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十五、反抗 - la ribellione -
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アム元首邸の宴の夜から様子がおかしいのは、アルテミシアとサゲンだけではなかった。リコは横目でちらりと同僚の整った顔を見た。いつもなら特に何も面白いことがなくたってその唇には薄く笑みが浮かんでいて、一日中楽しいことを探しているような性分のこの男が、ここのところめっきり冴えない。
イグリ・ソノとは同郷で家同士が同業者ということもあり、子供の頃からよく知っている。十二歳の年に王立海軍士官学校へ進むことを決めた時、イグリを誘ったのもリコだった。この十年余りで共に過ごした時間を考えれば家族よりもイグリのことをよく知っているつもりだが、このように物思いに耽るイグリをこれまで見たことがなかった。
原因は、聞くまでもない。
「もともと脈無しだったんだから、そんなに引きずるなよ」
と、馬場の芝の上で鹿毛の馬の背にブラシをかけながらリコが気軽に言った。顔の傷や痣はようやく痛みを脱し、黄色と青黒い跡を残して大方癒えている。馬はぽかぽか陽気の下で気持ちよさそうに鼻を伸ばし、主人の手にその身を委ねていた。
一方、イグリの芦毛馬はブラッシングに身が入らない主人に不満そうな視線を投げ、鼻をぶるぶる震わせている。ブラッシングがおざなりなのは、手に受けた傷のせいではないと馬も分かっているようだ。イグリの火傷は既に完治し、うっすらとその痕を残すのみになっていた。慰めるつもりなど毛頭ないリコに、イグリはキッと睨みを利かせた。が、リコは気にせず続けた。
「ミーシャが上官よりもお前によく笑ったり話したりするのは、お前のことを男じゃなくてただの友達だと思ってるからだろ。普通、好意を寄せる相手ならもっと独特の緊張感があるもんだ。上官といる時みたいに」
ぐうの音も出ない。イグリは黙りこくった。まったくもって正論だ。自分なりに勇気を出して口説いたつもりだったのに、小指の爪の先ほども本気にされなかった。
「だから上官への無益な反抗はやめろよな」
「そんなつもりはない」
イグリはようやく口を開いた。リコの言うように反抗をしているつもりはないが、非難がましい態度を取っているのは自覚している。サゲンと顔を合わせ言葉を交わす度に、目を合わせないとか、いつもより口数が少ないとか、そういったささやかなものではあるが。
「やっぱりあの二人に何かあったと思うか?」
踊りに行った二人がダンスホールから消えていることにイグリが気づいたのは、ワルツが終わってアルテミシアをもう一度誘おうとした時だった。結局宴が終わるまで二人そろって見つからず、翌日の出航の時にいつも以上に無表情なサゲンと顔を合わせただけで、アルテミシアの顔を一度も見ることなくイノイルへ帰ってきたのだ。明らかに不自然だった。
「当然さ。だから誰も上官に何も聞かなかったんだろ。通詞が前日まで仲良くしてた指令官と同じ船に乗らない理由が他に思いつくか?」
と、リコは相変わらず軽い調子で悩めるイグリに現実を突き付けた。
「何があったと思う」
「知るか。聞いてみればいいだろ」
イグリは押し黙った。これほどまでに他の誰かの動向が気になるとは、滑稽だ。
「目がさ」
と、リコは言った。
「目が語ってるよ、お前。上官と顔を合わせるたびに恨み言をさ。そんなに鬱屈するぐらいなら、上官にはっきり言えばいいじゃないか。上官とミーシャの仲も今はなんだか良くないみたいだし」
「はっきり言うって、何をだよ」
「さあね。‘俺の方がミーシャを愛してる!’とか?」
イグリはあんぐり口を開けて馬用のブラシを取り落とした。
「あい…」
「違うのか?」
リコはブラッシングを終え、愛馬にひょいっと跨った。
アルテミシアのことは確かに好きだが、愛しているとまで飛躍されると狼狽えてしまう。確かにイグリは今まで数々の女性たちと恋愛を楽しんできたが、どの女性とも身体の繋がり以上に心を繋げることはなく恋を終えてきた。彼女たちはみな世慣れていて、煌びやかな生活を好む色っぽい会話の上手な貴婦人たちだった。イグリは波打つ長く明るいブロンドの髪に長い睫毛を持つ美男子である上に気の利いた会話もできるし、おまけに軍の中でもバルカ将軍の直属の部下で出世頭ともなれば女性たちからのアプローチは日常茶飯事だ。だが、アルテミシアはその法則に当てはまらない。彼が青い目で見つめ、本気で口説いてもその目にイグリの姿を映さなかったのは、覚えている限りではアルテミシアが初めてだ。
それなのに、惹きつけられる。アルテミシアは面白いことがあれば大きく口を開けて笑い、気に入らなければ肩を怒らせて野生動物のように牙を剥く。まるで本当に自由な船乗りの少年のようでもあるのに、その奔放さの中に、どことなく気品がある。出会ってすぐにこの女性をもっとよく知りたいと思った。
