺がどんな姑息な手を使ったと言うんだ」
サゲンの唇が弧を描いたのを見て、アルテミシアの頬がじわじわと熱くなった。自分では怒っているからだと思いたかったが、実際は違う。あの形の良い唇が昨夜自分にどんなことをしたのか思い出したからだ。
――昨日のことだ。
アルテミシアがいつもの机仕事を一通り終えた後、長らく中断していたイノイル史の講義を白いもじゃもじゃした口髭の老臣から受けていると、サロンの外からエマンシュナ訛りのマルス語が聞こえてきた。たまたま耳に入ったのか、無意識のうちにエマンシュナに関するものを拾おうとしていたのかは自分でも分からない。
エマンシュナの貴人が賓客として城内に出入りしているなどは別段珍しくもないが、たまたまここは四階だ。サゲン・バルカ将軍はじめ、上級将校ら軍関係者の執務室や来客用の応接間が並んでいる。それに加えて、アミラ国内で所在が確認できないヒディンゲルが南エマンシュナにいる可能性が濃くなっていることは、無論アルテミシアの耳にも入っている。おまけに、ユルクスのミルコ・フラヴァリからも既にベルージの供述した情報がサゲンのもとへ入って来ている。これらの条件を勘定に入れれば、
(エマンシュナから情報が入ったんだ)
とアルテミシアが考えたのも自然なことだった。
その夜、使用人たちが全員辞去した後にサゲンの寝室を訪ねて例の件を問い質すと、サゲンは一言
「そうだ」
と認めた。
「それなら、明日白髭さんやイキさんたちと軍議があるんでしょう?」
「…ああ」
「わたしも行く」
アルテミシアは当然自分にもその権利があると思った。造船所の正体を突き止め、ヒディンゲルの足取りを追うことができたのは、アルテミシアの功績によるところが大きい。これは単なる自負ではない。だから、
「だめだ」
というサゲンのにべない返事に自分の耳を疑った。
「どうして?」
「前回の海賊討伐の時、君は通詞兼交渉役だった。パタロアでは標的をよく知る案内役だ。今回は一から十まで軍の作戦になる。通詞も交渉役も、案内役も必要ない」
「でも――」
「だめだ。認めない」
サゲンはこの上なく厳格な司令官らしく、表情を消している。アルテミシアは美しい瞳に剣呑な光を躍らせ、天敵を目の前にした獣のように鼻に皺を寄せた。サゲンがこの顔を向けられたのは久しぶりだ。前は確か、アルテミシアを初めて抱く直前のことだった。
「じゃあ、イキさんに頼むからいい」
アルテミシアはそう言って踵を返したが、サゲンに強く腕を掴まれ、引き戻された。先程よりも近い位置にサゲンの身体がある。顔を見上げなくても分かる。こういう仕草は、サゲンが怒りや苛立ちを抑え込むのに失敗した時にするものだ。
「君はいつからゴラン・イキを親しげに呼ぶようになった」
アルテミシアはじわりと身体が熱くなったのを無視して、高い位置にあるサゲンの顔を睨めつけた。思った通り、眉間には深く皺が刻まれている。
「あなたこそ、いつからわたしの上官になったの?バルカ将軍」
「よせ、アルテミシア。今は議論をする気分じゃない」
「そうだろうね。わたしに分があるもの。わたしには前回作戦の発案者って立場があるし、それもちゃんと成功した。あなたが認めなくたって、わたしは軍議に出られるよ」
サゲンの暗い瞳がギラリと危うく光ったと思った瞬間、アルテミシアの身体は軽々と担ぎ上げられ、ベッドに投げ下ろされた。
「ちょっと!――」
アルテミシアは唸って身体を起こそうとしたが、既にサゲンの膝が脚の間に陣取ってそれを阻んでいる。雷雲のように覆い被さって肩を押さえつけてくるサゲンの顔は、苛立ちと欲望に燃え、同時に憂鬱そうに翳って見えた。
「サゲン…」
アルテミシアがその違和感に疑問を持つ前に、サゲンは彼女の顎を掴んで唇を塞いだ。
目の前の大きな身体を突き放そうと上げた手は、サゲンの舌が口の中を侵し始め、大きな手が寝衣の前を割って胸に触れてくると同時に抵抗力を失い、代わりにサゲンの寝衣のシャツの上を背中へ向けて這い始めた。しかし、サゲンはその両手首を掴んでベッドへ縫い付け、再びアルテミシアの自由を奪い、皮肉気に唇を吊り上げた。
「賭けるか?君が明日軍議に出られるか」
サゲンはアルテミシアに返答する余裕を与えなかった。
アルテミシアは激しく乱された。
サゲンの舌と唇が全身を這い、手で触れられたところから炎のように快感が燃え上がり、優しく激しい愛撫に翻弄され、何度も絶頂へ押し上げられて、鉄のように硬くなったサゲンが身体の奥へ入って来た時には、もう何も考えられなくなった。
サゲンは懇願するアルテミシアを休ませることなく欲望に任せて彼女の最深部を強く穿ち続けた。そして、嵐の大海原に小さなヨットで放り出されたように大きな衝撃と暴力的なまでの歓喜に満ちた行為が終わる頃には、アルテミシアは既に意識を失っていた。
