王城のマリナイア

若島まつ

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三十八、解放 - liberata -

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 サゲンの大きな口が噛み付くようにアルテミシアの唇を覆った。大きく熱い手が腕から手首へと這い、木の床に敷かれた綿織物の絨毯へと縫い付けると、もう片方の手が腰へと伸びて来て寝衣の上から肌を愛撫するように臀部へと移動していく。
「は…」
 熱が口から吐き出され、身体が更なる刺激を求めて疼きだした。
「サゲン…」
 誘惑するような甘い声だった。
 どんなに強い酒でもたった三杯では酔えないはずなのに、アルテミシアの声にはくらくらと眩暈がする。サゲンの欲望も、連日彼女に触れられなかったせいで解放を求めている。
 道中立ち寄った宿場でも、何度夜陰に紛れてアルテミシアが眠る部屋に入ろうと考えたか分からない。いつもギリギリのところで任務に対する責任を思い出し思い留まったが、薄物の寝衣を着たアルテミシアが寝室に現れては、もう我慢などできるはずがない。おまけに、彼女もそれを求め、欲している。
 サゲンはアルテミシアの柔らかい唇を貪りながらガウンの腰紐を解いて袖を腕から抜き取り、寝衣の裾を捲り上げて足元からアルテミシアの肌を暴いていく。
 唇を解放し、露わになった脛を撫でて膝に口付けすると、滑らかな肌の下でしなやかな筋肉がぴくりと動いた。
 唇が膝から腿へと這い上がってくるのを感じ、アルテミシアは身体をぶるりと震わせた。サゲンの手が腿から更に上へと移動し、既に濡れた下着がするりと脚から抜き取られると、アルテミシアはサゲンの熱い手が促すまま脚を開いた。
「――あ!」
 強烈な刺激に思わず叫び声が上がった。淫らな音を立ててサゲンの舌が秘所を這い回り、中心に吸い付いてくる。自然に上がってしまう嬌声を抑えることができない。
 恥ずかしい。
 それでも身体はその先を求めている。
「んっ、ああっ…!」
 奥へと指が侵入して来た瞬間、腰が跳ねた。背中がぞくぞくと快楽に震え、次第に意識が靄の中に消えていく。
 アルテミシアがサゲンの指を濡らしながら内部を強く締め付け、甘い悲鳴を上げると、サゲンはそこから口を離して膝立ちになり、寝衣のシャツを脱ぎ捨てた。
 燭台の灯りがサゲンの精悍な身体に影を作って蠢き、鍛え上げられた筋肉の隆起を美しく見せている。所々細く長く肌の表面を盛り上げている傷跡でさえ、その美しさを損なわせることができない。
 アルテミシアはぼんやりと古代の彫像のような肉体に見入っていたが、サゲンがベルトを外してズボンを下ろした時、動揺して思わず顔を背けてしまった。ところが、すぐにサゲンの手がその顎を追いかけてこちらを向かせ、唇を重ねてきた。
「まだ慣れないか」
 笑みを含んだ低く甘い声が耳をくすぐる。
 アルテミシアは羞恥に潤んだ瞳で目の前の顔を見上げ、小さく首を振った。
 これに慣れるなどということがあるのだろうか。サゲンの昂ぶった欲望を目の当たりにしても何も感じなくなることを指して「慣れる」というのならば、答えは否だ。
 サゲンはまだアルテミシアの腰のあたりにまとわりついている寝衣をアンダードレスごと捲り上げて頭から脱がせると、膝をついたまま再び上体を起こして露わになった裸身を上から眺めた。
 鈍く深く煙るような青い瞳に全身を焼かれそうだ。
「あんまり見ないで…」
 アルテミシアはその熱から逃れるように両腕で胸を隠そうとしたが、サゲンの手が素早く伸びて来て阻止した。