あるいはそうなのかもしれない、とイグリは思った。アルテミシアとなら、心の繋がりを感じ合えるのかもしれない。もし可能性があるのなら。――
「違わないさ」
そう呟いたイグリの目には、馬に跨り駆け出したリコの姿は映っていなかった。
アルテミシアは女王への報告を終え、ロハクに頼まれた外国への簡単な翻訳業務を終わらせた後、夕方はいつものように鍛錬上に赴いた。すっかり顔馴染みとなった老指南役に木刀で稽古をつけてもらっていると、もやもやした気分が多少は晴れた。しばらくして他の兵士と交代し、他の練習相手を探していると、久々に見る姿があった。イグリだ。いつものように陽気な美男子の笑みはなく、口元がこわばっている。イグリはアルテミシアの方へ近付き、目だけで笑った。
「やあ」
「こんばんは、イグリ」
「元気だった?」
「うん。手の傷は治った?」
「ばっちりさ」
と、イグリは手をひらひらとさせて見せた。
「イグリも元気だった?」
「絶好調」
そうは見えないけど。とは言わなかった。なんだか笑い方が変だ。
「…今日の夕飯の当番はリコだよ」
イグリは心の中で毒づいた。今日の夕飯当番の話など、イグリが話したいこととはまったく関係ない。
「そうなんだ。リコの料理って美味しいよね」
やはり会話がぎこちない。イグリは何かを探り出すように注意深くアルテミシアの顔を見ている。
「上官の屋敷には帰ってくるんだよな」
アルテミシアは言葉に詰まった。女王からはバルカ邸にきちんと帰って問題に向き合うよう言われたが、正直なところ時間が経つにつれて気持ちは森から遠ざかっている。
「わからない。今日はちょっと…雑務が溜まってて」
イグリは曖昧に相槌を打った。海賊相手にハッタリを仕掛けたのが幻だったかのような嘘の下手さだ。
「俺たちと同じ船に乗らなかったのは、宴で上官と何かあったからだろ?」
イグリは世間話を諦め、核心を突いた。アルテミシアの顔がみるみる赤くなっていく。言葉で答えを聞くよりも明快だ。まさかとは思うが、あのカタブツの上官が女王付きの通詞に、あまつさえ職務中に手を出したのだろうか。信じられないような思いと上官への怒りが同時にこみ上げてくる。常々真面目くさっている上官の顔を殴り飛ばしてやりたくなった。
「もしかして、何かされた?」
「違う。あれは…」
何だったのだろう。アルテミシアはここ数日考え続け、ついに忘れようとした疑問にもう一度直面してしまった。すぐに嘘でも否定しなかったことを後悔したが、遅かった。言葉を詰まらせたのを肯定と受け取り、イグリが畳みかけた。
「何があったんだ?上官は君を傷つけたのか?」
「なんでもないから。じゃあね」
アルテミシアは、最後はイグリの顔も見ずに強く言い残して逃げるように走り込み用のトラックへ移動し、そのままトラックを一周走って城内へ戻った。
(だめ、だめ)
考えないようにしているのに、どうしても考えてしまう。サゲンはあの時、アルテミシアの焼けた不均一な色の肌も、平凡な形の唇も魅力的だと言った。女にしては背が高く船で鍛えられたせいで筋張ったこの身体も、そのままで美しいと。あれはその後の忠告を引き立てるための単なる言葉の演出だったのだろうか。あの熱っぽい視線も、口づけの合間に漏れた、急くような吐息も、すべてアルテミシアへの教訓のためだったのだろうか。
(でも、あの手は…)
あの大きく温かい手に絆されてしまいそうだった。男女の愛情というものを身近に感じることができない環境で育ったせいか、思春期の頃からそういうことに直面したら嫌悪を感じるのだろうと漠然と思っていた。ところが、サゲンに身体を触られても不思議と嫌な気分にはならなかった。むしろ安らいだ。そのくせこんなに気分が悪いのは、我に返ったときのサゲンの顔のせいだ。――驚愕と後悔。
(あんな風になってまで、わたしに振る舞い方を教えてくれなくたってよかったのに)
忘れようとした感情が戻ってくる。この先は考えてはだめだ。
城門をくぐった後、エラを探した。肩ほどの長さの髪を後ろで一つに縛り、肘の上まで袖を捲った薄いシャツと鍛錬用の細いズボンという、あまりに雑な出で立ちで現れた女性に驚いた様子の中年の女中がエラの居室まで案内してくれた。女中はエラを呼んでくると強く言ったが、アルテミシアはそれ以上の強さで自分から行くと言って引かなかった。
「ミーシャ!」
ドアを開けたエラは驚きと喜びを半々に混ぜたような表情を見せた。
「だめよ、そんな恰好で出歩いたら。風邪を引くわ」
五つも年下のエラがまるで姉のような口ぶりで言うのには、アルテミシアも思わず苦笑してしまった。
「大丈夫だよ。それより夜会用のドレスの仕立てをお願いしたくて。エラに全部任せていい?」
「あら、ミーシャ様。光栄ですわ」