これがサゲンの苦肉の策であることを理解したのは、つい先刻、ベッドにサゲンがいないことに気付いた時だ。
(もう少しで策に嵌まるところだった)
じろりとサゲンの端整な横顔を睨んだ。こちらは眠気に加えて股関節や腰の痛みと戦いながらやっとの思いで馬に跨っているというのに、相手は疲れた様子など微塵も見せずに余裕綽々で馬を駆っている。結果的にサゲンの仕掛けた賭けには勝ったはずなのに、どうしてもそう思えない。
「あなたにしては、まずい手だったね」
アルテミシアがそう言ったのは、負け惜しみだ。
「この上なく疲れさせたつもりだったが、君の寝起きの良さには感服した。多少は有効だったようだがな」
サゲンはアルテミシアの目の下をチラリと見た。化粧で多少隠れてはいるが、青い隈になっている。赤く染まった頬とは対照的だ。
「最悪」
不機嫌にそう吐き捨てたアルテミシアに向かって、サゲンは目を細めて見せた。
「そんなはずはない。君もずいぶん愉しんでいたぞ」
アルテミシアは熟れたコケモモのように赤い頬を膨らませて押し黙った。
否定はできない。
もし昨夜策略に気付いていたとしても、この男の愛欲の誘惑には打ち勝てなかっただろう。それを拒むには、サゲンの肉体から繰り出される快楽と恍惚を知りすぎてしまった。――が、それはいい。問題は、正当な理由もなく、あまつさえ愚にもつかぬ策を弄してまでサゲンがアルテミシアを軍議に参加させたくない理由だ。
「そうまでして、どうしてわたしを軍議に出したくないのか教えて。わたし何かした?」
サゲンは物憂げにアルテミシアを一瞥した。顎関節が硬く動いたのが傍目にも分かる。
「…俺の問題だ。君がいると任務に集中できない」
「何それ。そんなことでわたしの邪魔をしたって言うの?」
「‘そんなこと’じゃない、アルテミシア。俺は司令官だ。任務に当たっては一切の私情を挟むべきではない。だが君の存在は、俺の判断を曇らせる。君はしばしば躊躇なく自分を危険に晒す。俺はその恐怖と戦いながら連合軍を総括しなければならないんだ」
アルテミシアの憤りは驚きに呑み込まれてしまった。サゲンの口からこれほど弱気な言葉が零れてくるなど、どうして考え付くことができただろう。
「…軍議に出るだけだよ」
「まさか。それだけでは済まないだろう。軍議に出れば、君のことだ。当然作戦にも参加するだろう。前回よりももっと危険な目に遭うかもしれない」
サゲンが眉の下に影を落とした。アルテミシアが昨夜持った違和感の正体は、これだ。欲望と苛立ちに隠れて、不安がサゲンの目を暗く見せていたのだ。申し訳無さとは裏腹に、アルテミシアは胸が熱くなるのを堪え切れなかった。
「…今すごくあなたを抱きしめたいんだけど、お互い馬上じゃちょっと無理があるから我慢する」
サゲンは失笑した。どうやらアルテミシアは大真面目だ。白み始めた空の仄かな光を受けたハシバミ色の瞳が真っすぐこちらを見つめている。
「関わるなって言うのは聞いてあげられない。だって、ヒディンゲルの件は他の誰よりもわたしに関係があるんだもの。それに、役にも立てるよ。確かに、前はちょっと…無茶したかもしれないけど、今は違う。わたしが傷付いたらあなたも傷付くってちゃんと理解してるから。あなたを大事に思うみたいに、自分のことも大事にする。わたしのこと、信じてくれる?」
「君になら命も預けられる」
サゲンは頷いた。本心だ。アルテミシアが安堵したように口元を緩めた。
「しかし、これは信頼とは別の問題だ。極めて個人的で、感情的なものだ」
「じゃあ、質問を変えるけど――」
と、アルテミシアは人差し指を上げた。
「軍議に出るのは、個人としてのサゲン?それとも海軍司令官のバルカ将軍?」
「無論、後者だ」
サゲンは苦々しげに言った。
「前回作戦を採用した者を軍議に参加させるのは、とっても理に適っているでしょう?バルカ将軍」
「――ああ」
サゲンが奥歯を噛みながら唸るように答えると、アルテミシアは「ほらね」とでも言わんばかりに唇を吊り上げて見せた。
「くそ」
サゲンが小さく悪態をついたのは、押し問答に負けたからではない。
「君にキスしたい」
アルテミシアは熱波を正面から受けたように目をぱちくりさせた。
「で、でも馬上じゃちょっと――」
言い終わる前にティティの黒い馬体がアルテミシアの乗る栗毛のデメトラに接近し、両足を鐙に掛けたまま身を乗り出したサゲンの腕に肩を掴まれていとも簡単に唇を奪われた。
サゲンは何秒か後に唇を離し、ぶるりと不満げに鼻を震わせたティティに真っ直ぐ座り直すと、頬を染めて唇を結んだアルテミシアにニヤリと笑って見せた。
「できないと思ったのか?」
「…やられた」
いつの間にか前方にあるティティの黒々とした尻尾を眺めながら、アルテミシアは頬を膨らませた。
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