「無理だな。美しいものからは目が逸らせない。さっきは君も俺の身体をじっと見ていただろう」
「そっ、それは…」
「俺を見る君の目は――」
 サゲンが官能的な声で囁きながら、唇に触れるか触れないかのキスをした。それだけでアルテミシアの身体が燃えるように熱くなる。
「いつも俺が欲しいと真正直に訴えてくる」
 アルテミシアは騒ぎ始めた心臓の音を耳の奥で感じながら、サゲンの頭を引き寄せて深いキスを返した。
 サゲンも喉の奥で唸りながら応じ、隠すものがなくなったアルテミシアの乳房を手のひらで覆い、その頂を指で転がし、口に含んで舌先でつついた。アルテミシアが快感に身体を小さく震わせて喘ぐと、サゲンの息も次第に荒くなった。
「サゲン…」
 唇を浮かせてアルテミシアが囁いた。甘やかな誘惑がサゲンの理性を削ぎ落としていく。
「あなたが欲しい…」
「俺もだ」
 紳士的で丁寧な愛撫など、もはや続けられない。
 サゲンは性急な動作で内腿を掴んで脚を開かせ、期待と焦燥を映し出すハシバミ色の瞳を見つめながら、一息に中へ押し入った。
「あっ!」
 アルテミシアは奥まで届く衝撃と甘美で強烈な刺激に目を見開き、サゲンの背中にしがみついた。サゲンの大きなそれを自分の身体が一度で受け入れられるという事実には、未だに驚かされる。サゲンの眉間に皺が刻まれ、何かに耐えるように目蓋が伏せられた。サゲンの栗色の睫毛が目元に影を作り、アルテミシアの胸を苦しくさせる。
「熱い…」
 彼女の中に眠っている炎がそこに宿り、内側から燃えているようだ。奥を突くたびにアルテミシアの口から甘い声が上がり、サゲンの身体をぞくぞくと震わせる。このままめちゃくちゃに突き動かし、腰が立たなくなるほどの快楽を味わいたい。――が、生憎硬い床と薄い綿織物の絨毯の上ではアルテミシアの背を傷めてしまう。
 サゲンはアルテミシアの背を支えて繋がったまま上体を起こさせ、自分は絨毯に背を降ろしてアルテミシアを下から突き上げた。
「あ!」
 アルテミシアは最奥まで届く強烈な刺激に悲鳴を上げ、驚きの表情でサゲンを見下ろして顔を真っ赤に染めた。
「ん、あっ、これ、やだ…」
「痛いか」
 サゲンが動きを止め、労わるような仕草でそっと腹に触れてきた。その柔らかな接触だけで、背中にぞくりと鋭い快感が走る。
「痛くない、けど…、何か、へん――」
 アルテミシアが小さく呻いた。中に入っているものが更に大きくなり、硬度を増したからだ。
 サゲンは唇を舐め、淫靡な笑みを浮かべた。アルテミシアが新たな快楽に戸惑い、鮮やかなグリーンや金色の混じったハシバミ色の瞳をとろりと潤ませながら、無意識のうちに内部をぎゅうぎゅうと締め付け、サゲンの肉体と意識を深い快楽の渦へと引き込んでいく。
「それは、君の身体がこれを気に入ったからだ」
 サゲンは両手で腰を掴み、アルテミシアの逃げ場を奪うと、何度も奥に届くように腰を突き上げた。アルテミシアは断続的に短い叫びを上げ、恥ずかしいからかサゲンの顔を見ないようにぎゅっと目をつぶっている。
 ぐり、と一番奥の壁をサゲンが叩き付けた。
「――はっ、あ…!」
 アルテミシアは衝撃に目を見開いた。何度か身体を重ねるうち、サゲンはアルテミシアよりも彼女の身体のことをよく知るようになったらしい。
「…ッ、アルテミシア」
 サゲンが苦しそうに眉を歪めた。片手をアルテミシアの顔に伸ばし、熱の宿る眼差しでその視線を捕らえた。アルテミシアは誘われるまま上体を倒してサゲンの胸に自分の胸を付け、初めて上から覆いかぶさって口付けをした。
「ああ、いいな」
 アルテミシアの細く真っ直ぐな髪がサゲンの頬に落ち、肌をくすぐる。彼女が自分の腹の上で腰を揺らし、胸を上下させて淫らな声を上げる様は何とも言えず甘美で官能的だ。