エラは冗談半分に畏まって承諾した。
「でも、わたしでいいのかしら。もっと適任な人がいると思うけど」
「女王陛下が、わたしが選んでいいって仰ったから大丈夫。あんまり他の女中さんって知らないし、誰か詳しい人に手伝ってもらって仕立ての段取り組んでくれるかな」
エラは頷いてケイナに頼んでいろいろ教えてもらおうと考えながら、別のことを思い出した。
「そう言えば、今日バルカ将軍にお礼を言う機会があったわ」
アルテミシアの表情がこわばった。目も泳いでいる。激しく動揺しているのがバレバレだ。エラはなんだか目の前の人物が可哀そうになってきた。同時に、気丈なアルテミシアをこんな風にさせてしまうサゲンになんとなく畏怖の念を感じた。
「とてもお優しくて良い方だったわ。あなたのことを気にかけていたけど、もう会ったの?」
「まだ」
「ものすごく心配していたから、早く会った方がいいと思うわよ」
エラはちょっと大げさに強調してアルテミシアの表情を観察した。唇を引き結んで瞳に陰鬱な影を落としている。
「そうだね」
アルテミシアは硬い声で短く答え、
「じゃ、わたしミシナさんに頼まれてた翻訳済みの書類を届けにいかないといけないから。よろしく」
と言い残してそそくさと出て行こうとした。
「ミーシャ、その前にちゃんとしたドレスに着替えてね。その服は絶対ダメよ」
エラが後ろから忠告すると、アルテミシアは「わかった」と言う代わりに親指と人差し指で丸を作って出て行った。
エラは「はあっ」と溜め息をつき、ベッドに腰を下ろした。
(これは前途多難だわ)
あとはバルカ将軍がうまく動いてくれることを祈るのみだ。
海軍司令官サゲン・エメレンス・バルカ将軍の執務室は将校たちの執務室や会議室が集まる城の四階の中央部にある。目の前の廊下を挟んだ向かい側は人の出入りが少ない塔と城を繋ぐ連絡通路の入り口になっているから、辺りはいつも静寂に包まれている。
サゲンはいつもの静寂の中、自分の執務室で軍事関係の書類に目を向けながらエラの言葉を反芻していた。書類の内容など、全く頭に入ってこない。
(――リンドの様子がおかしい?)
俺のせいだろうか、と疑問が湧いて、思わず自嘲した。当然だ。自分のせいに決まっている。周囲の男たちから熱い視線を浴びても言い寄られても冗談にしか受け取らない彼女が、あれだけ激しい反応を見せたのだ。それが例え恐怖でも、彼女に危機感を持たせることには成功したはずだ。それがアルテミシアを鏡の前に立たせた目的だった。客観的に自分を見ていかに美しく、男たちがどういう目で見るのかを自覚させたかった。想定外の事態が起こったとはいえ、結果的に目的は達成した。
それなのに、ずっと気が晴れない。
理性が欲望に押し負けたせいで、彼女を怖がらせた。恐らく、あの時アルテミシアは初めてサゲンのことを生々しく男として認識したのだろう。彼女を性の対象として扱う生身の男として。あのまま続けていれば、彼女を襲おうとした海賊や金で買おうとしたどこかの人でなしと同類になっていた。唾棄すべきことだ。
そのくせ、あの時のキスは間違いではなかったと頭のどこかで思っている。衝動的にアルテミシアを押し倒してその身体に触れたことも、少しも悔やんでいない。理性を捨てなければ知ることもなかっただろう。アルテミシア・リンドの唇の柔らかさも、キスの合間の熱く甘い息遣いも――。
(馬鹿な)
バサッと書類の束を机に放りだした。大きな矛盾だ。こんなに狂おしく理性と本能の間で葛藤するとは、まるで思春期の少年ではないか。
(三十二だぞ)
いい大人のすることではない。自宅に戻ったら熱い風呂に入ろうと決めて席を立ったところで、扉が叩かれた。
「イグリ・ソノ・アガタです。バルカ将軍」
呼び方も話し方もいつもと違ってよそよそしい。と言っても、ここ数日はイグリとはぎくしゃくしていた。宴でのことを考えると無理もない。あれは獲物を目の前で横取りしたも同然だった。しかし、それもまったく後悔していない。むしろあの一連の行動の中では最も正しい行動だったとさえ思っている。
「入れ」
言い終わるより先にイグリが執務室へ入って来ていた。乱さずにきっちり軍服を着て、強い視線を投げかけている。
「まだいたのか」
「少し思うところがありまして」
「…そうか」
イグリは一歩前へ出て決然と口を開いた。
「これ以上何もなかったふりはできません。上官、宴の夜ミーシャに何をしたんですか」
睫毛の長いイグリの青い目からは敵意が読み取れる。
「知ってどうする。お前には関係ないことだ」
サゲンは低く不機嫌な声で言った。普段ならば、部下たちはみな恐怖して居住まいを正すところだ。だが、今日のイグリはそうではなかった。
「返答次第では殴ります。無礼ながら」
サゲンは思わず鼻を鳴らした。部下を相手に怒りに我を忘れるなど、無様なことはすべきではない。ゆっくりと大きく息を吸った。
「…悪いが、それについてはお前よりも先に話すべき相手がいる」
「避けられているのにですか」
イグリは尊敬する上官に向かって鼻で笑うような真似ができたことを、内心で自賛した。サゲンは剣呑な目つきになっている。
「お前こそ、歯牙にもかけられていないのだから口を出す権利はないぞ」
カッと頭に血が上り、気付いた時には上官に殴りかかっていた。が、いとも簡単に躱されて執務机に倒れ込んだ。机の上にあった分厚い書物や地図が落ち、弾き飛ばされたインクの瓶が落ちた。しかし、イグリも負けてはいない。体格ではサゲンに劣るものの、イグリ・ソノは隊の中でも一、二を争うほどの拳闘の腕を持っている。尚も飛び掛かってサゲンを押し倒そうとしたために、二人とも床に倒れて揉み合いになった。最初に上に乗ったのはイグリだった。サゲンの左頬目がけて拳を振り下ろし、見事一発見舞ってやったが、すぐさまサゲンに下腹に蹴りを入れられて形勢が逆転した。
「上官だからって許さないぞ!言え、あんたミーシャに何をしたんだ!」
今度はサゲンが一発イグリを殴った。
「部外者は引っ込んでいろ!」
「嫌だね」
イグリは口から血を流しながら不敵に笑ってサゲンの腹を膝で蹴ろうとした。サゲンは避けるために素早く横に退き、立ち上がろうとしたイグリの脚を蹴り払った。転倒したイグリは受身を取ったが、サゲンのほうが速かった。もう片方の頬にも衝撃を受けた。
「俺はミーシャが好きです!結婚したっていいと思ってる!部外者とは言わせない」
サゲンの動きが一瞬止まり、眉根に皺が寄った。
「あんたはどうなんです、将軍?もし戯れに彼女を傷つけるようなことをしたなら、俺が絶対に許しません」
「結婚だと?お前、そう単純に行くと思っているのか」
「わからないじゃないですか。あなたがどうにもなる気がないなら、俺の邪魔をしないでください」
ハッ、とサゲンはいつにない様子で嘲笑した。
「キスひとつであれだけの拒絶反応を示すのに、結婚など」
イグリが唸ってサゲンに飛び掛かった。黙って倒されたサゲンの目は苦悩しているように見えた。
「…わかったぞ」
突然、靄が晴れたようにイグリの頭が冴え冴えとした。サゲンは尚も黙っている。
「変だと思ったんだ。任務の前夜にジオリスへ行くなんて、あんたらしくないって。娼館で発散してきたんでしょう。ミーシャにぶつけられなかったものを、他の女で発散したんだ。馴染みの女、名前はリュディヴィーヌでしたっけ?」
今度はサゲンが圧し掛かっているイグリを物凄い力で引き離し、投げつけるようにしてその顔を床に押し付けた。イグリの身体がぶつかった衝撃でサイドテーブルが倒れ、上に置いてあったグラスや酒瓶が落ちて割れた。
「黙れ…!」
「何をしているんです!」
地鳴りのようなサゲンの声を遮りよく通る声で一喝したのは、ロハクだった。いつの間にかサゲンの執務室の扉を開け放ち、中へ入って来ていた。
「いい大人が女王陛下のおわす城内で、あろうことか上官と部下が殴り合いの喧嘩など!恥を知りなさい!」
二人とも互いから離れ、顔の傷や口から流れる血を袖口で拭った。
「サゲン・エメレンス・バルカ将軍。あなたともあろう方が、このような軽挙に及ぶべきではありません」
「…世話をかけて悪かった、ミシナ」
「イグリ・ソノ・アガタ!あなたもです。どのような理由があるにせよ、将軍はあなたが手を上げて良い方ではありません。まさに言語道断です」
「…すみませんでした」
多少頭が冷えた二人はロハクに向き直った。
「陛下には私が報告いたします。処分はそれまで保留です。…それより」
と、ロハクが開いた扉の前から横にずれた。後ろにいたのは、登城用の青いドレスに身を包んだアルテミシアだ。すっかり表情を消し、何を思っているのか彼らには全く読めない。サゲンとイグリは呆気にとられた。
「私よりも謝らねばならない相手がいるでしょう」
茫然と立ち竦む三人を厳しい表情で見ながら、ロハクが続けた。
「このひどく散らかった部屋を片付けながら三人で話しなさい。まったく思春期の子供ですか、あなたたちは」
ロハクが怒ったというよりも呆れた様子で執務室を後にした。気まずい沈黙の中、アルテミシアは沸々と怒りが湧いてくるのをどうしても止められなかった。
「どこから聞いていた?」
イグリが恐る恐る尋ねた。
「ジオリスがどういうところか分かるあたり」
静かで抑揚のない声だ。アルテミシアは誰とも目を合わせず、床に散らばった本を拾い始めた。
「イグリ」
イグリがこれまで聞いたこともない冷淡な声だった。
「心配はありがたいけど、わたしとバルカ将軍の問題には首を突っ込まないで」
「ミーシャ…」
「どんなにわたしの為を思ってくれていても、個人的な問題を他の人にあれこれ言われるのは、大嫌い」
イグリはアルテミシアの目を見た。瞳の奥で怒りが静かに燃えている。
「ちょっと二人にしてくれるかな」