 サゲンは飢えた狼のようにアルテミシアの唇を貪り、なめらかな背をするすると撫で、更に下の方へと手を這わせていった。腰の窪みを通り、中央の谷を指で探るように下って行くと、アルテミシアが喉の奥で短く高い唸り声をあげた。サゲンの手を止めようと腕を上げたが、サゲンはその手を掴んで自分の胸へと戻し、ほのかに蒸留酒の香る舌を味わった。腰を突き上げアルテミシアの奥を叩くたびにくぐもった甘い声がサゲンの耳をくすぐり、身体を更に熱くさせる。
 サゲンの指が尻の中心を通って繋がった場所へ届くと、ビリッと不可解な鋭い快楽が身体を走り抜け、アルテミシアの身体を震わせた。
 その瞬間、アルテミシアの内壁がサゲンに解放を促すようにぎゅうっと狭まり、サゲンの感覚を鋭くさせた。
「…ああ、くそ。だめだ」
「え…?」
 サゲンは急に上体を起こすと、肩で息をしながらぼんやりと見上げてくるアルテミシアの両膝を両腕で抱え、繋がったままの状態でアルテミシアの身体を持ち上げてソファへ荒っぽく押し倒した。
「悪い。耐えてくれ」
 叫ぶ間も無かった。荒波に呑まれてしまったかのようだ。苦しいほどの衝撃が激しい快感となって全身を駆け巡り、全ての感覚を支配した。
 サゲンが嵐のように何度も唇を重ね、更にその奥を探すように最深部を穿つ。胸の下を伝って行く汗が自分のものかサゲンのものかわからなくなった時、アルテミシアを再び高波が襲った。今度はもっと強烈だった。
 びくびくと収縮を繰り返す内部の動きにサゲンは堪らず獣のような唸り声を上げ、アルテミシアの脚を肩に掛けて持ち上げながら激しく腰を打ち付けた。サゲンの呼吸も荒くなり、苦しげに歪めた眉の下でまっすぐアルテミシアを見つめる煙るような青い瞳はまるで炎そのものだった。
「サゲン、サゲン…!」
 アルテミシアが悲鳴を上げ、悦楽と陶酔に蕩けた甘い声で名前を呼ぶ。彼女の全てがサゲンの全身を歓喜で震わせた。
「――ッ、は、出すぞ、アルテミシア」
 アルテミシアはサゲンの腕にしがみ付き、またしても襲ってきた絶頂に意識を委ね、その反動でサゲンの腕に傷を作った。そして、サゲンの全てをアルテミシアがその身体で受け止めた。
 
 サゲンは肩で息をしながらアルテミシアの隣に倒れ込み、額に汗を浮かせながら胸を上下させる恋人の唇に触れるだけの優しいキスをした。
 二人は、ベッドにいる。部屋のランプはほとんどが既に消え、開け放った天蓋の外に設えられた燭台だけが暗い部屋の中に二人の裸体を浮かび上がらせている。
 幾夜も恋人を思いながら募らせた欲望は一度の情交では解消されず、結局ベッドに移ってからも、もう無理だと涙目で訴えたアルテミシアに無体を働くことになった。
 しばらく絶頂の余韻と激しい疲労感に意識を奪われていたアルテミシアは、身体の自由が戻るとごろりと寝返りを打ってサゲンの硬い胸で頬杖をつき、恨めしげにサゲンの高い鼻をキュッと抓った。
「ベッドが壊れるところだった」
 アルテミシアが大真面目に言うと、サゲンは声を上げて笑った。
 事実、サゲンがアルテミシアを突き上げ、アルテミシアが腰を波打たせる度にギシギシとベッドが揺れ、いつ脚が折れても不思議ではなかった。しかし、彼らはベッドの脚を気にするよりも互いの熱を交換し合うことに夢中になっていたのだ。
「だいぶ古いようだからな」
「わたしの小さい頃からボロボロなんだから。六歳の子供が寝ても軋んでたんだよ」
「すると、君は子供の頃に寝ていたのと同じベッドで情交に耽ったのか」
 サゲンの微笑と低い声が、今の状況をとんでもなく淫らで背徳的なことのように感じさせた。サゲンの手が胸へ伸びて来て、ふっくらとした乳房を包み、指の腹で先端を撫でる。びく、とアルテミシアの腰が小さく跳ねた。まだ身体の中で熱が暴れている。