アルテミシアの言葉は、言い方こそ柔らかかったが、断固として拒否を許さない響きがあった。イグリは肩を落とし、素直に従った。
「リコに夕飯食べられなくてごめんって謝っておいて」
「…わかった」
イグリは黙って重い扉を閉め、厩へ向かった。
イグリ・ソノとは同郷で家同士が同業者ということもあり、子供の頃からよく知っている。十二歳の年に王立海軍士官学校へ進むことを決めた時、イグリを誘ったのもリコだった。この十年余りで共に過ごした時間を考えれば家族よりもイグリのことをよく知っているつもりだが、このように物思いに耽るイグリをこれまで見たことがなかった。
原因は、聞くまでもない。
「もともと脈無しだったんだから、そんなに引きずるなよ」
と、馬場の芝の上で鹿毛の馬の背にブラシをかけながらリコが気軽に言った。顔の傷や痣はようやく痛みを脱し、黄色と青黒い跡を残して大方癒えている。馬はぽかぽか陽気の下で気持ちよさそうに鼻を伸ばし、主人の手にその身を委ねていた。
一方、イグリの芦毛馬はブラッシングに身が入らない主人に不満そうな視線を投げ、鼻をぶるぶる震わせている。ブラッシングがおざなりなのは、手に受けた傷のせいではないと馬も分かっているようだ。イグリの火傷は既に完治し、うっすらとその痕を残すのみになっていた。慰めるつもりなど毛頭ないリコに、イグリはキッと睨みを利かせた。が、リコは気にせず続けた。
「ミーシャが上官よりもお前によく笑ったり話したりするのは、お前のことを男じゃなくてただの友達だと思ってるからだろ。普通、好意を寄せる相手ならもっと独特の緊張感があるもんだ。上官といる時みたいに」
ぐうの音も出ない。イグリは黙りこくった。まったくもって正論だ。自分なりに勇気を出して口説いたつもりだったのに、小指の爪の先ほども本気にされなかった。
「だから上官への無益な反抗はやめろよな」
「そんなつもりはない」
イグリはようやく口を開いた。リコの言うように反抗をしているつもりはないが、非難がましい態度を取っているのは自覚している。サゲンと顔を合わせ言葉を交わす度に、目を合わせないとか、いつもより口数が少ないとか、そういったささやかなものではあるが。
「やっぱりあの二人に何かあったと思うか?」
踊りに行った二人がダンスホールから消えていることにイグリが気づいたのは、ワルツが終わってアルテミシアをもう一度誘おうとした時だった。結局宴が終わるまで二人そろって見つからず、翌日の出航の時にいつも以上に無表情なサゲンと顔を合わせただけで、アルテミシアの顔を一度も見ることなくイノイルへ帰ってきたのだ。明らかに不自然だった。
「当然さ。だから誰も上官に何も聞かなかったんだろ。通詞が前日まで仲良くしてた指令官と同じ船に乗らない理由が他に思いつくか?」
と、リコは相変わらず軽い調子で悩めるイグリに現実を突き付けた。
「何があったと思う」
「知るか。聞いてみればいいだろ」
イグリは押し黙った。これほどまでに他の誰かの動向が気になるとは、滑稽だ。
「目がさ」
と、リコは言った。
「目が語ってるよ、お前。上官と顔を合わせるたびに恨み言をさ。そんなに鬱屈するぐらいなら、上官にはっきり言えばいいじゃないか。上官とミーシャの仲も今はなんだか良くないみたいだし」
「はっきり言うって、何をだよ」
「さあね。‘俺の方がミーシャを愛してる!’とか?」
イグリはあんぐり口を開けて馬用のブラシを取り落とした。
「あい…」
「違うのか?」
リコはブラッシングを終え、愛馬にひょいっと跨った。
アルテミシアのことは確かに好きだが、愛しているとまで飛躍されると狼狽えてしまう。確かにイグリは今まで数々の女性たちと恋愛を楽しんできたが、どの女性とも身体の繋がり以上に心を繋げることはなく恋を終えてきた。彼女たちはみな世慣れていて、煌びやかな生活を好む色っぽい会話の上手な貴婦人たちだった。イグリは波打つ長く明るいブロンドの髪に長い睫毛を持つ美男子である上に気の利いた会話もできるし、おまけに軍の中でもバルカ将軍の直属の部下で出世頭ともなれば女性たちからのアプローチは日常茶飯事だ。だが、アルテミシアはその法則に当てはまらない。彼が青い目で見つめ、本気で口説いてもその目にイグリの姿を映さなかったのは、覚えている限りではアルテミシアが初めてだ。
それなのに、惹きつけられる。アルテミシアは面白いことがあれば大きく口を開けて笑い、気に入らなければ肩を怒らせて野生動物のように牙を剥く。まるで本当に自由な船乗りの少年のようでもあるのに、その奔放さの中に、どことなく気品がある。出会ってすぐにこの女性をもっとよく知りたいと思った。
あるいはそうなのかもしれない、とイグリは思った。アルテミシアとなら、心の繋がりを感じ合えるのかもしれない。もし可能性があるのなら。――
「違わないさ」
そう呟いたイグリの目には、馬に跨り駆け出したリコの姿は映っていなかった。
アルテミシアは女王への報告を終え、ロハクに頼まれた外国への簡単な翻訳業務を終わらせた後、夕方はいつものように鍛錬上に赴いた。すっかり顔馴染みとなった老指南役に木刀で稽古をつけてもらっていると、もやもやした気分が多少は晴れた。しばらくして他の兵士と交代し、他の練習相手を探していると、久々に見る姿があった。イグリだ。いつものように陽気な美男子の笑みはなく、口元がこわばっている。イグリはアルテミシアの方へ近付き、目だけで笑った。
「やあ」
「こんばんは、イグリ」
「元気だった?」
「うん。手の傷は治った?」
「ばっちりさ」
と、イグリは手をひらひらとさせて見せた。
「イグリも元気だった?」
「絶好調」
そうは見えないけど。とは言わなかった。なんだか笑い方が変だ。
「…今日の夕飯の当番はリコだよ」
イグリは心の中で毒づいた。今日の夕飯当番の話など、イグリが話したいこととはまったく関係ない。
「そうなんだ。リコの料理って美味しいよね」
やはり会話がぎこちない。イグリは何かを探り出すように注意深くアルテミシアの顔を見ている。
「上官の屋敷には帰ってくるんだよな」
アルテミシアは言葉に詰まった。女王からはバルカ邸にきちんと帰って問題に向き合うよう言われたが、正直なところ時間が経つにつれて気持ちは森から遠ざかっている。
「わからない。今日はちょっと…雑務が溜まってて」
イグリは曖昧に相槌を打った。海賊相手にハッタリを仕掛けたのが幻だったかのような嘘の下手さだ。
「俺たちと同じ船に乗らなかったのは、宴で上官と何かあったからだろ?」
イグリは世間話を諦め、核心を突いた。アルテミシアの顔がみるみる赤くなっていく。言葉で答えを聞くよりも明快だ。まさかとは思うが、あのカタブツの上官が女王付きの通詞に、あまつさえ職務中に手を出したのだろうか。信じられないような思いと上官への怒りが同時にこみ上げてくる。常々真面目くさっている上官の顔を殴り飛ばしてやりたくなった。
「もしかして、何かされた?」
「違う。あれは…」
何だったのだろう。アルテミシアはここ数日考え続け、ついに忘れようとした疑問にもう一度直面してしまった。すぐに嘘でも否定しなかったことを後悔したが、遅かった。言葉を詰まらせたのを肯定と受け取り、イグリが畳みかけた。
「何があったんだ?上官は君を傷つけたのか?」
「なんでもないから。じゃあね」
アルテミシアは、最後はイグリの顔も見ずに強く言い残して逃げるように走り込み用のトラックへ移動し、そのままトラックを一周走って城内へ戻った。
(だめ、だめ)
考えないようにしているのに、どうしても考えてしまう。サゲンはあの時、アルテミシアの焼けた不均一な色の肌も、平凡な形の唇も魅力的だと言った。女にしては背が高く船で鍛えられたせいで筋張ったこの身体も、そのままで美しいと。あれはその後の忠告を引き立てるための単なる言葉の演出だったのだろうか。あの熱っぽい視線も、口づけの合間に漏れた、急くような吐息も、すべてアルテミシアへの教訓のためだったのだろうか。
(でも、あの手は…)
あの大きく温かい手に絆されてしまいそうだった。男女の愛情というものを身近に感じることができない環境で育ったせいか、思春期の頃からそういうことに直面したら嫌悪を感じるのだろうと漠然と思っていた。ところが、サゲンに身体を触られても不思議と嫌な気分にはならなかった。むしろ安らいだ。そのくせこんなに気分が悪いのは、我に返ったときのサゲンの顔のせいだ。――驚愕と後悔。
(あんな風になってまで、わたしに振る舞い方を教えてくれなくたってよかったのに)
忘れようとした感情が戻ってくる。この先は考えてはだめだ。
城門をくぐった後、エラを探した。肩ほどの長さの髪を後ろで一つに縛り、肘の上まで袖を捲った薄いシャツと鍛錬用の細いズボンという、あまりに雑な出で立ちで現れた女性に驚いた様子の中年の女中がエラの居室まで案内してくれた。女中はエラを呼んでくると強く言ったが、アルテミシアはそれ以上の強さで自分から行くと言って引かなかった。
「ミーシャ!」
ドアを開けたエラは驚きと喜びを半々に混ぜたような表情を見せた。
「だめよ、そんな恰好で出歩いたら。風邪を引くわ」
五つも年下のエラがまるで姉のような口ぶりで言うのには、アルテミシアも思わず苦笑してしまった。
「大丈夫だよ。それより夜会用のドレスの仕立てをお願いしたくて。エラに全部任せていい?」
「あら、ミーシャ様。光栄ですわ」
エラは冗談半分に畏まって承諾した。
「でも、わたしでいいのかしら。もっと適任な人がいると思うけど」
「女王陛下が、わたしが選んでいいって仰ったから大丈夫。あんまり他の女中さんって知らないし、誰か詳しい人に手伝ってもらって仕立ての段取り組んでくれるかな」
エラは頷いてケイナに頼んでいろいろ教えてもらおうと考えながら、別のことを思い出した。