「もう、本当にだめ。次はベッドと一緒にわたしも壊れる…」
「それは困ったな」
 サゲンは優しく微笑むと、アルテミシアの額に羽が触れるようなキスをしてその身体を両腕に包んだ。サゲンの熱い肌を通じて、既に普段のリズムを取り戻した柔らかい鼓動がアルテミシアの身体に伝わる。アルテミシアは森の土と樹木を思い出させるサゲンの匂いを吸い込み、胸に頭をもたせ掛けた。
「…この部屋、あなたが選んだってロベルタが言ってた」
 サゲンはアルテミシアの髪を指で梳いた。細く柔らかい髪が空気を含むと、ローズマリーの石鹸の残り香がサゲンの鼻をくすぐった。
「君の育った場所を知りたかったんだ。どんな風に寝起きして、どんなものを見ていたのか」
 サゲンがロベルタにこの部屋への宿泊を所望した時、ロベルタは「手入れが行き届いておりませんけど」などと言いながらも、それ以上ないくらいの満面の笑みで準備をしてくれた。彼女にはサゲンの意図が分かっていたに違いない。
「何かわかった?」
 アルテミシアはむずがゆい気持ちを隠すように、口元をもじもじさせながら尋ねた。
「そうだな」
 サゲンはぐるりと視線を巡らせ、灯りの届かない部屋の隅を見た。暗闇の奥には幼いアルテミシアの署名付きの木馬が置かれているはずだ。
「君はこの屋敷は嫌な気分になると言っていたが、俺は楽しい思い出の形跡を見つけた。いたずら好きな女の子に名前を彫られてしまった木馬もその一つだし、子供でも手が届く程度の本棚もそうだ。いろいろな言語の挿絵付きの本があった。母上は幼いうちから君を広い世界に触れさせようとしていたんだな」
「…五、六歳の子供にそんなの、分かるわけないのに」
 鼻の奥がツンとした。感傷的になって目が潤むのを見られるのが恥ずかしかったので、アルテミシアはサゲンから顔が見えないように俯き、頬を硬い胸に押し付けた。
 髪を弄んでいたサゲンの手は、今は優しく頭を撫でている。
「それから、こんなものを見つけた」
 サゲンはベッドから身を乗り出し、脇の本棚の上からエマンシュナ語の本を取り上げると、アルテミシアに手渡した。
 本を受け取ったアルテミシアはサゲンに背を向け、燭台の灯りにかざしてその表紙を見た。金の箔押しで、『La bete et les oiseaux ou la vertu du Roi(野獣と小鳥たち あるいは君主の美徳)』とある。
「王政について子供に考察させる内容の本みたいだね。読んだ記憶がないな」
「中を見てみろ」
 アルテミシアは言われた通りにパラパラとページをめくり、一枚の絵を見つけた。
「海の絵?」
 サゲンは月夜の海の絵に見入っているアルテミシアの白い背と肩にそっと口付けをしてその身体を脚の間に挟み込み、後ろから白く細い‘GL’と署名された絵の隅を指さした。
「誰かと思っていたが、君の話を聞いて作者が分かった」
「グレタ・リンド…」
 口から自然に零れ出た。
 この時、ひょっとして母はジュード・リンドに愛称以外の名を名乗らなかったのではないだろうかと思った。恋した青年の前では誰かの妻になるマルグレーテ・フェレールではなく、グレタというただの娘でいたかったのかもしれない。そして母は船から降り他人に嫁いだ後も、一夜限りの妻として唯一心から愛した夫を思い続けていたのだ。
「それじゃあ、これはエマンシュナの海だね」
 なんという悲恋だろう。胸が苦しくなるほど切ない話だ。それでも、アルテミシアは幸福を感じずにはいられなかった。母が真実の愛を知り、自分がその愛のもとに生を受けたことが分かったからだ。例え実の父親が自分の存在を知らなくても、アルテミシアにはそれだけで十分だった。