「そう言えば、今日バルカ将軍にお礼を言う機会があったわ」
アルテミシアの表情がこわばった。目も泳いでいる。激しく動揺しているのがバレバレだ。エラはなんだか目の前の人物が可哀そうになってきた。同時に、気丈なアルテミシアをこんな風にさせてしまうサゲンになんとなく畏怖の念を感じた。
「とてもお優しくて良い方だったわ。あなたのことを気にかけていたけど、もう会ったの?」
「まだ」
「ものすごく心配していたから、早く会った方がいいと思うわよ」
エラはちょっと大げさに強調してアルテミシアの表情を観察した。唇を引き結んで瞳に陰鬱な影を落としている。
「そうだね」
アルテミシアは硬い声で短く答え、
「じゃ、わたしミシナさんに頼まれてた翻訳済みの書類を届けにいかないといけないから。よろしく」
と言い残してそそくさと出て行こうとした。
「ミーシャ、その前にちゃんとしたドレスに着替えてね。その服は絶対ダメよ」
エラが後ろから忠告すると、アルテミシアは「わかった」と言う代わりに親指と人差し指で丸を作って出て行った。
エラは「はあっ」と溜め息をつき、ベッドに腰を下ろした。
(これは前途多難だわ)
あとはバルカ将軍がうまく動いてくれることを祈るのみだ。
海軍司令官サゲン・エメレンス・バルカ将軍の執務室は将校たちの執務室や会議室が集まる城の四階の中央部にある。目の前の廊下を挟んだ向かい側は人の出入りが少ない塔と城を繋ぐ連絡通路の入り口になっているから、辺りはいつも静寂に包まれている。
サゲンはいつもの静寂の中、自分の執務室で軍事関係の書類に目を向けながらエラの言葉を反芻していた。書類の内容など、全く頭に入ってこない。
(――リンドの様子がおかしい?)
俺のせいだろうか、と疑問が湧いて、思わず自嘲した。当然だ。自分のせいに決まっている。周囲の男たちから熱い視線を浴びても言い寄られても冗談にしか受け取らない彼女が、あれだけ激しい反応を見せたのだ。それが例え恐怖でも、彼女に危機感を持たせることには成功したはずだ。それがアルテミシアを鏡の前に立たせた目的だった。客観的に自分を見ていかに美しく、男たちがどういう目で見るのかを自覚させたかった。想定外の事態が起こったとはいえ、結果的に目的は達成した。
それなのに、ずっと気が晴れない。
理性が欲望に押し負けたせいで、彼女を怖がらせた。恐らく、あの時アルテミシアは初めてサゲンのことを生々しく男として認識したのだろう。彼女を性の対象として扱う生身の男として。あのまま続けていれば、彼女を襲おうとした海賊や金で買おうとしたどこかの人でなしと同類になっていた。唾棄すべきことだ。
そのくせ、あの時のキスは間違いではなかったと頭のどこかで思っている。衝動的にアルテミシアを押し倒してその身体に触れたことも、少しも悔やんでいない。理性を捨てなければ知ることもなかっただろう。アルテミシア・リンドの唇の柔らかさも、キスの合間の熱く甘い息遣いも――。
(馬鹿な)
バサッと書類の束を机に放りだした。大きな矛盾だ。こんなに狂おしく理性と本能の間で葛藤するとは、まるで思春期の少年ではないか。
(三十二だぞ)
いい大人のすることではない。自宅に戻ったら熱い風呂に入ろうと決めて席を立ったところで、扉が叩かれた。
「イグリ・ソノ・アガタです。バルカ将軍」
呼び方も話し方もいつもと違ってよそよそしい。と言っても、ここ数日はイグリとはぎくしゃくしていた。宴でのことを考えると無理もない。あれは獲物を目の前で横取りしたも同然だった。しかし、それもまったく後悔していない。むしろあの一連の行動の中では最も正しい行動だったとさえ思っている。
「入れ」
言い終わるより先にイグリが執務室へ入って来ていた。乱さずにきっちり軍服を着て、強い視線を投げかけている。
「まだいたのか」
「少し思うところがありまして」
「…そうか」
イグリは一歩前へ出て決然と口を開いた。
「これ以上何もなかったふりはできません。上官、宴の夜ミーシャに何をしたんですか」
睫毛の長いイグリの青い目からは敵意が読み取れる。
「知ってどうする。お前には関係ないことだ」
サゲンは低く不機嫌な声で言った。普段ならば、部下たちはみな恐怖して居住まいを正すところだ。だが、今日のイグリはそうではなかった。
「返答次第では殴ります。無礼ながら」
サゲンは思わず鼻を鳴らした。部下を相手に怒りに我を忘れるなど、無様なことはすべきではない。ゆっくりと大きく息を吸った。
「…悪いが、それについてはお前よりも先に話すべき相手がいる」
「避けられているのにですか」
イグリは尊敬する上官に向かって鼻で笑うような真似ができたことを、内心で自賛した。サゲンは剣呑な目つきになっている。
「お前こそ、歯牙にもかけられていないのだから口を出す権利はないぞ」
カッと頭に血が上り、気付いた時には上官に殴りかかっていた。が、いとも簡単に躱されて執務机に倒れ込んだ。机の上にあった分厚い書物や地図が落ち、弾き飛ばされたインクの瓶が落ちた。しかし、イグリも負けてはいない。体格ではサゲンに劣るものの、イグリ・ソノは隊の中でも一、二を争うほどの拳闘の腕を持っている。尚も飛び掛かってサゲンを押し倒そうとしたために、二人とも床に倒れて揉み合いになった。最初に上に乗ったのはイグリだった。サゲンの左頬目がけて拳を振り下ろし、見事一発見舞ってやったが、すぐさまサゲンに下腹に蹴りを入れられて形勢が逆転した。
「上官だからって許さないぞ!言え、あんたミーシャに何をしたんだ!」
今度はサゲンが一発イグリを殴った。
「部外者は引っ込んでいろ!」
「嫌だね」
イグリは口から血を流しながら不敵に笑ってサゲンの腹を膝で蹴ろうとした。サゲンは避けるために素早く横に退き、立ち上がろうとしたイグリの脚を蹴り払った。転倒したイグリは受身を取ったが、サゲンのほうが速かった。もう片方の頬にも衝撃を受けた。
「俺はミーシャが好きです!結婚したっていいと思ってる!部外者とは言わせない」
サゲンの動きが一瞬止まり、眉根に皺が寄った。
「あんたはどうなんです、将軍?もし戯れに彼女を傷つけるようなことをしたなら、俺が絶対に許しません」
「結婚だと?お前、そう単純に行くと思っているのか」
「わからないじゃないですか。あなたがどうにもなる気がないなら、俺の邪魔をしないでください」
ハッ、とサゲンはいつにない様子で嘲笑した。
「キスひとつであれだけの拒絶反応を示すのに、結婚など」
イグリが唸ってサゲンに飛び掛かった。黙って倒されたサゲンの目は苦悩しているように見えた。
「…わかったぞ」
突然、靄が晴れたようにイグリの頭が冴え冴えとした。サゲンは尚も黙っている。
「変だと思ったんだ。任務の前夜にジオリスへ行くなんて、あんたらしくないって。娼館で発散してきたんでしょう。ミーシャにぶつけられなかったものを、他の女で発散したんだ。馴染みの女、名前はリュディヴィーヌでしたっけ?」
今度はサゲンが圧し掛かっているイグリを物凄い力で引き離し、投げつけるようにしてその顔を床に押し付けた。イグリの身体がぶつかった衝撃でサイドテーブルが倒れ、上に置いてあったグラスや酒瓶が落ちて割れた。
「黙れ…!」
「何をしているんです!」
地鳴りのようなサゲンの声を遮りよく通る声で一喝したのは、ロハクだった。いつの間にかサゲンの執務室の扉を開け放ち、中へ入って来ていた。
「いい大人が女王陛下のおわす城内で、あろうことか上官と部下が殴り合いの喧嘩など!恥を知りなさい!」
二人とも互いから離れ、顔の傷や口から流れる血を袖口で拭った。
「サゲン・エメレンス・バルカ将軍。あなたともあろう方が、このような軽挙に及ぶべきではありません」
「…世話をかけて悪かった、ミシナ」
「イグリ・ソノ・アガタ!あなたもです。どのような理由があるにせよ、将軍はあなたが手を上げて良い方ではありません。まさに言語道断です」
「…すみませんでした」
多少頭が冷えた二人はロハクに向き直った。
「陛下には私が報告いたします。処分はそれまで保留です。…それより」
と、ロハクが開いた扉の前から横にずれた。後ろにいたのは、登城用の青いドレスに身を包んだアルテミシアだ。すっかり表情を消し、何を思っているのか彼らには全く読めない。サゲンとイグリは呆気にとられた。
「私よりも謝らねばならない相手がいるでしょう」
茫然と立ち竦む三人を厳しい表情で見ながら、ロハクが続けた。
「このひどく散らかった部屋を片付けながら三人で話しなさい。まったく思春期の子供ですか、あなたたちは」
ロハクが怒ったというよりも呆れた様子で執務室を後にした。気まずい沈黙の中、アルテミシアは沸々と怒りが湧いてくるのをどうしても止められなかった。
「どこから聞いていた?」
イグリが恐る恐る尋ねた。
「ジオリスがどういうところか分かるあたり」
静かで抑揚のない声だ。アルテミシアは誰とも目を合わせず、床に散らばった本を拾い始めた。
「イグリ」
イグリがこれまで聞いたこともない冷淡な声だった。
「心配はありがたいけど、わたしとバルカ将軍の問題には首を突っ込まないで」
「ミーシャ…」
「どんなにわたしの為を思ってくれていても、個人的な問題を他の人にあれこれ言われるのは、大嫌い」
イグリはアルテミシアの目を見た。瞳の奥で怒りが静かに燃えている。
「ちょっと二人にしてくれるかな」
アルテミシアの言葉は、言い方こそ柔らかかったが、断固として拒否を許さない響きがあった。イグリは肩を落とし、素直に従った。
「リコに夕飯食べられなくてごめんって謝っておいて」
「…わかった」
イグリは黙って重い扉を閉め、厩へ向かった。
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