 アルテミシアはくるりと背後を振り返ると、優しい微笑を浮かべたサゲンの唇にささやかな口付けをした。顔は、晴れ晴れと澄んでいる。
「サゲン・エメレンス。あなたが大好き」
「俺もだ、アルテミシア・ジュディット。笑っている時も、怒っている時も」
 サゲンはアルテミシアの心臓を否応なしに跳ねさせるあの輝くような笑みを向け、柔らかい身体をすっぽりと腕に包んで布団に潜り込んだ。
 
 翌朝、二人を目覚めさせたのは、ガシャン!と何か重いものが落ちて割れる音だった。
 二人ともほぼ同時にガバッと身体を起こし、音のした戸口の方を見ると、昨日屋敷の門を叩いた彼らを最初に対応した若い女中が顔を真っ赤にし、まだそこに盆があるかのように両手を前に出して呆然と佇んでいる。アルテミシアは自分が裸だと気付き、慌てて毛布を胸まで引き上げたが、そのせいでサゲンのよく鍛えられてキッチリ六つに割れた腹筋が臍まで露わになり、今度は若い女中に叫び声を上げさせることになってしまった。
 さすがにサゲンも起き抜けではこの事態に上手く対処できず、今度は音と叫び声を聞きつけ慌ててやってきたロベルタと顔を合わせる羽目になった。
「あらあら、まあまあ!」
 ロべルタは子供のいたずらを咎めるように両手を腰に当てて胸を膨らませ、裸でベッドの上にいる二人と粗相した若い女中を咎めた。
「驚かせてすまない、ご婦人方」
 と、サゲンは陶器の破片を前にした女中たちに対し、ベッドから降りて紳士的な対応をしようとしたが、この事態にロベルタが機敏に反応した。
「そこから動かないでくださいな!」
 と、鋭い声でぴしゃりと言い放ったのだ。常に穏やかな彼女からは想像もつかない。この時サゲンはようやく毛布の下で自分がどうなっているのかを思い出した。
 テキパキと掃除を始めたロベルタと女中を尻目にアルテミシアは唇を噛んで肩を震わせていたが、とうとう堪えきれなくなってブハッと噴き出してしまった。サゲンは苦り切ってたしなめるような視線を送ったが、アルテミシアにしてみれば、腹の底から湧き上がってくる笑いを止めることなど到底できない。
「だって…!あなたって天才!ロベルタが怒鳴るところなんて、初めて見た!」
 アルテミシアはベッドに転げ回るようにして腹を波打たせ、涙が滲むほど笑った。
「素っ裸で片付けを手伝うつもりだったの?」
 あのままベッドから出て行って大きく精悍な身体を折り曲げ、ちまちまと破片を集める姿を想像すると、ますますおかしくなった。けらけらと笑いながら揶揄われたサゲンはバツが悪そうに頭を掻いたが、すぐにささやかな仕返しを始めた。
 毛布の下でアルテミシアの脚を腿の内側へ向かってつうっと撫で、アルテミシアに身体を寄せて、
「君と二人なら裸でするのにもっと相応しいことができるな。ここで、もう一度、昨夜のように…」
 と、彼女にしか聞こえない程の小さく低い声で甘く囁いたのだ。アルテミシアは顔をカッカと真っ赤に染め、サゲンに向けて頬を膨らませた。
(この声は、ずるい)
 サゲンはアルテミシアの心を読んだかのように満足げに目を細めると、そっと額にキスをした。
 
 サゲンはアルテミシアと二人の部下と共に一番小さなサロンを借り、十分すぎるほどの朝食を取りながら今後の旅程に関する簡単な小会議を開いた後、ベルージの違法行為の証拠となる書類や物品をフラヴァリ提督が手配した荷馬車に積み込む作業に追われた。ヒディンゲルに関するもの以外にも、ここ数年は共和国によって厳しく取り締まりが行われている薬品や植物の売買にも手を出していたらしい。
「反吐が出るな」
 とリコが吐き捨てるように言った。
「ヒディンゲルへの出資で首が回らなくなっていたんだろう。見下げ果てたやつだ」
 レイの冷静な分析には、アルテミシアも同意見だ。出納帳を見る限り、このままヒディンゲルへの出資を続けていれば、遅かれ早かれマルグレーテが財産を奪うまでもなく、自滅的に破産していただろう。そうなれば、マルグレーテによる毒殺が想定よりも早まっていたかもしれない。ベルージにとっては今後の人生を薄暗く不衛生な牢屋で送るよりもむしろ一思いに毒で死んでいた方が幸福だったかもしれないが、母が手を汚す前に捕らえることができたことはアルテミシアにとって幸いだった。
 証拠品の目録作りと荷物の積み込みに大いに手腕を発揮したのは、商家の出であるリコと貿易船に乗っていたアルテミシアだった。二人とも木箱の山と海の向こうのあちこちからやって来る大量の品々と長く付き合ってきたから、こういう作業はお手の物だ。彼らにルメオ軍から荷馬車の御者として派遣された兵士六名も加わった。
 彼らに協力的なベルージ家の使用人たちは手伝いを申し出たが、サゲンは後々の裁判の証拠品となるものに軍関係者以外の者の手が触れることは一切あってはならないと言って固辞した。その代わりに、ロベルタを始めとする使用人たちは屋敷をできる限り居心地の良い場所にしようと心を砕いた。サゲンたちが昨日書斎からサロンに持ち込んだ証拠品の数々と格闘する間、紅茶や軽食の差し入れを時折持ってきては、おかわりはどうかとか足りないものはないかとか逐一気に掛けた。
 
 全ての作業が終わる頃には、太陽が真上に昇っていた。証拠品を積んだ三台の荷馬車がミルコ・フラヴァリ提督の待つユルクスへ向けて先発した後、既に旅装に戻ったアルテミシアは、馬に乗る前に母に歩み寄った。リコとレイは既に屋敷の女主人と使用人たちへの挨拶を済ませ、前方へ馬を進ませている。サゲンはアルテミシアの馬の轡を取ってやり、気を利かせて少し離れたところからその様子を見守った。
「これ」
 と、アルテミシアは丸めた紙を広げ、マルグレーテに渡した。昨夜寝室で見つけた絵だ。
「サゲンが見つけた」
 それを無言で眺めた後、マルグレーテは自嘲するように微笑み、アルテミシアに絵を返した。
「まったく、未練がましいものね」
「母さまが持っていたらいいのに」
「いいえ。わたしにはお前がいますもの。本当の夫の血を引いた子が」
 マルグレーテは娘をきつく抱きしめると、背中をぽんぽんと叩いた。
「しっかりおやりなさい。わたしが言うまでもないでしょうけど」
 アルテミシアは目の奥が熱くなったのを感じたが、涙が目の外に零れる前に束の間息を止めて堪えた。昨日のうちに十分すぎるほど涙を流したから、もう今日は泣かないと決めたのだ。
「手紙は?どこに送ったら母さまに届く?この屋敷にはもう住まないんでしょう」
「ええ。早晩チェステ公がベルージの土地と爵位を没収なさるでしょうけど、わたしはそれを待たずにここを離れるつもりです。手紙は、そうね…。当面はトーレにいるドナのところに厄介になるわ。快く受け入れてくれるはずよ。実は、わたしが投資したうちの一人はドナの息子だったの」
「そうだったの?」
 アルテミシアは驚いて母の顔を見た。以前トーレのドナを訪ねたレイからその暮らしぶりは聞いている。高級邸宅の多いトーレに豪勢とまではいかないまでも立派な屋敷を建てて、息子夫婦や孫たちと三世代で暮らしているらしい。息子が起業し、事業を成功させたと聞いていたが、まさかその裏に自分の母親が関わっていたとは。
「ええ、ドナから息子の話をよく聞いていましたから、彼なら失敗しないだろうと踏んだのだけど、大当たりだったわね」
 マルグレーテはころころと笑った。
「でも、トーレに行って、その後はどうするの?」
「使用人たちに暇金を出しても、田舎に農場を買うぐらいのお金は余るわ。一度動物に囲まれて暮らしてみたかったの。だから、お前がわたしの心配をする必要はありません。それより…」
 マルグレーテがやや前方にいるサゲンにキラリと目を光らせたので、サゲンは二頭の馬の轡を取りながら母子の前に進み出た。
「ベルージ夫人」
「マルグレーテで結構よ」
 頭を下げて紳士的に恋人の母親への敬意を示したサゲンに、マルグレーテは柔らかく微笑んだ。
「バルカ将軍、わたしが母としてアルテミシアにしてやれることは少なかったけれど、何よりも大切な娘であることはこれからも変わりません。どうか、娘を頼みます」
「もとより、承知の上です」
 アルテミシアは顔を赤らめた。まるで娘が嫁ぐ前の挨拶のようだ。
「そうね。そのことについては心配していません。心配なのは――」
 マルグレーテは複雑な表情のアルテミシアと穏やかなサゲンの顔を交互に見て、ちょっと呆れたように肩を竦め、
「互いにばかり熱を上げて迂闊なことをしないように。朝の騒動については聞いていますからね」
 と、小さな声で釘を刺した。
 これには二人とも返す言葉もなく固まってしまった。
「バルカ将軍は勿論ご承知のことと思いますけど、王侯貴族の社会は血統と評判が物を言います。アルテミシアが武器として使えるのは後者なのですから、娘のよろしからざる評判が立つようなことがないように配慮なさってくださいな」
「肝に銘じます」
 サゲンはバツが悪そうに承諾した。
「指輪の意味を忘れないで、アルテミシア」
「えっ!?だから、まだわからないってば」
 アルテミシアは仰天したが、母親の呆れ顔を見て自分の勘違いに気付いた。母から結婚する娘へと受け継がれてきた指輪には、他にも意味がある。
「あ、そっちか…。そうだね。うん」
 アルテミシアは自分とそっくりな目を見た。優美に弧を描き、茶色の瞳がキラキラと輝いている。涙が出る前に急いで馬に乗り、鼻をすすった。
「じゃ、次はもっと普通に会いに来るね。トーレでも、他のどこかでも、行くから」
「是非、そうしてちょうだい」
 マルグレーテは可笑しそうに笑うと、恋人とともに馬に乗って駆けていく娘の後ろ姿を丘の向こうに見えなくなるまで見送った。
「奥様」
 後ろからロベルタがやって来て、温めたミルクをマルグレーテに差し出したが、マルグレーテは丘の方を見つめたままそこから動こうとしない。
「行ってしまったわ。わたしの娘が…」
「ずうっと寂しかったのですものねえ、奥様」
 ロベルタは女主人の背を、母親が子供にするような仕草で撫でてやった。
「それでも今日、今までの日々が幸せな思い出に変わりました」
「それはようございましたけれど、これからもっと増やすんですよ!わたしも農場のお手伝いをいたしますからね。老いぼれを息子夫婦のところに追い出そうったって、そうはいきませんよ、奥様。奥様のお食事の支度は、死ぬまでロベルタの仕事なんですから」
 マルグレーテは涙を流しながら笑い声をあげた。
「ほら、やることがたくさんありますよ!お亡くなりになったお嬢様のお墓もお移しになるんでしょう?こんなところに置いていっちゃあ不憫ですものね。荷造りやら書類の届け出やら、大忙しですよ。ああ、旦那様の審問にも呼ばれるでしょうから、そのための準備もしなければいけませんね」
「そうね。あの性根の腐った守銭奴に不利な証拠をありったけ集めてやりましょう。そうすればアルテミシアやバルカ将軍の仕事が円滑に進むように手助けができるわ」
 マルグレーテは娘が去っていった丘に背を向け、屋敷の扉へと向かっていった。
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